正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(65)沛郡はいぐん桓氏かんし②[桓汎かんはん桓普かんふ桓焉かんえん桓良かんりょう桓衡かんこう桓麟かんりん桓鸞かんらん桓典かんてん桓彬かんひん桓曄かんよう桓厳かんげん桓礹かんげん桓儼かんげん)]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

沛郡桓氏系図

沛郡桓氏系図

沛郡はいぐん桓氏かんし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

沛郡はいぐん桓氏かんし譙国しょうこく桓氏かんしについて

晋書しんじょ桓彝伝かんいでんには「後漢ごかん五更ごこう*1桓栄かんえいの9世の孫にあたる」とあり、沛郡はいぐん桓氏かんし譙国しょうこく桓氏かんししん桓温かんおん桓玄かんげんらの一族)は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝かんい桓郁かんいくの弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れわることを知る者のこと。続漢志ぞくかんしに「三老さんろう五更ごこうやしなう礼儀は、吉日に先んじて司徒しと太傅たいふ、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公さんこうの中から『徳行がある高齢者』をもちいて、三公さんこうから1名を三老さんろうとし、九卿きゅうけいから1名を五更ごこうとする」とあり、漢官儀かんかんぎには「三老さんろう五更ごこうはみな初婚の妻と息子と娘がすべてそなわっている者から選ぶ」とある。


この記事では沛郡はいぐん桓氏かんしの人物②、

についてまとめています。

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か(65)沛郡桓氏②

第3世代(桓汎・桓普・桓焉・桓良)

桓汎かんはん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓雍かんよう。祖父は桓栄かんえい

父・桓雍かんようは早くに亡くなった。

祖父・桓栄かんえいが亡くなると、叔父おじ桓郁かんいくは上書して桓栄かんえいの爵位を桓汎かんはんゆずろうとしたが、顕宗けんそう明帝めいてい)がそれを許さなかったため、桓郁かんいくはやむを得ず封爵ほうしゃくを受け、封地からの収入をすべて桓汎かんはんに与えた。


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桓普かんふ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓郁かんいく。弟に桓延かんえん桓焉かんえん桓俊かんしゅん桓鄷かんほう桓良かんりょう

父・桓郁かんいくの爵位(関内侯かんだいこう)を継ぎ、爵位を曾孫ひまごにまで伝えるに至ったが、曾孫ひまごの代でえた。


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桓焉かんえん叔元しゅくげん

生年不詳〜漢安かんあん2年(143年)、没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓郁かんいく。子に桓衡かんこう桓順かんじゅん。兄に桓普かんふ桓延かんえん。弟に桓俊かんしゅん桓鄷かんほう桓良かんりょう

若くして父・桓郁かんいくの功績によりろうに取り立てられた。経書けいしょに明るく、人情にあつく誠実な人柄で名声があった。

永初えいしょ元年(107年)、宮中に入って安帝あんてい経書けいしょを教授し、3度昇進して侍中じちゅう步兵校尉ほへいこういとなった。

永寧えいねい年間(120年〜121年)に順帝じゅんてい皇太子こうたいしに立てられると太子少傅たいししょうふとなり、1ヶ月余りで太子太傅たいしたいふ(原文:太傅たいふ)に昇進した。

母のに服すために辞職を願い出たが、大夫たいふの身分のままでに服すことを許された。翌年、みことのりにより使者をつかわされて牛と酒を下賜かしされ、が明けるとすぐ光禄大夫こうろくたいふを拝命し、その後太常たいじょうに昇進した。

安帝あんてい皇太子こうたいし順帝じゅんてい)を廃して済陰王せいいんおうとした時、桓焉かんえん太僕たいぼく来歴らいれき廷尉ていい張皓ちょうこう*2と共にこれをいさめたが、聞き入れられなかった。


順帝じゅんていが即位すると太傅たいふを拝命し、太尉たいい朱寵しゅちょうと共に録尚書事ろくしょうしょじとなった。

桓焉かんえんはまた禁中に入って(順帝じゅんていに)経学けいがくを教授し、順帝じゅんていひまな時に目通りして「三公さんこう尚書しょうしょを国政に参画させるように」と建言し、順帝じゅんていはこれに従った*3

以前、桓焉かんえんが「皇太子こうたいし順帝じゅんてい)を廃するべきではない」という正論を守ったことから陽平侯ようへいこうに封ぜられたが、桓焉かんえん固辞こじして受けなかった。

