正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(70)譙国桓氏⑦(桓玄)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物⑦、
についてまとめています。
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か(70)譙国桓氏⑦
第4世代(桓玄)
桓玄・敬道
東晋の太和4年(369年)〜楚(桓楚)の永始2年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓温。子に桓昇(桓升)。兄は桓熙、桓済、桓歆、桓禕、桓偉。
出生秘話
桓玄は一名を霊宝と言い、大司馬・桓温の孽子(妾の子)である。
桓玄の母・馬氏が同輩の女性と座っていた時のこと。月夜の日に流星が銅製の盆の水の中に墜ち、突然、2寸(約4.9cm)の明るく澄んだ火珠のようなものが現れた。みなで競ってそれを瓢ですくい、馬氏がそれを呑み込んだところ、違和感を感じてついに妊娠した。
こうして生まれたのが桓玄であり、桓玄が生まれた時に光が差して部屋の中を明るく照らしたことから、占者はこれを珍しいことであると言い、小名を「霊宝」と名づけた。
乳母(妳媼)が桓玄を抱いて訪ねてくると、何をしていてもすぐに飛んで来るほど、父の桓温は殊の外桓玄を溺愛した。
仕官
桓温は臨終に際して「桓玄に自分の後を継がせる」ように命じ、南郡公の爵位を継がせた。
桓温の喪が明けた桓玄が7歲の時のこと。府州文武(揚州刺史?)を辞した叔父の桓沖は、桓玄の頭を撫でて「私はあなたの家の故吏*2だよ」と言った。その言葉に桓玄は涙を流し、居並ぶ者たちはみな驚いた。
成長した桓玄の容姿は殊に立派で眉目秀麗、芸術に通じ、文才もあった。彼には才能があり、勇ましく強いことを自らの拠り所としていたが、人々はみな憚り、また朝廷では疑って桓玄を用いなかった。
23歲の時、桓玄は初めて太子洗馬を拝命したが、当時、「桓温には簒奪の意志があった」と噂されており、桓玄の兄たちはみな閑職(素官)に就いていた。
脚注
*2辟召によって取り立てられた者のこと。上司と非常に強い結びつきを持った。
荊楚に隠棲する
東晋の太元年間(376年〜396年)の末、地方に出されて義興太守となった桓玄は落ちぶれて鬱々とし、「父は九州の伯であったのに、子の私は五湖の長でしかないのかっ!」と嘆き、官職を棄てて国に帰った。
国家に対して大きな功績があった一門にも拘わらず、世間から謗られていることから、桓玄は父・桓温の国家に対する功績を挙げ、待遇の改善を求める上疏をしたが、返答はなかった。
荊楚に滞在すること数年、桓玄は何事もなくのんびりと心のままに過ごしていたが、荊州刺史の殷仲堪は桓玄を大変敬って遠慮していた。
王恭の挙兵
王国宝討伐
東晋の隆安元年(397年)、安帝(司馬徳宗)を擁立した会稽王・司馬道子に重用されていた中書令の王国宝*3が、地方軍(方鎮)の削減を謀ろうとしていることを知った王恭は、国を憂える発言をしていた。
秘かに王恭の功績を買っていた桓玄は、殷仲堪に「王恭を盟主に推戴して王国宝を討つこと」を持ちかけた。初め殷仲堪は疑っていたが、王恭から殷仲堪と桓玄を招いて朝廷を匡正する旨の手紙が届くと、桓玄と共にこれに参加した。
この挙兵に驚いた司馬道子が王国宝を廷尉に下して処刑すると、王恭らは兵を収めた。
王恭の挙兵後、桓玄が広州に赴任することを求めると、司馬道子は桓玄が荊楚にいることを不都合に思っていたので、これを認めた。
脚注
*3王国宝の従妹が司馬道子の妃であった。
王愉・司馬尚之兄弟討伐
隆安2年(398年)、桓玄を督交広二州・建威将軍・平越中郎将・広州刺史・仮節とする詔が下されたが、桓玄は受命しても任地に赴かなかった。
この年、王恭がまた豫州刺史・左将軍の庾楷と共に、江州刺史・王愉と譙王・司馬尚之兄弟討伐の兵を起こすと、桓玄と殷仲堪は「王恭は必ず打ち勝つだろう」と言い、殷仲堪は王恭に呼応して桓玄に5千の兵を与え、龍驤将軍・楊佺期をつけて先鋒とした。
軍が湓口に至ると、王愉は臨川に逃走したが、桓玄は偏将軍を派遣してこれを追い、王愉を捕らえた。
その後、桓玄と楊佺期は石頭に至り、殷仲堪は蕪湖に至ったが、王恭の将・劉牢之が背いたため、庾楷は敗れて桓玄の陣に逃亡し、王恭は捕らえられ、健康に送られて斬られた。
朝廷匡正の盟主となる
盟主に推戴される
詔が下されて桓玄は江州刺史とされ、殷仲堪らもみな職を交換されたが、桓玄らは舟を返して西に還り、尋陽に駐屯すると、共に盟約を結んで桓玄を盟主とした。
桓玄が上疏して誅殺された王恭の無実の罪の申し開きをし、司馬尚之・劉牢之らを誅殺することを求めると、朝廷は深く恐れ憚り、桓脩を罷免して殷仲堪を荊州刺史に復帰させることで和解しようとした。
桓玄への不信感
以前、桓玄が荊州で気ままに過ごしていた時、吏民は州牧(殷仲堪)よりも桓玄に遠慮していたので、殷仲堪の配下(親党)は桓玄を殺すように勧めたが、殷仲堪は聴き入れなかった。
