正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(70)譙国しょうこく桓氏かんし⑦(桓玄かんげん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

譙国桓氏系図

譙国しょうこく桓氏かんし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁かんかつの子の兄弟の順について

晋書しんじょ桓豁かんかつでんには、

桓豁かんかつには20人の子がいたが、桓豁かんかつ苻堅ふけんの国中で「かたい石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行はやっていると聞き、そのすべての名に「石」の字をもちいた。中でも石虔せきけん石秀せきしゅう石民せきみん石生せきせい石綏せきすい石康せきこうらの名が知られている」

とあり、また晋書しんじょ桓玄伝かんげんでんには、

桓石康かんせきこう桓豁かんかつの次子、桓権かんけん桓石康かんせきこうの兄」

とあります。晋書しんじょ桓豁伝かんかつでん桓権かんけんの名前はありませんが、桓権かんけんが長子で、次子の桓石康かんせきこう以降、名前に「石」の字をもちいるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしについて

晋書しんじょ桓彝伝かんいでんには「後漢ごかん五更ごこう*1桓栄かんえいの9世の孫にあたる」とあり、譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしは同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝かんい桓郁かんいくの弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れわることを知る者のこと。続漢志ぞくかんしに「三老さんろう五更ごこうやしなう礼儀は、吉日に先んじて司徒しと太傅たいふ、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公さんこうの中から『徳行がある高齢者』をもちいて、三公さんこうから1名を三老さんろうとし、九卿きゅうけいから1名を五更ごこうとする」とあり、漢官儀かんかんぎには「三老さんろう五更ごこうはみな初婚の妻と息子と娘がすべてそなわっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国しょうこく桓氏かんしの人物⑦、

についてまとめています。

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か(70)譙国桓氏⑦

第4世代(桓玄)

桓玄かんげん敬道けいどう

東晋とうしん太和たいわ4年(369年)〜桓楚かんそ)の永始えいし2年(404年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓温かんおん。子に桓昇かんしょう桓升かんしょう)。兄は桓熙かんき桓済かんせい桓歆かんきん桓禕かんい桓偉かんい

出生秘話

桓玄かんげんは一名を霊宝れいほうと言い、大司馬だいしば桓温かんおん孽子げっしめかけの子)である。

桓玄かんげんの母・馬氏ばし同輩どうはいの女性と座っていた時のこと。月夜の日に流星が銅製のぼんの水の中にち、突然、2寸(約4.9cm)の明るくんだ火珠ひのたまのようなものが現れた。みなで競ってそれをひさごですくい、馬氏ばしがそれをみ込んだところ、違和感を感じてついに妊娠した。

こうして生まれたのが桓玄かんげんであり、桓玄かんげんが生まれた時に光が差して部屋の中を明るくらしたことから、占者せんしゃはこれをめずらしいことであると言い、小名しょうみょうを「霊宝れいほう」と名づけた。

乳母うば(妳媼)が桓玄かんげんいてたずねてくると、何をしていてもすぐに飛んで来るほど、父の桓温かんおんことほか桓玄かんげん溺愛できあいした。

仕官

桓温かんおん臨終りんじゅうに際して「桓玄かんげんに自分の後を継がせる」ように命じ、南郡公なんぐんこうの爵位を継がせた。

桓温かんおんが明けた桓玄かんげんが7歲の時のこと。府州文武ふしゅうぶんぶ揚州刺史ようしゅうしし?)をした叔父おじ桓沖かんちゅうは、桓玄かんげんの頭をでて「私はあなたの家の故吏こり*2だよ」と言った。その言葉に桓玄かんげんは涙を流し、居並ぶ者たちはみな驚いた。

成長した桓玄かんげんの容姿はことに立派で眉目秀麗びもくしゅうれい、芸術に通じ、文才もあった。彼には才能があり、勇ましく強いことをみずからのり所としていたが、人々はみなはばかり、また朝廷ではうたがって桓玄かんげんもちいなかった。

23歲の時、桓玄かんげんは初めて太子洗馬たいしせんばを拝命したが、当時、「桓温かんおんには簒奪さんだつの意志があった」とうわさされており、桓玄かんげんの兄たちはみな閑職かんしょく(素官)にいていた。

脚注

*2辟召へきしょうによって取り立てられた者のこと。上司と非常に強い結びつきを持った。

荊楚に隠棲する

東晋とうしん太元たいげん年間(376年〜396年)のすえ、地方に出されて義興太守ぎこうたいしゅとなった桓玄かんげんは落ちぶれてうつうつとし、「父は九州のはくであったのに、子の私は五湖ごこちょうでしかないのかっ!」となげき、官職をてて国に帰った。

国家に対して大きな功績があった一門にもかかわらず、世間からそしられていることから、桓玄かんげんは父・桓温かんおんの国家に対する功績をげ、待遇の改善を求める上疏じょうそをしたが、返答はなかった。

荊楚けいそ滞在たいざいすること数年、桓玄かんげんは何事もなくのんびりと心のままに過ごしていたが、荊州刺史けいしゅうしし殷仲堪いんちゅうかん桓玄かんげんを大変うやまって遠慮していた。

王恭の挙兵
王国宝おうこくほう討伐

東晋とうしん隆安りゅうあん元年(397年)、安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)を擁立ようりつした会稽王かいけいおう司馬道子しばどうしに重用されていた中書令ちゅうしょれい王国宝おうこくほう*3が、地方軍(方鎮)の削減をはかろうとしていることを知った王恭おうきょうは、国をうれえる発言をしていた。

秘かに王恭おうきょうの功績を買っていた桓玄かんげんは、殷仲堪いんちゅうかんに「王恭おうきょうを盟主に推戴すいたいして王国宝おうこくほうを討つこと」を持ちかけた。初め殷仲堪いんちゅうかんは疑っていたが、王恭おうきょうから殷仲堪いんちゅうかん桓玄かんげんまねいて朝廷を匡正きょうせいするむねの手紙が届くと、桓玄かんげんと共にこれに参加した。

この挙兵に驚いた司馬道子しばどうし王国宝おうこくほう廷尉ていいに下して処刑すると、王恭おうきょうらは兵をおさめた。


王恭おうきょうの挙兵後、桓玄かんげん広州こうしゅうに赴任することを求めると、司馬道子しばどうし桓玄かんげん荊楚けいそにいることを不都合に思っていたので、これを認めた。

脚注

*3王国宝おうこくほう従妹いとこ司馬道子しばどうしきさきであった。

王愉おうゆ司馬尚之しばしょうし兄弟討伐

隆安りゅうあん2年(398年)、桓玄かんげんとくこうこう二州にしゅう建威将軍けんいしょうぐん平越中郎将へいえつちゅうろうしょう広州刺史こうしゅうしし仮節かせつとするみことのりが下されたが、桓玄かんげんは受命しても任地におもむかなかった。

この年、王恭おうきょうがまた豫州刺史よしゅうしし左将軍さしょうぐん庾楷ゆかいと共に、江州刺史こうしゅうしし王愉おうゆ譙王しょうおう司馬尚之しばしょうし兄弟討伐の兵を起こすと、桓玄かんげん殷仲堪いんちゅうかんは「王恭おうきょうは必ず打ち勝つだろう」と言い、殷仲堪いんちゅうかん王恭おうきょうに呼応して桓玄かんげんに5千の兵を与え、龍驤将軍りゅうじょうしょうぐん楊佺期ようせんきをつけて先鋒せんぽうとした。

