正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(70)譙国(しょうこく)桓氏(かんし)⑦(桓玄(かんげん))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

譙国桓氏系図

譙国(しょうこく)桓氏(かんし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁(かんかつ)の子の兄弟の順について

『晋書(しんじょ)』桓豁(かんかつでん)には、

「桓豁(かんかつ)には20人の子がいたが、桓豁(かんかつ)は苻堅(ふけん)の国中で「堅(かた)い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行(はや)っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用(もち)いた。中でも石虔(せきけん)、石秀(せきしゅう)、石民(せきみん)、石生(せきせい)、石綏(せきすい)、石康(せきこう)らの名が知られている」

とあり、また『晋書(しんじょ)』桓玄伝(かんげんでん)には、

「桓石康(かんせきこう)は桓豁(かんかつ)の次子、桓権(かんけん)は桓石康(かんせきこう)の兄」

とあります。『晋書(しんじょ)』桓豁伝(かんかつでん)に桓権(かんけん)の名前はありませんが、桓権(かんけん)が長子で、次子の桓石康(かんせきこう)以降、名前に「石」の字を用(もち)いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国(しょうこく)桓氏(かんし)と沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)について

『晋書(しんじょ)』桓彝伝(かんいでん)には「後漢(ごかん)の五更(ごこう)*1・桓栄(かんえい)の9世の孫にあたる」とあり、譙国(しょうこく)桓氏(かんし)と沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝(かんい)を桓郁(かんいく)の弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れ替(か)わることを知る者のこと。『続漢志(ぞくかんし)』に「三老(さんろう)・五更(ごこう)を養(やしな)う礼儀は、吉日に先んじて司徒(しと)か太傅(たいふ)、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公(さんこう)の中から『徳行がある高齢者』を用(もち)いて、三公(さんこう)から1名を三老(さんろう)とし、九卿(きゅうけい)から1名を五更(ごこう)とする」とあり、『漢官儀(かんかんぎ)』には「三老(さんろう)・五更(ごこう)はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備(そな)わっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国(しょうこく)桓氏(かんし)の人物⑦、

についてまとめています。

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か(70)譙国桓氏⑦

第4世代(桓玄)

桓玄(かんげん)・敬道(けいどう)

東晋(とうしん)の太和(たいわ)4年(369年)〜楚(そ)(桓楚(かんそ))の永始(えいし)2年(404年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・譙国(しょうこく)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓温(かんおん)。子に桓昇(かんしょう)(桓升(かんしょう))。兄は桓熙(かんき)、桓済(かんせい)、桓歆(かんきん)、桓禕(かんい)、桓偉(かんい)。

出生秘話

桓玄(かんげん)は一名を霊宝(れいほう)と言い、大司馬(だいしば)・桓温(かんおん)の孽子(げっし)(妾(めかけ)の子)である。

桓玄(かんげん)の母・馬氏(ばし)が同輩(どうはい)の女性と座っていた時のこと。月夜の日に流星が銅製の盆(ぼん)の水の中に墜(お)ち、突然、2寸(約4.9cm)の明るく澄(す)んだ火珠(ひのたま)のようなものが現れた。みなで競ってそれを瓢(ひさご)ですくい、馬氏(ばし)がそれを呑(の)み込んだところ、違和感を感じてついに妊娠した。

こうして生まれたのが桓玄(かんげん)であり、桓玄(かんげん)が生まれた時に光が差して部屋の中を明るく照(て)らしたことから、占者(せんしゃ)はこれを珍(めずら)しいことであると言い、小名(しょうみょう)を「霊宝(れいほう)」と名づけた。

乳母(うば)(妳媼)が桓玄(かんげん)を抱(だ)いて訪(たず)ねてくると、何をしていてもすぐに飛んで来るほど、父の桓温(かんおん)は殊(こと)の外(ほか)桓玄(かんげん)を溺愛(できあい)した。

仕官

桓温(かんおん)は臨終(りんじゅう)に際して「桓玄(かんげん)に自分の後を継がせる」ように命じ、南郡公(なんぐんこう)の爵位を継がせた。

桓温(かんおん)の喪(も)が明けた桓玄(かんげん)が7歲の時のこと。府州文武(ふしゅうぶんぶ)(揚州刺史(ようしゅうしし)?)を辞(じ)した叔父(おじ)の桓沖(かんちゅう)は、桓玄(かんげん)の頭を撫(な)でて「私はあなたの家の故吏(こり)*2だよ」と言った。その言葉に桓玄(かんげん)は涙を流し、居並ぶ者たちはみな驚いた。

成長した桓玄(かんげん)の容姿は殊(こと)に立派で眉目秀麗(びもくしゅうれい)、芸術に通じ、文才もあった。彼には才能があり、勇ましく強いことを自(みずか)らの拠(よ)り所としていたが、人々はみな憚(はばか)り、また朝廷では疑(うたが)って桓玄(かんげん)を用(もち)いなかった。

23歲の時、桓玄(かんげん)は初めて太子洗馬(たいしせんば)を拝命したが、当時、「桓温(かんおん)には簒奪(さんだつ)の意志があった」と噂(うわさ)されており、桓玄(かんげん)の兄たちはみな閑職(かんしょく)(素官)に就(つ)いていた。

脚注

*2辟召(へきしょう)によって取り立てられた者のこと。上司と非常に強い結びつきを持った。

荊楚に隠棲する

東晋(とうしん)の太元(たいげん)年間(376年〜396年)の末(すえ)、地方に出されて義興太守(ぎこうたいしゅ)となった桓玄(かんげん)は落ちぶれて鬱(うつ)々(うつ)とし、「父は九州の伯(はく)であったのに、子の私は五湖(ごこ)の長(ちょう)でしかないのかっ!」と嘆(なげ)き、官職を棄(す)てて国に帰った。

国家に対して大きな功績があった一門にも拘(かか)わらず、世間から謗(そし)られていることから、桓玄(かんげん)は父・桓温(かんおん)の国家に対する功績を挙(あ)げ、待遇の改善を求める上疏(じょうそ)をしたが、返答はなかった。

荊楚(けいそ)に滞在(たいざい)すること数年、桓玄(かんげん)は何事もなくのんびりと心のままに過ごしていたが、荊州刺史(けいしゅうしし)の殷仲堪(いんちゅうかん)は桓玄(かんげん)を大変敬(うやま)って遠慮していた。

王恭の挙兵
王国宝(おうこくほう)討伐

東晋(とうしん)の隆安(りゅうあん)元年(397年)、安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))を擁立(ようりつ)した会稽王(かいけいおう)・司馬道子(しばどうし)に重用されていた中書令(ちゅうしょれい)の王国宝(おうこくほう)*3が、地方軍(方鎮)の削減を謀(はか)ろうとしていることを知った王恭(おうきょう)は、国を憂(うれ)える発言をしていた。

秘かに王恭(おうきょう)の功績を買っていた桓玄(かんげん)は、殷仲堪(いんちゅうかん)に「王恭(おうきょう)を盟主に推戴(すいたい)して王国宝(おうこくほう)を討つこと」を持ちかけた。初め殷仲堪(いんちゅうかん)は疑っていたが、王恭(おうきょう)から殷仲堪(いんちゅうかん)と桓玄(かんげん)を招(まね)いて朝廷を匡正(きょうせい)する旨(むね)の手紙が届くと、桓玄(かんげん)と共にこれに参加した。

この挙兵に驚いた司馬道子(しばどうし)が王国宝(おうこくほう)を廷尉(ていい)に下して処刑すると、王恭(おうきょう)らは兵を収(おさ)めた。


王恭(おうきょう)の挙兵後、桓玄(かんげん)が広州(こうしゅう)に赴任することを求めると、司馬道子(しばどうし)は桓玄(かんげん)が荊楚(けいそ)にいることを不都合に思っていたので、これを認めた。

脚注

*3王国宝(おうこくほう)の従妹(いとこ)が司馬道子(しばどうし)の妃(きさき)であった。

王愉(おうゆ)・司馬尚之(しばしょうし)兄弟討伐

隆安(りゅうあん)2年(398年)、桓玄(かんげん)を督(とく)交(こう)広(こう)二州(にしゅう)・建威将軍(けんいしょうぐん)・平越中郎将(へいえつちゅうろうしょう)・広州刺史(こうしゅうしし)・仮節(かせつ)とする詔(みことのり)が下されたが、桓玄(かんげん)は受命しても任地に赴(おもむ)かなかった。

この年、王恭(おうきょう)がまた豫州刺史(よしゅうしし)・左将軍(さしょうぐん)の庾楷(ゆかい)と共に、江州刺史(こうしゅうしし)・王愉(おうゆ)と譙王(しょうおう)・司馬尚之(しばしょうし)兄弟討伐の兵を起こすと、桓玄(かんげん)と殷仲堪(いんちゅうかん)は「王恭(おうきょう)は必ず打ち勝つだろう」と言い、殷仲堪(いんちゅうかん)は王恭(おうきょう)に呼応して桓玄(かんげん)に5千の兵を与え、龍驤将軍(りゅうじょうしょうぐん)・楊佺期(ようせんき)をつけて先鋒(せんぽう)とした。

軍が湓口(いつこう)に至ると、王愉(おうゆ)は臨川(りんせん)に逃走したが、桓玄(かんげん)は偏将軍(へんしょうぐん)を派遣してこれを追い、王愉(おうゆ)を捕らえた。

その後、桓玄(かんげん)と楊佺期(ようせんき)は石頭(せきとう)に至り、殷仲堪(いんちゅうかん)は蕪湖(ぶこ)に至ったが、王恭(おうきょう)の将・劉牢之(りゅうろうし)が背(そむ)いたため、庾楷(ゆかい)は敗れて桓玄(かんげん)の陣に逃亡し、王恭(おうきょう)は捕らえられ、健康(けんこう)に送られて斬られた。