尋陽においてその名声と地位により盟主に推戴された桓玄は、いよいよ自らを誇るようになった。
また、楊佺期は驕悍(心が驕っていて荒々しいこと)な人物で、常に自ら「江東で比類ない華胄(名門)の継承者である」と言っていたが、桓玄が寒士(貧しい人)でありながら盟主となっていることをひどく憾み、壇所で桓玄を襲おうとしたが、殷仲堪は楊佺期兄弟が勇猛なことから、桓玄の次は自分が殺されることを恐れ、これを禁じた。
その後、詔を奉じて各々の任地(鎮)に還ったが、桓玄は楊佺期が秘かに自分を害しようとしていることを知り、夏口に駐屯した。
朝廷の離間工作
隆安3年(399年)、桓玄は詔により都督荊州四郡を加えられ、兄の桓偉は輔国将軍・南蛮校尉となった。(桓偉は楊佺期の兄・楊広に代わって南蛮校尉となったので、楊佺期兄弟を怒らせた)
殷仲堪は桓玄が跋扈していることを慮って楊佺期と婚姻関係を結び、桓玄は殷仲堪と楊佺期に隙があれば、これを襲って勢力を拡大したいと思っていた。
また、朝廷は彼らを仲違いさせるため、楊佺期が督する4郡を桓玄に与えると、楊佺期は激怒した。
その後、後秦の姚興が洛陽に侵攻すると、楊佺期の建牙(護衛部隊)は「洛陽を救う」ことを口実に、秘かに殷仲堪と共に桓玄を襲おうとしたが、殷仲堪は楊佺期と結んではいたものの彼を疑って、従弟の殷遹を北の境に駐屯させて楊佺期を遮らせた。
楊佺期は独力で挙兵することはできず、また殷仲堪の本意を測りかねて出陣を取りやめた。
荊州・揚州の平定
その後荊州で洪水が起こり、殷仲堪は被災者に食糧を施したため、倉庫は空になった。
桓玄はこれに乗じて攻撃を開始し、先に軍を派遣して巴陵を攻めさせた。巴陵は梁州刺史・郭銓が守っていたが、夏口を通過する時、桓玄は「朝廷は郭銓を我が先鋒として遣わした。江夏の兵を授り、諸軍を督して並んで進むように」と宣言し、秘かに兄の桓偉に内応するように知らせた。
桓偉はどうしたら良いのか途方に暮れ、殷仲堪に助けを求ると、殷仲堪は桓偉を人質に取って、桓玄に「非常に苦しい状態だ」と手紙を書くように命じた。すると桓玄は「殷仲堪は決断できない男だ。子供のように常に成功か失敗かを考えている。我が兄のことを心配する必要はない」と言った。
桓玄が巴陵に至ると、殷仲堪は軍を派遣してこれを防いだが、桓玄に敗れた。
桓玄は楊口に進むと、そこでまた殷仲堪の弟の子・殷道護を破り、江陵を去ること20里(約8.6km)、零口に至るまで勝利を重ね、殷仲堪は複数の道でこれを防いだ。
そこで、襄陵から楊佺期が自らやって来て、兄・楊広と共に桓玄を攻撃すると、桓玄はその強さを恐れて馬頭に軍を退いた。
楊佺期らはこれを追撃したが苦戦し、楊佺期は敗れて襄陵に逃げ還り、殷仲堪は酇城に出奔した。すると桓玄は攻勢に転じ、将軍の馮該を派遣して楊佺期を掃討させ、彼を捕らえた。楊広もまた捕らえられ、桓玄の元に送られて2人とも処刑された。
楊佺期の死を聞いた殷仲堪は、数百人の将と共に後秦の姚興の元に逃亡したが、冠軍城に至ったところで馮該に捕らえられ、桓玄の命令により自害した。
こうして荊州と雍州が平定されると、桓玄は上表して江・荊二州を領することを求め、朝廷は詔を下して、桓玄を都督荊司雍秦梁益寧七州・後将軍・荊州刺史・仮節とし、桓脩を江州刺史とした。
ところが、桓玄は上疏して督八州及楊豫八郡に進め、江州刺史を復するように求め、また兄の桓偉を冠軍将軍・雍州刺史とするように求めた。
当時はまだ寇賊が平定されていなかったので、朝廷は桓玄の意向に逆らうことはできず、これを許した。
桓玄の増長
桓玄は腹心を用い兵馬を日々盛んにし、しばしば上疏して(五斗米道の)孫恩を討つことを求めたが、詔によりすべて却下された。
その後孫恩が京都(健康)に迫ると、桓玄は国家のために建牙(護衛部隊)や兵を集めた。その実、敵の欠点を観察し、再度孫恩を討つことを上疏するつもりだったが、孫恩が敗走すると、桓玄はまた詔を奉じて戒厳令を解いた。
兄の桓偉を江州刺史として夏口に駐屯(鎮)させ、司馬の刁暢を輔国将軍・督八郡として襄陽に駐屯(鎮)させ、甥の桓振、皇甫敷、馮該らを派遣して湓口を守らせた。
また、沮漳蛮2千戸を江南に移して武寧郡を立て、さらに流民を召集して綏安郡を立てて、それぞれに郡丞を置いた。
詔により広州刺史・刁逵と豫章太守・郭昶之が徵(征)されたが、桓玄はみな留めて遣らなかった。
桓玄は自ら「(私は東晋の)2/3を有し、運勢の帰する所を知っている。しばしば現れる禎祥(めでたいしるし)は自分のためのものだ」と言っていた。
朝権奪取
庾楷の裏切り
以前、劉牢之に敗れた庾楷が桓玄の元に逃げ込んでいた。桓玄は孫恩を討つために庾楷を右将軍としたが、すでに戒厳令は解かれ、庾楷は職を去った。
庾楷は「桓玄が朝廷と仲違い(構怨)して敗れ、自分に禍が及ぶ」ことを恐れ、秘かに後将軍・司馬元顕(司馬道子の子)と結んで内応を許された。
桓玄討伐
元興元年(402年)、司馬元顕は桓玄討伐の詔を下したが、この時太傅長史であった桓玄の従兄・桓石生は、秘かに書を送って桓玄に知らせた。