軍が湓口いつこうに至ると、王愉おうゆ臨川りんせんに逃走したが、桓玄かんげん偏将軍へんしょうぐんを派遣してこれを追い、王愉おうゆを捕らえた。

その後、桓玄かんげん楊佺期ようせんき石頭せきとうに至り、殷仲堪いんちゅうかん蕪湖ぶこに至ったが、王恭おうきょうの将・劉牢之りゅうろうしそむいたため、庾楷ゆかいは敗れて桓玄かんげんの陣に逃亡し、王恭おうきょうは捕らえられ、健康けんこうに送られて斬られた。

朝廷匡正の盟主となる
盟主に推戴すいたいされる

みことのりが下されて桓玄かんげん江州刺史こうしゅうししとされ、殷仲堪いんちゅうかんらもみな職を交換されたが、桓玄かんげんらは舟を返して西にかえり、尋陽じんように駐屯すると、共に盟約を結んで桓玄かんげんを盟主とした。

桓玄かんげん上疏じょうそして誅殺ちゅうさつされた王恭おうきょうの無実の罪の申し開きをし、司馬尚之しばしょうし劉牢之りゅうろうしらを誅殺ちゅうさつすることを求めると、朝廷は深く恐れはばかり、桓脩かんしゅう罷免ひめんして殷仲堪いんちゅうかん荊州刺史けいしゅうししに復帰させることで和解しようとした。

桓玄かんげんへの不信感

以前、桓玄かんげん荊州けいしゅうで気ままに過ごしていた時、吏民は州牧しゅうぼく殷仲堪いんちゅうかん)よりも桓玄かんげんに遠慮していたので、殷仲堪いんちゅうかんの配下(親党)は桓玄かんげんを殺すように勧めたが、殷仲堪いんちゅうかんは聴き入れなかった。

尋陽じんようにおいてその名声と地位により盟主に推戴すいたいされた桓玄かんげんは、いよいよみずからをほこるようになった。

また、楊佺期ようせんき驕悍きょうかん(心がおごっていて荒々しいこと)な人物で、常にみずから「江東こうとうで比類ない華胄かちゅう(名門)の継承者である」と言っていたが、桓玄かんげんが寒士(まずしい人)でありながら盟主となっていることをひどくうらみ、壇所だんしょ桓玄かんげんを襲おうとしたが、殷仲堪いんちゅうかん楊佺期ようせんき兄弟が勇猛なことから、桓玄かんげんの次は自分が殺されることを恐れ、これを禁じた。

その後、みことのりを奉じておのおのの任地(鎮)にかえったが、桓玄かんげん楊佺期ようせんきが秘かに自分を害しようとしていることを知り、夏口かこうに駐屯した。

朝廷の離間工作

隆安りゅうあん3年(399年)、桓玄かんげんみことのりにより都督ととく荊州けいしゅう四郡よんぐんを加えられ、兄の桓偉かんい輔国将軍ほこくしょうぐん南蛮校尉なんばんこういとなった。(桓偉かんい楊佺期ようせんきの兄・楊広ようこうに代わって南蛮校尉なんばんこういとなったので、楊佺期ようせんき兄弟を怒らせた)

殷仲堪いんちゅうかん桓玄かんげん跋扈ばっこしていることをおもんぱかって楊佺期ようせんきと婚姻関係を結び、桓玄かんげん殷仲堪いんちゅうかん楊佺期ようせんきすきがあれば、これを襲って勢力を拡大したいと思っていた。

また、朝廷は彼らを仲違なかたがいさせるため、楊佺期ようせんきとくする4郡を桓玄かんげんに与えると、楊佺期ようせんきは激怒した。

その後、後秦こうしん姚興ようこう洛陽らくように侵攻すると、楊佺期ようせんき建牙けんが(護衛部隊)は「洛陽らくようを救う」ことを口実に、秘かに殷仲堪いんちゅうかんと共に桓玄かんげんを襲おうとしたが、殷仲堪いんちゅうかん楊佺期ようせんきと結んではいたものの彼を疑って、従弟じゅうてい殷遹いんいつを北の境に駐屯させて楊佺期ようせんきさえぎらせた。

楊佺期ようせんきは独力で挙兵することはできず、また殷仲堪いんちゅうかんの本意をはかりかねて出陣を取りやめた。

荊州・揚州の平定

その後荊州けいしゅうで洪水が起こり、殷仲堪いんちゅうかんは被災者に食糧をほどこしたため、倉庫は空になった。

桓玄かんげんはこれに乗じて攻撃を開始し、先に軍を派遣して巴陵はりょうを攻めさせた。巴陵はりょう梁州刺史りょうしゅうしし郭銓かくせんが守っていたが、夏口かこうを通過する時、桓玄かんげんは「朝廷は郭銓かくせんを我が先鋒せんぽうとしてつかわした。江夏こうかの兵をさずかり、諸軍をとくして並んで進むように」と宣言し、秘かに兄の桓偉かんいに内応するように知らせた。

桓偉かんいはどうしたら良いのか途方に暮れ、殷仲堪いんちゅうかんに助けを求ると、殷仲堪いんちゅうかん桓偉かんいを人質に取って、桓玄かんげんに「非常に苦しい状態だ」と手紙を書くように命じた。すると桓玄かんげんは「殷仲堪いんちゅうかんは決断できない男だ。子供のように常に成功か失敗かを考えている。我が兄のことを心配する必要はない」と言った。

桓玄かんげん巴陵はりょうに至ると、殷仲堪いんちゅうかんは軍を派遣してこれを防いだが、桓玄かんげんに敗れた。

桓玄かんげん楊口ようこうに進むと、そこでまた殷仲堪いんちゅうかんの弟の子・殷道護いんどうごを破り、江陵こうりょうを去ること20里(約8.6km)、零口れいこうに至るまで勝利を重ね、殷仲堪いんちゅうかんは複数の道でこれを防いだ。

そこで、襄陵じょうようから楊佺期ようせんきみずからやって来て、兄・楊広ようこうと共に桓玄かんげんを攻撃すると、桓玄かんげんはその強さを恐れて馬頭ばとうに軍を退いた。

楊佺期ようせんきらはこれを追撃したが苦戦し、楊佺期ようせんきは敗れて襄陵じょうように逃げかえり、殷仲堪いんちゅうかん酇城さんじょう出奔しゅっぽんした。すると桓玄かんげんは攻勢に転じ、将軍しょうぐん馮該ふうがいを派遣して楊佺期ようせんきを掃討させ、彼を捕らえた。楊広ようこうもまた捕らえられ、桓玄かんげんの元に送られて2人とも処刑された。

楊佺期ようせんきの死を聞いた殷仲堪いんちゅうかんは、数百人の将と共に後秦こうしん姚興ようこうの元に逃亡したが、冠軍城かんぐんじょうに至ったところで馮該ふうがいに捕らえられ、桓玄かんげんの命令により自害した。


