『三国志演義』では優柔不断で宦官の一掃を決断できず、董卓による朝廷の専横を招いた無能な人物として描かれている何進ですが、実際はどんな人物だったのかを確認してみましょう。
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目次
出自
出身地
何進(字は遂高)は、荊州・南陽郡・宛県の出身で、屠殺業を営む家庭に生まれました。残念ながら、何進の生年は明らかになっていません。
何進の出生地
家族構成
何進は父・何真と何真の先妻との間に生まれています。
何進には、何真の後妻・舞陽君の連れ子である弟・何苗と、何真と舞陽君の間に生まれた2人の妹がいました。
つまり、霊帝の皇后となった何氏は異母妹になります。
何進の家族構成
また、何氏が霊帝の皇后となると、後に何苗は車騎将軍にまで昇り、妹は中常侍・張譲の子(養子)の妻になりました。
子孫
何進の子の名前は伝わっていませんが、孫には曹操の養子となった何晏がいます。
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何氏が後宮に入る
何氏が霊帝の貴人となる
後漢では毎年8月に住民を調査し、その際、良家の子女の中に容姿端麗な者がいれば、掖庭(後宮)に推薦していました。
何真が(宮女の選定をする)役人に黄金や絹織物を贈って何氏を後宮に上げると、何氏は霊帝の寵愛を受けて皇子・辯を生み、貴人となります。
これを受け、何進は郎中を拝命し、虎賁中郎将を経て潁川郡の太守に任命されました。
何氏が霊帝の皇后となる
180年、中常侍の王甫の讒言によって宋皇后が廃位され、皇后の座が空位になっていたため、何貴人(何氏)が新たに皇后に立てられました。
これにともなって、何進は洛陽に戻され、数年の間に侍中、将作大匠、河南尹を歴任する異例の出世を果たします。
この時、何貴人が皇后になるためには、同郷の郭勝をはじめとする中常侍たちの強い後押しがあったと言われています。
何皇后はまた、嫉妬から王美人を毒殺したことによって霊帝に廃位されそうになった時にも、中常侍たちの嘆願によって救われています。
これらの中常侍たちの働きかけがなければ、当然、何進も出世を重ねることはできなかったのです。
皇后や皇太后の一族である外戚と宦官は常に対立する存在でしたので、宋皇后の廃位は外戚の力を削ぐ意味もあり、成り上がりで朝廷に人脈の乏しい何進を外戚として恩を売ることで、対立勢力を手懐ける意味もあったのかもしれません。
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大将軍時代
反乱の鎮圧
黄巾の乱
184年、太平道による黄巾の乱が勃発すると、霊帝は何進を大将軍に任命し、盧植・皇甫嵩・朱儁の3名を中郎将に任命して討伐に当たらせました。
この時、何進は洛陽周辺の守備と、戦いを続ける上で重要な兵器の修理や補給などの兵站任務を担当しています。
また、太平道の教祖・張角が洛陽に潜伏させていた馬元義を捕らえる功を立てたため、慎侯に封じられました。
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滎陽の反乱
187年、司隷・河南尹・滎陽県で賊数千人が蜂起して郡内の県を攻め、中牟県の県令が殺害されてしまいます。
これに対して何進は、河南尹であった弟の何苗を派遣して反乱を鎮圧。この功によって何苗は、車騎将軍に任命され、済陽侯に封じられました。
西園軍の創設
188年、望気者(雲気を見て吉凶を占う人)が「京師(洛陽)で大乱が起こり、両宮で血が流されるでしょう」と予言しました。
これを受けて、大将軍司馬の許涼と仮司馬の伍宕は『六韜』を引用し「天子自らが将兵を率いて四方を従わせるべきです」と何進に進言します。
