黄巾の乱の時に義勇軍を結成して挙兵した劉備ですが、その後公孫瓚を頼るまでの間、何をしていたのかが非常に分かりづらくなっています。
淡々と出来事だけが並べられた『蜀書』先主伝から、劉備の青年期を解き明かしてみます。
スポンサーリンク
目次
劉備と黄巾の乱
義勇軍の結成
幽州・涿郡・涿県に生まれた劉備は、豪傑や俠客たちと親交を結ぶことを好み、いわゆる任侠集団を形成していました。
184年に黄巾の乱が勃発すると、劉備は義勇軍を結成して校尉・鄒靖の指揮下に入り、黄巾賊の討伐に参加します。
関連記事
劉備、督郵をムチ打って逃亡する
黄巾賊討伐の功績によって、劉備は冀州・中山国・安熹県の県尉に任命されました。県尉とは、現在の日本に例えると警察署長にあたります。
それからしばらくして、劉備のもとに郡の太守から督郵が派遣されました。
督郵とは所属の県の監督をする監察官のことで、黄巾賊討伐の功績によって新たに官職に任命された人たちの働き振りを確認し、不適格者がいれば罷免する役割を担っています。
そして、県に到着した督郵は劉備を罷免相当と判断しました。
そのことを伝え聞いた劉備は督郵に面会を求めますが、病気を口実に会おうとしません。
これに腹を立てた劉備は兵を率いて宿舎に押し入ると、督郵を樹木に縛りつけて100回以上も杖で殴りつけました。
そして督郵が命乞いをすると、県尉の印綬を督郵の首に掛け、そのまま逃亡してしまいます。
当時、有力者の子弟は孝廉に推挙されると郎として宮廷に仕えた後、県尉や県丞に任命されるのが一般的な出世コースでした。
そのため、しっかりと職務を遂行していても、劉備のように地縁や血縁に基づいたコネクションがない者は、有力者の子弟のためのポストを確保するために罷免されてしまったのです。
なぜ劉備は激怒したのか
ここで、あまりにも理不尽な劉備の行動の理由を考えてみます。
『典略』には、劉備が日ごろから督郵を見知っていたことが記されています。
劉備が涿県で挙兵する際に援助をした張世平と蘇双は、冀州・中山国の豪商でした。劉備は彼らを通じて督郵と知り合っていたのかもしれません。
郡からやって来る督郵が知り合いだと知った劉備は、「自分は安泰だ」と安心していたはずです。
ですが、督郵の判断によって自分が罷免されることになったため「知り合いなのにどういうことだっ!」と、激怒したのではないでしょうか。
『三国志演義』では、暴れん坊の張飛が督郵をムチ打ったことによって仕方なく逃亡することになりますが、正史ではなんと劉備自身がムチを振るっています。
『三国志演義』の劉備像からかけ離れたかなりショッキングな事実ですが、劉備が荒くれ者たちを束ねる頭領であったことを考えると、納得のいく結果かもしれません。
スポンサーリンク
逃亡後の劉備の謎
『蜀書』先主伝には、劉備が官職を捨てて逃亡した後のエピソードとして、唐突に「大将軍・何進が都尉・毌丘毅に丹陽で兵士を募集させた際、劉備が同行した」ことが記されています。
この時、下邳まで来たところで賊軍に遭遇した劉備は、これと戦って功績を立て、青州・北海国・下密県の丞に任じられました。丞とは県令の副官にあたる官職です。
ですが劉備はまたも官職を辞し、後に青州・平原国・高唐県の県尉となって、さらに県令に昇進しました。
その後、賊軍に打ち破られた劉備は公孫瓚を頼ることになります。
ですが、淡々と出来事だけが並べられているため、いくつか疑問が湧いてきます。
- 劉備はいつ許されたのか?
- 劉備はどこに逃亡したのか?
- 募兵に同行したのはいつのことなのか?
- 劉備はなぜ下密県の丞を辞めたのか?
- 劉備が打ち破られた賊とは?
これらの疑問を、推測を交えながら整理してみたいと思います。
劉備はいつ許されたのか
督郵に暴行を加えて逃亡した罪人であるはずの劉備が、しれっと官軍の募兵に同行していることは、どうしても違和感があります。
劉備はいつ許されたのか?その答えは意外と簡単に見つかりました。
『後漢書』孝霊帝紀には、この頃毎年のように恩赦が出されていたことが記されています。
黄巾の乱の平定以降も各地で反乱が相次いでいたことから、劉備のような人材は許して官軍に取り込んだ方が都合が良く、恩赦によって罪を許されていたものと思われます。
劉備はどこに逃亡したのか?
