後漢の支配力が衰えてしまった原因には、外戚と宦官の争いが繰り返されてきたことが挙げられます。では、一体どのような争いが行われていたのかを具体的に見ていきましょう。
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第11代皇帝・桓帝の即位
桓帝(かんてい)即位までの経緯

さて、前回は外戚や宦官が権力を握って後漢の政治が行われてきたことをお話しました。
今回はいよいよ『三国志演義』にも登場する、第11代皇帝・桓帝の時代についてお話します。

いよいよ本題に入っていくんですね!

桓帝の時代は、外戚と宦官のどちらが力を持っていたんですか?

第9代皇帝・冲帝(沖帝)の時代から、外戚である梁冀が実権を握っていました。

やっぱり外戚は強いなぁ。

それでは第11代皇帝・桓帝が即位するまでの経緯をザっと確認してみましょう。
第11代皇帝・桓帝が即位するまでの経緯
西暦 | 出来事 |
---|---|
132年 |
|
141年 |
|
144年 |
|
145年 |
|
146年 |
|

ふむふむ。
梁冀って人が外戚として権力を得て、次の皇帝まで決めてしまったのか。
てか「バッコ」ってどういう意味?

跳梁跋扈するって言うでしょう? 悪者が我がもの顔に振る舞ってのさばることよ。
皇帝を毒殺するなんて、まさか悪口を言われたから?

国語の勉強にもなりますね(笑)
そんな短絡的な理由ではないでしょうけど、聡明な皇帝がこのまま成長すると厄介だと思ったんでしょうね。

でも、梁冀のこんな振る舞いを誰も止めることはできなかったの?

これ以上外戚の力が増大することを恐れて、李固という人が年長の後継者を立てようとしたんですけど、解任されて殺されてしまいました。

絵に描いたような悪者だな、梁冀は。

こんなときに皇帝になった桓帝さん、かわいそう。

そうですね!
権勢を振るう外戚・梁冀

桓帝が即位すると、梁冀は妹の梁女瑩を皇后にして、さらに特別待遇を受けるようになりました。
梁冀が受けた特別待遇には、次のようなものがあります。
剣履上殿
剣を帯びたまま宮中にのぼっても良い。つまり、皇帝の前でも剣をはずさなくても良いという特権。
入朝不趨
臣下は皇帝の前では腰をかがめて小走りに進まなければいけないが、皇帝と同様に普通に歩いても良いという特権。
謁讚不名
皇帝から諱で呼ばれずに、字で親しげに呼ばれるという特権。
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これらは「漢の三傑」の1人である前漢建国の功臣・蕭何に与えられたものと同等の待遇でした。

なんの手柄もないのに?

それに、妹を桓帝の皇后にすることで、次の世代までも安泰ってことじゃないですか。
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外戚・梁冀の排斥
梁太后の死

桓帝の時代になっても梁冀の権勢は衰えることを知らず、妻の孫寿の一族と邸宅の豪華さを競うなど、贅沢の限りを尽くしていました。
ですが、そんな梁冀にも不幸が訪れます。

なに?宦官か?

タカオくんは気が早いですね(笑)
和平元年(150年)、梁太后(梁妠)は19歳になっていた桓帝に政治の実権を返すように遺言して亡くなってしまったのです。

これでやっと皇帝自身が政治を行うことができるようになるのね!
外戚・梁冀の最期

梁太后が亡くなった今、梁冀と言えども政治に関することは、桓帝に判断を仰がなくてはいけません。
ですが、自分に敵対する人物を勝手に処刑するなど、梁冀は政治の実権を皇帝に返す気はありませんでした。
これには桓帝も怒りをつのらせていきます。

宦官に相談だっ!

やっと出てきましたね。
延熹2年(159年)、皇后の梁女瑩が亡くなると、桓帝は単超をはじめとする5人の宦官たちと梁冀の排斥を計画します。

でも相手は皇帝も毒殺してる人だから、失敗したら命がけですよね。

そうですねぇ。
ですがこのまま何もせずにいたら、最悪の場合皇帝の座を奪われて殺されてしまうことだって考えられますから。

そうだよ、ここはやるしかないんだよ!

桓帝は、梁冀を儀式が行われる正殿(紫宸殿)に呼び出すと同時に、秘かに梁冀の邸宅を包囲して梁冀から大将軍の印綬を取り上げました。

おおっ!成功か?

梁冀の一族は年齢に関わらず処刑、梁冀自身は自殺してしまいました。

やったーっ!これで一安心だ。
このとき梁冀一族に連座して死刑や免職になった者は300人を超え、朝廷は一時的にほとんど人がいなくなってしまうほどだったと言われています。
それだけ朝廷が梁冀一族に支配されていたと言えるでしょう。

次回は、外戚を排除して親政を行うことになった桓帝の時代についてお話しします。