桓玄は「今、揚州には飢饉があり、孫恩もまだ滅んでいないので、今すぐ私を討伐することはできまい。今は兵を養って力を蓄え、相手の隙を観察して動けばよい」と言っていたが、すでに司馬元顕が討伐の兵を起こしたと聞いて大いに懼れ、江陵の守りを固めようとした。
すると長史の卞范は桓玄に説いて言った。
「公(桓玄)の英略と威名は天下に轟いています。乳臭い司馬元顕と人心を失った劉牢之の若兵が近畿に臨んで威賞(刑罰と恩賞)を示してみても、その勢いは一瞬で崩れるでしょう。敵が境界に入ってくるのを待つのは弱者のすることですっ!」
桓玄は大いに悦んで兄の桓偉に江陵を守らせると、兵を率いて尋陽に至り、京邑(健康)に司馬元顕の罪状を記した檄を飛ばし、檄が至ると司馬元顕は大いに懼れ、出陣を取りやめて船を下りた。
すでに人情を失っていた桓玄は軍を起こして叛逆した。尋陽を過ぎた時、王師(司馬元顕の軍)が見当たらないので、桓玄も将吏もみな大いに悦んだ。またこの時、庾楷は謀が漏れて捕らえられた。
姑孰に至ると、桓玄は先に馮該、苻宏、皇甫敷、索元らに譙王・司馬尚之を攻撃させ、これを破った。ここにおいて、劉牢之は子の劉敬宣を派遣して桓玄に降伏した。
朝権を握る
桓玄が新亭に至ると、司馬元顕は自滅した。京師(健康)に入った桓玄は、矯詔*4を下して総百揆(百官)に自分の名を加え、侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・揚州牧・領徐州刺史となり、また仮黄鉞・羽葆*5・鼓吹・班剣20人を加えられ、属官に左右長史・司馬・従事中郎4人を置き、甲杖200人を連れて上殿することを許された。
桓玄は太傅・司馬道子と司馬元顕の悪事を列挙し、司馬道子を安成郡に徙し、市において司馬元顕を殺害した。
その後桓玄は太傅府に入居すると、太傅中郎の毛泰、毛泰の弟で遊擊将軍の毛邃、太傅参軍の荀遜、前の豫州刺史の庾楷父子、吏部郎の袁遵、譙王・司馬尚之らを殺害し、司馬尚之の弟・丹陽尹の司馬恢之、広晋伯の司馬允之、驃騎長史の王誕、太傅主簿の毛遁らを交州・広州の諸郡に流罪とし、司馬恢之と司馬允之はその途上で殺害した。
また、兄の桓偉を安西将軍・荊州刺史・南蛮校尉とし、従兄の桓謙を左僕射・中軍将軍・領選とし、桓脩を右将軍・徐兗二州刺史とし、桓石生を前将軍・江州刺史とし、長史の卞範之を建武将軍・丹陽尹とし、王謐を中書令・領軍将軍とした。
大赦して「大亨」と改元すると、桓玄は丞相の位を讓り、自ら太尉・平西将軍・豫州刺史となった。また袞冕の服(天子の礼服)・緑糸戾綬を加え、班剣を60人に増やし、剣履上殿・入朝不趨・贊奏不名(謁讚不名)の特権を得た。
桓玄が姑孰に出ようとした時、王謐は「『春秋公羊伝』に『周公旦はなぜ魯に行かなかったのか?周による天下一統を望んでいたからだ』とあります。私は周公旦の心を持たれますように願います」と言ったが、桓玄は従うことができなかった。
桓玄はついに大きな城府を築き、館・山・池はみな壮麗であった。姑孰に至ると桓玄は録尚書事を辞退し、朝廷はこれを許したが、依然として大政にはみな関与し、小事は桓謙や卞範が決裁した。民衆は災害や建設、戦争が繰り返されることに嫌気が差しており、一統された状態に戻りたいと思っていた。
桓玄は京師(健康)に至った当時、凡人や佞臣を罷免し、才徳の優れた人物を抜擢して「君子の道」を整え始めたので、京師(健康)は喜んだ。ところがその後、桓玄は朝廷を侮辱し、宰輔(宰相や補佐官)を退けて欲望のままに贅を尽くすようになり、成すべき多くの仕事が滞ったので、朝野(官民)は失望し、みな不安になった。
当時、会稽は飢饉で荒廃していたので、桓玄は貧民救済のために無利子で銭や穀物を貸し与え、内史の王愉は江湖に離散していた農民たちをみな召し還した。役人は折に触れて米を支給したが、18〜19人*6が路上で死んだ。
桓玄はまた、劉牢之一党の北府の将であった呉興太守・高素、輔国将軍・竺謙之、竺謙之の従兄で高平相の竺朗之、高素、輔国将軍・劉襲、劉襲の弟で彭城内史の劉季武、冠軍将軍・孫無終らを殺害した*7。
また、劉襲の兄で冀州刺史の劉軌、寧朔将軍・高雅之、劉牢之の子・劉敬宣は揃って南燕の慕容徳の元に逃亡した。
桓玄は朝廷に司馬元顕を平定した功績をほのめかして豫章公に封ぜられ、食邑として安成郡225里四方の7,500戸を与えられ、また殷仲堪・楊佺期を平定した功績をほのめかして桂陽郡公に封ぜられ、食邑として(桂陽郡の)75里四方の2,500戸を与えられ、南郡の封地はこれまで通りとされた。
その後桓玄は豫章郡に改封され、兄・桓偉の子・桓濬(桓浚)が桂陽郡公を賜って、桓玄は西道県公に降格された。
また詔を発して、姓名に父・桓温の諱・「温」を含む者をみな改名させ、母の馬氏に豫章公太夫人の称号を贈った。
脚注
*4天子の命令を偽り改めること。
*5羽葆蓋車。美しい羽根で飾られた蓋のついた皇帝が乗る馬車。
*6原文:頓僕道路死者十八九焉。10人中8〜9人?