朝廷匡正の盟主となる
盟主に推戴(すいたい)される

詔(みことのり)が下されて桓玄(かんげん)は江州刺史(こうしゅうしし)とされ、殷仲堪(いんちゅうかん)らもみな職を交換されたが、桓玄(かんげん)らは舟を返して西に還(かえ)り、尋陽(じんよう)に駐屯すると、共に盟約を結んで桓玄(かんげん)を盟主とした。

桓玄(かんげん)が上疏(じょうそ)して誅殺(ちゅうさつ)された王恭(おうきょう)の無実の罪の申し開きをし、司馬尚之(しばしょうし)・劉牢之(りゅうろうし)らを誅殺(ちゅうさつ)することを求めると、朝廷は深く恐れ憚(はばか)り、桓脩(かんしゅう)を罷免(ひめん)して殷仲堪(いんちゅうかん)を荊州刺史(けいしゅうしし)に復帰させることで和解しようとした。

桓玄(かんげん)への不信感

以前、桓玄(かんげん)が荊州(けいしゅう)で気ままに過ごしていた時、吏民は州牧(しゅうぼく)(殷仲堪(いんちゅうかん))よりも桓玄(かんげん)に遠慮していたので、殷仲堪(いんちゅうかん)の配下(親党)は桓玄(かんげん)を殺すように勧めたが、殷仲堪(いんちゅうかん)は聴き入れなかった。

尋陽(じんよう)においてその名声と地位により盟主に推戴(すいたい)された桓玄(かんげん)は、いよいよ自(みずか)らを誇(ほこ)るようになった。

また、楊佺期(ようせんき)は驕悍(きょうかん)(心が驕(おご)っていて荒々しいこと)な人物で、常に自(みずか)ら「江東(こうとう)で比類ない華胄(かちゅう)(名門)の継承者である」と言っていたが、桓玄(かんげん)が寒士(貧(まず)しい人)でありながら盟主となっていることをひどく憾(うら)み、壇所(だんしょ)で桓玄(かんげん)を襲おうとしたが、殷仲堪(いんちゅうかん)は楊佺期(ようせんき)兄弟が勇猛なことから、桓玄(かんげん)の次は自分が殺されることを恐れ、これを禁じた。

その後、詔(みことのり)を奉じて各(おの)々(おの)の任地(鎮)に還(かえ)ったが、桓玄(かんげん)は楊佺期(ようせんき)が秘かに自分を害しようとしていることを知り、夏口(かこう)に駐屯した。

朝廷の離間工作

隆安(りゅうあん)3年(399年)、桓玄(かんげん)は詔(みことのり)により都督(ととく)荊州(けいしゅう)四郡(よんぐん)を加えられ、兄の桓偉(かんい)は輔国将軍(ほこくしょうぐん)・南蛮校尉(なんばんこうい)となった。(桓偉(かんい)は楊佺期(ようせんき)の兄・楊広(ようこう)に代わって南蛮校尉(なんばんこうい)となったので、楊佺期(ようせんき)兄弟を怒らせた)

殷仲堪(いんちゅうかん)は桓玄(かんげん)が跋扈(ばっこ)していることを慮(おもんぱか)って楊佺期(ようせんき)と婚姻関係を結び、桓玄(かんげん)は殷仲堪(いんちゅうかん)と楊佺期(ようせんき)に隙(すき)があれば、これを襲って勢力を拡大したいと思っていた。

また、朝廷は彼らを仲違(なかたが)いさせるため、楊佺期(ようせんき)が督(とく)する4郡を桓玄(かんげん)に与えると、楊佺期(ようせんき)は激怒した。

その後、後秦(こうしん)の姚興(ようこう)が洛陽(らくよう)に侵攻すると、楊佺期(ようせんき)の建牙(けんが)(護衛部隊)は「洛陽(らくよう)を救う」ことを口実に、秘かに殷仲堪(いんちゅうかん)と共に桓玄(かんげん)を襲おうとしたが、殷仲堪(いんちゅうかん)は楊佺期(ようせんき)と結んではいたものの彼を疑って、従弟(じゅうてい)の殷遹(いんいつ)を北の境に駐屯させて楊佺期(ようせんき)を遮(さえぎ)らせた。

楊佺期(ようせんき)は独力で挙兵することはできず、また殷仲堪(いんちゅうかん)の本意を測(はか)りかねて出陣を取りやめた。

荊州・揚州の平定

その後荊州(けいしゅう)で洪水が起こり、殷仲堪(いんちゅうかん)は被災者に食糧を施(ほどこ)したため、倉庫は空になった。

桓玄(かんげん)はこれに乗じて攻撃を開始し、先に軍を派遣して巴陵(はりょう)を攻めさせた。巴陵(はりょう)は梁州刺史(りょうしゅうしし)・郭銓(かくせん)が守っていたが、夏口(かこう)を通過する時、桓玄(かんげん)は「朝廷は郭銓(かくせん)を我が先鋒(せんぽう)として遣(つか)わした。江夏(こうか)の兵を授(さずか)り、諸軍を督(とく)して並んで進むように」と宣言し、秘かに兄の桓偉(かんい)に内応するように知らせた。

桓偉(かんい)はどうしたら良いのか途方に暮れ、殷仲堪(いんちゅうかん)に助けを求ると、殷仲堪(いんちゅうかん)は桓偉(かんい)を人質に取って、桓玄(かんげん)に「非常に苦しい状態だ」と手紙を書くように命じた。すると桓玄(かんげん)は「殷仲堪(いんちゅうかん)は決断できない男だ。子供のように常に成功か失敗かを考えている。我が兄のことを心配する必要はない」と言った。

桓玄(かんげん)が巴陵(はりょう)に至ると、殷仲堪(いんちゅうかん)は軍を派遣してこれを防いだが、桓玄(かんげん)に敗れた。

桓玄(かんげん)は楊口(ようこう)に進むと、そこでまた殷仲堪(いんちゅうかん)の弟の子・殷道護(いんどうご)を破り、江陵(こうりょう)を去ること20里(約8.6km)、零口(れいこう)に至るまで勝利を重ね、殷仲堪(いんちゅうかん)は複数の道でこれを防いだ。

そこで、襄陵(じょうよう)から楊佺期(ようせんき)が自(みずか)らやって来て、兄・楊広(ようこう)と共に桓玄(かんげん)を攻撃すると、桓玄(かんげん)はその強さを恐れて馬頭(ばとう)に軍を退(ひ)いた。

楊佺期(ようせんき)らはこれを追撃したが苦戦し、楊佺期(ようせんき)は敗れて襄陵(じょうよう)に逃げ還(かえ)り、殷仲堪(いんちゅうかん)は酇城(さんじょう)に出奔(しゅっぽん)した。すると桓玄(かんげん)は攻勢に転じ、将軍(しょうぐん)の馮該(ふうがい)を派遣して楊佺期(ようせんき)を掃討させ、彼を捕らえた。楊広(ようこう)もまた捕らえられ、桓玄(かんげん)の元に送られて2人とも処刑された。

楊佺期(ようせんき)の死を聞いた殷仲堪(いんちゅうかん)は、数百人の将と共に後秦(こうしん)の姚興(ようこう)の元に逃亡したが、冠軍城(かんぐんじょう)に至ったところで馮該(ふうがい)に捕らえられ、桓玄(かんげん)の命令により自害した。


こうして荊州(けいしゅう)と雍州(ようしゅう)が平定されると、桓玄(かんげん)は上表して江(こう)・荊(けい)二州(にしゅう)を領することを求め、朝廷は詔(みことのり)を下して、桓玄(かんげん)を都督(ととく)荊(けい)司(し)雍(よう)秦(しん)梁(りょう)益(えき)寧(ねい)七州(ななしゅう)・後将軍(こうしょうぐん)・荊州刺史(けいしゅうしし)・仮節(かせつ)とし、桓脩(かんしゅう)を江州刺史(こうしゅうしし)とした。

ところが、桓玄(かんげん)は上疏(じょうそ)して督(とく)八州(はっしゅう)及(および)楊(よう)豫(よ)八郡(はちぐん)に進め、江州刺史(こうしゅうしし)を復するように求め、また兄の桓偉(かんい)を冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・雍州刺史(ようしゅうしし)とするように求めた。

当時はまだ寇賊(こうぞく)が平定されていなかったので、朝廷は桓玄(かんげん)の意向に逆らうことはできず、これを許した。

桓玄の増長

桓玄(かんげん)は腹心を用(もち)い兵馬を日々盛んにし、しばしば上疏(じょうそ)して(五斗米道(ごとべいどう)の)孫恩(そんおん)を討つことを求めたが、詔(みことのり)によりすべて却下された。

その後孫恩(そんおん)が京都(けいと)(健康(けんこう))に迫ると、桓玄(かんげん)は国家のために建牙(けんが)(護衛部隊)や兵を集めた。その実、敵の欠点を観察し、再度孫恩(そんおん)を討つことを上疏(じょうそ)するつもりだったが、孫恩(そんおん)が敗走すると、桓玄(かんげん)はまた詔(みことのり)を奉じて戒厳令(かいげんれい)を解(と)いた。

兄の桓偉(かんい)を江州刺史(こうしゅうしし)として夏口(かこう)に駐屯(鎮)させ、司馬(しば)の刁暢(ちょうちょう)を輔国将軍(ほこくしょうぐん)・督(とく)八郡(はちぐん)として襄陽(じょうよう)に駐屯(鎮)させ、甥(おい)の桓振(かんしん)、皇甫敷(こうほふ)、馮該(ふうがい)らを派遣して湓口(いつこう)を守らせた。