こうして荊州けいしゅう雍州ようしゅうが平定されると、桓玄かんげんは上表してこうけい二州にしゅうを領することを求め、朝廷はみことのりを下して、桓玄かんげん都督ととくけいようしんりょうえきねい七州ななしゅう後将軍こうしょうぐん荊州刺史けいしゅうしし仮節かせつとし、桓脩かんしゅう江州刺史こうしゅうししとした。

ところが、桓玄かんげん上疏じょうそしてとく八州はっしゅうおよびよう八郡はちぐんに進め、江州刺史こうしゅうししを復するように求め、また兄の桓偉かんい冠軍将軍かんぐんしょうぐん雍州刺史ようしゅうししとするように求めた。

当時はまだ寇賊こうぞくが平定されていなかったので、朝廷は桓玄かんげんの意向に逆らうことはできず、これを許した。

桓玄の増長

桓玄かんげんは腹心をもちい兵馬を日々盛んにし、しばしば上疏じょうそして(五斗米道ごとべいどうの)孫恩そんおんを討つことを求めたが、みことのりによりすべて却下された。

その後孫恩そんおん京都けいと健康けんこう)に迫ると、桓玄かんげんは国家のために建牙けんが(護衛部隊)や兵を集めた。その実、敵の欠点を観察し、再度孫恩そんおんを討つことを上疏じょうそするつもりだったが、孫恩そんおんが敗走すると、桓玄かんげんはまたみことのりを奉じて戒厳令かいげんれいいた。

兄の桓偉かんい江州刺史こうしゅうししとして夏口かこうに駐屯(鎮)させ、司馬しば刁暢ちょうちょう輔国将軍ほこくしょうぐんとく八郡はちぐんとして襄陽じょうように駐屯(鎮)させ、おい桓振かんしん皇甫敷こうほふ馮該ふうがいらを派遣して湓口いつこうを守らせた。

また、沮漳蛮そしょうばん2千戸を江南こうなんに移して武寧郡ぶねいぐんを立て、さらに流民を召集して綏安郡すいあんぐんを立てて、それぞれに郡丞ぐんじょうを置いた。

みことのりにより広州刺史こうしゅうしし刁逵ちょうき豫章太守よしょうたいしゅ郭昶之かくちょうし(征)されたが、桓玄かんげんはみなとどめてらなかった。

桓玄かんげんみずから「(私は東晋とうしんの)2/3を有し、運勢のする所を知っている。しばしば現れる禎祥ていしょう(めでたいしるし)は自分のためのものだ」と言っていた。

朝権奪取
庾楷ゆかいの裏切り

以前、劉牢之りゅうろうしに敗れた庾楷ゆかい桓玄かんげんの元に逃げ込んでいた。桓玄かんげん孫恩そんおんを討つために庾楷ゆかい右将軍ゆうしょうぐんとしたが、すでに戒厳令かいげんれいかれ、庾楷ゆかいは職を去った。

庾楷ゆかいは「桓玄かんげんが朝廷と仲違なかたがい(構怨)して敗れ、自分にわざわいが及ぶ」ことを恐れ、秘かに後将軍こうしょうぐん司馬元顕しばげんけん司馬道子しばどうしの子)と結んで内応を許された。

桓玄かんげん討伐

元興げんこう元年(402年)、司馬元顕しばげんけん桓玄かんげん討伐のみことのりを下したが、この時太傅長史たいふちょうしであった桓玄かんげん従兄じゅうけい桓石生かんせきせいは、秘かに書を送って桓玄かんげんに知らせた。

桓玄かんげんは「今、揚州ようしゅうには飢饉ききんがあり、孫恩そんおんもまだほろんでいないので、今すぐ私を討伐することはできまい。今は兵を養って力をたくわえ、相手のすきを観察して動けばよい」と言っていたが、すでに司馬元顕しばげんけんが討伐の兵を起こしたと聞いて大いにおそれ、江陵こうりょうの守りを固めようとした。

すると長史ちょうし卞范べんはん桓玄かんげんいて言った。

こう桓玄かんげん)の英略と威名は天下にとどろいています。ちちくさ司馬元顕しばげんけんと人心を失った劉牢之りゅうろうしの若兵が近畿きんきのぞんで威賞(刑罰と恩賞)を示してみても、その勢いは一瞬でくずれるでしょう。敵が境界に入ってくるのを待つのは弱者のすることですっ!」

桓玄かんげんは大いによろこんで兄の桓偉かんい江陵こうりょうを守らせると、兵をひきいて尋陽じんように至り、京邑けいゆう健康けんこう)に司馬元顕しばげんけんの罪状をしるしたげきを飛ばし、げきが至ると司馬元顕しばげんけんは大いにおそれ、出陣を取りやめて船を下りた。


すでに人情を失っていた桓玄かんげんは軍を起こして叛逆はんぎゃくした。尋陽じんようを過ぎた時、王師おうし司馬元顕しばげんけんの軍)が見当たらないので、桓玄かんげんも将吏もみな大いによろこんだ。またこの時、庾楷ゆかいはかりごとれて捕らえられた。

姑孰こしゅくに至ると、桓玄かんげんは先に馮該ふうがい苻宏ふこう皇甫敷こうほふ索元さくげんらに譙王しょうおう司馬尚之しばしょうしを攻撃させ、これを破った。ここにおいて、劉牢之りゅうろうしは子の劉敬宣りゅうけいせんを派遣して桓玄かんげんに降伏した。

朝権を握る

桓玄かんげん新亭しんていに至ると、司馬元顕しばげんけんは自滅した。京師けいし健康けんこう)に入った桓玄かんげんは、矯詔きょうしょう*4を下して総百揆そうひゃっき(百官)に自分の名を加え、侍中じちゅう都督ととく中外ちゅうがい諸軍事しょぐんじ丞相じょうしょう録尚書事ろくしょうしょじ揚州牧ようしゅうぼくりょう徐州刺史じょしゅうししとなり、また仮黄鉞かこうえつ羽葆うほう*5鼓吹こすい班剣はんけん20人を加えられ、属官に左右長史さゆうちょうし司馬しば従事中郎じゅうじちゅうろう4人を置き、甲杖こうじょう200人を連れて上殿することを許された。


桓玄かんげん太傅たいふ司馬道子しばどうし司馬元顕しばげんけんの悪事を列挙し、司馬道子しばどうし安成郡あんせいぐんうつし、市において司馬元顕しばげんけんを殺害した。

その後桓玄かんげん太傅府たいふふに入居すると、太傅中郎たいふちゅうろう毛泰もうたい毛泰もうたいの弟で遊擊将軍ゆうげきしょうぐん毛邃もうすい太傅参軍たいふさんぐん荀遜じゅんそんさき豫州刺史よしゅうしし庾楷ゆかい父子、吏部郎りぶろう袁遵えんじゅん譙王しょうおう司馬尚之しばしょうしらを殺害し、司馬尚之しばしょうしの弟・丹陽尹たんよういん司馬恢之しばかいし広晋伯こうしんはく司馬允之しばいんし驃騎長史ひょうきちょうし王誕おうたん太傅主簿たいふしゅぼ毛遁もうとんらを交州こうしゅう広州こうしゅうの諸郡に流罪とし、司馬恢之しばかいし司馬允之しばいんしはその途上で殺害した。