*7輔国将軍が2名いるのは原文ママ。輔国将軍の定員が2名以上いるのか誤植なのかは不明。
簒奪の兆し
人望を失う
元興2年(403年)、桓玄は詐表して「後秦の姚興平定」を求めたが、許されなかった。桓玄は大言を好んだが、結局成し遂げることができないので、詔により止められたのである。
桓玄自身は元々北伐に出陣するつもりはなかったので、撤収の体裁を整えるために、先に軽舸(軽舟)を作り、それに衣服や玩具・書画などを載せて運ばせた。ある人がこれを諫めると、桓玄は「不意の兵凶戦危に備え、書画や衣服・玩具などは運び出しやすくしておくものだ」と言ったので、人々は苦笑した。
桓玄の孤立
この年、桓玄の兄・桓偉が亡くなり、開府・驃騎将軍が贈られ、桓脩がこれに代わった。
この時、従事中郎・曹靖之が桓玄に「桓脩兄弟は内外に赴任しており、彼らが天下を傾けるのではないかと恐れます」と言うと桓玄は納得し、南郡相の桓石康を西中郎将・荊州刺史とした*8。
桓偉の喪が始まると、桓玄は公除*9して音曲(楽)を作った。それが初めて演奏されると、桓玄は手拍子をしながら慟哭し、目に涙を浮かべて喜んだが、親族の中で桓玄を仗る者は桓偉だけだったので、桓偉が亡くなったことで桓玄は孤立した。
脚注
*8桓脩兄弟は叔父・桓沖の子。桓石康は叔父・桓豁の子。
楚王となる
当時、桓玄の簒奪の意思は顕著で、桓玄は自分に対する怨みが天下に満ちていることを知っていた。そのため桓玄は一刻も早く簒奪を実行したいと思っており、殷仲文や卞範之らもまた簒奪の実行を催促した。
そこで桓玄は人事異動を行い、琅邪王司徒を太宰に昇進させて特別の待遇を与え、桓謙を侍中・衛将軍・開府・録尚書事とし、王謐を散騎常侍・中書監・領司徒とし、桓胤を中書令とし、桓脩に散騎常侍・撫軍大将軍とし、学官を置いて二品の品官の子弟数百人に教授した。
また、総百揆(百官)に矯詔*4を下して自ら相国を加え、自ら南郡、南平郡、宜都郡、天門郡、零陵郡、営陽郡、桂陽郡、衡陽郡、義陽郡、建平郡の10郡に封じ、自ら楚王となって九錫を加え、楚国に丞相以下旧典に遵って官職を置いた。
また桓玄は、天子に前殿で禅譲をほのめかしながら何度も辞退したので、天子は詔により百官を遣わして「鑾輿(天子の車)を降りて命を受けます」と言った。
桓玄は矯詔*4を下して父・桓温に楚王を贈り、母の南康公主を楚王后とした。
また平西長史の劉瑾を尚書、刁逵を中領軍、王嘏を太常、殷叔文を左衛、皇甫敷を右衛とし、およそ60余人を楚(桓楚)の官属とした。桓玄は自ら平西将軍・豫州刺史を解任し、その将・官属を相国府に編入した。
脚注
*4天子の命令を偽り改めること。
*9国政の責任のために喪服を脱ぐこと。
庾仄が義兵を起こす
新野の人・庾仄は、桓玄が九錫を受けたと聞くと義兵を起こし、襄陽の馮該を襲って敗走させた。
庾仄は7千の軍勢を有し、城の南に祭壇を設置して祖宗7廟を祭ると、南蛮参軍・庾彬、安西参軍・楊道護、江安令・鄧襄子らは謀ってこれに内応した。庾仄は殷仲堪の一党であったが、桓偉が死に、桓石康がまだ到着していない状況を利用し、江陵を震撼させたのである。
すると、桓玄の兄・桓済の子・桓亮は自ら平南将軍・湘州刺史と号し、「庾仄討伐」を名目に羅県において兵を起こした。南蛮校尉・羊僧寿は桓石康と共に襄陽を攻め、庾仄の軍は離散して後秦の姚興の元に逃亡し、庾彬らはみな殺害された。
その後、桓亮は乱に乗じて兵を起こし、長沙相の陶延寿がこれを收めた。桓玄は桓亮を衡陽に徙し、同謀した桓奥らを誅殺した。
簒奪の準備
桓玄は上表して帰藩することを求め、その後自ら留める詔を下した。そしてまた帰藩することを強く求める上表をし、天子の手で強く留める詔を作らせた。桓玄はこのような偽りのやり取りを好み、(桓玄が発給した)塵にまみれた簡牘(文字を書き記した木や竹の札)はみなこのようなものばかりであった。
桓玄は、秘かに臨平湖の湖面を清めさせ、祥瑞(吉兆)の出現を報告させた。そして官吏たちを臨平湖に集めて祝賀させると、矯詔*4してこれを「相国(桓玄)の徳によるもの」だとした。
また桓玄は、偽って「江州の王成の家の竹の上に甘露(天から降る甘い液体。吉兆の1つ)が降った」と言った。
また、昔のように「肥遁の士(隠者)」の出現を想像し、皇甫謐の6世の孫・皇甫希之に高士(隠君子)の扮装をさせたので、当時の人々は彼を「充隠」と呼んだ。