また、沮漳蛮(そしょうばん)2千戸を江南(こうなん)に移して武寧郡(ぶねいぐん)を立て、さらに流民を召集して綏安郡(すいあんぐん)を立てて、それぞれに郡丞(ぐんじょう)を置いた。

詔(みことのり)により広州刺史(こうしゅうしし)・刁逵(ちょうき)と豫章太守(よしょうたいしゅ)・郭昶之(かくちょうし)が徵(め)(征)されたが、桓玄(かんげん)はみな留(とど)めて遣(や)らなかった。

桓玄(かんげん)は自(みずか)ら「(私は東晋(とうしん)の)2/3を有し、運勢の帰(き)する所を知っている。しばしば現れる禎祥(ていしょう)(めでたいしるし)は自分のためのものだ」と言っていた。

朝権奪取
庾楷(ゆかい)の裏切り

以前、劉牢之(りゅうろうし)に敗れた庾楷(ゆかい)が桓玄(かんげん)の元に逃げ込んでいた。桓玄(かんげん)は孫恩(そんおん)を討つために庾楷(ゆかい)を右将軍(ゆうしょうぐん)としたが、すでに戒厳令(かいげんれい)は解(と)かれ、庾楷(ゆかい)は職を去った。

庾楷(ゆかい)は「桓玄(かんげん)が朝廷と仲違(なかたが)い(構怨)して敗れ、自分に禍(わざわい)が及ぶ」ことを恐れ、秘かに後将軍(こうしょうぐん)・司馬元顕(しばげんけん)(司馬道子(しばどうし)の子)と結んで内応を許された。

桓玄(かんげん)討伐

元興(げんこう)元年(402年)、司馬元顕(しばげんけん)は桓玄(かんげん)討伐の詔(みことのり)を下したが、この時太傅長史(たいふちょうし)であった桓玄(かんげん)の従兄(じゅうけい)・桓石生(かんせきせい)は、秘かに書を送って桓玄(かんげん)に知らせた。

桓玄(かんげん)は「今、揚州(ようしゅう)には飢饉(ききん)があり、孫恩(そんおん)もまだ滅(ほろ)んでいないので、今すぐ私を討伐することはできまい。今は兵を養って力を蓄(たくわ)え、相手の隙(すき)を観察して動けばよい」と言っていたが、すでに司馬元顕(しばげんけん)が討伐の兵を起こしたと聞いて大いに懼(おそ)れ、江陵(こうりょう)の守りを固めようとした。

すると長史(ちょうし)の卞范(べんはん)は桓玄(かんげん)に説(と)いて言った。

「公(こう)(桓玄(かんげん))の英略と威名は天下に轟(とどろ)いています。乳(ちち)臭(くさ)い司馬元顕(しばげんけん)と人心を失った劉牢之(りゅうろうし)の若兵が近畿(きんき)に臨(のぞ)んで威賞(刑罰と恩賞)を示してみても、その勢いは一瞬で崩(くず)れるでしょう。敵が境界に入ってくるのを待つのは弱者のすることですっ!」

桓玄(かんげん)は大いに悦(よろこ)んで兄の桓偉(かんい)に江陵(こうりょう)を守らせると、兵を率(ひき)いて尋陽(じんよう)に至り、京邑(けいゆう)(健康(けんこう))に司馬元顕(しばげんけん)の罪状を記(しる)した檄(げき)を飛ばし、檄(げき)が至ると司馬元顕(しばげんけん)は大いに懼(おそ)れ、出陣を取りやめて船を下りた。


すでに人情を失っていた桓玄(かんげん)は軍を起こして叛逆(はんぎゃく)した。尋陽(じんよう)を過ぎた時、王師(おうし)(司馬元顕(しばげんけん)の軍)が見当たらないので、桓玄(かんげん)も将吏もみな大いに悦(よろこ)んだ。またこの時、庾楷(ゆかい)は謀(はかりごと)が漏(も)れて捕らえられた。

姑孰(こしゅく)に至ると、桓玄(かんげん)は先に馮該(ふうがい)、苻宏(ふこう)、皇甫敷(こうほふ)、索元(さくげん)らに譙王(しょうおう)・司馬尚之(しばしょうし)を攻撃させ、これを破った。ここにおいて、劉牢之(りゅうろうし)は子の劉敬宣(りゅうけいせん)を派遣して桓玄(かんげん)に降伏した。

朝権を握る

桓玄(かんげん)が新亭(しんてい)に至ると、司馬元顕(しばげんけん)は自滅した。京師(けいし)(健康(けんこう))に入った桓玄(かんげん)は、矯詔(きょうしょう)*4を下して総百揆(そうひゃっき)(百官)に自分の名を加え、侍中(じちゅう)・都督(ととく)中外(ちゅうがい)諸軍事(しょぐんじ)・丞相(じょうしょう)・録尚書事(ろくしょうしょじ)・揚州牧(ようしゅうぼく)・領(りょう)徐州刺史(じょしゅうしし)となり、また仮黄鉞(かこうえつ)・羽葆(うほう)*5・鼓吹(こすい)・班剣(はんけん)20人を加えられ、属官に左右長史(さゆうちょうし)・司馬(しば)・従事中郎(じゅうじちゅうろう)4人を置き、甲杖(こうじょう)200人を連れて上殿することを許された。


桓玄(かんげん)は太傅(たいふ)・司馬道子(しばどうし)と司馬元顕(しばげんけん)の悪事を列挙し、司馬道子(しばどうし)を安成郡(あんせいぐん)に徙(うつ)し、市において司馬元顕(しばげんけん)を殺害した。

その後桓玄(かんげん)は太傅府(たいふふ)に入居すると、太傅中郎(たいふちゅうろう)の毛泰(もうたい)、毛泰(もうたい)の弟で遊擊将軍(ゆうげきしょうぐん)の毛邃(もうすい)、太傅参軍(たいふさんぐん)の荀遜(じゅんそん)、前(さき)の豫州刺史(よしゅうしし)の庾楷(ゆかい)父子、吏部郎(りぶろう)の袁遵(えんじゅん)、譙王(しょうおう)・司馬尚之(しばしょうし)らを殺害し、司馬尚之(しばしょうし)の弟・丹陽尹(たんよういん)の司馬恢之(しばかいし)、広晋伯(こうしんはく)の司馬允之(しばいんし)、驃騎長史(ひょうきちょうし)の王誕(おうたん)、太傅主簿(たいふしゅぼ)の毛遁(もうとん)らを交州(こうしゅう)・広州(こうしゅう)の諸郡に流罪とし、司馬恢之(しばかいし)と司馬允之(しばいんし)はその途上で殺害した。

また、兄の桓偉(かんい)を安西将軍(あんせいしょうぐん)・荊州刺史(けいしゅうしし)・南蛮校尉(なんばんこうい)とし、従兄(じゅうけい)の桓謙(かんけん)を左僕射(さぼくや)・中軍将軍(ちゅうぐんしょうぐん)・領選(りょうせん)とし、桓脩(かんしゅう)を右将軍(ゆうしょうぐん)・徐(じょ)兗(えん)二州(にしゅう)刺史(しし)とし、桓石生(かんせきせい)を前将軍(ぜんしょうぐん)・江州刺史(こうしゅうしし)とし、長史(ちょうし)の卞範之(べんはんし)を建武将軍(けんぶしょうぐん)・丹陽尹(たんよういん)とし、王謐(おうひつ)を中書令(ちゅうしょれい)・領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)とした。

大赦(たいしゃ)して「大亨(だいこう)」と改元すると、桓玄(かんげん)は丞相(じょうしょう)の位を讓(ゆず)り、自(みずか)ら太尉(たいい)・平西将軍(へいせいしょうぐん)・豫州刺史(よしゅうしし)となった。また袞冕(こんべん)の服(天子(てんし)の礼服)・緑糸戾綬(りょくしれいじゅ)を加え、班剣(はんけん)を60人に増やし、剣履上殿(けんりじょうでん)・入朝不趨(にゅうちょうふすう)・贊奏不名(さんそうふめい)(謁讚不名(えっさんふめい))の特権を得た。


桓玄(かんげん)が姑孰(こしゅく)に出ようとした時、王謐(おうひつ)は「『春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)』に『周公旦(しゅうこうたん)はなぜ魯(ろ)に行かなかったのか?周(しゅう)による天下一統を望んでいたからだ』とあります。私は周公旦(しゅうこうたん)の心を持たれますように願います」と言ったが、桓玄(かんげん)は従うことができなかった。

桓玄(かんげん)はついに大きな城府を築(きず)き、館(やかた)・山・池はみな壮麗であった。姑孰(こしゅく)に至ると桓玄(かんげん)は録尚書事(ろくしょうしょじ)を辞退し、朝廷はこれを許したが、依然として大政にはみな関与し、小事は桓謙(かんけん)や卞範(べんはん)が決裁した。民衆は災害や建設、戦争が繰り返されることに嫌気が差しており、一統された状態に戻りたいと思っていた。

桓玄(かんげん)は京師(けいし)(健康(けんこう))に至った当時、凡人(ぼんじん)や佞臣(ねいしん)を罷免(ひめん)し、才徳の優(すぐ)れた人物を抜擢(ばってき)して「君子の道」を整(ととの)え始めたので、京師(けいし)(健康(けんこう))は喜んだ。ところがその後、桓玄(かんげん)は朝廷を侮辱し、宰輔(さいほ)(宰相(さいしょう)や補佐官)を退(しりぞ)けて欲望のままに贅(ぜい)を尽くすようになり、成すべき多くの仕事が滞(とどこお)ったので、朝野(官民)は失望し、みな不安になった。