執務すること3年、禁錮きんこされた者を辟召へきしょうして属吏としたことにして罷免ひめんされたが、のちにまた光禄大夫こうろくたいふを拝命した。


陽嘉ようか2年(133年)、来歴らいれきに代わって大鴻臚だいこうろとなり、数日で太常たいじょうに昇進した。

永和えいわ5年(140年)、王龔おうきょうに代わって太尉たいいとなった。

漢安かんあん元年(142年)、日食によって罷免ひめんされ、翌年、家で亡くなった。


桓焉かんえんの弟子で学業を伝える者は数百人おり、とりわけ黃瓊こうけい楊賜ようしが最も高い地位(顕貴けんき)に至った。

脚注

*2蜀書しょくしょ張翼伝ちょうよくでんでは張浩ちょうこうあざな叔明しゅくめい)。

*3原文:焉復入授經禁中,因讌見,建言宜引三公、尚書入省事,〈省猶視也。〉帝從之。


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桓良かんりょう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓郁かんいく。子に桓鸞かんらん。兄に桓普かんふ桓延かんえん桓焉かんえん桓俊かんしゅん桓鄷かんほう

官は龍舒侯りゅうじょこうしょうに至った。


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第4世代(桓衡・桓麟・桓鸞)

桓衡かんこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓焉かんえん

早くに亡くなった。


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桓麟かんりん元鳳げんほう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓鄷かんほう。子に桓彬かんひん*4

若い頃から才能に恵まれていた。桓帝かんてい建和けんわ元年(147年)〜永康えいこう2年(168年)]の初めに議郎ぎろうとなり、禁中に入って侍講じこうした。かたくなに正道を守って左右の近臣にさからい、禁中を出て豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん県令けんれいとなったが、病気で罷免ひめんされた。

母の死に当たり、桓麟かんりんえられず、が明ける前に41歳で亡くなった。


桓麟かんりんあらわしたるいさんせつしょは全部で21篇ある。摯虞しぐ文章志ぶんしょうしに「桓麟かんりんの文で現存するものは18篇。・9しゅるい・7しゅ七説しちせつ・1しゅ沛相郭府君書はいしょうかくふくんしょ・1しゅがある」とある。

〈案摯虞《文章志》,麟文見在者十八篇,有碑九首,誄七首,七說一首,沛相郭府君書一首。〉

脚注

*4後漢書ごかんじょ桓彬伝かんひんでんには「桓彬かんひん桓焉かんえんの兄の孫」とあるが、李賢りけんが注に引く華嶠かきょう後漢書ごかんじょの「桓鄷かんほう桓麟かんりんを生んだ」に従った。


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桓鸞かんらん始春ししゅん

生年不詳〜中平ちゅうへい元年(184年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓良かんりょう。兄に桓洪かんこう桓誕かんたん

桓鸞かんらんは生まれながらにして節操が正しく、幼い頃から知られていた。学問は六経りくけいを総覧し、財貨を身寄りのない者にゆずり、物品を友人に分け与えた。賢人を待つことに大きく財貨をもちい、自分をやしなうことには少なく、常に粗末な布の服を着て粗食をし、それ以上の豊かさを求めなかった。

世が乱れ、州郡の長官たちの多くは地位に相応ふさわしい人物ではなかったので、恥じて仕官しなかった。


桓鸞かんらんが40余歳の頃、当時の沛郡太守はいぐんたいしゅ向苗しょうびょうにはすぐれた治績があった。桓鸞かんらん向苗しょうびょう孝廉こうれんに推挙され、青州せいしゅう北海国ほっかいこく膠東県こうとうけん県令けんれいとなった。

桓鸞かんらんはこの時初めて官職にいたが、向苗しょうびょうが亡くなるとすぐさま職を去って向苗しょうびょうはしり、3年ってが明けると帰郷した。淮水わいすい汝水じょすいの周辺ではこの桓鸞かんらんの義が高く評価された。

のち兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん己吾県きごけん県長けんちょう司隷しれい河内郡かだいぐん汲県きゅうけん県令けんれいとなり、非常にすぐれた治績があった。三公さんこうそろって彼を推薦し、桓鸞かんらんはまた徵辟されて議郎ぎろうを拝命した。

桓鸞かんらんは「賢才を推挙し、役人の任用を的確に行い、びへつらう者をしりぞけ、苑囿えんゆう(自然庭園)を縮小し、役賦えきふを減らすべし」という5事を上陳じょうちんしたが、宦官かんがんに逆らったためかえりみられることはなく、その後病気を理由に罷免ひめんされた。

中平ちゅうへい元年(184年)、77歳にして家で亡くなった。


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第5世代(桓典・桓彬・桓曄)