桓玄は政令の執行に確固たる意志がなく、頻繁に考えを変えるため、命令に一貫性がなく混沌としていた。
桓玄は貪鄙(貪り卑しい)性格で奇異を好み、最も宝物を愛して珠玉を手放さなかった。彼は他人の優れた書画や美しい園宅のことごとくを手に入れたいと思っていたが、強制的に取り上げることはできなかったので、みな樗蒲*10において取り上げた。
遣臣佐四出,掘果移竹,不遠數千里,百姓佳果美竹無復遺餘。信悅諂譽,逆忤讜言,或奪其所憎與其所愛。
脚注
*4天子の命令を偽り改めること。
*10双六のようなゲーム。賭博の一種。
帝位を簒奪する
元興2年(403年)11月、桓玄は矯制*4して自分の冕(冠)に12旒*11の玉飾りをつけ、天子の旌旗を建てて出入りの際に蹕(先払い)と通行禁止の措置をとり、金根車に乗り6頭立ての馬*12に引かせて五時車*13を副車とし、旄頭*14・雲罕(旌旗)を設置し、音楽には八佾*15を演じ、宮殿に鐘虡*16を設置し、妃を王后とし、世子を太子とし、女と孫の爵号を旧制に倣って改めさせた。また桓玄は多くの朝臣を斥けて太宰の補佐とした。
桓玄は安帝(司馬徳宗)が(禅譲の)詔を下さないことを恐れ、また璽をが手に入らないことを配慮して臨川王・司馬宝に「安帝(司馬徳宗)に自らの手で詔を下させる」ように逼り、璽を奪取した。
璽を手に入れた桓玄は、矯制*4して司徒の王謐に太保を兼ねさせると、皇帝の璽を奉じて自分に禅位(禅譲)させた。また安帝(司馬徳宗)に禅位(禅譲)したことを廟に報告させ、安帝(司馬徳宗)を永安宮に、晋の神主(位牌)を琅邪廟に移した。
百官は姑孰に赴き桓玄に帝位の簒奪(僭偽位)を勧め、桓玄は辞退してみせた。そして朝臣たちがさらに強く要請すると、桓玄は城の南7里(約3.01km)の郊外に設けた祭壇に登って帝位を簒奪し、玄牡(黒い牡牛)を生贄に捧げて天に告げた。
また、桓玄が元号を「建始」としようとしたところ、右丞の王悠は「『建始』は[西晋の恵帝(司馬衷)の帝位を簒奪した]趙王・司馬倫の元号です」と言った。結局、桓玄は「永始」と改元したが、これもまた王莽が執権を始めた年の不吉な年号であった。
桓玄は大赦して、天下(全国民)に爵2級、親孝行な者、よく田を耕す者には爵3級を下賜し、身寄りがなく自活できない者には5穀の穀物を下賜したが、その賞賜の制度は名目だけで、その実態はなかった。
また、東晋の安帝(司馬徳宗)を南康の平固県に奉じて平固王とし、車旗・正朔は旧典の通りとした。
桓玄は陳留王[魏の元帝(曹奐)]を鄴宮に遷した故事に倣って、すぐに帝居を尋陽に遷し、永安皇后(何法倪)を零陵君、琅邪王を石陽県公、武陵王・司馬遵を彭澤県侯に降格させた。
また、父・桓温を追尊して宣武皇帝としてその廟を太廟と称し、母の南康公主を宣皇后とした。
その他の人事
桓玄が建康の宮殿に入った時、激しい逆風が吹いて旗や儀礼用の飾りがみな倒れた。
西堂で小会が行われたが、そこには妓楽(妓女が演奏する音楽)が演奏され、殿上には絳い豪華な帳幕と五色の羽葆旒蘇(羽根製の垂れ幕)を銜えた4本角の金の龍が配置されていた。
群臣たちは互いに様子を窺いながら「これは輀車(貴人の葬送の際に棺を載せて運ぶ車)や王莽の仙蓋(五色の絹糸を傘に結びつけたもの)によく似ています」と言った。また桓玄は金根車を造り6頭立ての馬*12に引かせた。
この月、桓玄は裁判を臨聴して囚徒を観察し、罪の軽重にかかわらず、その多くを釈放した。
有幹輿乞者,時或恤之。其好行小惠如此。自以水德,壬辰,臘于祖。
尚書都官郎を賊曹に改め、また五校・三将および強弩・積射の武衛官を増設した。
脚注
*4天子の命令を偽り改めること。
*11冕(冠)は天子、三公・諸侯・卿・大夫が着用した冠。天子は前後に12旒、三公・諸侯は前のみに9旒、卿・大夫は前のみに9旒と たまだれ の数が規定されていた。
*12金根車は天子の車。天子の車は6頭立てであった。
*135つの季節の色(春:青、夏:赤、季夏:黄、秋:白、冬:黒)に塗った副車。
*14天子の旗につける から牛 の飾り。
*15天子の舞楽。8人8列になって舞う。
*16猛獣があしらわれた鐘を吊す台。
奢侈にふける
元興3年(404年)[桓玄の永始2年]、尚書が「春蒐(天子が春に行う狩猟)」の字を「春菟」と誤って答え、関係するすべての部署が降格となった。桓玄が大綱(事柄の根本となる骨組み)を無視し、軽微な失敗を取り上げて糾弾する様子は、みなこの様であった。
