三国志などの中国の歴史を読んでいると、悪者として度々出てくる宦官たち。
三国志を理解するためにも、日本人には馴染みの薄い中国の宦官について理解しておきましょう。
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目次
宦官とは
宦官とは、後宮に仕える去勢された官吏のことです。
元々は戦争で捕虜にした異民族の捕虜や、属国から貢ぎ物として贈られた奴隷、犯罪者などに去勢を施して、後宮で皇帝や后妃の世話をさせたことが始まりと言われています。
宦官が権力を得るようになると、自ら去勢手術を受けて宦官に志願する者もいましたが、宦官とは本来、犯罪を犯した者への刑罰として、強制的に後宮で働かされている奴隷のような存在なのです。
中国では殷(商)の時代(紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年)からその存在が確認されており、清の時代まで続きました。
宦官の仕事と役割
宦官の主な仕事は、後宮で天子(皇帝)や后妃の世話、料理や清掃などの雑用をすることです。
また、基本的に人間として扱われない奴隷である宦官は、それらの仕事に加えて天子の暇つぶしやストレス発散のために、墨汁や尿を飲まされるなどの虐待を受けることも日常茶飯事でした。
ですが、後に宦官の地位が向上してくると、
- 皇子の教育
- 不正の摘発
- 天子と臣下の連絡
などの役目を負うようになります。
男子禁制の後宮
後宮とは、天子が家庭生活を営む場所です。
天子による世襲体制を維持するために最も大切なことは、跡継ぎとしてその血縁を残すことです。後宮には、天子の子孫を絶やさないために中国全土から美女が集められ、皇帝に仕えていました。
時代にもよりますが、彼女たちの世話をする女官や宮女も含めると後宮には少なくとも3,000人から30,000人を超える女性が生活していることになります。
このような後宮において、男性の使用人を入れる、または、女性だけで取り仕切ることは、次のようなトラブルを招くことになります。
- 皇后(天子の正室)や妃嬪(天子の側室)、女官・宮女と男性使用人との不義密通
- 天子が宮女に手をつける
後漢の時代には天子の正室である皇后を筆頭に、側室である妃嬪には、貴人・美人・宮人・采女という4つの序列がありましたが、後漢第11代皇帝桓帝には少なくとも1,000人以上の妃嬪がいたと『後漢書』に記録されています。
これだけ多くの妃嬪がいると、皇后や妃嬪たちが慢性的に欲求不満になっていることは想像に難くありません。
このようなことから、後宮は男子禁制とされており、男性機能を失った宦官の存在が不可欠だったのです。
とりわけ天子の身の回りの世話は、宦官が行うことになっていました。
宦官の去勢方法
宮刑または腐刑
宮刑とは、本来「後宮や後宮に付属する機関で終身にわたって働かせる刑罰」のことですが、男子禁制の後宮に入るためには「去勢手術」を受ける必要があるため、同時に陰茎と陰嚢を切除される「腐刑」を受ける必要があります。
このため、宮刑と外性器を切除する腐刑はほとんど同一視され、自ら去勢手術を受けることを自宮と言うようになりました。
宮刑・腐刑は死刑に次ぐ酷刑として位置付けられていたと言われています。
自宮の方法
では、現代のように医療技術が発達していなかった時代に、宦官たちはどのような手術を受けていたのでしょうか。
詳細な記録が残っている清の時代の自宮の方法を確認してみましょう。
準備
三国時代の名医華佗は「麻沸散」という麻酔薬を使用して切開手術をしたと言われていますが、一般に浸透している訳ではありません。
自宮を受ける者は、専用の台に寝かされて、痛みで暴れないように両手両脚を縛りつけて固定した後、止血のために白いヒモで下腹部と股の上部あたりを堅く縛ります。
この時、痛みをやわらげるために強い酒を飲ませることもありました。
執刀
熱い胡椒湯で念入りに消毒を行った後、細くて強い糸で陰茎と陰嚢をひとまとめに縛って切りやすいように上部に引っ張ります。
ここで本人に「本当に後悔しないか?」と最後の意思確認をします。宮刑や腐刑の執行の場合は、もちろん確認はありません。