また、兄の桓偉かんい安西将軍あんせいしょうぐん荊州刺史けいしゅうしし南蛮校尉なんばんこういとし、従兄じゅうけい桓謙かんけん左僕射さぼくや中軍将軍ちゅうぐんしょうぐん領選りょうせんとし、桓脩かんしゅう右将軍ゆうしょうぐんじょえん二州にしゅう刺史ししとし、桓石生かんせきせい前将軍ぜんしょうぐん江州刺史こうしゅうししとし、長史ちょうし卞範之べんはんし建武将軍けんぶしょうぐん丹陽尹たんよういんとし、王謐おうひつ中書令ちゅうしょれい領軍将軍りょうぐんしょうぐんとした。

大赦たいしゃして「大亨だいこう」と改元すると、桓玄かんげん丞相じょうしょうの位をゆずり、みずか太尉たいい平西将軍へいせいしょうぐん豫州刺史よしゅうししとなった。また袞冕こんべんの服(天子てんしの礼服)・緑糸戾綬りょくしれいじゅを加え、班剣はんけんを60人に増やし、剣履上殿けんりじょうでん入朝不趨にゅうちょうふすう贊奏不名さんそうふめい謁讚不名えっさんふめい)の特権を得た。


桓玄かんげん姑孰こしゅくに出ようとした時、王謐おうひつは「春秋公羊伝しゅんじゅうくようでんに『周公旦しゅうこうたんはなぜに行かなかったのか?しゅうによる天下一統を望んでいたからだ』とあります。私は周公旦しゅうこうたんの心を持たれますように願います」と言ったが、桓玄かんげんは従うことができなかった。

桓玄かんげんはついに大きな城府をきずき、やかた・山・池はみな壮麗であった。姑孰こしゅくに至ると桓玄かんげん録尚書事ろくしょうしょじを辞退し、朝廷はこれを許したが、依然として大政にはみな関与し、小事は桓謙かんけん卞範べんはんが決裁した。民衆は災害や建設、戦争が繰り返されることに嫌気が差しており、一統された状態に戻りたいと思っていた。

桓玄かんげん京師けいし健康けんこう)に至った当時、凡人ぼんじん佞臣ねいしん罷免ひめんし、才徳のすぐれた人物を抜擢ばってきして「君子の道」をととのえ始めたので、京師けいし健康けんこう)は喜んだ。ところがその後、桓玄かんげんは朝廷を侮辱し、宰輔さいほ宰相さいしょうや補佐官)を退しりぞけて欲望のままにぜいを尽くすようになり、成すべき多くの仕事がとどこおったので、朝野(官民)は失望し、みな不安になった。

当時、会稽かいけい飢饉ききん荒廃こうはいしていたので、桓玄かんげんは貧民救済のために無利子で銭や穀物こくもつを貸し与え、内史ないし王愉おうゆ江湖こうこに離散していた農民たちをみなかえした。役人はおりれて米を支給したが、18〜19人*6が路上で死んだ。

桓玄かんげんはまた、劉牢之りゅうろうし一党の北府ほくふの将であった呉興太守ごこうたいしゅ高素こうそ輔国将軍ほこくしょうぐん竺謙之じくけんし竺謙之じくけんし従兄じゅうけい高平相こうへいしょう竺朗之じくろうし高素こうそ輔国将軍ほこくしょうぐん劉襲りゅうしゅう劉襲りゅうしゅうの弟で彭城内史ほうじょうないし劉季武りゅうきぶ冠軍将軍かんぐんしょうぐん孫無終そんぶしゅうらを殺害した*7

また、劉襲りゅうしゅうの兄で冀州刺史きしゅうしし劉軌りゅうき寧朔将軍ねいさくしょうぐん高雅之こうがし劉牢之りゅうろうしの子・劉敬宣りゅうけいせんそろって南燕なんえん慕容徳ぼようとくの元に逃亡した。


桓玄かんげんは朝廷に司馬元顕しばげんけんを平定した功績をほのめかして豫章公よしょうこうに封ぜられ、食邑しょくゆうとして安成郡あんせいぐん225里四方の7,500戸を与えられ、また殷仲堪いんちゅうかん楊佺期ようせんきを平定した功績をほのめかして桂陽郡公けいようぐんこうに封ぜられ、食邑しょくゆうとして(桂陽郡けいようぐんの)75里四方の2,500戸を与えられ、南郡なんぐんの封地はこれまで通りとされた。

その後桓玄かんげん豫章郡よしょうぐんに改封され、兄・桓偉かんいの子・桓濬かんしゅん桓浚かんしゅん)が桂陽郡公けいようぐんこうたまわって、桓玄かんげん西道県公せいどうけんこうに降格された。

またみことのりを発して、姓名に父・桓温かんおんいみな・「おん」を含む者をみな改名させ、母の馬氏ばし豫章公太夫人よしょうこうたいふじんの称号をおくった。

脚注

*4天子てんしの命令をいつわあらためること。

*5羽葆蓋車うほうがいしゃ。美しい羽根で飾られたおおいのついた皇帝こうていが乗る馬車。

*6原文:頓僕道路死者十八九焉。10人中8〜9人?

*7輔国将軍ほこくしょうぐんが2名いるのは原文ママ。輔国将軍ほこくしょうぐんの定員が2名以上いるのか誤植ごしょくなのかは不明。

簒奪の兆し
人望を失う

元興げんこう2年(403年)、桓玄かんげん詐表さひょうして「後秦こうしん姚興ようこう平定」を求めたが、許されなかった。桓玄かんげんは大言を好んだが、結局げることができないので、みことのりにより止められたのである。

桓玄かんげん自身は元々北伐ほくばつに出陣するつもりはなかったので、撤収の体裁を整えるために、先に軽舸けいか(軽舟)を作り、それに衣服や玩具がんぐ・書画などをせて運ばせた。ある人がこれをいさめると、桓玄かんげんは「不意の兵凶戦危にそなえ、書画や衣服・玩具がんぐなどは運び出しやすくしておくものだ」と言ったので、人々は苦笑した。

桓玄かんげんの孤立

この年、桓玄かんげんの兄・桓偉かんいが亡くなり、開府かいふ驃騎将軍ひょうきしょうぐんおくられ、桓脩かんしゅうがこれに代わった。

この時、従事中郎じゅうじちゅうろう曹靖之そうせいし桓玄かんげんに「桓脩かんしゅう兄弟は内外に赴任ふにんしており、彼らが天下を傾けるのではないかと恐れます」と言うと桓玄かんげんは納得し、南郡相なんぐんしょう桓石康かんせきこう西中郎将せいちゅうろうしょう荊州刺史けいしゅうししとした*8

桓偉かんいが始まると、桓玄かんげん公除こうじょ*9して音曲(楽)を作った。それが初めて演奏されると、桓玄かんげん手拍子てびょうしをしながら慟哭どうこくし、目に涙を浮かべて喜んだが、親族の中で桓玄かんげんまもる者は桓偉かんいだけだったので、桓偉かんいが亡くなったことで桓玄かんげんは孤立した。

