劉虞と公孫瓚の争いの発端から、劉虞が公孫瓚に敗北し、処刑されるまでをまとめています。
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劉虞と公孫瓚の確執
張純の乱
公孫瓚の台頭
中平4年(187年)6月、幽州・漁陽郡の張純が、遼西郡の烏丸族(烏桓族)の大人・丘力居らと結んで反乱を起こすと、公孫瓚は張純を追撃して手柄を立て、騎都尉に任命されました。
またその後、遼東属国の烏丸族・貪至王が部族民を引き連れて降伏して来たため、中郎将(『後漢書』献帝紀では降虜校尉)に昇進し、都亭侯に封ぜられます。
公孫瓚は、弓の巧みな者を集めて白馬に騎乗させて「白馬義従」と称し、引き続き烏桓をはじめとする北方異民族に睨みを利かせていましたが、反乱の鎮圧には至りませんでした。
劉虞の幽州牧着任
中平5年(188年)3月、朝廷は乱を治めるため、北方異民族に心服されている劉虞を幽州牧に任命し、武力ではなく温徳によって慰撫することにします。
劉虞は着任すると、駐屯させていた兵を解散し、使者を派遣して温徳を広めることに務めたため、丘力居らは帰順を申し出ました。
面白くないのは、これまで張純らの討伐に当たっていた公孫瓚です。
公孫瓚はこっそり人を遣り、丘力居らの使者を待ち伏せして殺害させて、劉虞の手柄を妨害しました。
ですがその甲斐なく、鮮卑族を頼って逃亡した張純は食客の王政に殺害され、その首が劉虞の元に送り届けられると、劉虞は太尉に任命され、襄賁侯(『後漢書』劉虞伝では容丘侯)に封ぜられます。
公孫瓚は、常に兵を集めて自らの強大化に努め、時には部隊に好き勝手を許して民を蔑ろにしていましたが、対する劉虞の行う政は仁愛にあふれ、民を慈しんでいました。
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激化する対立
公孫瓚が劉虞を諫める
初平2年(191年)冬、董卓のため長安に遷都を強いられていた献帝が洛陽(雒陽)に帰りたいと願い、劉虞に迎えに来るようにと、秘かに劉虞の子・劉和を派遣します。
この時、荊州・南陽郡にいた後将軍・袁術は、通りかかった劉和を無理矢理留め置き、改めて劉虞に使者を送って「共に献帝を迎えに行こう」と申し出ました。
袁術に企みがあることを見抜いた公孫瓚は、兵を出そうとする劉虞を固く諫めますが、劉虞は聞き入れません。
すると公孫瓚は、秘かに袁術に使者を送って劉虞の兵を奪わせたので、これ以降、劉虞と公孫瓚の仲は一層険悪になりました。
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公孫瓚と袁紹の争い
その後袁紹と対立した公孫瓚は、軍事行動を禁じる劉虞の命令に反して冀州に出兵を繰り返します。
これに劉虞は、もし公孫瓚が袁紹を破って勢力を拡大するようなことがあれば、制御できなくなることを危惧し、固く軍事行動を禁じて公孫瓚への扶持米の支給を減らしました。
すると公孫瓚は、民を襲い、劉虞が異民族に褒賞として与えたものを略奪するようになります。
そして、劉虞は「公孫瓚の略奪の罪」を、公孫瓚は「劉虞が扶持米を行き渡らせていないこと」をそれぞれ上奏しますが、朝廷はどちらが正しいのかを判断することができず、この対立に裁きをつけることができませんでした。
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劉虞と公孫瓚の戦い
魏攸の諫言
劉虞と公孫瓚の対立は激化の一途をたどり、ついに公孫瓚は劉虞に備えるため、幽州・広陽郡・薊県内の東南、劉虞の居所の近くに砦を築き始めます。
これに危機感を感じた劉虞は、公孫瓚を招いて和解を試みますが、公孫瓚は病気を理由に劉虞と会おうとしませんでした。
ここに至って劉虞は、秘かに公孫瓚討伐を考えるようになり、東曹掾*1の魏攸に相談します。
すると魏攸は、
「いま天下は首を伸ばして公を頼りにしております。そんな公にとって、謀臣や爪牙となる勇士は必要不可欠な存在です。
公孫瓚の文武の才能と実力は恃むに足るものであり、小さな悪はあっても容認すべきです」
と言ったので、劉虞は公孫瓚討伐を思い留まりました。
脚注
*1 太尉の属吏。太守の長吏の移動や任命および軍吏を担当する。
劉虞の出陣
初平4年(193年)冬、公孫瓚討伐を諫めた魏攸が亡くなると、抑える者のいなくなった劉虞は、公孫瓚討伐の兵を挙げるため10万人の兵を集め始めます。