本人の了承を得ると、刀子匠と呼ばれる専門の執行人が、去勢刀という専用の刃物で下方向から一気に切り上げます。
多くの場合自宮を受ける者は壮絶な悲鳴をあげて昏倒します。
切り口は酒で洗浄され、尿道が癒着してふさがるのを防ぐために、銅と亜鉛の合金である白鑞の栓を尿道に差し込みます。
熱した灰で止血をし、冷水に浸した紙で覆って注意深く包んで終了です。
清の時代の実物の去勢刀
執刀後
その後、現代の医学で言う塞栓症を防ぐために、2人の助手に抱えられながら2~3時間歩き回った後に横臥させられます。
そのまま水を呑まずに3日間過ごし、尿道の栓を抜いた時に噴水のように尿が出れば成功です。ここで尿が出なければ失敗で、尿として排出されるべき毒素が血液中に残存してしまうため、やがて死に至ります。
その後自力で起き上がれるようになるまでには、2ヶ月程度かかりました。
切り取った後の男性器は…
さて、切断された男性器はというと、後宮に入る際に去勢されている証明として提示する必要がありましたので、刀子匠によって腐敗しないように加工され、壷に入れて大切に保管されました。
また、切断された男性器は「宝」と呼ばれ、死後遺体と一緒に棺の中に入れられて埋葬されました。宝と一緒に埋葬されないと、ロバやヤギに生まれ変わってしまうと信じられていたからです。
清の時代の自宮の手術料金は、銀6両(約3万円)という記録が残っていますが、借金をして自宮するものも多く、その場合は借金の担保として刀子匠が宝を預かりました。
宦官の中でも栄達して富を得る者はほんの一握りですから、借金を完済して宝を取り戻せた者は、1割にも満たなかったと言われています。
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宦官が権力を得る事ができた理由
では、去勢されて後宮に奴隷として送り込まれた宦官が、なぜ国政を操るような権力を得ることができたのでしょうか?
外戚による権力の私物化
後漢の天子は若くして亡くなることが多く、幼少の皇帝が即位することが少なくありませんでした。
そのような場合、天子が成人するまでの間は前天子の皇后が皇太后として天子の代わりに政治を行うことになります。
皇太后が天子の代わりに政治を行うようになると、皇太后の親兄弟などの親族が高い位に就くようになります。この皇太后の親族のことを外戚と言います。
もちろん天子が成人したときには、皇太后も外戚たちも政治の実権を天子に返還しなければなりません。ですがそうなると、新たに天子が任命した人物によって自分たちの特権や地位を奪われてしまう可能性があります。
誰しも一度手に入れた富や権力は手放したくないものです。
外戚たちは自分に実権があるうちに「天子に政治の実権を返すべき」という親天子派を失脚させ、天子が成人しても権力の座に居座り続けました。
また、後を継いだ幼帝が成人する前に亡くなった場合は、自分たちの権力を維持するために、あえて幼い皇帝を即位させることもありました。
幼くして即位した天子が無事成人できた場合、当然政治の実権は天子に返されなければなりません。成人した天子は、自分の意志ではなく外戚によって政治が行われ続けていることに、当然不満を感じるようになります。
中国の天子(皇帝)の地位
「天子」とは、天上の最高神である天帝の子であり、天命によって天下を治める絶対的な存在です。
ここで疑問に思うのは、天子が権勢を振るう外戚に対して、
「○○を解任せよ」
「朕に逆らう○○を捕らえよ」
という詔を下せば、外戚を一掃することができるのではないかということです。
ですが、実はそう簡単にはいきません。
易姓革命
古代中国では、天命(天帝の命令)によって天子が国を治めていることになっています。ですが、天子が「徳」を失ったときは、革命(天命を革める)が起こり、より徳の高い人物が天子の位につくことが許されるという考え方がありました。
これを易姓革命と言います。
代々世襲される天子の中に暴君が現れて民を苦しめた時、より徳の高い人物がこれに代わって国を治めるという考え方はとても合理的に思えますが、実際は実力をつけた臣下が強大な軍事力を背景に天子の位を奪うことで王朝の交代がなされてきました。