妻の劉氏を皇后とし、御殿を修復して東宮に移し、また東掖・平昌・広莫の宮殿の諸門を開き、みな三道とした。更に大輦(大人数が座ることができる人力の車)を造り、3千人が座って2百人で担がせた。
また桓玄は畋遊(遊猟)を好んだが、馬に乗るには身体が大きすぎるため、徘徊輿(回転できる輿)を作り、回転の号令をすることによって滞りなく猟を行った。
桓玄は祖曾を追尊せず、その礼儀を疑って群臣に問うた。散騎常侍の徐広は「『晋典』に依拠してよろしく7廟を追立し、また父を敬うことは則ち子を悅ばせ、位が一段と高い者は人情と道理を得、道が広ければ広いほど尊敬の念は普遍的となるでしょう」と言った。
桓玄は「『礼』には三昭・三穆と太祖をもって7廟*17とするが、それならば太祖は廟の主であり、昭・穆はみな自ずと下位となる。則非逆数可知也。また『礼』には太祖は東向きで、左に昭、右に穆とある。晋室の廟の場合、宣帝(司馬懿)は昭・穆の列にあり、太祖の位置にない。すでに昭・穆は錯誤しており、太祖のあるべき場所は遥か遠くに失われている」と言った。
桓玄の曾祖父以前の人物の評判や地位(名位)は不明であったので、序列をつくることを望まず、また王莽の時代には9廟であったことから、(7廟にこだわらず)ついに1つの廟に改め、郊廟の祭事も2日間だけとした。これに秘書監の卞承は「先祖を祭らなければ、楚の徳が長く続かないことは明らかです」と言い、晋の小さな廟を破壊して広大な台榭(高台式建築)を築いた。
桓玄の母の蒸嘗(祖先をまつる祭り)は定まっておらず、亡くなった時には哭(大声で泣くこと)したが、忌日(命日)には賓客と宴を開いて楽しみ、喪服期間にも音楽を禁止しなかった。
桓玄が水門を出て舟遊びをした時、飄風が起こって桓玄の舟の儀蓋を吹き飛ばした。またその夜には、濤水(大波)が石頭の大桁(朱雀橋)を倒壊させて多くの死者を出し、大風が朱雀門の楼を吹き飛ばして上層部が地面に落ちた。
桓玄は帝位を簒奪して以降、驕って奢侈に耽り、昼夜を問わず狩猟を楽しむ様子は度が過ぎていた。また兄・桓偉の葬儀の日も、夜明けには哭(大声で泣くこと)したが晚には遊び、ある日は1日中馬に乗って駆け回っていた。
また桓玄は短気で、呼べばすぐに来ることを求めた。そのため、職務中の役人はみな馬省(厩舎?)の前に待機し、禁内は騒がしく朝廷の体裁をなしていなかった。
これにより朝野(官民)は疲れ苦しみ、怨みや怒りを抱く者は10人中8〜9人にのぼった。
脚注
*17宗廟における霊位は、太祖の廟を中央とし、向かって右に三昭(2世・4世・6世の廟)が並び、向かって左に三穆(3世・5世・7世の廟)を並べた。
東晋再興の義兵
挙兵の漏洩
劉裕・劉毅・何無忌らは(東晋の)再興を共謀した。
劉裕らは京口において桓脩を斬り、広陵において桓弘を斬ると、河内太守の辛扈興・弘農太守の王元徳・振威将軍の童厚之・竟陵太守の劉邁らと内応を謀った。
時期が至ると、劉裕は周安穆を派遣して(内応の)報告をさせたが、劉邁は恐れ慌てて、ついに桓玄に劉裕らの謀を告げた。桓玄は大いに驚いて震え上がり、すぐさま辛扈興らを殺害したが、周安穆は逃げ去ることができた。
劉裕らの謀を告げた功績により桓玄は劉邁を重安侯に封じたが、次の日には彼を殺害した。
敗北を恐れる
劉裕が義軍を率いて竹裏に至ると、桓玄は上宮に移り、百僚は徒歩で従って、役人(侍官)たちはみな召集されて省中に留められた。
桓玄は揚州・豫州・徐州・兗州・青州・冀州に恩赦を出し、桓謙に征討都督・仮節を加え、殷仲文を殺害された桓脩の代わりとし、遣頓太守の呉甫之と右衛将軍の皇甫敷に北の義軍(劉裕軍)を防がせた。
劉裕らは江乗の戦いにおいて呉甫之を斬ると、羅落橋に進軍して皇甫敷と戦い、その首を晒した。
呉甫之と皇甫敷の敗死を聞いた桓玄は大いに懼れ、道士(道術人)たちを召して「厭勝の法(他人を屈服させるまじない)」を行わせた。桓玄がみなに「朕(私)は敗れるのか?」と問うと、曹靖之は「神は怒り、人は怨んでおり、臣は実に懼れております」と言った。
そして桓玄が「人が怨むことはあるかもしれんが、なぜ神が怒るのだ?」と問うと、(曹靖之は)「晋の宗廟を移してからというもの、(祖先の霊は)居所を失って彷徨っています。大楚の祭祀が祖先に及んでいないことが、神の怒りの所以です」と言った。