脚注

*8桓脩かんしゅう兄弟は叔父おじ桓沖かんちゅうの子。桓石康かんせきこう叔父おじ桓豁かんかつの子。

楚王そおうとなる

当時、桓玄かんげん簒奪さんだつの意思は顕著けんちょで、桓玄かんげんは自分に対するうらみが天下に満ちていることを知っていた。そのため桓玄かんげんは一刻も早く簒奪さんだつを実行したいと思っており、殷仲文いんちゅうぶん卞範之べんはんしらもまた簒奪さんだつの実行を催促さいそくした。

そこで桓玄かんげんは人事異動を行い、琅邪王ろうやおう司徒しと太宰たいさいに昇進させて特別の待遇を与え、桓謙かんけん侍中じちゅう衛将軍えいしょうぐん開府かいふ録尚書事ろくしょうしょじとし、王謐おうひつ散騎常侍さんきじょうじ中書監ちゅうしょかんりょう司徒しととし、桓胤かんいん中書令ちゅうしょれいとし、桓脩かんしゅう散騎常侍さんきじょうじ撫軍大将軍ぶぐんだいしょうぐんとし、学官を置いて二品にひんの品官の子弟数百人に教授した。

また、総百揆そうひゃっき(百官)に矯詔きょうしょう*4を下してみずか相国しょうこくを加え、みずか南郡なんぐん南平郡なんぺいぐん宜都郡ぎとぐん天門郡てんもんぐん零陵郡れいりょうぐん営陽郡えいようぐん桂陽郡けいようぐん衡陽郡しょうようぐん義陽郡ぎようぐん建平郡けんぺいぐんの10郡に封じ、みずか楚王そおうとなって九錫きゅうせきを加え、楚国そこく丞相じょうしょう以下旧典きゅうてんしたがって官職を置いた。

また桓玄かんげんは、天子てんし前殿ぜんでん禅譲ぜんじょうをほのめかしながら何度も辞退したので、天子てんしみことのりにより百官をつかわして「鑾輿らんよ天子てんしの車)を降りて命を受けます」と言った。


桓玄かんげん矯詔きょうしょう*4を下して父・桓温かんおん楚王そおうおくり、母の南康公主なんこうこうしゅ楚王后そおうこうとした。

また平西長史へいせいちょうし劉瑾りゅうきん尚書しょうしょ刁逵ちょうき中領軍ちゅうりょうぐん王嘏おうか太常たいじょう殷叔文いんしゅくぶん左衛さえい皇甫敷こうほふ右衛ゆうえいとし、およそ60余人を桓楚かんそ)の官属とした。桓玄かんげんみずか平西将軍へいせいしょうぐん豫州刺史よしゅうししを解任し、その将・官属を相国府しょうこくふに編入した。

脚注

*4天子てんしの命令をいつわあらためること。

*9国政の責任のために喪服もふくを脱ぐこと。

庾仄が義兵を起こす

新野しんやの人・庾仄ゆそくは、桓玄かんげん九錫きゅうせきを受けたと聞くと義兵を起こし、襄陽じょうよう馮該ふうがいを襲って敗走させた。

庾仄ゆそくは7千の軍勢を有し、城の南に祭壇さいだんを設置して祖宗そそう7びょうを祭ると、南蛮参軍なんばんさんぐん庾彬ゆひん安西参軍あんせいさんぐん楊道護ようどうご江安令こうあんれい鄧襄子とうじょうしらははかってこれに内応した。庾仄ゆそく殷仲堪いんちゅうかんの一党であったが、桓偉かんいが死に、桓石康かんせきこうがまだ到着していない状況を利用し、江陵こうりょう震撼しんかんさせたのである。

すると、桓玄かんげんの兄・桓済かんせいの子・桓亮かんりょうみずか平南将軍へいなんしょうぐん湘州刺史しょうしゅうししと号し、「庾仄ゆそく討伐」を名目に羅県らけんにおいて兵を起こした。南蛮校尉なんばんこうい羊僧寿ようそうじゅ桓石康かんせきこうと共に襄陽じょうようを攻め、庾仄ゆそくの軍は離散して後秦こうしん姚興ようこうの元に逃亡し、庾彬ゆひんらはみな殺害された。

その後、桓亮かんりょうは乱に乗じて兵を起こし、長沙相ちょうさしょう陶延寿とうえんじゅがこれをおさめた。桓玄かんげん桓亮かんりょう衡陽しょうよううつし、同謀した桓奥かんおうらを誅殺ちゅうさつした。

簒奪の準備

桓玄かんげんは上表して帰藩することを求め、その後みずかとどめるみことのりを下した。そしてまた帰藩することを強く求める上表をし、天子てんしの手で強くとどめるみことのりを作らせた。桓玄かんげんはこのようないつわりのやり取りを好み、(桓玄かんげんが発給した)ちりにまみれた簡牘かんとく(文字を書きしるした木や竹の札)はみなこのようなものばかりであった。

桓玄かんげんは、秘かに臨平湖りんぺいこの湖面をきよめさせ、祥瑞しょうずい(吉兆)の出現を報告させた。そして官吏たちを臨平湖りんぺいこに集めて祝賀させると、矯詔きょうしょう*4してこれを「相国しょうこく桓玄かんげん)の徳によるもの」だとした。

また桓玄かんげんは、いつわって「江州こうしゅう王成おうせいの家の竹の上に甘露かんろ(天から降る甘い液体。吉兆の1つ)が降った」と言った。

また、昔のように「肥遁ひとんの士(隠者)」の出現を想像し、皇甫謐こうほひつの6世の孫・皇甫希之こうほきし高士こうし(隠君子)の扮装ふんそうをさせたので、当時の人々は彼を「充隠じゅういん」と呼んだ。


桓玄かんげんは政令の執行に確固たる意志がなく、頻繁ひんぱんに考えを変えるため、命令に一貫性がなく混沌としていた。

桓玄かんげん貪鄙たんぴむさぼいやしい)性格で奇異を好み、最も宝物を愛して珠玉を手放さなかった。彼は他人のすぐれた書画や美しい園宅のことごとくを手に入れたいと思っていたが、強制的に取り上げることはできなかったので、みな樗蒲ちょぼ*10において取り上げた。

遣臣佐四出,掘果移竹,不遠數千里,百姓佳果美竹無復遺餘。信悅諂譽,逆忤讜言,或奪其所憎與其所愛。

脚注

*4天子てんしの命令をいつわあらためること。

*10双六すごろくのようなゲーム。賭博とばくの一種。

帝位を簒奪する

元興げんこう2年(403年)11月、桓玄かんげん矯制きょうせい*4して自分のべんかんむり)に12りゅう*11の玉飾りをつけ、天子てんし旌旗せいきを建てて出入りの際にひつ(先払い)と通行禁止の措置そちをとり、金根車きんこんしゃに乗り6頭立ての馬*12に引かせて五時車ごじしゃ*13を副車とし、旄頭ほうとう*14雲罕うんかん旌旗せいき)を設置し、音楽には八佾はちいつ*15を演じ、宮殿に鐘虡しょうきょ*16を設置し、きさき王后おうこうとし、世子せいし太子たいしとし、むすめと孫の爵号を旧制にならって改めさせた。また桓玄かんげんは多くの朝臣をしりぞけて太宰たいさいの補佐とした。


桓玄かんげん安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)が(禅譲ぜんじょうの)みことのりを下さないことを恐れ、またをが手に入らないことを配慮して臨川王りんせいおう司馬宝かんげんに「安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)にみずからの手でみことのりを下させる」ようにせまり、を奪取した。