当時、会稽(かいけい)は飢饉(ききん)で荒廃(こうはい)していたので、桓玄(かんげん)は貧民救済のために無利子で銭や穀物(こくもつ)を貸し与え、内史(ないし)の王愉(おうゆ)は江湖(こうこ)に離散していた農民たちをみな召(め)し還(かえ)した。役人は折(おり)に触(ふ)れて米を支給したが、18〜19人*6が路上で死んだ。

桓玄(かんげん)はまた、劉牢之(りゅうろうし)一党の北府(ほくふ)の将であった呉興太守(ごこうたいしゅ)・高素(こうそ)、輔国将軍(ほこくしょうぐん)・竺謙之(じくけんし)、竺謙之(じくけんし)の従兄(じゅうけい)で高平相(こうへいしょう)の竺朗之(じくろうし)、高素(こうそ)、輔国将軍(ほこくしょうぐん)・劉襲(りゅうしゅう)、劉襲(りゅうしゅう)の弟で彭城内史(ほうじょうないし)の劉季武(りゅうきぶ)、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・孫無終(そんぶしゅう)らを殺害した*7。

また、劉襲(りゅうしゅう)の兄で冀州刺史(きしゅうしし)の劉軌(りゅうき)、寧朔将軍(ねいさくしょうぐん)・高雅之(こうがし)、劉牢之(りゅうろうし)の子・劉敬宣(りゅうけいせん)は揃(そろ)って南燕(なんえん)の慕容徳(ぼようとく)の元に逃亡した。


桓玄(かんげん)は朝廷に司馬元顕(しばげんけん)を平定した功績をほのめかして豫章公(よしょうこう)に封ぜられ、食邑(しょくゆう)として安成郡(あんせいぐん)225里四方の7,500戸を与えられ、また殷仲堪(いんちゅうかん)・楊佺期(ようせんき)を平定した功績をほのめかして桂陽郡公(けいようぐんこう)に封ぜられ、食邑(しょくゆう)として(桂陽郡(けいようぐん)の)75里四方の2,500戸を与えられ、南郡(なんぐん)の封地はこれまで通りとされた。

その後桓玄(かんげん)は豫章郡(よしょうぐん)に改封され、兄・桓偉(かんい)の子・桓濬(かんしゅん)(桓浚(かんしゅん))が桂陽郡公(けいようぐんこう)を賜(たまわ)って、桓玄(かんげん)は西道県公(せいどうけんこう)に降格された。

また詔(みことのり)を発して、姓名に父・桓温(かんおん)の諱(いみな)・「温(おん)」を含む者をみな改名させ、母の馬氏(ばし)に豫章公太夫人(よしょうこうたいふじん)の称号を贈(おく)った。

脚注

*4天子(てんし)の命令を偽(いつわ)り改(あらた)めること。

*5羽葆蓋車(うほうがいしゃ)。美しい羽根で飾られた蓋(おおい)のついた皇帝(こうてい)が乗る馬車。

*6原文:頓僕道路死者十八九焉。10人中8〜9人?

*7輔国将軍(ほこくしょうぐん)が2名いるのは原文ママ。輔国将軍(ほこくしょうぐん)の定員が2名以上いるのか誤植(ごしょく)なのかは不明。

簒奪の兆し
人望を失う

元興(げんこう)2年(403年)、桓玄(かんげん)は詐表(さひょう)して「後秦(こうしん)の姚興(ようこう)平定」を求めたが、許されなかった。桓玄(かんげん)は大言を好んだが、結局成(な)し遂(と)げることができないので、詔(みことのり)により止められたのである。

桓玄(かんげん)自身は元々北伐(ほくばつ)に出陣するつもりはなかったので、撤収の体裁を整えるために、先に軽舸(けいか)(軽舟)を作り、それに衣服や玩具(がんぐ)・書画などを載(の)せて運ばせた。ある人がこれを諫(いさ)めると、桓玄(かんげん)は「不意の兵凶戦危に備(そな)え、書画や衣服・玩具(がんぐ)などは運び出しやすくしておくものだ」と言ったので、人々は苦笑した。

桓玄(かんげん)の孤立

この年、桓玄(かんげん)の兄・桓偉(かんい)が亡くなり、開府(かいふ)・驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)が贈(おく)られ、桓脩(かんしゅう)がこれに代わった。

この時、従事中郎(じゅうじちゅうろう)・曹靖之(そうせいし)が桓玄(かんげん)に「桓脩(かんしゅう)兄弟は内外に赴任(ふにん)しており、彼らが天下を傾けるのではないかと恐れます」と言うと桓玄(かんげん)は納得し、南郡相(なんぐんしょう)の桓石康(かんせきこう)を西中郎将(せいちゅうろうしょう)・荊州刺史(けいしゅうしし)とした*8。

桓偉(かんい)の喪(も)が始まると、桓玄(かんげん)は公除(こうじょ)*9して音曲(楽)を作った。それが初めて演奏されると、桓玄(かんげん)は手拍子(てびょうし)をしながら慟哭(どうこく)し、目に涙を浮かべて喜んだが、親族の中で桓玄(かんげん)を仗(まも)る者は桓偉(かんい)だけだったので、桓偉(かんい)が亡くなったことで桓玄(かんげん)は孤立した。

脚注

*8桓脩(かんしゅう)兄弟は叔父(おじ)・桓沖(かんちゅう)の子。桓石康(かんせきこう)は叔父(おじ)・桓豁(かんかつ)の子。

楚王(そおう)となる

当時、桓玄(かんげん)の簒奪(さんだつ)の意思は顕著(けんちょ)で、桓玄(かんげん)は自分に対する怨(うら)みが天下に満ちていることを知っていた。そのため桓玄(かんげん)は一刻も早く簒奪(さんだつ)を実行したいと思っており、殷仲文(いんちゅうぶん)や卞範之(べんはんし)らもまた簒奪(さんだつ)の実行を催促(さいそく)した。

そこで桓玄(かんげん)は人事異動を行い、琅邪王(ろうやおう)司徒(しと)を太宰(たいさい)に昇進させて特別の待遇を与え、桓謙(かんけん)を侍中(じちゅう)・衛将軍(えいしょうぐん)・開府(かいふ)・録尚書事(ろくしょうしょじ)とし、王謐(おうひつ)を散騎常侍(さんきじょうじ)・中書監(ちゅうしょかん)・領(りょう)司徒(しと)とし、桓胤(かんいん)を中書令(ちゅうしょれい)とし、桓脩(かんしゅう)に散騎常侍(さんきじょうじ)・撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)とし、学官を置いて二品(にひん)の品官の子弟数百人に教授した。

また、総百揆(そうひゃっき)(百官)に矯詔(きょうしょう)*4を下して自(みずか)ら相国(しょうこく)を加え、自(みずか)ら南郡(なんぐん)、南平郡(なんぺいぐん)、宜都郡(ぎとぐん)、天門郡(てんもんぐん)、零陵郡(れいりょうぐん)、営陽郡(えいようぐん)、桂陽郡(けいようぐん)、衡陽郡(しょうようぐん)、義陽郡(ぎようぐん)、建平郡(けんぺいぐん)の10郡に封じ、自(みずか)ら楚王(そおう)となって九錫(きゅうせき)を加え、楚国(そこく)に丞相(じょうしょう)以下旧典(きゅうてん)に遵(したが)って官職を置いた。

また桓玄(かんげん)は、天子(てんし)に前殿(ぜんでん)で禅譲(ぜんじょう)をほのめかしながら何度も辞退したので、天子(てんし)は詔(みことのり)により百官を遣(つか)わして「鑾輿(らんよ)(天子(てんし)の車)を降りて命を受けます」と言った。


桓玄(かんげん)は矯詔(きょうしょう)*4を下して父・桓温(かんおん)に楚王(そおう)を贈(おく)り、母の南康公主(なんこうこうしゅ)を楚王后(そおうこう)とした。

また平西長史(へいせいちょうし)の劉瑾(りゅうきん)を尚書(しょうしょ)、刁逵(ちょうき)を中領軍(ちゅうりょうぐん)、王嘏(おうか)を太常(たいじょう)、殷叔文(いんしゅくぶん)を左衛(さえい)、皇甫敷(こうほふ)を右衛(ゆうえい)とし、およそ60余人を楚(そ)(桓楚(かんそ))の官属とした。桓玄(かんげん)は自(みずか)ら平西将軍(へいせいしょうぐん)・豫州刺史(よしゅうしし)を解任し、その将・官属を相国府(しょうこくふ)に編入した。

脚注

*4天子(てんし)の命令を偽(いつわ)り改(あらた)めること。

*9国政の責任のために喪服(もふく)を脱ぐこと。

庾仄が義兵を起こす

新野(しんや)の人・庾仄(ゆそく)は、桓玄(かんげん)が九錫(きゅうせき)を受けたと聞くと義兵を起こし、襄陽(じょうよう)の馮該(ふうがい)を襲って敗走させた。

庾仄(ゆそく)は7千の軍勢を有し、城の南に祭壇(さいだん)を設置して祖宗(そそう)7廟(びょう)を祭ると、南蛮参軍(なんばんさんぐん)・庾彬(ゆひん)、安西参軍(あんせいさんぐん)・楊道護(ようどうご)、江安令(こうあんれい)・鄧襄子(とうじょうし)らは謀(はか)ってこれに内応した。庾仄(ゆそく)は殷仲堪(いんちゅうかん)の一党であったが、桓偉(かんい)が死に、桓石康(かんせきこう)がまだ到着していない状況を利用し、江陵(こうりょう)を震撼(しんかん)させたのである。

