188年【漢:中平5年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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188年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉宏(霊帝) |
皇太后 |
董太后(孝仁董皇后) |
皇后 |
何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 |
人物 |
司徒 |
許相 → 丁宮 |
司空 |
丁宮 → 劉弘 |
太尉 |
曹嵩 → 樊陵 → 馬日磾 |
太常 |
劉焉(〜3月) |
太僕 |
黄琬(〜5月) |
永楽少府 |
樊陵(〜5月) |
光禄勲 |
劉弘(〜8月) |
侍御史 |
桓典 |
尚書 |
盧植 |
大将軍 |
何進 |
驃騎将軍 |
董重 |
車騎将軍 |
何苗 |
右車騎将軍 |
朱儁 |
左将軍 |
皇甫嵩 |
前将軍 |
董卓 |
東中郎将 |
董卓(〜11月) |
中郎将 |
孟益 |
衛尉 |
董重(〜8月) |
射声校尉 |
馬日磾(〜7月) |
中軍校尉 |
袁紹 |
典軍校尉 |
曹操 |
騎都尉 |
公孫瓚 |
地方官
官職 |
人物 |
河南尹 |
何苗 |
幽州牧 |
劉虞 |
豫州牧 |
黄琬 |
益州牧 |
劉焉 |
幷州刺史 |
張懿 |
荊州刺史 |
王敏 |
益州刺史 |
郤倹(〜6月) |
交阯刺史 |
賈琮 |
西河太守 |
邢紀(〜1月) |
玄菟太守 |
公孫琙 |
汝南太守 |
趙謙 |
長沙太守 |
孫堅 |
丹陽太守 |
陳夤 |
廬江太守 |
陸康 |
巴郡太守 |
曹謙 |
益州太守 |
李顒 |
鬱林太守 |
谷永 |
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188年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 南匈奴の休屠各胡が西河郡に侵攻し、西河太守・邢紀を殺害する。
- 天下に大赦する。
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2月 |
- 紫微垣(紫宮)に流星が流れる。
- 西河郡の黄巾残党・郭太らが太原郡、河東郡に侵攻する。
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3月 |
- 休屠各胡が幷州刺史・張懿を殺害する。
- 太常の劉焉が州牧の設置を提案する。
- 劉焉が益州牧に任命される。
- 太僕の黄琬が豫州牧に任命される。
- 劉虞が幽州牧に任命される。
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4月 |
- 汝南郡・葛陂郷の黄巾残党が郡県を攻撃する。
- 太尉の曹嵩が罷免される。
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5月 |
- 永楽少府の樊陵が太尉に任命される。
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6月 |
- 大風が吹いた。
- 太尉の樊陵が罷免される。
- 黄巾・馬相が益州刺史・郤倹を殺害し、天子を自称する。
- 益州従事・賈龍が馬相を討つ。
- 7つの郡国に大水があった。
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7月 |
- 射声校尉の馬日磾が太尉に任命される。
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8月 |
- 霊帝が西園八校尉を設置する。
- 司徒の許相が罷免され、司空の丁宮が司徒に任命される。
- 光禄勲の劉弘が司空に任命される。
- 衛尉の董重が驃騎将軍に任命される。
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9月 |
- 南匈奴の単于が白波賊と共に河東郡に侵攻する。
- 中郎将・孟益に張純討伐の命が下り、麾下の騎都尉・公孫瓚が派遣される。
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10月 |
- 御殿に植えられた槐樹が、ひとりでに抜けて逆さまに生える。
- 青州と徐州で黄巾残党が蜂起する。
- 霊帝が平楽観において閲兵式を行い「無上将軍」を称する。
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11月 |
- 王国が陳倉県を包囲する。
- 下軍校尉・鮑鴻が葛陂郷の黄巾を討つ。
- 板楯蛮が反乱を起こし、上軍別部司馬・趙瑾がこれを討伐する。
- 公孫瓚が石門山で大勝し、張純は烏丸族を頼って長城の外に逃亡する。
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188年の三国志群雄勢力図
中平5年(188年)の三国志群雄勢力図
『後漢書』劉昭注・『秦州記』に「中平5年(188年)に(漢陽郡を)分割して南安郡を置いた」とある。
188年の情勢
益州
益州牧に任命された劉焉は、表向きは朝廷に従いながら、裏では朝廷の支配から離れて同時の勢力圏を形成していきました。当サイトでは、この年より劉焉を群雄として扱います。
特記事項
州牧の設置
3月、太常の劉焉は、
「各地で反乱が頻発している原因には、州刺史の権威が軽いことと、人選に問題があることが挙げられます。刺史を改めて州牧を置き、清廉な重臣を任命するべきです」
と、各地で頻発する反乱の対処法として、州牧の設置を提案します。
これにより、劉焉が益州牧、黄琬が豫州牧、劉虞が幽州牧に任命されました。
馬相の乱の鎮圧
