桓帝かんていの絶大な信頼を得た宦官かんがんたちによって起こされた清流派の粛清「第一次党錮とうこの禁」の、その後を見ていきましょう。

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霊帝(れいてい)の即位

霊帝の即位

桓帝(かんてい)の死


タカオタカオ

前回は「第一次党錮とうこの禁」で、宦官かんがんたちに反対する勢力が粛清されたところまででしたよね。

王先生王先生

そうですね。
ですがそれから間もなく、なんと桓帝かんていが亡くなってしまったんです。168年、37歳のことでした。

タカオタカオ

後継者は?桓帝かんていに子供はいたんですか?

王先生王先生

残念ながら桓帝かんていには男子がいなかったので、桓帝かんてい皇后こうごう皇太后こうたいごうとして政治を行うことになります。

タカオタカオ

またか…。

マリコマリコ

じゃあ、皇帝を後ろ盾として権力を得ていた宦官かんがんたちはどうなるの?

タカオタカオ

これはまた一波乱ありそうだね!

宦官かんがんたちの協力によって外戚・梁冀りょうきの排斥に成功した桓帝かんていですが、異民族の侵入や宦官かんがんたちが賄賂を横行させたことによる各地の反乱の鎮圧に終始することになり、後漢の国庫を空にするほどの出費をよぎなくされました。

このことによって、後漢の支配力の低下がより一層進んだと言えるでしょう。

皇太后・竇妙(とうみょう)


マリコマリコ

今までの流れだと政治の実権が皇太后こうたいごうに移ると、宦官かんがんが力を失って外戚が権力を握ることになるんですよね。

タカオタカオ

あれ?たしか皇后こうごう梁女瑩りょうじょえいは亡くなっていましたよね。
誰が皇太后こうたいごうになるんだ?

王先生王先生

梁女瑩りょうじょえいの死後は、鄧猛女とうもうじょという女性が皇后こうごうに立てられたのですが、貴人きじん郭氏かくし度々たびたび揉め事を起こしたために廃位され、竇妙とうみょうという女性が桓帝かんてい皇后こうごうになっていました。

マリコマリコ

竇妙とうみょうさんは「棚からぼた餅」ですね(笑)

王先生王先生

実はそうとも言えないんですよ。

桓帝かんてい采女さいじょ*1田聖でんせい皇后こうごうに立てたかったのですが、田聖でんせい卑賤ひせんの出自であったことから太尉たいい陳蕃ちんはんに反対され、貴人きじん竇妙とうみょう皇后こうごうに選ばれた経緯があります。

そのため竇皇后とうこうごう竇妙とうみょう)は桓帝かんていに相手にされず、孤独な生活を送っていました。

脚注

*1 後漢当時の妃嬪(ひひん・天子の側室)には、貴人、美人、宮人、采女の4つの序列があり、貴人が最も位が高く采女が最も位が低かった。日本における天皇や皇后の身の回りの世話を行う女官である采女の場合は(うねめ)と読む。


王先生王先生

その恨みもあってか、桓帝かんていが亡くなって皇太后こうたいごうとなった竇妙とうみょうは、桓帝かんていの棺の前で田聖でんせいを殺し、他の貴人きじんたちも皆殺しにしようとしたと言われています。

タカオタカオ

女の恨みこわっ…

マリコマリコ

なんでこっち見るのよ!

霊帝(れいてい)の即位


王先生王先生

竇妙とうみょう皇太后こうたいごうになると、父親である竇武とうぶと次の天子を誰にするかを話し合い、第3代皇帝・章帝しょうていの玄孫である劉宏りゅうこうが選ばれました。この人が、第12代皇帝・霊帝れいていです。


後漢第3代皇帝・章帝と第12代皇帝・霊帝の関係

後漢第3代皇帝・章帝しょうていと第12代皇帝・霊帝れいていの関係


王先生王先生

竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)は、12歳の劉宏りゅうこうを天子に迎えると、城門校尉じょうもんこういであった父親の竇武とうぶ大将軍だいしょうぐんに、当時無官であった陳蕃ちんはん太傅たいふに任命しました。

タカオタカオ

12歳…。また子供の後継者を選んだのか。

マリコマリコ

陳蕃ちんはんさんが反対したから皇后こうごうになれたんですもんね!
2人はどれくらい偉くなったんですか?