桓典かんてん公雅こうが

生年不詳〜建安けんあん6年(201年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓順かんじゅん

桓典かんてんは12歳で父母を失い、実母に仕えるように叔母おばに仕えた。その家業を伝え、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん尚書しょうしょを教授し、数百人の門下生がいた。

孝廉こうれんに推挙されてろうとなったが、ほどなくして沛国相はいこくしょう王吉おうきつが罪を得て誅殺ちゅうさつされた。王吉おうきつの知人や親戚も、えてこれに関わろうとしなかったが、桓典かんてんだけは官職をてて駆けつけると、王吉おうきつ遺体いたいひつぎおさめて(王吉おうきつの)故郷にほうむった。に服すこと3年、土をかついではかをつくり、王吉おうきつのために祠堂しどうを立て、礼を尽くして去った。


その後、司徒しと袁隗えんかいの府に辟召へきしょうされて高第こうていに推挙され、侍御史じぎょしを拝命した。

当時は宦官かんがんが実権をにぎっていたが、桓典かんてんは正道を守って宦官かんがんに遠慮することはなかった。

桓典かんてんは常にあしげの馬に乗っており、京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]ではおそはばかられて、「ひとず止まれ、あしげ馬の御史ぎょしけろ(行行且止,避騘馬御史)」という言葉ができた。


司隷しれい河南尹かなんいん滎陽県けいようけん黄巾賊こうきんぞく蜂起ほうきすると、桓典かんてんは使者を奉じて軍を統率した(典奉使督軍)が、黄巾賊こうきんぞくを破って帰還しても、宦官かんがんに逆らったため桓典かんてんに対する褒賞ほうしょうはなかった。

御史ぎょしに在任して7年になるが転任させられず、のちろうとなった。


中平ちゅうへい6年(189年)、霊帝れいてい崩御ほうぎょし、大将軍だいしょうぐん何進かしんが政権をにぎると桓典かんてんは(宦官かんがん誅殺ちゅうさつの)謀議ぼうぎに参与し、平津都尉へいしんとい鉤盾令こうじゅんれい羽林中郎将うりんちゅうろうしょうと3たび昇進を重ねた。

献帝けんていが即位すると、三公さんこうは「桓典かんてんは以前、何進かしんと共に宦官かんがん誅殺ちゅうさつの計画を立てました。失敗に終わったとはいえその忠義は明らかです」と上奏した。これによりみことのりが下って、家族の1人がろうを拝命し、銭20万を下賜かしされた。


献帝けんてい遷都せんとに従って長安ちょうあんに入り(從西入關)、御史中丞ぎょしちゅうじょうを拝命して関内侯かんだいこうの爵位をたまわった。

車駕しゃが献帝けんてい)が豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに都を置くと光禄勲こうろくくんに昇進したが、建安けんあん6年(201年)に在官のまま亡くなった。


桓典かんてんは固く節操を守り、人から物品を受け取らず、門下生や故吏こり*5からの贈り物は、1つとして受け取ることはなかった。

脚注

*5辟召へきしょうによって取り立てられた者のこと。故吏こりは(取り立ててくれた)上司の官職が高ければ高いほど出世が約束され、またその上司が罪を受ければそれに連座するなど、非常に強い結びつきを持っていた。


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桓彬かんひん彥林げんりん

陽嘉ようか2年(133年)〜光和こうわ元年(178年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓麟かんりん*5

桓彬かんひんは若い頃から蔡邕さいようと共に名声があった。

初め孝廉こうれんに推挙されて尚書郎しょうしょろうを拝命したが、この時、中常侍ちゅうじょうじ曹節そうせつ女壻むすめむこである馮方ふうほうもまたろうとなった。桓彬かんひん尚書左丞しょうしょさじょう劉歆りゅうきん尚書右丞しょうしょゆうじょう杜希ときらと好みを同じくして親しく交際したが、志操をつらぬいて、いまだかつて馮方ふうほうと酒食の会を同席したことはなかった。

馮方ふうほうはこれを深くうらみ、ついに桓彬かんひんらを「酒党」と章言した。このことは尚書令しょうしょれい劉猛りゅうもうに下されたが、劉猛りゅうもう桓彬かんひんらと親しかったので(猛雅善彬等)、この件を摘発てきはつしなかった。

そのことを知った曹節そうせつは大いに怒り、劉猛りゅうもうを「阿党あとう(権力におもねる者たち)」と弾劾だんがいする奏上をし、詔獄しょうごくに下すことを求めた。これに朝廷の人々はみなきもを冷やしたが、劉猛りゅうもうは平然としていた。劉猛りゅうもうは10日って釈放されたが、免官めんかん禁錮きんこ(官職を解いて出仕を禁止する刑罰)となった。

