『三国志演義』では悪女のように描かれている、後漢第12代皇帝・霊帝の皇后・何氏とはどんな人だったのでしょうか。卑賤の身でありながら皇后、皇太后にまで昇りつめた彼女の人生を見てみましょう。
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目次
出自
出身地
何氏(何皇后)は、荊州・南陽郡・宛県の出身で、屠殺業を営む家庭に生まれました。残念ながら、何氏の生年は明らかになっていません。
何氏の出生地
家族構成
何氏は父・何真と母・舞陽君との間に生まれ、何進と何苗の2人の兄と、妹が1人いました。
後に何進は大将軍、何苗は車騎将軍にまで昇り、妹は中常侍・張譲の子(養子)の妻になっています。
また、何氏の家族は少し複雑で、何氏の母・舞陽君は父・何真の後妻になりますので、何進は異母兄、何苗は異父兄になります。
何氏の家族構成
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後宮に入る
役人に賄賂を贈る
何氏は身長7尺1寸(約163cm)の長身美人であったと言われています。
後漢では毎年8月に住民を調査し、その際、良家の子女の中に容姿端麗な者がいれば、掖庭(後宮)に推薦していました。
何真はこの時、宮女の選定をする役人に黄金や絹織物を贈って、何氏が後宮に上がる資格を得ます。つまり、何氏は自らすすんで後宮に入ったのです。
皇子・劉辯を生む
後宮に入った何氏は皇子・劉辯を生みます。
霊帝はこれまでに何度か子供を亡くしていたため、劉辯が生まれたことを敢えて公表せず、道人の史子眇の家で養育させて、劉辯を「史侯」と呼んでいました。
その後、霊帝の寵愛を受けた何氏は貴人となりましたが、嫉妬深い性格のため、他の妃嬪たちの中に彼女を恐れない者はいませんでした。
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皇后時代
宋皇后の廃位とその経緯
霊帝にはすでに皇后(宋皇后)がいましたが、宋皇后は霊帝の寵愛を得られませんでした。
ここで少し遡って、宋皇后が廃位されることになった経緯について確認してみましょう。
勃海王・劉悝と中常侍・王甫の確執
165年、桓帝の弟である勃海王・劉悝が謀反を計画していたことが発覚します。
この罪によって王位を剥奪されそうになった劉悝ですが、桓帝の温情によって癭陶王に降格することで許されました。
一方、それでも満足できない劉悝は、中常侍の王甫に勃海王に復帰させてもらえるように働きかけ、五千万銭の謝礼金を約束します。
その後、予期せぬ出来事が起こりました。病床についていた桓帝が崩御し、その遺詔によって劉悝が勃海王に復帰することになったのです。
勃海王に復帰したのですから、王甫は謝礼金が欲しい。ですが劉悝は、王甫の働きかけによる結果ではないことを理由に謝礼金を払わなかったため、これに腹を立てた王甫は劉悝を恨むようになりました。
桓帝の後継者選び
桓帝には実子がいなかったため、皇室から後継者を選ぶ必要があります。
その結果、桓帝の弟である劉悝は後継者の有力候補と言えましたが、解犢亭侯・劉宏(霊帝)が天子に即位することになりました。
霊帝と劉悝の関係
このことに目をつけた王甫は、劉悝と親しい中常侍・鄭颯と中黄門の董騰を捕らえると、「鄭颯らは劉悝を天子に立てようとしている」として劉悝を捕らえてしまいます。
これによって劉悝は自害し、劉悝の一族は捕らえられ、獄中でことごとく殺されてしまいました。172年のことです。
そして、この時殺された劉悝の妃が、霊帝の皇后・宋氏の「おば」に当たる女性であったことが、さらなる悲劇を招くことになりました。
宋皇后の廃位
178年、王甫は劉悝の一件から宋皇后が自分のことを恨んでいるのではないかと疑って、太中大夫の程阿と共に「宋皇后はまじないをして呪いをかけている」と霊帝に讒言します。
これを信じた霊帝は、宋皇后を廃位して暴室(皇后や貴人専用の牢獄)に送ってしまいました。悲しんだ宋皇后は、そのまま暴室で亡くなってしまいます。
皇后に立てられる
そして180年、何氏が皇后に立てられることになります。
何氏は本来皇后になることができる家柄ではなかったのですが、同郷の郭勝をはじめとする宦官たちの後押しによって皇后になることができたのです。
また、翌年には父・何真が車騎将軍・舞陽宣徳侯に、母は舞陽君に封ぜられました。
宋皇后の罪は、父である執金吾の宋酆をはじめとする宋氏の一族にまで及びました。
そしてこの時、頓丘の県令をしていた曹操も、従妹の夫が宋氏の一族であったことを理由に県令を罷免されてしまいました。
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王美人を毒殺する
何氏が皇后に立てられた丁度その頃、霊帝の妃嬪の1人である王美人が懐妊し、劉協を生みました。またこの時、王美人は何皇后の嫉妬によって災いを招くことを恐れ、薬を飲んで堕胎しようとしたと言われています。
そして、第2皇子を生んだ王美人に嫉妬した何皇后は、ついに王美人を毒殺してしまいます。
そのことを知った霊帝は激怒して何皇后を廃位しようとしますが、宦官たちの嘆願によってなんとか廃位を免れることができました。
霊帝は幼くして母親を亡くした劉協を不憫に思い、王美人を想う詩をつくってその死を悼みました。
また、劉協は霊帝の母の董太后に養われることになったため、董侯と呼ばれました。
何進が大将軍になる
