青州せいしゅう北海国ほっかいこくで起こった黄巾賊こうきんぞく管亥かんがいの反乱についてまとめています。

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孔融と太史慈

北海相・孔融

董卓とうたく洛陽らくよう雒陽らくよう)に入り、少帝しょうていを廃して献帝けんてい擁立ようりつした時、孔融こうゆうは事あるごとに董卓とうたく諫言かんげんしたため、虎賁中郎将こほんちゅうろうしょうから議郎ぎろうに転任されてしまいます。

そしてこの時、青州せいしゅう北海国ほっかいこく黄巾賊こうきんぞくの根拠地となっていたことから、孔融こうゆう三公さんこうの推挙を受けて北海相ほっかいしょう北海国ほっかいこく太守たいしゅ)に任命されました。


北海相ほっかいしょうとなった孔融こうゆうは、冀州きしゅうから帰って来た黄巾賊こうきんぞく張饒ちょうじょうの20万の軍勢を迎え撃ちますが、衆寡しゅうか敵せず、散り散りとなった兵を集めて朱虚県しゅきょけんに立てもります。

東萊郡の太史慈

太史慈たいしじ青州せいしゅう東萊郡とうらいぐん黄県きけんの人で、郡の役所に仕えて奏曹史そうそうしとなっていました。


ある時、郡(東萊郡とうらいぐん)と州(青州せいしゅう)の間に確執が起こり、太史慈たいしじは朝廷に判断をあおぐための上章じょうしょう(上奏文の書式の1つ)を届ける役目を与えられます。

この時、州の上章じょうしょうを持った使者はすでに出発していましたが、太史慈たいしじは機転をかせて州の上章じょうしょうを手に入れて破り捨て、州より先に郡の上章じょうしょうを朝廷に届けました。

ですがこれにより、州がこの事件において不利な処分を受けたことから、太史慈たいしじは州の役所のうらみを買い、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに身を隠すことになります。


この一件で太史慈たいしじの名は世に知れ渡り、太史慈たいしじを高く評価した北海相ほっかいしょう孔融こうゆうは、度々たびたび彼の母親に人をり、生活に困らないように面倒を見るようになりました。


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青州黄巾・管亥の反乱

青州黄巾・管亥の反乱

画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』

孔融が包囲を受ける

青州せいしゅう黄巾賊こうきんぞくが活発になり、郡県を荒らすようになると、孔融こうゆうは軍を進めて北海国ほっかいこく都昌県としょうけんに軍営を置きますが、逆に黄巾賊こうきんぞく管亥かんがいに包囲されてしまいます。

太史慈の帰郷

この時、遼東郡りょうとうぐんから帰って来た太史慈たいしじに母親が言いました。


孔北海こうほっかい孔融こうゆう)どのは、お前と面識もないのに、お前がおらぬ間に色々とお心遣こころづかいをいただいて、それはもう、古くからの知人以上に心のもったものでありました。

その孔北海こうほっかい孔融こうゆう)どのは今、賊の包囲を受けておられます。あの方のもとに駆けつけておやりなさい」


太史慈たいしじは母の元に3日だけとどまると、1人徒歩で都昌県としょうけんに向かいます。

この時はまだ敵の包囲はそれ程厳しくなかったので、夜陰にまぎれて城中に入ることができました。

なぜ太史慈たいしじは帰ってきたのか

では、なぜこの時太史慈たいしじは、都合良く青州せいしゅうに帰って来たのでしょうか?

母親の願いを聞いて孔融こうゆうもとに向かっていることから、孔融こうゆうを助けるために帰って来たわけではないでしょう。

呉書ごしょ太史慈伝たいしじでんには、この「孔融こうゆう救援のエピソード」の後に、


揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうよう太史慈たいしじと同郷であったが、太史慈たいしじ遼東りょうとうから帰って来た当初には、まだ面会する機会がなかった」


とあり、しばらくして太史慈たいしじ劉繇りゅうようのいる揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに向かっています。

おそらく太史慈たいしじは、彼を憎んでいた青州刺史せいしゅうしし焦和しょうかが亡くなったことから、再度仕官しようと、同郷である劉繇りゅうように相談するために帰って来たのではないでしょうか。


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劉備への救援要請

厳しくなる包囲

孔融こうゆうに目通りした太史慈たいしじは、「すぐにでも出撃して賊たちを討ちたい」と申し出ました。

ですが孔融こうゆうはこれを許さず、城を固く守って外からの救援を待っていましたが、救援が来ないまま敵の包囲は日ごとに厳しくなっていきます。


孔融こうゆうは、平原相へいげんしょう平原国へいげんこく太守たいしゅ)の劉備りゅうびに救援を求めたいと思いましたが、その時にはすでに敵の包囲が厳しくなっており、包囲を突破して平原国へいげんこくにたどり着くことは非常に難しくなっていました。