すると、桓玄(かんげん)の兄・桓済(かんせい)の子・桓亮(かんりょう)は自(みずか)ら平南将軍(へいなんしょうぐん)・湘州刺史(しょうしゅうしし)と号し、「庾仄(ゆそく)討伐」を名目に羅県(らけん)において兵を起こした。南蛮校尉(なんばんこうい)・羊僧寿(ようそうじゅ)は桓石康(かんせきこう)と共に襄陽(じょうよう)を攻め、庾仄(ゆそく)の軍は離散して後秦(こうしん)の姚興(ようこう)の元に逃亡し、庾彬(ゆひん)らはみな殺害された。

その後、桓亮(かんりょう)は乱に乗じて兵を起こし、長沙相(ちょうさしょう)の陶延寿(とうえんじゅ)がこれを收(おさ)めた。桓玄(かんげん)は桓亮(かんりょう)を衡陽(しょうよう)に徙(うつ)し、同謀した桓奥(かんおう)らを誅殺(ちゅうさつ)した。

簒奪の準備

桓玄(かんげん)は上表して帰藩することを求め、その後自(みずか)ら留(とど)める詔(みことのり)を下した。そしてまた帰藩することを強く求める上表をし、天子(てんし)の手で強く留(とど)める詔(みことのり)を作らせた。桓玄(かんげん)はこのような偽(いつわ)りのやり取りを好み、(桓玄(かんげん)が発給した)塵(ちり)にまみれた簡牘(かんとく)(文字を書き記(しる)した木や竹の札)はみなこのようなものばかりであった。

桓玄(かんげん)は、秘かに臨平湖(りんぺいこ)の湖面を清(きよ)めさせ、祥瑞(しょうずい)(吉兆)の出現を報告させた。そして官吏たちを臨平湖(りんぺいこ)に集めて祝賀させると、矯詔(きょうしょう)*4してこれを「相国(しょうこく)(桓玄(かんげん))の徳によるもの」だとした。

また桓玄(かんげん)は、偽(いつわ)って「江州(こうしゅう)の王成(おうせい)の家の竹の上に甘露(かんろ)(天から降る甘い液体。吉兆の1つ)が降った」と言った。

また、昔のように「肥遁(ひとん)の士(隠者)」の出現を想像し、皇甫謐(こうほひつ)の6世の孫・皇甫希之(こうほきし)に高士(こうし)(隠君子)の扮装(ふんそう)をさせたので、当時の人々は彼を「充隠(じゅういん)」と呼んだ。


桓玄(かんげん)は政令の執行に確固たる意志がなく、頻繁(ひんぱん)に考えを変えるため、命令に一貫性がなく混沌としていた。

桓玄(かんげん)は貪鄙(たんぴ)(貪(むさぼ)り卑(いや)しい)性格で奇異を好み、最も宝物を愛して珠玉を手放さなかった。彼は他人の優(すぐ)れた書画や美しい園宅のことごとくを手に入れたいと思っていたが、強制的に取り上げることはできなかったので、みな樗蒲(ちょぼ)*10において取り上げた。

遣臣佐四出,掘果移竹,不遠數千里,百姓佳果美竹無復遺餘。信悅諂譽,逆忤讜言,或奪其所憎與其所愛。

脚注

*4天子(てんし)の命令を偽(いつわ)り改(あらた)めること。

*10双六(すごろく)のようなゲーム。賭博(とばく)の一種。

帝位を簒奪する

元興(げんこう)2年(403年)11月、桓玄(かんげん)は矯制(きょうせい)*4して自分の冕(べん)(冠(かんむり))に12旒(りゅう)*11の玉飾りをつけ、天子(てんし)の旌旗(せいき)を建てて出入りの際に蹕(ひつ)(先払い)と通行禁止の措置(そち)をとり、金根車(きんこんしゃ)に乗り6頭立ての馬*12に引かせて五時車(ごじしゃ)*13を副車とし、旄頭(ほうとう)*14・雲罕(うんかん)(旌旗(せいき))を設置し、音楽には八佾(はちいつ)*15を演じ、宮殿に鐘虡(しょうきょ)*16を設置し、妃(きさき)を王后(おうこう)とし、世子(せいし)を太子(たいし)とし、女(むすめ)と孫の爵号を旧制に倣(なら)って改めさせた。また桓玄(かんげん)は多くの朝臣を斥(しりぞ)けて太宰(たいさい)の補佐とした。


桓玄(かんげん)は安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))が(禅譲(ぜんじょう)の)詔(みことのり)を下さないことを恐れ、また璽(じ)をが手に入らないことを配慮して臨川王(りんせいおう)・司馬宝(かんげん)に「安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))に自(みずか)らの手で詔(みことのり)を下させる」ように逼(せま)り、璽(じ)を奪取した。

璽(じ)を手に入れた桓玄(かんげん)は、矯制(きょうせい)*4して司徒(しと)の王謐(おうひつ)に太保(たいほ)を兼ねさせると、皇帝(こうてい)の璽(じ)を奉じて自分に禅位(ぜんい)(禅譲(ぜんじょう))させた。また安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))に禅位(ぜんい)(禅譲(ぜんじょう))したことを廟(びょう)に報告させ、安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))を永安宮(えいあんきゅう)に、晋(しん)の神主(位牌)を琅邪廟(ろうやびょう)に移した。

百官は姑孰(こしゅく)に赴(おもむ)き桓玄(かんげん)に帝位の簒奪(さんだつ)(僭偽位)を勧め、桓玄(かんげん)は辞退してみせた。そして朝臣たちがさらに強く要請すると、桓玄(かんげん)は城の南7里(約3.01km)の郊外に設(もう)けた祭壇(さいだん)に登って帝位を簒奪(さんだつ)し、玄牡(げんぴん)(黒い牡牛(おうし))を生贄(いけにえ)に捧(ささ)げて天に告げた。


また、桓玄(かんげん)が元号を「建始(けんし)」としようとしたところ、右丞(ゆうじょう)の王悠(おうゆう)は「『建始(けんし)』は[西晋(せいしん)の恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の帝位を簒奪(さんだつ)した]趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)の元号です」と言った。結局、桓玄(かんげん)は「永始(えいし)」と改元したが、これもまた王莽(おうもう)が執権を始めた年の不吉な年号であった。

桓玄(かんげん)は大赦(たいしゃ)して、天下(全国民)に爵(しゃく)2級、親孝行な者、よく田を耕(たがや)す者には爵(しゃく)3級を下賜(かし)し、身寄りがなく自活できない者には5穀(こく)の穀物(こくもつ)を下賜(かし)したが、その賞賜(しょうし)の制度は名目だけで、その実態はなかった。

また、東晋(とうしん)の安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))を南康(なんこう)の平固県(へいこけん)に奉じて平固王(へいこおう)とし、車旗・正朔(せいさく)は旧典の通りとした。


桓玄(かんげん)は陳留王(ちんりゅうおう)[魏(ぎ)の元帝(げんてい)(曹奐(そうかん))]を鄴宮(ぎょうきゅう)に遷(うつ)した故事に倣(なら)って、すぐに帝居を尋陽(じんよう)に遷(うつ)し、永安皇后(えいあんこうごう)(何法倪(かほうげい))を零陵君(れいりょうくん)、琅邪王(ろうやおう)を石陽県公(せきようけんこう)、武陵王(ぶりょうおう)・司馬遵(しばじゅん)を彭澤県侯(ほうたくけんこう)に降格させた。

また、父・桓温(かんおん)を追尊して宣武皇帝(せんぶこうてい)としてその廟(びょう)を太廟(たいびょう)と称し、母の南康公主(なんこうこうしゅ)を宣皇后(せんこうごう)とした。

その他の人事
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子の桓昇(かんしょう)(桓升(かんしょう))を豫章郡王(よしょうぐんおう)、叔父(おじ)の桓雲(かんうん)の孫・桓放之(かんほうし)を寧都県王(ねいとけんおう)、叔父(おじ)の桓豁(かんかつ)の孫・桓稚玉(かんちぎょく)を臨沅県王(りんげんけんおう)、桓豁(かんかつ)の次子・桓石康(かんせきこう)を右将軍(ゆうしょうぐん)・武陵郡王(ぶりょうぐんおう)、叔父(おじ)の桓秘(かんひ)の子・桓蔚(かんい)を醴陵県王(れいりょうけんおう)とし、叔父(おじ)の故・桓沖(かんちゅう)に太傳(たいふ)・宣城郡王(せんじょうぐんおう)を贈(おく)り、特別に礼を加え、晋(しん)の安平王(あんぺいおう)(司馬孚(しばふ))の故事に倣(なら)って、桓沖(かんちゅう)の孫の桓胤(かんいん)に爵位を継がせ、吏部尚書(りぶしょうしょ)とし、桓沖(かんちゅう)の次子・桓謙(かんけん)を揚州刺史(よしゅうしし)・新安郡王(しんあんぐんおう)、桓謙(かんけん)の弟・桓脩(かんしゅう)を撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)・安成郡王(あんせいぐんおう)、桓玄(かんげん)の兄・桓歆(かんきん)を臨賀県王(りんがけんおう)、兄・桓禕(かんい)を富陽県王(ふようけんおう)とし、兄・桓偉(かんい)を侍中(じちゅう)・大将軍(だいしょうぐん)・義興郡王(ぎこうぐんおう)とし、桓偉(かんい)の子・桓濬(かんしゅん)(桓浚(かんしゅん))に爵位を継がせて輔国将軍(ほこくしょうぐん)とし、桓濬(かんしゅん)(桓浚(かんしゅん))の弟・桓邈(かんばく)を西昌県王(せいしょうけんおう)とした。