中国の歴史において、大きな功績を上げた臣下が粛清されることが多いのは、臣下が力をつけて自分の地位を脅かすことを防ぐためなのです。
孤立する天子
外戚はあくまでも幼い天子の代理として政治の実権を握っているのですから、天子が成人した場合は、天子に政治の実権を返さなければいけない。
この考え方が絶対的な正論のはずですが、易姓革命の考え方があることによって、現在権勢を振るっている外戚を支持することに正当性を与える考え方もできるわけです。
そのため、長い間外戚の元で出世してきた大臣たちの中には、このまま外戚による支配が続いてくれた方が、自分の地位を守るためには安心と考える者たちが多かったのです。
そのような中で「外戚を除く詔」を下したところで、逆に天子が幽閉されて殺害されてしまう可能性の方が高かったのです。
天子の権力奪還作戦
天子は常に外戚派の監視を受け、外戚の操り人形として利用されることになりますが、その状態にあまんじていては、待っているのは退位を迫られ、最悪の場合殺されてしまうという結末です。
天子としては、なんとしても政治権力を奪還する必要があったのです。
ですが、朝廷を見回してみても自分に味方する者は見当たりません。もし自分に味方する者を見つけたとしても、外戚派の監視の中で「外戚を打倒する相談」をすることは困難を極めました。
そんな中で天子が頼りにすることができたのが、宦官だったのです。
宦官の強み
では、なぜ外戚を打倒するために宦官の協力を得ることが都合が良かったのでしょうか。
最も近くにいる存在
宦官は天子にとって、幼い頃から洗顔や着替えのような些細なことまで世話をしてくれる、最も身近な存在であったこと。
逆に言うと、宦官には天子の世話をするということ以外に存在理由を与えられていません。宦官にとって、天子に協力する以外の選択肢はなかったと言えます。
後宮に入ることができる
男子禁制の後宮には、どんな高官であっても入ることはできません。外戚派の監視を受けない後宮の中で、思う存分計画を練ることができます。
去勢されているため世襲できない
天子にとっての気掛かりは、臣下によってその地位を奪われて、王朝が断絶してしまうことです。子孫を残すことができない宦官は皇帝になったところで1代限り。帝位の簒奪には興味を持たないため、最も信頼を置きやすい存在と言えます。
* 明(みん)の時代には、宦官の中で唯一帝位の簒奪を試みた劉瑾(りゅうきん)という人物も存在します。
宦官に与えられた特権
宦官の協力を得て外戚の排除に成功すると、天子は宦官への信頼をさらに高め、外戚の力を弱めるとともに、宦官に様々な特権を与えました。
その中でも宦官が権力を得ることに繋がったのは、中常侍の官職が宦官の専任になったことです。
中常侍とは
中常侍とは、宮中で天子の私有物や衣服、珍宝、食事などの管理を担当する少府(侍中府)の中の一役職で、常に皇帝のそばに控え、さまざまな取り次ぎを行う役職です。
命令の取り次ぎや天子の相談役となり、直接進言することが許されている中常侍となった宦官たちは、天子に入ってくる情報を操作できるようになったのです。
このことによって宦官たちは、自分たちに賄賂を贈って近づいてくる者は天子に推薦し、賄賂を贈らない者は讒言するなどして巨万の富を築いたのです。
また、宦官が引き起こした「収賄政治」のために国政が混乱したとしても、宦官たちの情報操作によって、そのことを知ることもできなかったのです。
天子と宦官の関係
宦官たちからもたらされる情報をもとに、判断を下すのは天子自身です。
宦官たちに絶大な信頼を置いている天子は、宦官の言うことを疑うこともなく、自分の思い通りに国を治めていると思い込んでいます。
そのため、宦官の悪事を直訴する者がいたとしても、宦官の言うことを信じて諫言に耳を貸すことはありませんでした。
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宦官はなぜ欲深いのか
後漢の第4代皇帝・和帝の復権に協力した宦官・鄭衆は、天子に対する忠誠心が厚く明晰で行動力のある人物であったと言われています。
ですがそれ以降の宦官と言えば、意地悪く強欲で悪の権化とも言うべき存在として語られています。
では、なぜ宦官は強欲な人物ばかりなのでしょうか?