そして、何進の上奏を受けた霊帝は、何進に四方の兵を徴発させて西園軍とし、自ら無上将軍と称して、新たに西園八校尉と呼ばれる8人の校尉を設置しました。この8人の校尉の中には、後に群雄となる曹操や袁紹も選ばれています。
霊帝は小黄門の蹇碩を信任して元帥とし、司隷校尉以下を監督させ、大将軍でさえも蹇碩の下に属することになっていました。
『蜀書』先主伝には、大将軍・何進が丹陽に毌丘毅を派遣して兵士を募集し、これに劉備が同行したことが記されています。
募兵が行われた年は明記されていませんが、この西園軍のための募兵だと思われます。
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蹇碩との確執
蹇碩は西園八校尉の設置によって、大将軍をも凌駕する軍権を手に入れたにも関わらず、なおも何進を畏れ、警戒していました。
ちょうどこの頃、涼州では辺章と韓遂が起こした反乱が長引いており、蹇碩は中常侍たちと謀って、この反乱の鎮圧に何進を派遣するように上奏します。
これによって何進を洛陽から遠ざけ、その間に何進の罪をでっち上げて失脚させようとする謀略でした。
霊帝は蹇碩の上奏を認め、何進に兵車100乗と虎賁兵を与えて斧鉞を授けようとします。
ですが、これを蹇碩の企みと見抜いた何進は、袁紹に徐州・兗州の兵を集めさせ、その帰還を待ってから辺章・韓遂の討伐に向かうとして、出陣を先延ばししました。
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霊帝の後継者争い
霊帝の崩御
189年、霊帝は病が重くなり、皇太子を立てないまま34歳で亡くなってしまいます。
霊帝は生前から、何皇后が生んだ劉辯は軽率で素行が悪いため、天子には相応しくないと考えていたのですが、霊帝は何皇后や何進に配慮して、ずっと皇太子を決められずにいたのです。
そのため、霊帝は王美人が生んだ劉協を蹇碩に託し、「劉協を皇太子とする」遺詔(遺言)を残していました。
何進暗殺計画
たとえ霊帝が劉協を皇太子とする遺詔を残していたとしても、何皇后や何進は当然自分たちの血を引く劉辯を即位させようとするはずです。
蹇碩は劉協を即位させるため、密かに何進を殺害しようと何進を宮中に呼び出しました。
ですが、司馬の潘隠が何進に密告したことによって計画は露見し、蹇碩の企みは失敗。何進の主導によって劉辯(少帝)が即位します。
何皇后は皇太后となって幼い少帝を補佐し、何進は太傅・袁隗と共に録尚書事として政権の中枢を担うようになりました。
蹇碩と何進の対立
蹇碩が自分を殺そうとしたことを知った何進は、蹇碩の誅殺を考えるようになります。
そこで袁紹は、
「宦官たちは長らく朝廷の権力を独占して董太后と共に不正な利益を貪っています。将軍(何進)は賢良な人物を採用して天下を安寧にし、国家から患いを除いてください」
と、宦官を誅殺することを進言しました。
日頃から「政治の腐敗の原因は宦官にある」と思っていた何進はこの意見に賛成し、袁紹の従弟にあたる虎賁中郎将の袁術をはじめ、逢紀、何顒、荀攸らの知謀の士を腹心に加え、宦官の誅殺を協議するようになります。
また、何進は情報の漏洩によって暗殺されることを警戒し、霊帝の葬儀への参列も見合わせて宮中への出入りを控えていました。
一方、蹇碩は再度何進の誅殺を計画しようと、中常侍の趙忠らに書状を送りました。
これを見た中常侍の郭勝は趙忠らと話し合い、この事を何進に密告します。郭勝は何進と同郷であったため、何太后や何進に厚遇されていたのです。
これによって蹇碩の企みは何進の知るところとなり、何進は黄門令に蹇碩を捕らえさせて誅殺し、蹇碩に属する兵を手に入れることに成功しました。
何太后と董太后の対立
霊帝の母・董太后は、母親を失った劉協を養育し、霊帝の生前から劉協を皇太子に立てることを望んでいました。