187年、張純が烏桓族の丘力居と共に幽州で反乱を起こすと、賊軍は周辺の冀州・青州にまで侵攻し、青州でも討伐軍が編成されました。
『典略』には、討伐軍が平原国を通りかかった時、劉子平という人物に推挙されて、劉備が張純討伐の軍に加わったことが記されています。
しかも、賊軍と遭遇した劉備は手傷を負ってしまい、死んだふりをして敵が過ぎ去るのを待って命拾いをする、ちょっと情けないエピソードつきです。
さらに、「後に軍功によって中山国・安熹県の県尉となった」と続きます。
これについて、劉備が安熹県の県尉となったのはもっと前のことなので『典略』の最後の記載は誤りだと思われます。
(張純の乱後の黄巾討伐で安熹県の県尉になったと仮定して色々考えてみましたが、やはりつじつまが合いませんでした)
『典略』の細かい真偽はとにかく、劉備が平原国にいて張純討伐に参加したというエピソードは、何かしらの根拠があったのではないかと思われます。
また、追っ手から逃れるために、安熹県のある冀州や故郷・涿県のある幽州を避け、青州の平原国に潜伏していたと考えても納得できる逃亡場所です。
ちなみに『三国志演義』では、逃亡後、代州(代郡?)の劉恢という人物に匿われていました。
そして、劉恢の推挙によって劉虞の下で張純の乱討伐に参加し、罪を許されています。その後、公孫瓚の引き立てによって平原県の県令になり、公孫瓚に従軍して反董卓連合に参加しました。
関連記事
募兵に同行したのはいつのことなのか?
188年、霊帝は皇帝直属の部隊である西園軍を創設し、何進に各地から兵を徴発するように命じました。
また、同年10月に青州・徐州で黄巾賊が蜂起していることから、劉備が下邳で遭遇した賊に一致します。
このことから、西園軍の創設による募兵で丹陽方面を任されたのが毌丘毅であると言えるでしょう。
劉備が毌丘毅の募兵に同行した経緯について、大将軍である何進が、毌丘毅の補佐として無官の劉備を指名したとは思えません。
丹陽に向かう途中、たまたま平原を通りかかった毌丘毅に「誰かが劉備を推挙した」または「劉備が同行を志願した」と考える方が自然です。
つまり毌丘毅と劉備は、平原から南下して丹陽に向かう途中、下邳で蜂起した黄巾賊に遭遇したことになります。
劉備はこの戦いで軍功を立て、下密県の丞に任命されました。
毌丘毅の募兵経路
関連記事
劉備はなぜ下密県の丞を辞めたのか?
せっかく軍功を立てて下密県の丞に任命されたのに、その後劉備はその官職を捨ててしまいます。
ではなぜ劉備は下密県の丞を自ら辞職したのでしょうか。
中央の動勢
189年4月、霊帝が崩御。大将軍・何進は皇位継承の混乱に乗じて宦官誅殺を計画し、董卓を洛陽に招き入れてしまいます。
権力を握った董卓の行いは暴虐を極め、190年、山東の諸将が反董卓の兵を挙げます。
劉備は反董卓連合に参加していたのか?
『三国志演義』では反董卓連合に参加して大活躍する劉備・関羽・張飛の3人ですが、正史『三国志』には反董卓連合に参加した痕跡が見当たりません。
唯一『英雄記』には、劉備が曹操と一緒に沛国で募兵をして董卓討伐に従軍したことが書かれていますが、これはちょっと唐突すぎて信憑性に欠けます。
青州刺史・焦和の征西
『魏書』武帝紀には青州刺史が反董卓連合に参加していたという記述はありません。
ですが『魏書』臧洪伝には、青州刺史・焦和は反董卓連合に参加することに熱心で、軍勢を率いて西に向かったことが記されています。
焦和は初平年間(190年〜193年)に青州刺史に任命されたとありますので、他の反董卓連合の諸将と同じく、侍中・周毖、城門校尉・伍瓊らに推挙された袁紹派の人物だと思われます。
ここからは想像になりますが、当時青州には黄巾賊が蔓延っていたため、焦和には下密県の県令が従軍し、丞(副官)である劉備は下密県の守備を命じられた可能性があります。
そこで劉備は下密県の丞を辞して焦和に従軍したのではないでしょうか。
また、結局焦和は何の成果も挙げないまま青州に戻ったので、この時の劉備のことが記録に残っていなかったとしても不思議ではありません。
その後劉備は青州・平原国・高唐県の県尉に任命され、さらに県令に昇進しました。
このように、劉備が反董卓連合に参加していたと仮定すると、下密県の丞を辞職した理由を推測することができます。
また、反董卓連合に参加せず、下密県が黄巾賊に攻め落とされたために官職を捨てて逃亡したとも考えられますが、その後高唐県の県尉に任命されていることから、そのような情けない理由ではないでしょう。
劉備が打ち破られた賊とは?