宦官の社会的地位
宦官とは、一言で言ってしまうと「天子の私的奴隷」のような存在です。
それに加えて後漢の時代は、人材登用法である「郷挙里選」で採用されていることからも分かるように、儒教の教えが重要視されていました。
儒教の道徳観の中には、
「親からもらった身体は髪の毛1本粗末にしてはいけない」
という教えがあります。
当時の男性が髪を長く伸ばして頭の上にまとめ、ヒゲを伸ばしているのは、この儒教の教えによるところが大きいのです。
最も多く男性ホルモンを生成する陰嚢を切除しているために、宦官にはヒゲが生えません。宦官たちは、
- ヒゲが生えない
- 親からもらった身体の一部を切除している
という2つの理由から「マトモな人間ではない」という軽蔑の目で見られてしまう存在だったのです。
このことから、宦官たちが天子の寵愛を受けて朝廷内での影響力が強くなったとしても、人々から尊敬されることはありませんでした。
宦官の身体的変化
去勢手術を受けた宦官には、男性ホルモンの減少の影響から様々な身体変化が現れます。
ヒゲが生えない
幼少期に去勢された者はもちろん、成人になってから去勢された者も、ヒゲが抜け落ちて生えてこなくなります。逆に頭髪がハゲることもなかったと言われています。
声が高くなる
幼少期に去勢された者は「声変わり」をしないため、女性のような高い声になります。また、声変わりをした後に去勢された者も、わずかではありますが声が高くなることがあります。
体型が女性的になる
去勢されたことによって身体が脂肪を蓄えやすくなり、女性的な体つきになります。また、年齢を重ねると急激に痩せてシワが増え、年齢よりも老けて見えるようになります。
排尿への影響
陰茎を切除された宦官が、男性のように立って排尿しようとすると周囲に飛び散ってしまうため、女性のようにしゃがんで排尿しなければなりません。このことは宦官にとって相当に屈辱的なことでした。
また、尿意をコントロールすることができずに尿漏れをしてしまうため、宦官たちはいつも臭かったと言われています。
宦官になった経緯
まず宦官になった人たちには、次のような経緯が考えられます。
- 異民族の捕虜を後宮で雑役をさせるためられている者
- 罪人に対する刑罰として後宮で雑役をさせられている者
- 誘拐や人身売買によって後宮に売られた者
- 貧困などが原因で親の命令で自宮して後宮に入った者
- 自ら志願して自宮して後宮に入った者
自ら宦官を志願する場合でも、出世を夢見て宦官になるというよりは、宦官になって後宮に入れば「今日食べるものにも困っているような貧困」から逃れることができるという理由のほうが多かったようです。
差別やコンプレックスに抑圧されてきた宦官たちは、富をかき集めて物欲を満たし、今まで自分たちを虐げてきた者たちに復讐することで、精神の均衡を保っていたのかもしれません。
後漢の末期に宦官が権勢を振るったからといって、3,000人以上いたと言われている宦官の中で、富を得ることができたのはほんの10数人に過ぎません。
大多数の宦官たちは、後宮で皇帝の世話や雑役をする奴隷のような存在のまま一生を終えました。
なぜ宦官が必要だったのか?
中国の歴史において、特に後漢・唐・明などは、宦官による政治の腐敗が直接の原因となって滅亡しています。
このような危険な存在である宦官が、なぜ必要だったのでしょうか?
日本には存在しなかった宦官
遣隋使や遣唐使などを派遣して中国の文化や制度などを取り入れてきた日本ですが、宦官の制度は日本にはありません。
なぜ日本は宦官の制度を取り入れなかったのでしょうか?
去勢をする発想がなかった
遊牧民の間では、家畜の繁殖を調整するために古くから去勢が行われていました。宦官に行った去勢手術は、この家畜の去勢方法を応用したものです。
日本には家畜に去勢を施す文化がなく、明治時代に軍馬に去勢を施したのがはじめだと言われています。
去勢をする文化がない日本では、去勢自体が非常に残酷な行為に受け取られていました。
女性の地位が高かった日本
中国の後宮の代わりに日本には大奥がありますが、日本の大奥では宦官は採用されず、女性のみで取り仕切られていました。
中国では「女性の地位」が非常に低く、女性を責任のある職につけることはありませんでしたが、日本においては女性がしっかりと大奥を運営していたのです。
また、正室の影響力が強く、側室をとる場合でも非常に気を遣っていたことが多くの記録に残っています。
実は、春日局によって組織的な整備がなされるまで、日本の大奥は男子禁制ですらありませんでした。
このようなことから、去勢という残酷な行為をしてまで「宦官」という男性を大奥に入れる必要がなかったのだと言えるでしょう。
王朝の継続には不可欠だった宦官
中国の歴史の中で、しばしば国を滅ぼす「奸賊」として登場する宦官たち。
何らかの原因で天子の支配力が衰えた時、皇族や外戚、有力な臣下などは、すべて天子の地位を脅かす危険な存在となってしまいます。
そんな時、天子に絶対的に服従していなければ生きていくことができない「宦官」は、唯一天子の味方になる存在だったのです。