178年【漢:熹平7年・光和元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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178年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
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天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 宋皇后 |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
司徒 | 楊賜(〜昨年12月) → 袁滂 |
司空 | 陳耽 → 来豔 → 袁逢 |
太尉 | 孟戫 → 張顥 → 陳球 → 橋玄 |
太常 | 張顥 → 来豔 → 陳球(〜9月) |
光禄勲 | 袁滂(〜2月) |
光禄大夫 | 橋玄 → 楊賜 |
執金吾 | 宋酆 |
諫議大夫 | 劉猛 |
屯騎校尉 | 袁逢(〜10月) |
五官中郎将 | 董重 |
使匈奴中郎将 | 張奐 |
破羌将軍 | 段熲 |
地方官
官職 | 人物 |
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玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
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178年の主な出来事
月 | 出来事 |
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1月 |
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2月 |
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3月 |
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4月 |
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5月 |
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6月 |
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7月 |
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8月 |
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9月 |
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10月 |
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11月 |
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12月 |
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不明 |
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178年の三国志群雄勢力図
光和元年(178年)の三国志群雄勢力図
178年の情勢
178年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
鴻都門学の設置
2月、霊帝は鴻都門学を設置します。
学生は州郡(刺史・太守)や三公から推挙され、鴻都門学を治めた者は刺史や太守、尚書や侍中に任命され、侯に封じられる者もいました。
ですが、名士たちは皆、彼らと同列にされることを恥としていました。
関連記事
張顥について
3月に太尉に任命され、9月に罷免された張顥は、中常侍・張奉の弟になります。
霊帝が意見を求める
この年、日食や地震のような天災だけでなく、雌鶏が雄に変わる、白衣の人物が消え去る、龍のような黒い気が堕ちる、青い虹が架かるなど、奇怪な出来事が続きます。
霊帝がこれらの出来事について意見を求めると、それぞれ次のように答えました。
光禄大夫・楊賜
空に虹が現れたら、天下が乱れると言います。
今、後宮の妃嬪や宦官たちが政治に口をはさみ、鴻都門下の者どもは賦が得意なだけで取り立てられ、互いに推挙し合って重職に就いています。
陛下におかれましては、佞臣を遠ざけ、鶴鳴の士*1を用いるならば、奇怪な出来事はなくなるでしょう。