桓彬かんひんもついに廃され、光和こうわ元年(178年)に家で亡くなった。享年きょうねん46歳。儒者じゅしゃたちの中に彼の死をいたまない者はいなかった。


桓彬かんひんあらわした「七説しちせつ」及び書は全部で3篇。蔡邕さいようらは共にその志を論評し、桓彬かんひんの人よりすぐれている点として

  • 早成で若くして一際ひときわ高く物事をっていた。
  • 学問にすぐれ文章が美しく、それぞれに精通している。
  • 極めて気位が高く、仕官しても軽々しく俸禄ほうろくを求めない。
  • 高位をして低い官職にこうとするのは(辭隆從窊)、高潔な節操である。

の4つをげ、共にててこれをたたえた。

脚注

*5後漢書ごかんじょ桓彬伝かんひんでんには「桓彬かんひん桓焉かんえんの兄の孫、父は桓麟かんりん」とあるが、李賢りけんが注に引く華嶠かきょう後漢書ごかんじょの「桓鄷かんほう桓麟かんりんを生んだ」に従い、桓焉かんえんの弟(桓鄷かんほう)の孫とした。


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桓曄かんよう文林ぶんりん桓厳かんげん桓礹かんげん桓儼かんげん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・沛郡はいぐん龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓鸞かんらん

桓曄かんようは一名をげん*6と言い、非常にすぐれたこころざしを持っていた。おば司空しくう楊賜ようし夫人ふじんとなった。

父・桓鸞かんらんが亡くなった時、おばは実家に帰って哀弔あいちょうおもむいたが、まさに到着しようとする時、おば伝舎でんしゃとどまって、従者を飾りととのえたあとに入った。桓曄かんようは心の中でこれをそしり、おば弔問ちょうもんに来ても最後まで言葉をわさず、ただ号泣ごうきゅう号哭ごうこく)するだけだった。また楊賜ようしは、属吏を派遣して桓鸞かんらんの霊をまつらせ、県から祠具しぐ祭祀さいしの道具)を徴発したが、桓曄かんようは拒否して受けなかった。

その後も桓曄かんようは、京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に行くことがあっても楊氏ようし楊賜ようし)のいえに泊まることはなく、桓曄かんようかたくなに正道を守る様子はこのようであった。賓客ひんかくや従者もみなその志行をうやまい、他人から1度の食事さえも受けることはなかった。

仕官して郡の功曹こうそうとなった。のち孝廉こうれん有道ゆうどう方正ほうせい茂才もさいげられ、三公さんこうはみな桓曄かんよう辟召まねいたが、いずれも応じなかった。


初平しょへい年間(190年〜193年)に天下が乱れると、桓曄かんよう揚州ようしゅう避難ひなんした。

桓曄かんよう揚州ようしゅう呉郡ごぐんに到着すると、揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようは食糧や衣服など不足している物を賑恤しんごう(支給)したが、そのすべてを受け取らなかった。

のちに東に向かい、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんにに行き、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけん出身で元魯国相ろこくしょう鍾離意しょうりいいえに住みとどまった。会稽太守かいけいたいしゅ王朗おうろうは、食糧・布帛ふはく・牛羊を贈り届けたが、桓曄かんようは1つとして受け取らなかった。鍾離意しょうりいいえを去る時になって、桓曄かんよう屋内おくないにあったこまかな物まで書き付けて主人に渡したが、わずかな物さえもれていなかった。

その後、桓曄かんようは住居を揚州従事ようしゅうじゅうじ屈豫くつよの室中に移した。その中庭にはみかんひとかぶあり、実が熟す頃になると、桓曄かんようは竹での四面にかこいを作り、風が吹いて2つの実が落ちると、なわつないでえだに結びつけた。桓曄かんようは危機に直面するごとにその志をより一層強固にし、賓客ひんかくや従者はみなその行いをつつしんだ。

のち桓曄かんようは、さらに海路で交阯郡こうしぐんに身を寄せた。するとえつの人々は彼の節義に感化され、閭里りょり(村里)に至るまで訴訟そしょうがなくなった。

その後、悪人(凶人)に誣告ぶこくされ、合浦郡がっぽぐんの獄中で亡くなった。

脚注

*6東観漢記とうかんかんきでは桓礹かんげんちくま学芸がくげい文庫ぶんこ三国志さんごくしの訳では「桓文林かんぶんりん桓儼かんげん)」と「げん」の字をもちいて補足している。(原文は「桓文林」のみ)


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【三国志人物伝】総索引