168年【漢:建寧元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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168年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉宏(霊帝) |
皇太后 |
竇太后(桓思竇皇后) |
皇后 |
– |
朝廷
官職 |
人物 |
太傅 |
陳蕃 → 胡広 |
司徒 |
胡広 → 劉寵 |
司空 |
宣鄷 → 王暢 → 劉寵 → 許栩 |
太尉 |
周景 → 劉矩 → 聞人襲 |
太僕 |
聞人襲(〜11月) |
大鴻臚 |
許栩(〜9月) |
大将軍 |
竇武(〜9月) |
使匈奴中郎将 |
張奐 |
度遼将軍 |
皇甫規 |
護羌校尉 |
段熲(〜2月) |
破羌将軍 |
段熲(2月〜) |
地方官
官職 |
人物 |
玄菟太守 |
公孫琙 |
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168年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
- 城門校尉の竇武が大将軍に任命される。
- 河間国から解瀆亭侯・劉宏が迎えられ、12歳で天子に即位する。
- 「建寧」と改元する。
- 陳蕃が太傅に任命される。
- 竇武と胡広が参録尚書事を兼任する。
- 護羌校尉の段熲に先零羌を討伐させる。
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2月 |
- 洛陽の東南30里にある宣陵に桓帝を葬る。
- 霊帝が高廟と世祖廟に参詣する。
- 天下に大赦し、民爵と帛(絹)を下賜する。
- 護羌校尉の段熲が逢義山で先零羌に大勝し、破羌将軍に任命される。
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閏月 |
- 霊帝が祖父・劉淑を「孝元皇」に、祖母・夏氏を「孝元皇后」に、父・劉萇を「孝仁皇」に、母・董氏を「慎園貴人」に追封する。
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4月 |
- 太尉の周景が亡くなる。
- 司空の宣鄷が罷免され、長楽衛尉の王暢が司空に任命される。
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5月 |
- 日食が起こる。
- 公卿以下に意見を募り、郡国の太守・相に優秀な人物を推挙させる。
- 二千石の秩禄を得る者の中から、清廉な者を召し寄せる。
- 太中大夫の劉矩が太尉に任命される。
- 竇武が中常侍の管覇と蘇康を処刑する。
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6月 |
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7月 |
- 破羌将軍・段熲が涇陽県で再び先零羌を破る。
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8月 |
- 司空の王暢を罷免し、宗正の劉寵を司空に任命する。
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9月 |
- 中常侍の曹節が詔を偽って、太傅・陳蕃、大将軍・竇武、尚書令・尹勳、侍中・劉瑜、屯騎校尉・馮述らを殺害、一族みな殺しにする。
- 竇太后は南宮の雲臺に幽閉される。
- 司徒の胡広が太傅に任命され、参録尚書事を兼任する。
- 司空の劉寵が司徒に任命される。
- 大鴻臚の許栩が司空に任命される。
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10月 |
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11月 |
- 太尉の劉矩が罷免され、太僕の聞人襲が太尉に任命される。
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12月 |
- 鮮卑と濊貊が幽州と幷州に侵攻する。
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168年の三国志群雄勢力図
建寧元年(168年)の三国志群雄勢力図
168年の情勢
168年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
陳蕃、竇武ら殺害の経緯
陳蕃の宦官誅殺計画
竇太后が信任した陳蕃は、李膺・杜密・尹勳・劉瑜らの名士を登用して腐敗した政治を正そうとしました。
ですが、霊帝の乳母・趙嬈や中常侍・曹節、王甫らは竇太后に甘言を吹き込んで爵位や官職を得るようになります。
これを憂いた陳蕃は、竇武に「宦官誅殺」を持ちかけ、尹勳らと共に計画を練り始めました。
管覇・蘇康の誅殺
陳蕃は日食を理由に「宦官誅殺」を実行に移すことを提案し、竇武は竇太后に「宦官誅殺」の許可を求めます。
ですが竇太后は、
「宦官は昔から絶えず存在してきたもの。罪ある者だけを罰すれば良いではないか」
と、宦官をすべて誅殺する必要はないとの意志を示しました。
これを受け、竇武は朝廷で専横が目立つ中常侍の管覇と蘇康を捕らえて処刑します。
その後も竇武は何度も曹節、王甫らの誅殺を上奏しますが、竇太后はこれを許しませんでした。
宦官誅殺を本格化
天文官の報告を受け、侍中の劉瑜が竇太后に上奏します。
「星の動きを見るに、邪な者が天子に近づく兆しがあります。警戒して下さい」
竇武と陳蕃もこれを聞き、朱寓を司隷校尉に、劉祐を河南尹に任命し、黄門令の魏彪を罷免して、親しい小黄門の山冰を新たに任命し、凶事に備えました。
また、竇武は山冰に命じて、長楽尚書・鄭颯を捕らえて獄につなぐと、山冰と尚書令・尹勳、侍御史・祝瑨らに尋問させ、鄭颯から曹節と王甫の罪の証言を得ます。
尹勳と山冰はこれを証拠として、曹節と王甫を捕らえるための上奏文を提出しました。
計画の漏洩(ろうえい)
上奏文は必ず宦官の手を通して竇太后に渡ります。
宦官で長楽五官史の朱瑀は、尹勳らの上奏文をこっそり盗み見ました。すると、曹節と王甫だけでなく、自分の名前まで書いてあるではありませんか。
「罪を犯した者は誅殺に値する。だが、我々のように罪のない者まで同罪とは何事かっ!」
怒った朱瑀は、
「陳蕃と竇武は竇太后に廃帝の上奏をしている。これは大逆の罪である!」
と叫ぶと、その夜すぐに長楽従官史の共普、張亮をはじめ、壮健な宦官17人を集め、血盟して竇武の誅殺を誓い合いました。
竇武と陳蕃の死
一方曹節は「危険が迫っている」として霊帝を徳陽前殿に移すと、詔を偽造して王甫を黄門令に任命し、山冰と尹勳を殺して鄭颯を救い出します。
王甫は兵を率いて宮中に戻ると、竇太后から璽綬を奪って南宮の門を閉ざして硬く守りました。
さらに曹節は、鄭颯に竇武を捕らえるように命じますが、竇武は鄭颯の使者を殺すと数千の兵を率いて都亭に駐屯します。
異変に気づいた陳蕃も、部下や学生・門弟ら80人余りを率いて尚書門に駆けつけますが、王甫の軍と遭遇して敗北。捕らえられて即日殺されてしまいました。
ちょうどその頃、朝廷に呼び戻されていた張奐が洛陽に到着します。曹節は、戻ったばかりで事情が分からない張奐に命じて、周靖、王甫と共に竇武と対峙させます。
そして、王甫が、
「竇武は謀反した!謀反人に与せず降伏するならば、罪を許し恩賞を与えよう」
と言うと、次から次へとほぼすべての兵が降伏したため、観念した竇武は自害して果てます。そして、竇武・陳蕃の計画に荷担した尹勳、劉瑜、馮述らの一族はことごとく滅ぼされました。
この功によって、張奐は大司農に任命され、侯に封ぜられることになりました。
ですが、知らなかったとは言え、宦官の手先となって忠貞の士を死に追いやってしまったことを悔やみ、張奐は印綬を返還して辞退しました。
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