平原国・高唐県の県令に昇進した劉備は、その後賊に打ち破られて公孫瓚を頼ることになります。
では、劉備が打ち破られた賊とは、一体何者なのでしょうか。
191年、青州・徐州の黄巾賊30万が蜂起して、冀州・勃海郡の郡境から侵入し、冀州の黒山賊と合流する動きを見せました。
つまり、その通り道である平原国は黄巾賊に蹂躙されてしまった訳です。
黄巾賊の進軍経路
そしてこの黄巾賊討伐の任を受け持ったのが公孫瓚です。
公孫瓚は歩騎2万の兵で黄巾賊を散々に打ち破ると、その功績によって奮武将軍を拝命し、薊侯に封ぜられました。
黄巾賊によって拠り所を失った劉備は、青州を勢力下に加えた公孫瓚を頼ることになります。また、共に盧植に師事した旧知の間柄であったことから、公孫瓚によって別部司馬に取り立てられました。
諸侯が反董卓のために挙兵した190年は、群雄割拠の始まりの年だと言えます。この年を境に、諸侯は次第に董卓打倒の志を忘れ、自勢力の拡大に努めるようになるのです。
黄巾賊の平定後、公孫瓚は配下の田楷を青州刺史、劉備を別部司馬に任命し、青州を勢力下に置くようになりました。
スポンサーリンク
劉備データベース
劉備関連地図
劉備関連地図
① 涿県
幽州・涿郡・涿県・楼桑里。劉備の出生地。
② 安熹県
冀州・中山国・安熹県。
劉備は黄巾賊討伐の功によって、安熹県の県尉に任命されました。
その後劉備は督郵に暴行し、官職を棄てて逃亡します。
③ 平原国
青州・平原国。
安熹県から逃亡した劉備は、平原国に潜伏していたものと思われます。
劉子平に推挙され「張純の乱」の討伐に加わりますが、手傷を負ったため、死んだふりをして命拾いをしました。
④ 丹陽郡
揚州・丹楊郡。
大将軍・何進の命によって毌丘毅と劉備が募兵に向かった場所。
霊帝によって創設された西園軍のための募兵だと思われます。
⑤ 下邳国
徐州・下邳国。
平原国から丹楊郡に向かった毌丘毅と劉備は、下邳国で遭遇した黄巾賊と戦闘になります。
⑥ 下密県
青州・北海国・下密県。
下邳国での黄巾賊との戦いで力戦したことによって、劉備は下密県の丞に任命されました。
⑦ 高唐県
青州・平原国・高唐県。
下密県の丞に任命された劉備ですが、すぐに官職を辞職してしまいます。
劉備はその後高唐県の県尉となり、後に県令に昇進しました。
⑧ 沛国
豫州・沛国。
『英雄記』には、劉備が曹操と一緒に沛国で募兵をして、董卓討伐に従軍したことが記されています。
劉備関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
161年 |
・劉備、幽州・涿郡・涿県・楼桑里で生まれる。 |
175年 |
・盧植に師事し、同門の公孫瓚に兄事する。 ・15歳。 |
184年 |
・義勇軍を結成し、校尉・鄒靖の指揮下で黄巾賊討伐に参加する。 ・24歳。 |
185年 |
・黄巾賊討伐の功績によって、冀州・中山国・安熹県の県尉に任命される。 ・督郵に暴行して逃亡する。 ・25歳。 |
不明 |
・186年もしくは187年の恩赦によって罪を許される。 |
187年 |
・劉子平に推薦され、平原国で張純討伐の軍に加わる。 ・27歳。 |
188年 |
・毌丘毅と共に丹陽郡に募兵に向かう。 ・下邳で黄巾賊と戦い勝利する。 ・下密県の丞に任命される。 ・28歳。 |
190年 |
・下密県の丞を辞職する。 ・青州刺史・焦和に従って反董卓連合に参加する。(推測) |
不明 |
・高唐県の県尉に任命される。 ・高唐県の県令に昇進する。 |
191年 |
・青州・徐州で蜂起した黄巾賊に敗れる。 ・公孫瓚を頼り、別部司馬に任命される。 ・31歳。 |