そして、劉虞が出陣しようとしたその時、従事*2の程緒が進み出て言いました。
「公孫瓚に過ぎた悪事があったとは言え、罪名は未だ質されておりません。
明公はこれまで、教え諭して公孫瓚の行いを改めさせることができませんでした。そのために蕭牆(内輪・一族・国内)で戦いを起こすことは、国のためとは申せません。
また、勝敗の行方は分からぬもの。兵を駐屯させ、武威を示して臨むのが最良です。
公孫瓚は必ず過ちを悔いて謝罪するでしょう。これぞいわゆる戦わずして人を服従させるということです」
ですが劉虞の決意は変わらず、出陣を阻んだ見せしめのため、程緒を斬ってしまいました。
脚注
*2 州牧・州刺史の属吏。治中従事・別駕従事・簿曹従事・兵曹従事などがある。
劉虞と公孫瓚の戦い
公孫紀の密告
劉虞の計画を知った従事*2の公孫紀は、日頃公孫瓚が同姓の誼みで厚遇してくれていたことから、この計画をその夜のうちに公孫瓚に知らせます。
この時公孫瓚は、部曲(兵)を城外に散在させていたので、劉虞の兵の急襲を受けて逃げられなくなることを恐れ、東の城壁に穴を開けて逃走しようとしました。
劉虞の敗北
劉虞の将兵は、公孫瓚が薊県を脱出するよりも早く公孫瓚の屋敷に到着しましたが、彼らは戦いに慣れておらず、また劉虞から、
「余人(他の人)を傷つけてはならぬ。ただ1人、伯珪(公孫瓚の字)のみを殺せ」
と命じられていたので、住民の家々を焼くこともできず大切に扱ったため、ただ包囲するだけで陥落させることはできませんでした。
この様子を見た公孫瓚は、精鋭数百人を選び募って風に乗せて火を放ち、直ちに突撃をかけると、劉虞軍は大敗して、劉虞は属官と共に幽州・上谷郡・居庸県に逃走しました。
幽州
薊県と居庸県
劉虞の死
劉虞が公孫瓚に捕らわれる
公孫瓚は逃走した劉虞を追撃して居庸県を3日で陥落させ、劉虞とその妻子を捕らえます。
そして、薊県に帰還した公孫瓚は、劉虞にこれまで通り幽州の文書を処理させました。
朝廷からの使者
ちょうどその頃、天子が使者の段訓を派遣し、劉虞と公孫瓚にそれぞれ次のように告げました。
劉虞
- 封邑を加増する
- 6州の職務を統括させる
公孫瓚
- 前将軍に任命し、易侯に封じる
- 仮節(軍令違反者を処刑できる権限)を与え、幽州・幷州(并州)・青州・冀州を統括させる
これは、前述した劉虞と公孫瓚の訴えに対する朝廷の返答でしょう。
劉虞が統括する6州の内訳は記されていませんが、おそらく、
- 幽州
- 幷州(并州)
- 青州
- 冀州
- 豫州(予州)
- 兗州
の6州だと思われます。
2人の訴えに対し、
「朝廷はどちらか一方を罪に問うことはしない。劉虞は6州全体を統括し、公孫瓚は劉虞の下でその内の4州を統括せよ。それぞれ昇進したのだから争うな」
と言う訳です。
劉虞の死
この時公孫瓚は、「以前劉虞が袁紹らと共に帝号を僭称しようとした」と誣告(事実を偽って告げること)し、段訓を脅迫して劉虞を薊県の市中に引き出させます。
公孫瓚は、劉虞の前に座って呪文を唱えてみせ、
「もしお前が天子となるべき人物であれば、天が風雨を起こして救ってくれるだろう」
と言いました。
当時、薊県は日照りが強い猛暑が続いており、雨が降るはずもなく、劉虞は処刑されてしまいます。その後公孫瓚は、段訓を幽州刺史に奉じました。
中平4年(187年)に始まった劉虞と公孫瓚の争いは、公孫瓚の勝利に終わり、「帝号を僭称しようとした」という罪で、劉虞は処刑されました。
公孫瓚は朝廷の使者・段訓を幽州刺史に祭り上げ、幽州の実質的な支配を手に入れましたが、劉虞はその恩愛によって多くの人々の心を掴んでいたため、古くから幽州に住んでいた人々だけでなく、北方諸民族から流民に至るまで、その死を惜しまない人はいませんでした。
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劉虞と公孫瓚の争い関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
187年 |
■ 中平4年 6月
不明
|
188年 |
■ 中平5年 3月
9月
11月
|
189年 |
■ 中平6年 3月
4月
5月以降
9月
|
191年 |
■ 初平2年 1月
不明
7月
11月
冬
|
192年 |
■ 初平3年 1月
不明
冬
|
193年 |
■ 初平4年 不明
冬
|