また、王謐(おうひつ)を武昌公(ぶしょうこう)に封じて班剣(はんけん)20人を許し、卞範之(べんはんし)を臨汝公(りんじょこう)、殷仲文(いんちゅうぶん)を東興公(とうこうこう)、馮該(ふうがい)を魚復侯(ぎょふくこう)に封じた。

また始安郡公(しあんぐんこう)を県公(けんこう)に降格し、長沙(ちょうさ)を臨湘県公(りんしょうけんこう)、盧陵(ろりょう)を巴丘県公(はきゅうけんこう)として各千戸とした。

康楽(こうらく)、武昌(ぶしょう)、南昌(なんしょう)、望蔡(ぼうさい)、建興(けんこう)、永脩(えいしゅう)、観陽(かんよう)の封邑(ほうゆう)をみな百戸に降格し、公(こう)・侯(こう)の号はこれまで通りとした。また征(せい)・鎮(ちん)の軍号にはそれぞれ差があった。

相国(しょうこく)左長史(さちょうし)を中書令(ちゅうしょれい)とし、桓沖(かんちゅう)の次子・桓謙(かんけん)の母・庾氏(ゆし)を崇(たっと)んで宣城太妃(せんじょうたいひ)とし、特別の待遇を与えて、輦乗(れんじょう)(皇帝(こうてい)と妃(きさき)専用の馬車)を支給した。

父・桓温(かんおん)の墓を永崇陵(えいすうりょう)と号し、守衛40人を置いた。


桓玄(かんげん)が建康(けんこう)の宮殿に入った時、激しい逆風が吹いて旗や儀礼用の飾りがみな倒れた。

西堂で小会が行われたが、そこには妓楽(ぎがく)(妓女(ぎじょ)が演奏する音楽)が演奏され、殿上には絳(あか)い豪華な帳幕(ちょうばく)と五色の羽葆(うほう)旒蘇(りゅうそ)(羽根製の垂(た)れ幕(まく))を銜(くわ)えた4本角(つの)の金の龍が配置されていた。

群臣たちは互いに様子を窺(うかが)いながら「これは輀車(じしゃ)(貴人の葬送の際に棺(ひつぎ)を載(の)せて運ぶ車)や王莽(おうもう)の仙蓋(せんがい)(五色の絹糸を傘に結びつけたもの)によく似ています」と言った。また桓玄(かんげん)は金根車(きんこんしゃ)を造り6頭立ての馬*12に引かせた。

この月、桓玄(かんげん)は裁判を臨聴して囚徒を観察し、罪の軽重にかかわらず、その多くを釈放した。

有幹輿乞者,時或恤之。其好行小惠如此。自以水德,壬辰,臘于祖。

尚書(しょうしょ)都官郎(とかんろう)を賊曹(ぞくそう)に改め、また五校(ごこう)・三将(さんしょう)および強弩(きょうど)・積射(せきしゃ)の武衛官を増設した。

脚注

*4天子(てんし)の命令を偽(いつわ)り改(あらた)めること。

*11冕(べん)(冠(かんむり))は天子(てんし)、三公(さんこう)・諸侯(しょこう)・卿(けい)・大夫(たいふ)が着用した冠(かんむり)。天子(てんし)は前後に12旒(りゅう)、三公(さんこう)・諸侯(しょこう)は前のみに9旒(りゅう)、卿(けい)・大夫(たいふ)は前のみに9旒(りゅう)と たまだれ の数が規定されていた。

*12金根車(きんこんしゃ)は天子(てんし)の車。天子(てんし)の車は6頭立てであった。

*135つの季節の色(春:青、夏:赤、季夏:黄、秋:白、冬:黒)に塗(ぬ)った副車。

*14天子(てんし)の旗につける から牛 の飾り。

*15天子(てんし)の舞楽。8人8列になって舞う。

*16猛獣があしらわれた鐘(かね)を吊(つる)す台。

奢侈にふける

元興(げんこう)3年(404年)[桓玄(かんげん)の永始(えいし)2年]、尚書(しょうしょ)が「春蒐(しゅんそう)(天子(てんし)が春に行う狩猟)」の字を「春菟(しゅんと)」と誤(あやま)って答え、関係するすべての部署が降格となった。桓玄(かんげん)が大綱(たいこう)(事柄の根本となる骨組み)を無視し、軽微な失敗を取り上げて糾弾(きゅうだん)する様子は、みなこの様であった。

妻の劉氏(りゅうし)を皇后(こうごう)とし、御殿を修復して東宮(とうぐう)に移し、また東掖(とうえき)・平昌(へいしょう)・広莫(こうばく)の宮殿の諸門を開き、みな三道(さんどう)とした。更(さら)に大輦(たいれん)(大人数が座ることができる人力の車)を造り、3千人が座って2百人で担(かつ)がせた。

また桓玄(かんげん)は畋遊(てんゆう)(遊猟)を好んだが、馬に乗るには身体が大きすぎるため、徘徊輿(はいかいよ)(回転できる輿(みこし))を作り、回転の号令をすることによって滞(とどこお)りなく猟(りょう)を行った。


桓玄(かんげん)は祖曾(そそう)を追尊せず、その礼儀を疑って群臣に問(と)うた。散騎常侍(さんきじょうじ)の徐広(じょこう)は「『晋典(しんてん)』に依拠(いきょ)してよろしく7廟(びょう)を追立し、また父を敬(うやま)うことは則(すなわ)ち子を悅(よろこ)ばせ、位が一段と高い者は人情と道理を得(え)、道が広ければ広いほど尊敬の念は普遍的となるでしょう」と言った。

桓玄(かんげん)は「『礼(らい)』には三昭(さんしょう)・三穆(さんぼく)と太祖(たいそ)をもって7廟(びょう)*17とするが、それならば太祖(たいそ)は廟(びょう)の主であり、昭(しょう)・穆(ぼく)はみな自(おの)ずと下位となる。則非逆数可知也。また『礼(らい)』には太祖(たいそ)は東向きで、左に昭(しょう)、右に穆(ぼく)とある。晋室(しんしつ)の廟(びょう)の場合、宣帝(せんてい)(司馬懿(しばい))は昭(しょう)・穆(ぼく)の列にあり、太祖(たいそ)の位置にない。すでに昭(しょう)・穆(ぼく)は錯誤(さくご)しており、太祖(たいそ)のあるべき場所は遥か遠くに失われている」と言った。

桓玄(かんげん)の曾祖父(そうそふ)以前の人物の評判や地位(名位)は不明であったので、序列をつくることを望まず、また王莽(おうもう)の時代には9廟(びょう)であったことから、(7廟(びょう)にこだわらず)ついに1つの廟(びょう)に改め、郊廟(こうびょう)の祭事も2日間だけとした。これに秘書監(ひしょかん)の卞承(べんしょう)は「先祖を祭らなければ、楚(そ)の徳が長く続かないことは明らかです」と言い、晋(しん)の小さな廟(びょう)を破壊して広大な台榭(だいしゃ)(高台式建築)を築いた。

桓玄(かんげん)の母の蒸嘗(じょうしょう)(祖先をまつる祭り)は定まっておらず、亡くなった時には哭(こく)(大声で泣くこと)したが、忌日(きじつ)(命日)には賓客(ひんかく)と宴(うたげ)を開いて楽しみ、喪服(ほふく)期間にも音楽を禁止しなかった。


桓玄(かんげん)が水門を出て舟遊びをした時、飄風(つむじかぜ)が起こって桓玄(かんげん)の舟の儀蓋(ぎがい)を吹き飛ばした。またその夜には、濤水(とうすい)(大波)が石頭(せきとう)の大桁(おおげた)(朱雀橋(すざくきょう))を倒壊させて多くの死者を出し、大風が朱雀門(すざくもん)の楼(ろう)を吹き飛ばして上層部が地面に落ちた。


桓玄(かんげん)は帝位を簒奪(さんだつ)して以降、驕(おご)って奢侈(しゃし)に耽(ふけ)り、昼夜を問わず狩猟を楽しむ様子は度が過ぎていた。また兄・桓偉(かんい)の葬儀の日も、夜明けには哭(こく)(大声で泣くこと)したが晚には遊び、ある日は1日中馬に乗って駆け回っていた。

また桓玄(かんげん)は短気で、呼べばすぐに来ることを求めた。そのため、職務中の役人はみな馬省(ばせい)(厩舎(きゅうしゃ)?)の前に待機し、禁内は騒がしく朝廷の体裁をなしていなかった。

これにより朝野(官民)は疲れ苦しみ、怨(うら)みや怒(いか)りを抱(いだ)く者は10人中8〜9人にのぼった。

脚注

*17宗廟(そうびょう)における霊位は、太祖(たいそ)の廟(びょう)を中央とし、向かって右に三昭(さんしょう)(2世・4世・6世の廟(びょう))が並び、向かって左に三穆(さんぼく)(3世・5世・7世の廟(びょう))を並べた。

東晋再興の義兵
挙兵の漏洩(ろうえい)

劉裕(りゅうゆう)・劉毅(りゅき)・何無忌(かむき)らは(東晋(とうしん)の)再興を共謀した。

劉裕(りゅうゆう)らは京口(けいこう)において桓脩(かんしゅう)を斬り、広陵(こうりょう)において桓弘(かんこう)を斬ると、河内太守(かだいたいしゅ)の辛扈興(しんここう)・弘農太守(こうのうたいしゅ)の王元徳(おうげんとく)・振威将軍(しんいしょうぐん)の童厚之(どうこうし)・竟陵太守(きょうりょうたいしゅ)の劉邁(りゅうばい)らと内応を謀(はか)った。

