後漢ごかんの支配力が衰えてしまった原因には、外戚がいせき宦官かんがんの争いが繰り返されてきたことがげられます。では、一体どのような争いが行われていたのかを具体的に見ていきましょう。

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第11代皇帝・桓帝かんていの即位 

桓帝の即位

桓帝(かんてい)即位までの経緯


王先生王先生

さて、前回は外戚がいせき宦官かんがんが権力を握って後漢の政治が行われてきたことをお話しました。
今回はいよいよ三国志演義さんごくしえんぎにも登場する、第11代皇帝・桓帝かんていの時代についてお話します。

タカオタカオ

いよいよ本題に入っていくんですね!

マリコマリコ

桓帝かんていの時代は、外戚がいせき宦官かんがんのどちらが力を持っていたんですか?

王先生王先生

第9代皇帝・冲帝ちゅうてい沖帝ちゅうてい)の時代から、外戚がいせきである梁冀りょうきが実権を握っていました。

タカオタカオ

やっぱり外戚がいせきは強いなぁ。

王先生王先生

それでは第11代皇帝・桓帝かんていが即位するまでの経緯をザっと確認してみましょう。

第11代皇帝・桓帝が即位するまでの経緯

西暦 出来事
132年
  • 梁冀りょうきの妹・梁妠りょうどうが第8代皇帝・順帝じゅんてい皇后こうごうとなる。
141年
  • 梁冀りょうき大将軍だいしょうぐんに任命される。
144年
  • 順帝じゅんていくなる。
  • 9代皇帝・冲帝ちゅうてい沖帝ちゅうてい)がわずか2歳で即位する。
  • 梁妠りょうどう皇太后こうたいごうとなる。
145年
  • 冲帝ちゅうてい沖帝ちゅうてい)が病死する。
  • 梁冀りょうきが8歳の第10代皇帝・質帝しつていを即位させる。
146年
  • 質帝しつていが権勢を振るう梁冀りょうきを「跋扈ばっこ将軍」と罵る。
  • 梁冀りょうき質帝しつていを毒殺する。
  • 梁冀りょうきによって第11代皇帝・桓帝かんていが14歳で即位する。


タカオタカオ

ふむふむ。
梁冀りょうきって人が外戚がいせきとして権力を得て、次の皇帝まで決めてしまったのか。
てか「バッコ」ってどういう意味?

マリコマリコ

跳梁跋扈ちょうりょうばっこするって言うでしょう? 悪者が我がもの顔に振る舞ってのさばることよ。
皇帝を毒殺するなんて、まさか悪口を言われたから?

王先生王先生

国語の勉強にもなりますね(笑)
そんな短絡的な理由ではないでしょうけど、聡明な皇帝がこのまま成長すると厄介だと思ったんでしょうね。

マリコマリコ

でも、梁冀りょうきのこんな振る舞いを誰も止めることはできなかったの?

王先生王先生

これ以上外戚がいせきの力が増大することを恐れて、李固りこという人が年長の後継者を立てようとしたんですけど、解任されて殺されてしまいました。

タカオタカオ

絵に描いたような悪者だな、梁冀りょうきは。

マリコマリコ

こんなときに皇帝になった桓帝かんていさん、かわいそう。

王先生王先生

そうですね!

権勢を振るう外戚・梁冀


王先生王先生

桓帝かんていが即位すると、梁冀りょうきは妹の梁女瑩りょうじょえい皇后こうごうにして、さらに特別待遇を受けるようになりました。

梁冀りょうきが受けた特別待遇には、次のようなものがあります。

剣履上殿けんりじょうでん

剣をびたまま宮中にのぼっても良い。つまり、皇帝の前でも剣をはずさなくても良いという特権。

入朝不趨にゅうちょうふすう

臣下は皇帝の前では腰をかがめて小走りに進まなければいけないが、皇帝と同様に普通に歩いても良いという特権。

謁讚不名えつさんふめい

皇帝からいみなで呼ばれずに、あざなで親しげに呼ばれるという特権。

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王先生王先生

これらは「かん三傑さんけつ」の1人である前漢ぜんかん建国の功臣・蕭何しょうかに与えられたものと同等の待遇でした。

タカオタカオ

なんの手柄もないのに?

マリコマリコ

それに、妹を桓帝かんてい皇后こうごうにすることで、次の世代までも安泰ってことじゃないですか。


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外戚・梁冀の排斥

外戚と宦官の争い

梁太后の死


王先生王先生

桓帝かんていの時代になっても梁冀りょうきの権勢は衰えることを知らず、妻の孫寿そんじゅの一族と邸宅の豪華さを競うなど、贅沢の限りを尽くしていました。
ですが、そんな梁冀りょうきにも不幸が訪れます。

タカオタカオ

なに?宦官かんがんか?

王先生王先生

タカオくんは気が早いですね(笑)
和平わへい元年(150年)、梁太后りょうたいごう梁妠りょうどう)は19歳になっていた桓帝かんていに政治の実権を返すように遺言ゆいごんしてくなってしまったのです。

マリコマリコ

これでやっと皇帝自身が政治を行うことができるようになるのね!

外戚・梁冀の最期


王先生王先生

梁太后りょうたいごうが亡くなった今、梁冀りょうきと言えども政治に関することは、桓帝かんていに判断をあおがなくてはいけません。

ですが、自分に敵対する人物を勝手に処刑するなど、梁冀りょうきは政治の実権を皇帝に返す気はありませんでした。

これには桓帝かんていも怒りをつのらせていきます。

タカオタカオ

宦官かんがんに相談だっ!

王先生王先生

やっと出てきましたね。
延熹えんき2年(159年)、皇后こうごう梁女瑩りょうじょえいが亡くなると、桓帝かんてい単超ぜんちょうをはじめとする5人の宦官かんがんたちと梁冀りょうきの排斥を計画します。

マリコマリコ

でも相手は皇帝も毒殺してる人だから、失敗したら命がけですよね。

王先生王先生

そうですねぇ。
ですがこのまま何もせずにいたら、最悪の場合皇帝の座を奪われて殺されてしまうことだって考えられますから。

タカオタカオ

そうだよ、ここはやるしかないんだよ!

王先生王先生

桓帝かんていは、梁冀りょうきを儀式が行われる正殿(紫宸殿ししんでん)に呼び出すと同時に、ひそかに梁冀りょうきの邸宅を包囲して梁冀りょうきから大将軍だいしょうぐんの印綬を取り上げました。

タカオタカオ

おおっ!成功か?

王先生王先生

梁冀りょうきの一族は年齢に関わらず処刑、梁冀りょうき自身は自殺してしまいました。

タカオタカオ

やったーっ!これで一安心だ。


このとき梁冀りょうき一族に連座して死刑や免職になった者は300人を超え、朝廷は一時的にほとんど人がいなくなってしまうほどだったと言われています。

それだけ朝廷が梁冀りょうき一族に支配されていたと言えるでしょう。



王先生王先生

次回は、外戚がいせきを排除して親政を行うことになった桓帝かんていの時代についてお話しします。

次回

【002】権力を握った宦官と第一次党錮の禁

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