を手に入れた桓玄かんげんは、矯制きょうせい*4して司徒しと王謐おうひつ太保たいほを兼ねさせると、皇帝こうていを奉じて自分に禅位ぜんい禅譲ぜんじょう)させた。また安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)に禅位ぜんい禅譲ぜんじょう)したことをびょうに報告させ、安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)を永安宮えいあんきゅうに、しんの神主(位牌)を琅邪廟ろうやびょうに移した。

百官は姑孰こしゅくおもむ桓玄かんげんに帝位の簒奪さんだつ(僭偽位)を勧め、桓玄かんげんは辞退してみせた。そして朝臣たちがさらに強く要請すると、桓玄かんげんは城の南7里(約3.01km)の郊外にもうけた祭壇さいだんに登って帝位を簒奪さんだつし、玄牡げんぴん(黒い牡牛おうし)を生贄いけにえささげて天に告げた。


また、桓玄かんげんが元号を「建始けんし」としようとしたところ、右丞ゆうじょう王悠おうゆうは「『建始けんし』は[西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の帝位を簒奪さんだつした]趙王ちょうおう司馬倫しばりんの元号です」と言った。結局、桓玄かんげんは「永始えいし」と改元したが、これもまた王莽おうもうが執権を始めた年の不吉な年号であった。

桓玄かんげん大赦たいしゃして、天下(全国民)にしゃく2級、親孝行な者、よく田をたがやす者にはしゃく3級を下賜かしし、身寄りがなく自活できない者には5こく穀物こくもつ下賜かししたが、その賞賜しょうしの制度は名目だけで、その実態はなかった。

また、東晋とうしん安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)を南康なんこう平固県へいこけんに奉じて平固王へいこおうとし、車旗・正朔せいさくは旧典の通りとした。


桓玄かんげん陳留王ちんりゅうおう元帝げんてい曹奐そうかん)]を鄴宮ぎょうきゅううつした故事にならって、すぐに帝居を尋陽じんよううつし、永安皇后えいあんこうごう何法倪かほうげい)を零陵君れいりょうくん琅邪王ろうやおう石陽県公せきようけんこう武陵王ぶりょうおう司馬遵しばじゅん彭澤県侯ほうたくけんこうに降格させた。

また、父・桓温かんおんを追尊して宣武皇帝せんぶこうていとしてそのびょう太廟たいびょうと称し、母の南康公主なんこうこうしゅ宣皇后せんこうごうとした。

その他の人事
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子の桓昇かんしょう桓升かんしょう)を豫章郡王よしょうぐんおう叔父おじ桓雲かんうんの孫・桓放之かんほうし寧都県王ねいとけんおう叔父おじ桓豁かんかつの孫・桓稚玉かんちぎょく臨沅県王りんげんけんおう桓豁かんかつの次子・桓石康かんせきこう右将軍ゆうしょうぐん武陵郡王ぶりょうぐんおう叔父おじ桓秘かんひの子・桓蔚かんい醴陵県王れいりょうけんおうとし、叔父おじの故・桓沖かんちゅう太傳たいふ宣城郡王せんじょうぐんおうおくり、特別に礼を加え、しん安平王あんぺいおう司馬孚しばふ)の故事にならって、桓沖かんちゅうの孫の桓胤かんいんに爵位を継がせ、吏部尚書りぶしょうしょとし、桓沖かんちゅうの次子・桓謙かんけん揚州刺史よしゅうしし新安郡王しんあんぐんおう桓謙かんけんの弟・桓脩かんしゅう撫軍大将軍ぶぐんだいしょうぐん安成郡王あんせいぐんおう桓玄かんげんの兄・桓歆かんきん臨賀県王りんがけんおう、兄・桓禕かんい富陽県王ふようけんおうとし、兄・桓偉かんい侍中じちゅう大将軍だいしょうぐん義興郡王ぎこうぐんおうとし、桓偉かんいの子・桓濬かんしゅん桓浚かんしゅん)に爵位を継がせて輔国将軍ほこくしょうぐんとし、桓濬かんしゅん桓浚かんしゅん)の弟・桓邈かんばく西昌県王せいしょうけんおうとした。

また、王謐おうひつ武昌公ぶしょうこうに封じて班剣はんけん20人を許し、卞範之べんはんし臨汝公りんじょこう殷仲文いんちゅうぶん東興公とうこうこう馮該ふうがい魚復侯ぎょふくこうに封じた。

また始安郡公しあんぐんこう県公けんこうに降格し、長沙ちょうさ臨湘県公りんしょうけんこう盧陵ろりょう巴丘県公はきゅうけんこうとして各千戸とした。

康楽こうらく武昌ぶしょう南昌なんしょう望蔡ぼうさい建興けんこう永脩えいしゅう観陽かんよう封邑ほうゆうをみな百戸に降格し、こうこうの号はこれまで通りとした。またせいちんの軍号にはそれぞれ差があった。

相国しょうこく左長史さちょうし中書令ちゅうしょれいとし、桓沖かんちゅうの次子・桓謙かんけんの母・庾氏ゆしたっとんで宣城太妃せんじょうたいひとし、特別の待遇を与えて、輦乗れんじょう皇帝こうていきさき専用の馬車)を支給した。

父・桓温かんおんの墓を永崇陵えいすうりょうと号し、守衛40人を置いた。


桓玄かんげん建康けんこうの宮殿に入った時、激しい逆風が吹いて旗や儀礼用の飾りがみな倒れた。

西堂で小会が行われたが、そこには妓楽ぎがく妓女ぎじょが演奏する音楽)が演奏され、殿上にはあかい豪華な帳幕ちょうばくと五色の羽葆うほう旒蘇りゅうそ(羽根製のまく)をくわえた4本つのの金の龍が配置されていた。

群臣たちは互いに様子をうかがいながら「これは輀車じしゃ(貴人の葬送の際にひつぎせて運ぶ車)や王莽おうもう仙蓋せんがい(五色の絹糸を傘に結びつけたもの)によく似ています」と言った。また桓玄かんげん金根車きんこんしゃを造り6頭立ての馬*12に引かせた。

この月、桓玄かんげんは裁判を臨聴して囚徒を観察し、罪の軽重にかかわらず、その多くを釈放した。

有幹輿乞者,時或恤之。其好行小惠如此。自以水德,壬辰,臘于祖。

尚書しょうしょ都官郎とかんろう賊曹ぞくそうに改め、また五校ごこう三将さんしょうおよび強弩きょうど積射せきしゃの武衛官を増設した。

脚注

*4天子てんしの命令をいつわあらためること。

*11べんかんむり)は天子てんし三公さんこう諸侯しょこうけい大夫たいふが着用したかんむり天子てんしは前後に12りゅう三公さんこう諸侯しょこうは前のみに9りゅうけい大夫たいふは前のみに9りゅうと たまだれ の数が規定されていた。