桓玄が「卿はなぜ諫めなかったのだ?」と問うと、(曹靖之は)「輦の上の諸君子はみな堯・舜の時代(理想の時代)のようでした。どうして臣などが敢えて諫められましょうかっ!」と言った。
桓玄は益々怒り懼れ、桓謙と何澹之を東陵に、卞範之を覆舟山の西に駐屯させ、合わせて2万の兵で劉裕の義軍を防がせた。
敗北を重ねる
劉裕は蔣山に至ると、体が著しく弱い者に油帔(袖のない上着)を着せて山を登らせ、それぞれ旗幟(旗印)を広げて複数の道から前進させた。
桓玄の偵侯(偵察隊)が戻ると「劉裕軍の4つの塞には、どれだけの兵がいるのか分かりません」と報告した。
桓玄は益々憂い惶て、武衛将軍の庾頤之に精鋭兵を与えて諸軍を援護させた。ちょうどこの時、激しい東北の風に乗じて義軍(劉裕軍)が火を放ち、煙と塵が空に舞い、京邑(健康)は驚き震え大騒ぎとなった。
劉裕は鉞麾(鉞と指図旗)を掲げて進軍し、桓謙ら諸軍は一瞬のうちに潰走した。
桓玄は親信(旗本)数千人を率いて出陣を宣言し、子の桓昇(桓升)と兄・桓偉の子・桓濬(桓浚)と共に南の掖門を出て西の石頭に至ると、殷仲文に船を準備させて一緒に南へ急いだ。
以前、桓玄が姑孰にいた時から、しばしば将相の星に変化があり、簒奪した日の夕方には月と太白(金星)が羽林に入ったが、これは桓玄にとって甚だ悪い兆しであった。
敗走するに及び、腹心は戦うことを勧めたが、桓玄はそれには答えずただ天を指差した。数日間食べる物もなく、左右の者が粗末な食事を出しても喉を通らず、年端も行かぬ桓昇(桓升)を胸に抱いて撫で、悲しみに打ちひしがれていた。
劉裕は武陵王となって万機(諸々の重要な政務)を司り、行台を立てて百官を統制した。
また劉毅と劉道規に桓玄を追わせ、桓玄の諸兄子と桓石康の兄・桓権、桓振の兄・桓洪らを誅殺した。
江陵に遷都する
桓玄が尋陽に至ると、江州刺史・郭昶之は桓玄の兵力を補充した。後方から到着した殷仲文は、桓玄の舟を眺め見て、旌旗や輿服が「帝者の儀」を備えていることから、ため息をついて「敗北から立ち直ることは可能だ」と言った。
その後、桓玄は乗輿に乗せられて西進した。桓歆は一党を集めて歴陽に向かったが、宣城内史の諸葛長民がこれを撃ち破った。
桓玄は道すがら『起居注』(天子の言行録)を作り、その中で「自ら経略を授け、その策に手抜かりはなかったが、諸将は節度を違えたために虧喪(失う)するに至った。[これは朕(桓玄)の]戦いの罪ではない」と、義軍(劉裕軍)を防いだ時の様子を述べた。臣下たちと謀議する暇もなく、ただ思い耽るままを唱え、遠近に広く告げ示した。
桓玄が江陵に至ると桓石康が迎え入れ、城の南に幔屋を張って百官を任命し、卞范之を尚書僕射として、その他の職は其餘職多用輕資。
桓玄は舟師(船団)を全面的に修理して、30日も経たないうちに兵2万と立派な船団を用意して兵を鼓舞した。
奔敗(敗走)した後、桓玄は法令が遵守されていないことを懼れ、すぐに怒って妄りに人を殺すようになったので、多くの人が怨み離れて行った。
殷仲文が諫めて、
「陛下は荊州・雍州を平定して京室を匡され、その名声は八荒(国の隅々)まで知れ渡っています。極位(天子の位)にありながらこのような不運に見舞われたのは、決して権威の欠如によるものではありません。民が切に仰ぎ慕い、皇澤(天子が与える恵み)を待ち望むようになるためには、仁徳による教化が必要です」
と言うと、桓玄は怒って言った。
「漢高(漢の高祖・劉邦)や魏武(曹操)は幾度も敗れたが、諸将は利益を失っただけだっ!天文が悪かったために旧楚の都に還ったが、小者どもが惑い、妄りに是非を生じさせている。こういった輩は猛烈に糾弾すべきで、恩徳を見せるのは得策ではない」
桓玄の左右の者たちが「桓詔」と言うと、桓胤は諫めて言った。
「漢・魏の主たちは、誰一人としてそんなことは言っていません。唯一、北方の捕虜が苻堅のことを「苻詔」と呼んでいたことを聞いたことがあります。願わくは陛下が古代の帝則を守り、万世にわたって従われますように」
すると桓玄は「これはすでに行われたことであり、宣敕を撤回することはさらに不祥(不吉)である。それは正しいことに違いないが、落ち着くのを待とう」と言った。
荊州の郡守は桓玄が播越(流浪)していることを受けて、桓玄に使者を派遣してきたが、匪寧の辞(無礼な言葉)があったので、桓玄はそのすべてを受けず、なお郡守たちに命じて遷都を表賀(上表して慶賀すること)させた。