何氏が後宮に入ると、両親だけでなく、異母兄の何進と異父兄の何苗も官職につき、外戚として栄達を重ねるようになります。
184年、黄巾の乱が勃発すると、何進は大将軍に任命されて洛陽周辺の守備にあたりました。
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皇太后時代
霊帝の崩御と少帝の即位
189年、霊帝が崩御すると、その後継者を巡って中常侍の蹇碩と何進が対立します。
そして、蹇碩が何進の暗殺を謀って失敗に終わると、何進は強引に劉辯(少帝)を天子に即位させ、少帝が成人するまでの間、何氏は皇太后として最高権力の座に就くことになりました。
蹇碩の企みを知った何進は、袁紹の進言を採用して「朝廷の腐敗の元凶である宦官を皆殺しにする」計画に取りかかります。
一方、蹇碩はまたも何進を殺す計画を立てますが、中常侍の郭勝の密告によって捕らえられ、殺されてしまいました。
董太后との対立
劉辯が即位し、何太后や何進の権勢が強まることに不満を持つ人物がもう1人いました。劉協を養育していた霊帝の母・董太后です。
董太后は兄の子である驃騎将軍・董重の軍事力を頼りとして、何太后と対立を深めました。そこで、何太后が先手を打ちます。
何太后の意を受けた何苗が董太后の不正蓄財を暴いて上奏すると、董太后は失脚して故郷の河間国に送られることになりました。
さらに何進は軍を動かして董重を包囲すると、観念した董重は自害、董太后も間もなく亡くなってしまいました。
母親を殺された不憫な劉協を養育し、後宮の権力争いに敗れて死を迎えた董太后は、一見、何太后に陥れられた悲劇の女性のように見えます。
ですが『後漢書』孝仁董皇后紀には、霊帝に売官をさせて自らの部屋に金銭を貯め込んでいたことが、しっかり記載されています。
宦官一掃計画を退ける
政敵である董太后一派を追い落とすことに成功した何進は、いよいよ何太后に宦官を皆殺しにする許可を求めます。
ですが何太后は、宦官が伝統的な制度であるとして、これを認めませんでした。
何太后は常に側にいる宦官たちによって洗脳された状態であり、宦官たちの悪事に気づくことはできませんでした。つまり、なぜ何進がそこまで宦官たちを憎むのか理解できないのです。
また、宦官たちから多額の賄賂を受け取っていた舞陽君と何苗も強硬に反対したため、逆に何進が権力を独占しようとしているとの疑いを持つようになりました。
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天子や皇后にとって、宦官とは自分たちの身の回りの世話をする大切な存在です。彼らは宦官がいなければ着替えることもままならず、大変な不便を強いられます。
また、何氏は宦官たちの後押しのお陰で皇后になることができ、廃位されそうになった時に庇ってくれたのも宦官たちでした。そのため何太后は、彼らに深い恩義も感じていたのです。
諸豪族の圧力を受ける
宦官一掃の許可を得られなかった何進は、地方豪族を洛陽に召集し、彼らの軍勢によって何太后を脅して宦官一掃を認めさせる作戦に出ます。
これに従って、董卓が宦官たちを弾劾する上奏文を奉り、丁原が洛陽のすぐ近くにある孟津を焼き討ちすると、不安になった何太后は、宦官たちを助けるために中常侍・小黄門ら官職に就く宦官たちをすべて罷免して、郷里に帰るように命じました。
ですが、追いつめられた宦官たちは偽の詔で何進を呼び出すと、何進の罪を読み上げて斬り殺してしまいました。
何進の死を知った袁紹、袁術らは兵を率いて宮中に突入し、宦官2,000人を皆殺しにします。
この時中常侍の張讓と段珪は、何太后と少帝、陳留王(劉協)を連れて逃れようとしますが、尚書の盧植が立ちはだかったため、何太后は1人宮中に残されました。
また、何太后の異父兄・何苗は、何進と対立していたことから敵と見なされて殺され、何太后の母・舞陽君も、この混乱の中で殺されてしまいました。
何太后の母・舞陽君の最期については2つの異なる記録があります。
『後漢書』霊思何皇后紀では、袁紹による宦官一掃の時に乱兵によって殺されたとあり、『魏書』董卓伝の注に引く『英雄記』では、朝廷の実権を握った董卓によって殺されたとあります。
董卓による朝廷支配
洛陽を脱出した少帝と陳留王を保護して洛陽に入城した董卓は、所属不明となっていた何進と何苗の兵を取り込むと、敵対する執金吾・丁原を殺して軍権を掌握します。
こうして朝廷の実権を握った董卓は、少帝を廃位して弘農王とし、劉協を天子に即位させました。後漢最後の天子・献帝です。
董卓はまた、何太后が董太后と対立して死に追いやったことを「嫁と姑の礼」に反するとして何太后を永安宮に幽閉し、遂には酖毒を勧めて自害させました。在位10年、189年9月のことでした。
何太后は、その死に際し喪に服する期間は設けられず、霊帝の文昭陵に合葬されました。
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霊帝の崩御から董卓が朝廷を支配するまでの詳細は、こちらをご覧ください。
なぜ何進は董卓を洛陽に呼び寄せたのか?霊帝の崩御と朝廷の混乱
卑賤の身から後宮に入って皇太后の座まで昇りつめた何氏ですが、最期は董卓に幽閉された上に自害を強要されてしまいました。
遡れば、先帝である桓帝の皇后・竇妙も、桓帝崩御後の宦官と外戚の争いの末に悲しい最期を迎えています。
宦官が権力を握っている限り、後漢皇帝の皇后は安らかな最期を迎えることはできないのかもしれません。