時期が至ると、劉裕(りゅうゆう)は周安穆(しゅうあんぼく)を派遣して(内応の)報告をさせたが、劉邁(りゅうばい)は恐れ慌(あわ)てて、ついに桓玄(かんげん)に劉裕(りゅうゆう)らの謀(はかりごと)を告げた。桓玄(かんげん)は大いに驚いて震え上がり、すぐさま辛扈興(しんここう)らを殺害したが、周安穆(しゅうあんぼく)は逃げ去ることができた。

劉裕(りゅうゆう)らの謀(はかりごと)を告げた功績により桓玄(かんげん)は劉邁(りゅうばい)を重安侯(じゅうあんこう)に封じたが、次の日には彼を殺害した。

敗北を恐れる

劉裕(りゅうゆう)が義軍を率(ひき)いて竹裏(ちくり)に至ると、桓玄(かんげん)は上宮に移り、百僚は徒歩で従って、役人(侍官)たちはみな召集されて省中に留(とど)められた。

桓玄(かんげん)は揚州(ようしゅう)・豫州(よしゅう)・徐州(じょしゅう)・兗州(えんしゅう)・青州(せいしゅう)・冀州(きしゅう)に恩赦(おんしゃ)を出し、桓謙(かんけん)に征討都督(せいとうととく)・仮節(かせつ)を加え、殷仲文(いんちゅうぶん)を殺害された桓脩(かんしゅう)の代わりとし、遣頓太守(いとんたいしゅ)の呉甫之(ごほし)と右衛将軍(ゆうえいしょうぐん)の皇甫敷(こうほふ)に北の義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)を防がせた。

劉裕(りゅうゆう)らは江乗(こうじょう)の戦いにおいて呉甫之(ごほし)を斬ると、羅落橋(ららくきょう)に進軍して皇甫敷(こうほふ)と戦い、その首を晒(さ)した。

呉甫之(ごほし)と皇甫敷(こうほふの敗死を聞いた桓玄(かんげん)は大いに懼(おそ)れ、道士(道術人)たちを召(め)して「厭勝(えんしょう)の法(他人を屈服させるまじない)」を行わせた。桓玄(かんげん)がみなに「朕(ちん)(私)は敗(やぶ)れるのか?」と問うと、曹靖之(そうせいし)は「神は怒り、人は怨(うら)んでおり、臣(わたくし)は実に懼(おそ)れております」と言った。

そして桓玄(かんげん)が「人が怨(うら)むことはあるかもしれんが、なぜ神が怒るのだ?」と問(と)うと、(曹靖之(そうせいし)は)「晋(しん)の宗廟(そうびょう)を移してからというもの、(祖先の霊は)居所を失って彷徨(さまよ)っています。大楚(たいそ)の祭祀(さいし)が祖先に及んでいないことが、神の怒りの所以(ゆえん)です」と言った。

桓玄(かんげん)が「卿(あなた)はなぜ諫(いさ)めなかったのだ?」と問(と)うと、(曹靖之(そうせいし)は)「輦(れん)の上の諸君子はみな堯(ぎょう)・舜(しゅん)の時代(理想の時代)のようでした。どうして臣(わたくし)などが敢(あ)えて諫(いさ)められましょうかっ!」と言った。

桓玄(かんげん)は益(ます)々(ます)怒り懼(おそ)れ、桓謙(かんけん)と何澹之(かたんし)を東陵(とうりょう)に、卞範之(べんはんし)を覆舟山(ふくせんさん)の西に駐屯させ、合わせて2万の兵で劉裕(りゅうゆう)の義軍を防がせた。

敗北を重ねる

劉裕(りゅうゆう)は蔣山(しょうざん)に至ると、体が著(いちじる)しく弱い者に油帔(ゆひ)(袖(そで)のない上着)を着せて山を登らせ、それぞれ旗幟(きし)(旗印(はたじるし))を広げて複数の道から前進させた。

桓玄(かんげん)の偵侯(ていこう)(偵察隊)が戻ると「劉裕(りゅうゆう)軍の4つの塞(とりで)には、どれだけの兵がいるのか分かりません」と報告した。

桓玄(かんげん)は益(ます)々(ます)憂(うれ)い惶(あわ)て、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の庾頤之(ゆいし)に精鋭兵を与えて諸軍を援護させた。ちょうどこの時、激しい東北の風に乗(じょう)じて義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)が火を放ち、煙と塵(ちり)が空に舞い、京邑(けいゆう)(健康(けんこう))は驚き震え大騒ぎとなった。


劉裕(りゅうゆう)は鉞麾(えつき)(鉞(まさかり)と指図旗)を掲(かか)げて進軍し、桓謙(かんけん)ら諸軍は一瞬のうちに潰走(かいそう)した。

桓玄(かんげん)は親信(旗本)数千人を率(ひき)いて出陣を宣言し、子の桓昇(かんしょう)(桓升(かんしょう))と兄・桓偉(かんい)の子・桓濬(かんしゅん)(桓浚(かんしゅん))と共に南の掖門(えきもん)を出て西の石頭(せきとう)に至ると、殷仲文(いんちゅうぶん)に船を準備させて一緒に南へ急いだ。


以前、桓玄(かんげん)が姑孰(こしゅく)にいた時から、しばしば将相(しょうしょう)の星に変化があり、簒奪(さんだつ)した日の夕方には月と太白(たいはく)(金星)が羽林(うりん)に入ったが、これは桓玄(かんげん)にとって甚(はなは)だ悪い兆(きざ)しであった。

敗走するに及び、腹心は戦うことを勧めたが、桓玄(かんげん)はそれには答えずただ天を指差した。数日間食べる物もなく、左右の者が粗末な食事を出しても喉(のど)を通らず、年端(としは)も行かぬ桓昇(かんしょう)(桓升(かんしょう))を胸に抱いて撫(な)で、悲しみに打ちひしがれていた。


劉裕(りゅうゆう)は武陵王(ぶりょうおう)となって万機(ばんき)(諸(もろ)々(もろ)の重要な政務)を司(つかさど)り、行台(こうだい)を立てて百官を統制した。

また劉毅(りゅうき)と劉道規(りゅうどうき)に桓玄(かんげん)を追わせ、桓玄(かんげん)の諸兄子と桓石康(かんせきこう)の兄・桓権(かんけん)、桓振(かんしん)の兄・桓洪(かんこう)らを誅殺(ちゅうさつ)した。

江陵に遷都する

桓玄(かんげん)が尋陽(じんよう)に至ると、江州刺史(こうしゅうしし)・郭昶之(かくちょうし)は桓玄(かんげん)の兵力を補充した。後方から到着した殷仲文(いんちゅうぶん)は、桓玄(かんげん)の舟を眺(なが)め見て、旌旗(せいき)や輿服(よふく)が「帝者の儀」を備えていることから、ため息をついて「敗北から立ち直ることは可能だ」と言った。

その後、桓玄(かんげん)は乗輿(じょうよ)に乗せられて西進した。桓歆(かんきん)は一党を集めて歴陽(れきよう)に向かったが、宣城内史(せんじょうないし)の諸葛長民(しょかつちょうみん)がこれを撃ち破った。

桓玄(かんげん)は道すがら『起居注(ききょちゅう)』(天子(てんし)の言行録)を作り、その中で「自(みずか)ら経略を授(さず)け、その策に手抜かりはなかったが、諸将は節度を違(たが)えたために虧喪(きそう)(失う)するに至った。[これは朕(ちん)(桓玄(かんげん))の]戦いの罪ではない」と、義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)を防いだ時の様子を述(の)べた。臣下たちと謀議する暇(いとま)もなく、ただ思い耽(ふけ)るままを唱(とな)え、遠近に広く告げ示した。


桓玄(かんげん)が江陵(こうりょう)に至ると桓石康(かんせきこう)が迎え入れ、城の南に幔屋(まんおく)を張って百官を任命し、卞范之(べんはんし)を尚書僕射(しょうしょぼくや)として、その他の職は其餘職多用輕資。

桓玄(かんげん)は舟師(船団)を全面的に修理して、30日も経(た)たないうちに兵2万と立派な船団を用意して兵を鼓舞(こぶ)した。


奔敗(ほんぱい)(敗走)した後、桓玄(かんげん)は法令が遵守(じゅんしゅ)されていないことを懼(おそ)れ、すぐに怒って妄(みだ)りに人を殺すようになったので、多くの人が怨(うら)み離れて行った。

殷仲文(いんちゅうぶん)が諫(いさ)めて、

「陛下は荊州(けいしゅう)・雍州(ようしゅう)を平定して京室(けいしつ)を匡(ただ)され、その名声は八荒(はっこう)(国の隅(すみ)々(ずみ))まで知れ渡っています。極位(きょくい)(天子(てんし)の位)にありながらこのような不運に見舞われたのは、決して権威の欠如によるものではありません。民が切(せつ)に仰(あお)ぎ慕(した)い、皇澤(こうたく)(天子(てんし)が与える恵(めぐ)み)を待ち望むようになるためには、仁徳による教化が必要です」

と言うと、桓玄(かんげん)は怒って言った。

「漢高(かんこう)(漢(かん)の高祖(こうそ)・劉邦(りゅうほう))や魏武(ぎぶ)(曹操(そうそう))は幾度も敗れたが、諸将は利益を失っただけだっ!天文が悪かったために旧楚(きゅうそ)の都(みやこ)に還(かえ)ったが、小者どもが惑(まど)い、妄(みだ)りに是非(ぜひ)を生じさせている。こういった輩(やから)は猛烈に糾弾(きゅうだん)すべきで、恩徳を見せるのは得策ではない」

桓玄(かんげん)の左右の者たちが「桓詔(かんしょう)」と言うと、桓胤(かんいん)は諫(いさ)めて言った。

「漢(かん)・魏(ぎ)の主たちは、誰一人としてそんなことは言っていません。唯一、北方の捕虜が苻堅(ふけん)のことを「苻詔(ふしょう)」と呼んでいたことを聞いたことがあります。願わくは陛下が古代の帝則を守り、万世(ばんせい)にわたって従われますように」