桓玄は遊擊将軍・何澹之、武衛将軍・庾稚祖、江夏太守・桓道恭、郭銓に数千人で湓口を守らせた。また輔国将軍・桓振は兵を集めるために義陽に派遣されたが、弋陽に至ったところで龍驤将軍・胡譁に敗れ、単騎で逃げ還ってきた。
劉裕軍の何無忌、劉道規らは桑落洲で郭銓、何澹之、郭昶之らを破ると、尋陽に軍を進めた。
桓玄は舟艦200隻を率いて江陵を出発し、苻宏と羊僧寿を前鋒とした。
また桓玄は鄱陽太守・徐放を散騎常侍とし、義軍(劉裕軍)に派遣して説解(説得)させようとし、徐放に、
「諸人(世間一般の人々)は天命を知らず、勝手気ままに行動し、ついに結託してて反乱を起こした。卿は3州(劉裕軍)に朕(桓玄)の心を表明し、兵を退き鎧を外せば、それぞれ官位を授け、失うものがないように取り計らおう。江水(長江)がここにあり続けるように、朕(桓玄) が約束を違えることはない」
と言うと、徐放は「劉裕は唱端の主(首謀者)であり、(その仲間の)劉毅の兄を陛下は誅殺なされており、彼らを説得することはできません。何無忌に聖旨を下すべきです」と言った。
すると桓玄は「卿の使者の任務が成功すれば、卿を呉興相としよう」と言ったが、徐放はそのまま何無忌軍に投降した。
劉裕の魏詠之が歴陽で桓歆を破り、諸葛長民がまた芍陂において桓歆を破り、桓歆は単騎で淮水を渡った。
また、劉毅は劉道規と下邳太守・孟懐玉は共に崢嶸洲で桓玄と戦った。当初、義軍(劉裕軍)は数千、桓玄の兵の士気は盛んであったが、桓玄は敗北を懼れてたびたび軽舸(軽舟)を岸に繋ぎ止めていたので、桓玄の兵は戦意を喪失してしまった。
そこへ義軍(劉裕軍)が風に乗せて火を放ち、全軍が先を争って戦ったので、桓玄の兵は潰滅した。輜重は焼かれて夜のうちに敗走し、郭銓は義軍(劉裕軍)に降伏した。
また、桓玄の故将(老将)・劉統と馮稚らの一党400人が尋陽城を奇襲して陥落させたが、劉毅は建威将軍・劉懐肅を派遣してこれを平定した。
桓玄の死
桓玄は永安皇后と皇后を巴陵に留めた。この時、殷仲文は桓玄の艦にいたが、散り散りになった兵を集めるために別船を出すことを求め、桓玄に叛いて夏口に逃走した。
桓玄が江陵城に入ると、馮該はもっと戦うように勧めたが、桓玄は従わず、漢川に出て梁州刺史・桓希の元に身を寄せようとしたが、桓希に拒まれたため(而人情乖阻)行くことはできなかった。
桓玄が馬に乗って都を出て門に至ると、暗闇の中で部下に襲われ、やっとのことで船に辿り着いた。
荊州別駕・王康産が安帝(司馬徳宗)を奉じて南郡の府舍に入り、南郡太守の王騰之が文武を率いて護衛した。
この時、益州刺史の毛璩が、従孫の毛祐之と参軍の費恬に兵2百を与えて弟・毛璠の葬儀への使者として江陵に派遣し、桓玄配下の屯騎校尉であった毛璩の弟の子・毛脩之は、桓玄に蜀に入るように誘い、桓玄はこれに従った。
桓玄が枚回洲に達すると、費恬と毛祐之は桓玄を迎撃し、雨のように矢を射かけた。桓玄の嬖人(お気に入り)の丁仙期・万蓋らは桓玄を守り、その身に数十本の箭を受けて死んだ。
桓玄自身も箭を受けたが、その度に子の桓昇(桓升)が箭を引き抜いた。益州督護の馮遷が素早く刀を抜いて立ちはだかると、桓玄は頭から玉導(冠の装飾品)を抜いて渡し、「天子を殺そうとする奴は誰だっ!」と言った。すると馮遷は「天子の賊を殺すのだ」と言い、ついに桓玄を斬った。享年36歳。桓石康・桓濬(桓浚)ら5人が斬られ、庾頤之は戦死した。
桓昇(桓升)は「私は豫章王だ、殺さないでくれ」と言ったが、江陵に送られ市で斬られた。
逸話
以前、桓玄が宮中にいた時のこと。桓玄は常に鬼神に怯え、親しい者に「死ぬのが恐い」と言っていた。
元興年間(402年〜404年)、衡陽で雌鶏が雄鳥に化け、80日後に鶏冠が萎えた。桓玄が楚(桓楚)を建国した時、衡陽は楚(桓楚)に属したが、簒奪してから敗れるまで、ちょうど80日だった。
当時の童謠に、
〽長幹巷、巷長幹、今年郎君が殺されたが、後年、諸桓は斬られるだろう
というものがあり、その凶兆はその通りとなった。郎君とは、司馬元顕のことである。
この月、王騰之は安帝(司馬徳宗)を奉じて太府に入居した。桓謙は桓玄を弔うために人を集め、喪庭(霊堂)を立てて、武悼皇帝と偽諡(非公式の諡)した。
劉毅らが桓玄の首を大桁(朱雀橋)に梟すと、それを見た民衆たちは大喜びした。
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