王先生王先生

城門校尉じょうもんこうい秩石ちっせきは比二千石、それが武官の最高位である大将軍だいしょうぐんになりました。太傅たいふは文官の最高位である三公のさらに上位にあたり、天子の教育・指導をする名誉職のような官職です。

タカオタカオ

大将軍は武官の最高位、太傅たいふは文官の最高位。その2つを父親と信頼できる人物で固めたのか。次は宦官かんがんの粛清だな。


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第二次党錮の禁(とうこのきん)

第二次党錮の禁

宦官粛清計画


王先生王先生

タカオくんの言う通り、竇武とうぶ陳蕃ちんはんが次に考えるのは、朝廷にはびこる宦官かんがんたちの粛清です。

タカオタカオ

でも結局自分たちの地位を守るためですよね。後漢の民にしてみれば、どっちでも変わらないんじゃないかな。

王先生王先生

ところが、一概にそうとも言えませんよ。

後漢書ごかんじょ竇武伝とうぶでんによると竇武とうぶは、


  • 広く名士を招いて優秀な人材を登用した。
  • 賄賂の授受をしなかった。
  • 妻子も質素な生活をしていた。
  • 民が飢えると自分の財産を分け与えた。
  • 兄をいさめて贅沢をやめさせた。

など、清廉潔白な人物だと思える記述が多くあります。竇武とうぶの官位が高くなかったのは、「宦官かんがんを重用する桓帝かんていと対立したから」と考えることもできます。


また、後漢書ごかんじょ陳蕃伝ちんはんでんによると陳蕃ちんはんは、


  • 第一次党錮とうこの禁で罰せられた李膺りようと交流があった。
  • 国政を私物化する梁冀りょうき招聘しょうへいを断った。
  • 桓帝かんていを5回もいさめた。

など、私利私欲なく、不器用なほど小さな不正も許さず誰に対してもおそれずに意見したので、官職に就いても度々たびたび左遷させん・解任されています。

竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)によって太傅たいふに取り立てられる前に無官であったのも、桓帝かんていに煙たがられて太尉たいいを解任されたためでした。


マリコマリコ

良い人たちですね。
今回は断然、竇武とうぶさんと陳蕃ちんはんさんを応援しますよっ!

王先生王先生

まず、陳蕃ちんはんが「中常侍ちゅうじょうじ曹節そうせつ王甫おうほらは桓帝かんていの元で万民を苦しめた。誅殺すべきだ」と竇武とうぶに持ちかけます。

タカオタカオ

宦官かんがんはズル賢いからな。慎重にやらないと!

王先生王先生

竇武とうぶはこれを受けて、李膺りようら「第一次党錮とうこの禁」で罰せられた士大夫たちを登用して味方を増やすと、中常侍(宦官)の管覇かんは蘇康そこうの罪をあばいて処刑しました。

タカオタカオ

やるなあ、竇武とうぶ

王先生王先生

ですが、1人2人除いたところであまり意味はなく、逆に宦官かんがんの恨みを買うだけですよね。

ですが、宦官かんがん勢力を一掃するためには竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)の許可が必要です。

曹節そうせつ王甫おうほ侯覽こうらん鄭颯ていりつ霊帝れいていの乳母の趙夫人ちょうふじんは、私腹を肥やして天下を乱している。彼らを除くべし!」

竇武とうぶ陳蕃ちんはんは、竇太后とうたいごう)(竇妙とうみょう)(竇妙とうみょう竇妙とうみょう)に宦官かんがん勢力の一掃計画を上奏しますが、

宦官かんがんは初代皇帝・光武帝こうぶていのときから決められた制度である。罪ある者を罰すれば良いのであって、宦官をすべて殺す必要はない

と聞き入れません。

竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)に反対されたことで、竇武とうぶ陳蕃ちんはん宦官かんがんの粛清を躊躇ちゅうちょしてしまいます。


本来の宦官かんがんの存在意義は、天子や皇后こうごう皇太后こうたいごうの身の回りの世話をすることです。

この頃の皇族は、1人では着替えることもできないほど宦官かんがんに頼り切っていましたので、宦官かんがんを一掃することなど考えられないと思ったのかもしれません。

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後漢の宦官がなぜ権力を得ることができたのか。宦官の正体とは

宦官粛清計画の露見


王先生王先生

残念ながら、竇武とうぶ陳蕃ちんはん竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)の説得に手間取っている間に、宦官かんがんに計画が露見してしまいます。

マリコマリコ

ええ〜っ!なんで!?

王先生王先生

宦官かんがんの専任である中常侍ちゅうじょうじは、天子と臣下の連絡役でもあります。つまり竇武とうぶ陳蕃ちんはんの上奏文は、竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)に届く前に宦官かんがんの手に渡るわけです。

タカオタカオ

馬鹿正直に宦官かんがんに上奏文を渡したのか!
竇武とうぶ陳蕃ちんはん、なにやってんのっ!

マリコマリコ

2人の真面目さが裏目に出ちゃいましたね。

王先生王先生

竇武とうぶ陳蕃ちんはんらの計画を知った宦官かんがんたちは迅速に行動を起こします。

168年9月、竇武とうぶの上奏文を盗み見た宦官かんがん硃瑀しゅうは、曹節そうせつ王甫おうほをはじめとする宦官かんがん17名を呼び集め、竇武とうぶ陳蕃ちんはんを殺す相談をしました。

曹節そうせつはまず、霊帝れいていの乳母の趙夫人ちょうふじんに命じて(敵の手に渡らないように)霊帝れいていを幽閉すると、尚書しょうしょ*2を脅して、

陳蕃ちんはん竇武とうぶは、竇太后とうたいごう霊帝れいていを廃位する上奏をした。謀反人を討て!」

という偽のみことのりを書かせました。

同時に鄭颯ていりつ竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)の印綬を取り上げて無力化し、王甫おうほは軍を率いて城門や街道を封鎖しました。

脚注

*2 詔を発給する官職

竇武・陳蕃の最期


王先生王先生

宦官かんがんたちのこの動きを知った竇武とうぶは、急いで軍勢を整えて宦官かんがんたちと対峙します。

タカオタカオ

いくさになれば、宦官かんがんなんて弱いでしょ。やってまえ!