すると桓玄(かんげん)は「これはすでに行われたことであり、宣敕(せんちょく)を撤回することはさらに不祥(ふしょう)(不吉)である。それは正しいことに違いないが、落ち着くのを待とう」と言った。


荊州(けいしゅう)の郡守(ぐんしゅ)は桓玄(かんげん)が播越(はえつ)(流浪)していることを受けて、桓玄(かんげん)に使者を派遣してきたが、匪寧(ひねい)の辞(無礼な言葉)があったので、桓玄(かんげん)はそのすべてを受けず、なお郡守(ぐんしゅ)たちに命じて遷都(せんと)を表賀(ひょうが)(上表して慶賀(けいが)すること)させた。

桓玄(かんげん)は遊擊将軍(ゆうげきしょうぐん)・何澹之(かたんし)、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)・庾稚祖(ゆちそ)、江夏太守(こうかたいしゅ)・桓道恭(かんどうきょう)、郭銓(かくせん)に数千人で湓口(ほんこう)を守らせた。また輔国将軍(ほこくしょうぐん)・桓振(かんしん)は兵を集めるために義陽(ぎよう)に派遣されたが、弋陽(よくよう)に至ったところで龍驤将軍(りゅうじょうしょうぐん)・胡譁(こか)に敗れ、単騎で逃げ還(かえ)ってきた。


劉裕(りゅうゆう)軍の何無忌(かむき)、劉道規(りゅうどうき)らは桑落洲(そうらくしゅう)で郭銓(かくせん)、何澹之(かたんし)、郭昶之(かくちょうし)らを破ると、尋陽(じんよう)に軍を進めた。

桓玄(かんげん)は舟艦200隻(せき)を率(ひき)いて江陵(こうりょう)を出発し、苻宏(ふこう)と羊僧寿(ようそうじゅ)を前鋒とした。

また桓玄(かんげん)は鄱陽太守(はようたいしゅ)・徐放(じょほう)を散騎常侍(さんきじょうじ)とし、義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)に派遣して説解(説得)させようとし、徐放(じょほう)に、

「諸人(もろびと)(世間一般の人々)は天命を知らず、勝手気ままに行動し、ついに結託してて反乱を起こした。卿(あなた)は3州(劉裕(りゅうゆう)軍)に朕(ちん)(桓玄(かんげん))の心を表明し、兵を退(ひ)き鎧(よろい)を外せば、それぞれ官位を授(さず)け、失うものがないように取り計(はか)らおう。江水(こうすい)(長江(ちょうこう))がここにあり続けるように、朕(ちん)(桓玄(かんげん)) が約束を違(たが)えることはない」

と言うと、徐放(じょほう)は「劉裕(りゅうゆう)は唱端(しょうは)の主(首謀者)であり、(その仲間の)劉毅(りゅき)の兄を陛下は誅殺(ちゅうさつ)なされており、彼らを説得することはできません。何無忌(かむき)に聖旨(せいじ)を下すべきです」と言った。

すると桓玄(かんげん)は「卿(あなた)の使者の任務が成功すれば、卿(あなた)を呉興相(ごこうしょう)としよう」と言ったが、徐放(じょほう)はそのまま何無忌(かむき)軍に投降した。


劉裕(りゅうゆう)の魏詠之(ぎえいし)が歴陽(れきよう)で桓歆(かんきん)を破り、諸葛長民(しょかつちょうみん)がまた芍陂(しゃくひ)において桓歆(かんきん)を破り、桓歆(かんきん)は単騎で淮水(わいすい)を渡った。

また、劉毅(りゅき)は劉道規(りゅうどうき)と下邳太守(かひたいしゅ)・孟懐玉(もうかいぎょく)は共に崢嶸洲(そうこうしゅう)で桓玄(かんげん)と戦った。当初、義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)は数千、桓玄(かんげん)の兵の士気は盛んであったが、桓玄(かんげん)は敗北を懼(おそ)れてたびたび軽舸(けいか)(軽舟)を岸に繋(つな)ぎ止めていたので、桓玄(かんげん)の兵は戦意を喪失(そうしつ)してしまった。

そこへ義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)が風に乗せて火を放ち、全軍が先を争って戦ったので、桓玄(かんげん)の兵は潰滅(かいめつ)した。輜重(しちょう)は焼かれて夜のうちに敗走し、郭銓(かくせん)は義軍(劉裕(りゅうゆう)軍)に降伏した。

また、桓玄(かんげん)の故将(こしょう)(老将)・劉統(りゅうとう)と馮稚(ふうち)らの一党400人が尋陽城(じんようじょう)を奇襲して陥落(かんらく)させたが、劉毅(りゅき)は建威将軍(けんいしょうぐん)・劉懐肅(りゅうかいしゅく)を派遣してこれを平定した。

桓玄の死

桓玄(かんげん)は永安皇后(えいあんこうごう)と皇后(こうごう)を巴陵(はりょう)に留(とど)めた。この時、殷仲文(いんちゅうぶん)は桓玄(かんげん)の艦(ふね)にいたが、散り散りになった兵を集めるために別船を出すことを求め、桓玄(かんげん)に叛(そむ)いて夏口(かこう)に逃走した。

桓玄(かんげん)が江陵城(こうりょうじょう)に入ると、馮該(ふうがい)はもっと戦うように勧めたが、桓玄(かんげん)は従わず、漢川(かんせん)に出て梁州刺史(りょうしゅうしし)・桓希(かんき)の元に身を寄せようとしたが、桓希(かんき)に拒(こば)まれたため(而人情乖阻)行くことはできなかった。

桓玄(かんげん)が馬に乗って都を出て門に至ると、暗闇の中で部下に襲われ、やっとのことで船に辿(たど)り着いた。


荊州別駕(けいしゅうべつが)・王康産(おうこうさん)が安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))を奉じて南郡(なんぐん)の府舍に入り、南郡太守(なんぐんたいしゅ)の王騰之(おうとうし)が文武を率(ひき)いて護衛した。

この時、益州刺史(えきしゅうしし)の毛璩(もうきょ)が、従孫(じゅうそん)の毛祐之(もうゆうし)と参軍(さんぐん)の費恬(ひてん)に兵2百を与えて弟・毛璠(もうはん)の葬儀への使者として江陵(こうりょう)に派遣し、桓玄(かんげん)配下の屯騎校尉(とんきこうい)であった毛璩(もうきょ)の弟の子・毛脩之(もうしゅうし)は、桓玄(かんげん)に蜀(しょく)に入るように誘い、桓玄(かんげん)はこれに従った。

桓玄(かんげん)が枚回洲(ばいかいしゅう)に達すると、費恬(ひてん)と毛祐之(もうゆうし)は桓玄(かんげん)を迎撃し、雨のように矢を射(い)かけた。桓玄(かんげん)の嬖人(へいじん)(お気に入り)の丁仙期(ちょうせんき)・万蓋(ばんがい)らは桓玄(かんげん)を守り、その身に数十本の箭(や)を受けて死んだ。

桓玄(かんげん)自身も箭(や)を受けたが、その度(たび)に子の桓昇(かんしょう)(桓升(かんしょう))が箭(や)を引き抜いた。益州督護(えきしゅうとくご)の馮遷(ふうせん)が素早く刀を抜いて立ちはだかると、桓玄(かんげん)は頭から玉導(ぎょくどう)(冠(かんむり)の装飾品)を抜いて渡し、「天子(てんし)を殺そうとする奴は誰だっ!」と言った。すると馮遷(ふうせん)は「天子(てんし)の賊(ぞく)を殺すのだ」と言い、ついに桓玄(かんげん)を斬った。享年(きょうねん)36歳。桓石康(かんせきこう)・桓濬(かんしゅん)(桓浚(かんしゅん))ら5人が斬られ、庾頤之(ゆいし)は戦死した。

桓昇(かんしょう)(桓升(かんしょう))は「私は豫章王(よしょうおう)だ、殺さないでくれ」と言ったが、江陵(こうりょう)に送られ市で斬られた。

逸話

以前、桓玄(かんげん)が宮中にいた時のこと。桓玄(かんげん)は常に鬼神に怯(おび)え、親しい者に「死ぬのが恐い」と言っていた。

元興(げんこう)年間(402年〜404年)、衡陽(こうよう)で雌鶏(めんどり)が雄鳥(おんどり)に化(ば)け、80日後に鶏冠(とさか)が萎(な)えた。桓玄(かんげん)が楚(そ)(桓楚(かんそ))を建国した時、衡陽(こうよう)は楚(そ)(桓楚(かんそ))に属したが、簒奪(さんだつ)してから敗れるまで、ちょうど80日だった。

当時の童謠(どうよう)に、

〽長幹巷、巷長幹、今年郎君(ろうくん)が殺されたが、後年、諸桓(しょかん)は斬られるだろう

というものがあり、その凶兆はその通りとなった。郎君(ろうくん)とは、司馬元顕(しばげんけん)のことである。

この月、王騰之(おうとうし)は安帝(あんてい)(司馬徳宗(しばとくそう))を奉じて太府(たいふ)に入居した。桓謙(かんけん)は桓玄(かんげん)を弔(とむら)うために人を集め、喪庭(もてい)(霊堂(れいどう))を立てて、武悼皇帝(ぶとうこうてい)と偽諡(ぎし)(非公式の諡(おくりな))した。

劉毅(りゅき)らが桓玄(かんげん)の首を大桁(おおげた)(朱雀橋(すざくきょう))に梟(さら)すと、それを見た民衆たちは大喜びした。


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