6月、184年に蜂起して広漢郡を支配していた黄巾・馬相は、益州刺史・郤倹を殺害すると、天子を自称して広漢郡、蜀郡、犍為郡の3郡に勢力を広げます。
益州従事・賈龍は犍為郡の東境で募兵を行うと、馬相に戦いを挑んで数日で敗走させました。
益州牧に任命された劉焉は任地の益州に向かっていましたが、道路が通じていなかったため、荊州の東境にとどまっていました。
賈龍は使者を派遣して劉焉を迎えると、劉焉は緜竹県に役所を移して益州の統治に取りかかります。
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益州の反乱「馬相の乱」、入蜀した劉焉の野望と五斗米道
南匈奴の反乱
南匈奴は、匈奴から分裂して漢に服属することを選んだ部族です。
3月、朝廷は劉虞に南匈奴の兵を与え、昨年6月に蜂起した「張純の乱」の討伐を命じました。
そして、南匈奴の単于(王)・羌渠は、これに従って左賢王(皇太子)に騎兵を与えて幽州に向かわせます。
ですが、度重なる徴兵に耐えかねた右部醢落は、休屠各胡の白馬銅と結んで反乱を起こし、幷州刺史・張懿と羌渠を殺害してしまいました。
南匈奴の単于の地位は、羌渠の子の右賢王・於夫羅が継ぎましたが、反乱を起こした右部醢落が遠戚の須卜骨都侯を単于に立てたため、本国に帰れなくなってしまいました。
霊帝廃位の陰謀
廃帝計画
方士の襄楷は、元太傅・陳蕃の子・陳逸と冀州刺史・王芬に告げました。
「天文を見るに、黄門・常侍が族滅する兆しがあります」
黄門・常侍とは朝廷に跋扈する宦官たちのことで、陳逸の父・陳蕃は、168年に大将軍・竇武と共に宦官たちに誅殺された人物です。
陳逸は大変喜び、王芬も「そのような兆しがあるのならば、この私が誅殺してくれよう!」と、南陽郡の許攸、沛国の周旌らを仲間に引き入れます。
この頃、霊帝には故郷・河間国の旧宅を巡る予定がありました。
王芬は「郡県を荒らす黒山賊を討つ」という名目で兵を集めると、洛陽を離れた霊帝を捕えて宦官を誅殺し、合肥侯(諱不明)を天子に擁立する計画を立てます。
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巡察の中止
霊帝の出発を前に、北方の夜空に怪しげな赤い気が現れ、これを「北方に陰謀がある」と判断した朝廷は、霊帝の河間国への巡察を中止します。
その後、霊帝が王芬に兵を解散して洛陽に来るように命じました。
王芬は陰謀が発覚したと思い、逃亡して平原国に至ると、そこで自害しました。
王芬は当時議郎であった曹操や平原国の華歆、陶丘洪にも、霊帝廃位計画を持ちかけていましたが、協力を断られています。
西園八校尉の設置
8月、霊帝は皇帝直属の常備軍である西園八校尉を設置しました。
小黄門の蹇碩が最高位の上軍校尉に任命され、これにより、大将軍・何進ですら蹇碩に領属することになります。
この時任命された8人の校尉の中には、後に群雄の1人となる袁紹や曹操がいました。
10月、霊帝は全国から兵を徴収し、平楽観で大規模な閲兵式を開くと、霊帝は自ら甲冑を着用して騎乗して「無上将軍」を称しました。
豆知識
「朕はかつて平楽観で盛大な閲兵式を行って、蔵を開いて兵に財宝を分け与えたことがあるが、あなたはこれをどう思われるかな?」
ある時、霊帝が討虜校尉の蓋勲に尋ねると、蓋勲は次のように答えました。
「名君は軍兵ではなく恩徳をもって国を治めると言います。また、賊は遠く辺境にいるというのに、ここ洛陽に軍兵を揃えても、陛下のご威光を示すことにはなりません」
これを聞いた霊帝は、「あなたに会うのが遅すぎたようだ。今まで誰もそのような進言をした者はいなかった!」と、蓋勲を称賛しました。
蓋勲はまた、劉虞と袁紹に対してこう言っています。
「陛下は元来聡明であられるのに、周囲にいる者が良くないのです。もし奸臣どもを誅殺し、優れた人物を要職に就けることができたなら、必ずや漢室を復興できるでしょう」
霊帝も蓋勲を側に置いておきたいと思っていましたが、彼を警戒した蹇碩の働きかけによって、京兆尹に任命され、洛陽を離れることになりました。
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王国が陳倉県を包囲する
昨年4月、涼州の賊・王国、韓遂、馬騰()が三輔()地方に侵攻を開始しました。そして11月、王国()が司隷()・右扶風()・陳倉県()を包囲します。
これに朝廷は皇甫嵩()を左将軍()、董卓()を前将軍()に任命して討伐に向かわせました。
ここで、すぐに陳倉県()を救援するべきだと主張する董卓()と、陳倉県()の守りが堅いことを挙げ、敵が疲弊()するのを待って救援に向かうとする皇甫嵩()の間で意見が対立し、皇甫嵩()は董卓()の意見を退()けます。
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公孫瓚()が張純()に大勝する
張純()の討伐に向かった公孫瓚()は、幽州()・広陽郡()・薊県()で張純()らを撃破。さらに追撃して遼東属国()の石門山()で大勝し、反乱軍に連れ去られていた官民を取り返すことに成功しました。
ですが、深追いし過ぎた公孫瓚()は、遼西郡()の管子城()で逆に丘力居()らに包囲され、200日に及ぶ籠城()の末、兵の半数以上を失って撤退しました。
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黄巾残党の蜂起
この年、2月には幷州()・西河郡()で蜂起した黄巾残党・郭太()らが太原郡()、河東郡()に侵攻し、4月には汝南郡()・葛陂郷()で、10月には青州()と徐州()で黄巾残党が蜂起しました。
この年、幽州()で蜂起した「張純()の乱」の影響で起こった南匈奴()の内紛による混乱は、幷州()全域に拡大し、各地で黄巾残党が蜂起しました。
また、歴史の表舞台には登場していませんが、『蜀書()』先主伝()には劉備()が張純()の反乱軍や徐州()の黄巾残党と戦ったことが記されています。
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