*12金根車きんこんしゃ天子てんしの車。天子てんしの車は6頭立てであった。

*135つの季節の色(春:青、夏:赤、季夏:黄、秋:白、冬:黒)にった副車。

*14天子てんしの旗につける から牛 の飾り。

*15天子てんしの舞楽。8人8列になって舞う。

*16猛獣があしらわれたかねつるす台。

奢侈にふける

元興げんこう3年(404年)[桓玄かんげん永始えいし2年]、尚書しょうしょが「春蒐しゅんそう天子てんしが春に行う狩猟)」の字を「春菟しゅんと」とあやまって答え、関係するすべての部署が降格となった。桓玄かんげん大綱たいこう(事柄の根本となる骨組み)を無視し、軽微な失敗を取り上げて糾弾きゅうだんする様子は、みなこの様であった。

妻の劉氏りゅうし皇后こうごうとし、御殿を修復して東宮とうぐうに移し、また東掖とうえき平昌へいしょう広莫こうばくの宮殿の諸門を開き、みな三道さんどうとした。さら大輦たいれん(大人数が座ることができる人力の車)を造り、3千人が座って2百人でかつがせた。

また桓玄かんげん畋遊てんゆう(遊猟)を好んだが、馬に乗るには身体が大きすぎるため、徘徊輿はいかいよ(回転できる輿みこし)を作り、回転の号令をすることによってとどこおりなくりょうを行った。


桓玄かんげん祖曾そそうを追尊せず、その礼儀を疑って群臣にうた。散騎常侍さんきじょうじ徐広じょこうは「晋典しんてん依拠いきょしてよろしく7びょうを追立し、また父をうやまうことはすなわち子をよろこばせ、位が一段と高い者は人情と道理を、道が広ければ広いほど尊敬の念は普遍的となるでしょう」と言った。

桓玄かんげんは「らいには三昭さんしょう三穆さんぼく太祖たいそをもって7びょう*17とするが、それならば太祖たいそびょうの主であり、しょうぼくはみなおのずと下位となる。則非逆数可知也。またらいには太祖たいそは東向きで、左にしょう、右にぼくとある。晋室しんしつびょうの場合、宣帝せんてい司馬懿しばい)はしょうぼくの列にあり、太祖たいその位置にない。すでにしょうぼく錯誤さくごしており、太祖たいそのあるべき場所は遥か遠くに失われている」と言った。

桓玄かんげん曾祖父そうそふ以前の人物の評判や地位(名位)は不明であったので、序列をつくることを望まず、また王莽おうもうの時代には9びょうであったことから、(7びょうにこだわらず)ついに1つのびょうに改め、郊廟こうびょうの祭事も2日間だけとした。これに秘書監ひしょかん卞承べんしょうは「先祖を祭らなければ、の徳が長く続かないことは明らかです」と言い、しんの小さなびょうを破壊して広大な台榭だいしゃ(高台式建築)を築いた。

桓玄かんげんの母の蒸嘗じょうしょう(祖先をまつる祭り)は定まっておらず、亡くなった時にはこく(大声で泣くこと)したが、忌日きじつ(命日)には賓客ひんかくうたげを開いて楽しみ、喪服ほふく期間にも音楽を禁止しなかった。


桓玄かんげんが水門を出て舟遊びをした時、飄風つむじかぜが起こって桓玄かんげんの舟の儀蓋ぎがいを吹き飛ばした。またその夜には、濤水とうすい(大波)が石頭せきとう大桁おおげた朱雀橋すざくきょう)を倒壊させて多くの死者を出し、大風が朱雀門すざくもんろうを吹き飛ばして上層部が地面に落ちた。


桓玄かんげんは帝位を簒奪さんだつして以降、おごって奢侈しゃしふけり、昼夜を問わず狩猟を楽しむ様子は度が過ぎていた。また兄・桓偉かんいの葬儀の日も、夜明けにはこく(大声で泣くこと)したが晚には遊び、ある日は1日中馬に乗って駆け回っていた。

また桓玄かんげんは短気で、呼べばすぐに来ることを求めた。そのため、職務中の役人はみな馬省ばせい厩舎きゅうしゃ?)の前に待機し、禁内は騒がしく朝廷の体裁をなしていなかった。

これにより朝野(官民)は疲れ苦しみ、うらみやいかりをいだく者は10人中8〜9人にのぼった。

脚注

*17宗廟そうびょうにおける霊位は、太祖たいそびょうを中央とし、向かって右に三昭さんしょう(2世・4世・6世のびょう)が並び、向かって左に三穆さんぼく(3世・5世・7世のびょう)を並べた。

東晋再興の義兵
挙兵の漏洩ろうえい

劉裕りゅうゆう劉毅りゅき何無忌かむきらは(東晋とうしんの)再興を共謀した。

劉裕りゅうゆうらは京口けいこうにおいて桓脩かんしゅうを斬り、広陵こうりょうにおいて桓弘かんこうを斬ると、河内太守かだいたいしゅ辛扈興しんここう弘農太守こうのうたいしゅ王元徳おうげんとく振威将軍しんいしょうぐん童厚之どうこうし竟陵太守きょうりょうたいしゅ劉邁りゅうばいらと内応をはかった。

時期が至ると、劉裕りゅうゆう周安穆しゅうあんぼくを派遣して(内応の)報告をさせたが、劉邁りゅうばいは恐れあわてて、ついに桓玄かんげん劉裕りゅうゆうらのはかりごとを告げた。桓玄かんげんは大いに驚いて震え上がり、すぐさま辛扈興しんここうらを殺害したが、周安穆しゅうあんぼくは逃げ去ることができた。

劉裕りゅうゆうらのはかりごとを告げた功績により桓玄かんげん劉邁りゅうばい重安侯じゅうあんこうに封じたが、次の日には彼を殺害した。

敗北を恐れる

劉裕りゅうゆうが義軍をひきいて竹裏ちくりに至ると、桓玄かんげんは上宮に移り、百僚は徒歩で従って、役人(侍官)たちはみな召集されて省中にとどめられた。

桓玄かんげん揚州ようしゅう豫州よしゅう徐州じょしゅう兗州えんしゅう青州せいしゅう冀州きしゅう恩赦おんしゃを出し、桓謙かんけん征討都督せいとうととく仮節かせつを加え、殷仲文いんちゅうぶんを殺害された桓脩かんしゅうの代わりとし、遣頓太守いとんたいしゅ呉甫之ごほし右衛将軍ゆうえいしょうぐん皇甫敷こうほふに北の義軍(劉裕りゅうゆう軍)を防がせた。

劉裕りゅうゆうらは江乗こうじょうの戦いにおいて呉甫之ごほしを斬ると、羅落橋ららくきょうに進軍して皇甫敷こうほふと戦い、その首をした。

呉甫之ごほし皇甫敷こうほふの敗死を聞いた桓玄かんげんは大いにおそれ、道士(道術人)たちをして「厭勝えんしょうの法(他人を屈服させるまじない)」を行わせた。桓玄かんげんがみなに「ちん(私)はやぶれるのか?」と問うと、曹靖之そうせいしは「神は怒り、人はうらんでおり、わたくしは実におそれております」と言った。

そして桓玄かんげんが「人がうらむことはあるかもしれんが、なぜ神が怒るのだ?」とうと、(曹靖之そうせいしは)「しん宗廟そうびょうを移してからというもの、(祖先の霊は)居所を失って彷徨さまよっています。大楚たいそ祭祀さいしが祖先に及んでいないことが、神の怒りの所以ゆえんです」と言った。