脚注
*1 才能や能力があるにも関わらず、世間から認められていない人物のこと。
議郎・蔡邕
度重なる異変は亡国の兆しです。空に青い虹が架かり、雌鶏が雄に変わったのは、婦人が政治に干渉しているからです。かつては乳母の趙嬈、永楽門史(董太后の女官)の霍玉が、近頃では程大人という者が宮中で幅を利かせており、国家の禍となるでしょう。
太尉・張顥は霍玉に推挙されました。光禄勳・偉璋は貪欲で、長水校尉・趙玹、屯騎校尉・蓋升らは、能力もないのに高官に就いています。
また、蔡邕は用いられるべき人材として、廷尉・郭禧、光禄大夫・橋玄、元太尉・劉寵の名を挙げ、小人が高位にいることが禍の原因であり、賢臣を用いれば禍はなくなるとし、人材採用の責任を負っている三公の責任を追及して、鴻都門学の人材の採用をやめるように主張しました。
霊帝は蔡邕の上奏文を読み終わると、ため息をついて厠(トイレ)に向かいます。
この時、側に仕える曹節が上奏文をこっそり盗み見てその内容を吹聴したため、蔡邕に批判された者たちは蔡邕を憎むようになりました。
蔡邕の失脚
蔡邕は大鴻臚・劉郃と仲が悪く、蔡邕の叔父である衛尉・蔡質は、将作大匠・陽球と対立していました。
陽球の妻は中常侍・程璜の娘(養女?)であったことから、程璜は蔡邕を陥れるため「蔡邕は私怨によって劉郃を誹謗中傷している」と上奏します。
蔡邕は蔡質と共に捕らえられ、必死に冤罪を訴えましたが、周囲の多くは棄市(公開処刑)を主張したため、処刑を待つ身となってしまいました。
そこへ、一人中常侍の呂強だけは蔡邕を弁護したため、霊帝は死罪を免じて髡鉗刑(髪を剃り首枷をつける刑)の上、幷州・朔方郡への流刑に減刑します。
陽球は朔方郡に向かう蔡邕に刺客を放ちましたが、蔡邕の忠義に感服していた刺客たちは手を下さず、逆に蔡邕に警戒を促して去りました。
中常侍・呂強は、宦官でありながらも清忠奉公であったと言われる人物で、一口に宦官と言っても、悪辣な者ばかりではありませんでした。
また、陽球は昨年の177年、「政治が厳しすぎる」として告発され、過去の功績によって許された人物です。後に陽球も宦官と対立しますので、陽球と蔡邕は反宦官勢力同士で争っていたということになります。
宋皇后の廃位
宋皇后の廃位
勃海王・劉悝の妃は、霊帝の皇后・宋皇后の「おば」に当たります。
172年、中常侍・王甫は私怨から劉悝に罪を着せ、自殺に追い込んでいました。そしてこの時、劉悝の妃も連座して殺されています。
10月、王甫は宋皇后が自分のことを恨んでいるのではないかと疑って「宋皇后はまじないをして呪いをかけている」と霊帝に讒言しました。
この頃、宋皇后はすでに霊帝の寵愛を失っており、王甫の言葉を信じた霊帝は、宋皇后から皇后の璽綬を取り上げ、暴室(皇后や貴人専用の牢獄)に送りってしまいました。
また、後に宋皇后の父、執金吾・宋酆も獄に下されてなくなりました。
関連記事
何氏(霊思何皇后)。卑賤の身から皇太后にまで昇りつめた霊帝の皇后
盧植の諫言
尚書・盧植は、
「党錮に処されている者の多くは冤罪ですので罪を許すべきです。宋皇后の一族も、罪が無いのに処刑されました。
また、刺史や太守の中には、ひと月に何度も異動を命じられている者がいますが、最低でも3年は任務に就かせてから判断し、人材の推挙を厳格にするべきです。」
と諫言しますが、霊帝は聞き入れませんでした。
売官の開始
霊帝は先帝の桓帝が国庫に蓄えを残していなかったことを嘆いて、西邸という部署を開いて官職の販売を開始し、西園の倉に金銭を蓄え始めます。
正規の推挙を受けた者からも規定の半額〜1/3程度の金額が徴集され、支払う財力がない者には、金額を2倍とすることで後払いも許されていました。そのため、任官後に民衆から搾取してその支払いに充てる者が続出しました。
売官の相場について、『後漢書』孝霊帝紀の本文には「公は1,000万銭、卿は500万銭で売った」とある一方で、注に引く『山陽公載記』には、二千石(郡太守クラス)は2,000万銭、四百石(県丞クラス)は400万銭とされており、基準がよく分かりません。
曹操の父・曹嵩は、実に1億銭の銭を払って太尉の位に就きましたから、明確な基準はなかったのかもしれません。
自身の判断で鴻都門学の設置や売官などの改革を行った霊帝は、侍中の楊奇に「朕は桓帝と比べてどうか?」と尋ねました。桓帝は当時から既に「漢を傾けた皇帝」という評価がなされています。
楊奇は「陛下と桓帝を比較するのは、虞舜と唐堯の徳を較べるようなものです」と答えました。虞舜も唐堯も伝説の聖人ですが、楊奇は暗に「霊帝と桓帝は同じようなものだ」と皮肉ったのです。
霊帝は「さすが楊奇だ。お世辞を言わない」と度量の大きい言葉を返しましたが、あきらかに不機嫌になりました。
また、この年に起こった数々の異変や、蔡邕の諫言の様子は『三国志演義』でも取り上げられています。