そこで太史慈たいしじは、自分がその救援を求める任務に当たりたいと名乗り出ます。


「現在、賊の包囲は極めて固く、人々はみな不可能だと言っておる。貴殿のお気持ちはさかんであっても、やはり難しいのではないか?」


孔融こうゆうが不安を口にすると、太史慈たいしじは重ねて言いました。


「かつて府君あなたさまには、老母のために周到なお心遣こころづかいをたまわりました。老母はそうしたご処遇に感激して、府君あなたさまの危急に役立つようにと私に申しつけたのです。

それは、私めにも見るべきところがあり、こちらに参ればきっとお役に立てるだろうと考えたからにございましょう。

現在、人々はみな脱出不可能だと申しておりますが、私もまた不可能だと申しましたなら、府君あなたさまからたまわったご恩義と、老母が私をこちらに来させましたこころそむくことになります。

事態は切迫しております。どうかお迷いになりませぬように…」


これを聞いた孔融こうゆううなづいて、太史慈たいしじ劉備りゅうびの元に行かせることにしました。


管亥(かんがい)の反乱

管亥かんがいの反乱」関連地図

太史慈の知恵

孔融こうゆうの許可を得た太史慈たいしじは旅装を整えて食料を包むと、夜明けを待って弓を手に、2人の騎兵に1つずつまとを持たせて城門を出ました。

突然の出撃に驚いた敵兵は、遠巻きにその様子をうかがっています。


太史慈たいしじは城の空塹からぼりの下に持ってきたまとを1つずつ立て、ほりを出てそれらのまとて見せると、そのまま城内に戻って行きました。


これを繰り返すこと3日目になると、敵兵はもはや太史慈たいしじには興味を示さなくなっています。

それを見て取った太史慈たいしじは、馬にむちを当てると一気に囲みの中を突っ切って駆け抜けました。

賊たちが気づいた時には、射殺いころされた者数人。太史慈たいしじはすでに包囲を突破しており、賊たちの中に、もはや後を追う者はいませんでした。

劉備が兵を貸す

平原国へいげんこくにたどり着いた太史慈たいしじは、劉備りゅうびと面会するとこう言いました。


「私めは東萊郡とうらいぐんの田舎者。孔北海こうほっかい孔融こうゆう)どのとは、親戚でも同郷のよしみがあるわけでもございません。

ただ(孔融こうゆうの)立派なご名声とご志操しそう(主義を守る心)に心をかれ、わざわいうれいを共にする関係を結んでいただいておるのでございます。

ただ今、管亥かんがいめが暴虐を行い、北海ほっかい孔融こうゆう)どのはその包囲を受けて孤立無援。今日か明日かという危機にあります。

あなたさまは仁義を行われることで名があり、よく他人ひとの危急をお救いくださることから、北海ほっかい孔融こうゆう)どのは心よりあなたさまをおしたいし、くびを伸ばしてお頼りせんと、『白刃はくじんおかして厳重な包囲を突破し、万死の中から生命をあなたさま(劉備りゅうび)におたくしするとお伝えするように』と命ぜられ、私めをつかわしました。

あなたさまだけがこれをお救いいただけるのでございます。」


これを聞いた劉備りゅうびは顔つきを改めて、


孔北海こうほっかい孔融こうゆう)ほどのお方が、天下に劉備りゅうびがいることをご存知であったとはっ!」


と言って、すぐさま精鋭3,000人を太史慈たいしじに貸し与えます。

援軍が向かっていることを知った賊たちは包囲を解いてバラバラに逃げ去ったので、孔融こうゆうは以前にも増して太史慈たいしじを尊重し、


「あなたは私の若き友人だ」


と言いました。


事態がおさまって、太史慈たいしじが母親にこのことを報告すると、太史慈たいしじの母親は、


「お前が孔北海こうほっかい孔融こうゆう)どのにご恩返しができたことを嬉しく思います」


と喜びました。


この青州せいしゅう北海国ほっかいこくにおける黄巾賊こうきんぞく管亥かんがいの反乱については、時期を特定できる情報はありませんが、

公孫瓚こうそんさん配下の劉備りゅうびが精鋭兵を援助していることから)公孫瓚こうそんさん袁紹えんしょう和睦わぼくが成立した初平しょへい4年(193年)春から、劉備りゅうび陶謙とうけんの援軍に向かう同年秋までの出来事だと仮定することができるでしょう。

ちなみに三国志演義さんごくしえんぎでは、曹操そうそう徐州じょしゅうに侵攻した後のこととして描かれ、劉備りゅうび関羽かんう張飛ちょうひが援軍に駆けつけて、管亥かんがい関羽かんうに斬られています。