宦官かんがんたちは竇武とうぶの兵に天子のみことのりを示し、

竇武とうぶは天子に対する謀反人である!お前達は本来天子を守る兵であるのに、なぜ竇武とうぶに従うのか!降伏するならば許し、恩賞を与えよう」

と叫びました。

天子の権威をおそれる兵卒たちは、この言葉を聞いてすべて宦官かんがんに降伏してしまったのです。


王先生王先生

観念した竇武とうぶは自害。陳蕃ちんはんをはじめ、竇武とうぶ陳蕃ちんはんに味方した者達は全員捕らえられて、一族みな殺しにされてしまいました。これを「第二次党錮とうこの禁」と言います。

タカオタカオ

天子のみことのりの威力は絶大だな。やっぱりさっさと行動を起こすべきだったんだよ。

マリコマリコ

ええ〜っ!
せっかく良い人たちが出てきたのに、負けちゃったの!?

タカオタカオ

竇武とうぶ陳蕃ちんはんも、自分たちが権力を握ったらどうなるか分からないけどな。

王先生王先生

タカオくんはドライですね(笑)

豆知識

竇武とうぶには「第二次党錮とうこの禁」の当時、2歳の孫がいました。名前を竇輔とうほと言います。竇輔とうほ胡騰ことう張敞ちょうしょうという人物に助けられ、荊州けいしゅうの南部まで逃げのびることができました。

竇輔とうほ胡騰ことうの子供として育てられましたが、桂陽けいよう孝廉こうれんに合格すると、竇姓に戻して劉表りゅうひょうに仕えます。劉表りゅうひょうの死後は曹操そうそうに仕え、曹操そうそう馬超ばちょうが戦った「渭水いすいの戦い」で流れ矢を受けて戦死したという記録があります。

第二次党錮の禁の後日談


王先生王先生

反逆者竇武とうぶの娘である竇太后とうたいごう竇妙とうみょう)は、命までは取られなかったものの幽閉され、霊帝れいていの実母である董氏とうしが代わって皇太后こうたいごうの権力を得ることになりました。

マリコマリコ

竇武とうぶ陳蕃ちんはんが宦官を殺そうとしてたのを止めてたのに…

王先生王先生

そればかりか、172年に竇妙とうみょうが幽閉先で亡くなると、宦官かんがんたちは彼女の死体を市場にさらして恨みを晴らしました。

竇妙とうみょうの死からほどなくして、宮門の柱に、

「天下大乱、曹節そうせつ王甫おうほ太后たいごうを監禁して殺し、常侍の侯覽こうらんは党人を数多く殺した。公卿こうけいは皆仕事をせず、忠言する者はいない」

という落書きが見つかります。

曹節そうせつたちは司隷校尉しれいこうい*3劉猛りゅうもうに捜査を命じましたが、犯人に共感する劉猛りゅうもうは本気で捜査しようとしなかったために左遷させんされ、捜査を引き継いだ御史中丞ぎょしちゅうじょう*4段熲だんけいが1,000人余りの太学生*5を逮捕しました。


タカオタカオ

1,000人て…。
落書きを口実に反対勢力の力を削いだのか。本当に宦官かんがんは抜け目ないな。

マリコマリコ

その知恵を正しいことに使えば、後漢の民も豊かになれるのに。

脚注

*3 首都近郊の治安および朝廷官吏(皇族を含む)の不法を取り締まる官職。

*4 官吏の監察・弾劾をする官職。

*5 首都に置かれた儒教を正統学問とする高等教育機関「太学」の学生。太学は「清流派」の拠点となっていた。


桓帝かんていの時代に権力を得た宦官かんがんたちは、桓帝かんていの死という最大の危機をも乗り切り、2度に渡る党錮とうこの禁」によって、反対勢力を完全に封じ込めることに成功します。

そのため、このような宦官かんがんの振る舞いを快く思わない士大夫たちは、中央政府に仕官しようとせず、地方に残った者が大勢いました。

後に独自の勢力を築くことになる曹操そうそう袁紹えんしょう孫堅そんけんなどの元に優秀な人材が集まったのは、この党錮とうこの禁のお陰であると言えるでしょう。



王先生王先生

次回は、霊帝れいていが成人した後の出来事についてお話しします。

次回

【004】十常侍に操られた霊帝の銅臭政治

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