董太后は、何太后が臨朝しても尚朝政に口を出し、兄の子である驃騎将軍・董重の軍事力を頼りとして何太后と対立を続けていました。
これを憂慮した何進と何苗は、三公と連名で董太后の不正蓄財を暴き、洛陽から追放して故郷の河間国に移るように上奏します。
さらに、何進は驃騎将軍府を包囲して董重を捕らえると、董重は自害し、董太后も間もなく亡くなってしまいました。
諸豪族を洛陽に招く
宦官の誅殺を実行するには、何太后の許可が必要です。
何進は何太后に宦官誅殺の許可を求めますが、何太后は「宦官は国の伝統的な制度であるから」と、宦官の誅殺を認めようとしません。
さらに、宦官たちから賄賂を受け取っていた何太后の母・舞陽君と何苗は、何進が宦官誅殺の計画を立てていることを知ると、何度も何太后のもとを訪れて強硬に反対したため、何太后は逆に何進が権力を独占しようとしているとの疑いを持つようになりました。
正攻法では何太后の許可を得ることができないことから、袁紹は地方の豪族を洛陽に召し出して彼らの軍勢によって何太后に圧力をかけ、宦官の誅殺を認めさせる作戦を提案します。
主簿の陳琳がこれに反対しましたが、何進は袁紹に同意して、前将軍・董卓、東郡太守・橋瑁、武猛都尉・丁原らを召し出し、配下の王匡に徴兵をさせ、丁原には孟津を焼き討ちさせました。
何進による群雄の配置
各地の豪族が召し出され、丁原が孟津を焼き払っても、何太后はまだ首を縦に振りません。それどころか、何苗に説得された何進は宦官の誅殺に迷いを持つようになります。
そして、焦った袁紹が何進に決断を迫ると、何進は袁紹を司隷校尉に、従事中郎の王允を河南尹に任命して、宦官誅殺を実行する権限を与えました。
ここに至っては何太后も危機感を感じ、中常侍・小黄門ら官職に就いていた宦官たちを罷免して、故郷に帰るように命じます。官職を解かれた宦官たちは、揃って何進のところに謝罪に訪れますが、何進は早く故郷に帰るように促すだけで相手にしません。
また、袁紹はこれを機に宦官たちを誅殺するように進言しますが、何進はこれを認めませんでした。
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宦官たちの謀略
官職への復帰が許されないとなると、張譲は何太后の妹を通じて、何太后と少帝に別れのあいさつをするために宮中に参内することを許されました。
189年の8月、何進は何太后の詔を受けて参内します。すると、そこに待っていたのは故郷に帰ったはずの張譲でした。詔は偽物だったのです。
張譲は何進に言い放ちます。
「天下が乱れているのは私たちの罪だと言うが、本当に私たちだけの罪なのだろうか!
その昔、先帝(霊帝)が何太后を廃位されようとした際、私たちが涙を流してお救いしたのは、あなたの一族を頼みと思えばこそである。それなのに私たちを滅ぼそうとするとは。
朝廷が腐敗しているというが、あなたの言う忠清な者の中に、あの時あなた方を救おうとした者がいるのか!」
言い終わると、尚方監の渠穆は剣を抜き、嘉徳殿の前で何進を斬りました。
その後、何進の死を知った袁紹・袁術らが兵を率いて宮中に突入し、2,000人に及ぶ宦官たちが殺害され、少帝と陳留王は洛陽から連れ出されてしまいます。
そして、軍勢を率いて洛陽に向かっていた董卓が2人を保護したことにより、朝廷は董卓の専横を許すことになりました。
その後、朝廷の実権を握った董卓は、少帝を廃位して陳留王(献帝)を天子に即位させ、何太后と弘農王(少帝)を殺害します。
そして、反董卓の目標を掲げて群雄たちが各地で決起すると、後漢皇帝の権威は失墜し、中国大陸に群雄が割拠する時代が訪れました。
宦官による政治の腐敗を取り除こうとした何進は、結果的に後漢王朝滅亡のきっかけをつくった大将軍として、汚名を残すことになってしまいました。