桓玄かんげんが「あなたはなぜいさめなかったのだ?」とうと、(曹靖之そうせいしは)「れんの上の諸君子はみなぎょうしゅんの時代(理想の時代)のようでした。どうしてわたくしなどがえていさめられましょうかっ!」と言った。

桓玄かんげんますます怒りおそれ、桓謙かんけん何澹之かたんし東陵とうりょうに、卞範之べんはんし覆舟山ふくせんさんの西に駐屯させ、合わせて2万の兵で劉裕りゅうゆうの義軍を防がせた。

敗北を重ねる

劉裕りゅうゆう蔣山しょうざんに至ると、体がいちじるしく弱い者に油帔ゆひそでのない上着)を着せて山を登らせ、それぞれ旗幟きし旗印はたじるし)を広げて複数の道から前進させた。

桓玄かんげん偵侯ていこう(偵察隊)が戻ると「劉裕りゅうゆう軍の4つのとりでには、どれだけの兵がいるのか分かりません」と報告した。

桓玄かんげんますますうれあわて、武衛将軍ぶえいしょうぐん庾頤之ゆいしに精鋭兵を与えて諸軍を援護させた。ちょうどこの時、激しい東北の風にじょうじて義軍(劉裕りゅうゆう軍)が火を放ち、煙とちりが空に舞い、京邑けいゆう健康けんこう)は驚き震え大騒ぎとなった。


劉裕りゅうゆう鉞麾えつきまさかりと指図旗)をかかげて進軍し、桓謙かんけんら諸軍は一瞬のうちに潰走かいそうした。

桓玄かんげんは親信(旗本)数千人をひきいて出陣を宣言し、子の桓昇かんしょう桓升かんしょう)と兄・桓偉かんいの子・桓濬かんしゅん桓浚かんしゅん)と共に南の掖門えきもんを出て西の石頭せきとうに至ると、殷仲文いんちゅうぶんに船を準備させて一緒に南へ急いだ。


以前、桓玄かんげん姑孰こしゅくにいた時から、しばしば将相しょうしょうの星に変化があり、簒奪さんだつした日の夕方には月と太白たいはく(金星)が羽林うりんに入ったが、これは桓玄かんげんにとってはなはだ悪いきざしであった。

敗走するに及び、腹心は戦うことを勧めたが、桓玄かんげんはそれには答えずただ天を指差した。数日間食べる物もなく、左右の者が粗末な食事を出してものどを通らず、年端としはも行かぬ桓昇かんしょう桓升かんしょう)を胸に抱いてで、悲しみに打ちひしがれていた。


劉裕りゅうゆう武陵王ぶりょうおうとなって万機ばんきもろもろの重要な政務)をつかさどり、行台こうだいを立てて百官を統制した。

また劉毅りゅうき劉道規りゅうどうき桓玄かんげんを追わせ、桓玄かんげんの諸兄子と桓石康かんせきこうの兄・桓権かんけん桓振かんしんの兄・桓洪かんこうらを誅殺ちゅうさつした。

江陵に遷都する

桓玄かんげん尋陽じんように至ると、江州刺史こうしゅうしし郭昶之かくちょうし桓玄かんげんの兵力を補充した。後方から到着した殷仲文いんちゅうぶんは、桓玄かんげんの舟をながめ見て、旌旗せいき輿服よふくが「帝者の儀」を備えていることから、ため息をついて「敗北から立ち直ることは可能だ」と言った。

その後、桓玄かんげん乗輿じょうよに乗せられて西進した。桓歆かんきんは一党を集めて歴陽れきように向かったが、宣城内史せんじょうないし諸葛長民しょかつちょうみんがこれを撃ち破った。

桓玄かんげんは道すがら起居注ききょちゅう天子てんしの言行録)を作り、その中で「みずから経略をさずけ、その策に手抜かりはなかったが、諸将は節度をたがえたために虧喪きそう(失う)するに至った。[これはちん桓玄かんげん)の]戦いの罪ではない」と、義軍(劉裕りゅうゆう軍)を防いだ時の様子をべた。臣下たちと謀議するいとまもなく、ただ思いふけるままをとなえ、遠近に広く告げ示した。


桓玄かんげん江陵こうりょうに至ると桓石康かんせきこうが迎え入れ、城の南に幔屋まんおくを張って百官を任命し、卞范之べんはんし尚書僕射しょうしょぼくやとして、その他の職は其餘職多用輕資。

桓玄かんげんは舟師(船団)を全面的に修理して、30日もたないうちに兵2万と立派な船団を用意して兵を鼓舞こぶした。


奔敗ほんぱい(敗走)した後、桓玄かんげんは法令が遵守じゅんしゅされていないことをおそれ、すぐに怒ってみだりに人を殺すようになったので、多くの人がうらみ離れて行った。

殷仲文いんちゅうぶんいさめて、

「陛下は荊州けいしゅう雍州ようしゅうを平定して京室けいしつただされ、その名声は八荒はっこう(国のすみずみ)まで知れ渡っています。極位きょくい天子てんしの位)にありながらこのような不運に見舞われたのは、決して権威の欠如によるものではありません。民がせつあおしたい、皇澤こうたく天子てんしが与えるめぐみ)を待ち望むようになるためには、仁徳による教化が必要です」

と言うと、桓玄かんげんは怒って言った。

漢高かんこうかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)や魏武ぎぶ曹操そうそう)は幾度も敗れたが、諸将は利益を失っただけだっ!天文が悪かったために旧楚きゅうそみやこかえったが、小者どもがまどい、みだりに是非ぜひを生じさせている。こういったやからは猛烈に糾弾きゅうだんすべきで、恩徳を見せるのは得策ではない」

桓玄かんげんの左右の者たちが「桓詔かんしょう」と言うと、桓胤かんいんいさめて言った。

かんの主たちは、誰一人としてそんなことは言っていません。唯一、北方の捕虜が苻堅ふけんのことを「苻詔ふしょう」と呼んでいたことを聞いたことがあります。願わくは陛下が古代の帝則を守り、万世ばんせいにわたって従われますように」

すると桓玄かんげんは「これはすでに行われたことであり、宣敕せんちょくを撤回することはさらに不祥ふしょう(不吉)である。それは正しいことに違いないが、落ち着くのを待とう」と言った。


荊州けいしゅう郡守ぐんしゅ桓玄かんげん播越はえつ(流浪)していることを受けて、桓玄かんげんに使者を派遣してきたが、匪寧ひねいの辞(無礼な言葉)があったので、桓玄かんげんはそのすべてを受けず、なお郡守ぐんしゅたちに命じて遷都せんと表賀ひょうが(上表して慶賀けいがすること)させた。

桓玄かんげん遊擊将軍ゆうげきしょうぐん何澹之かたんし武衛将軍ぶえいしょうぐん庾稚祖ゆちそ江夏太守こうかたいしゅ桓道恭かんどうきょう郭銓かくせんに数千人で湓口ほんこうを守らせた。また輔国将軍ほこくしょうぐん桓振かんしんは兵を集めるために義陽ぎように派遣されたが、弋陽よくように至ったところで龍驤将軍りゅうじょうしょうぐん胡譁こかに敗れ、単騎で逃げかえってきた。


劉裕りゅうゆう軍の何無忌かむき劉道規りゅうどうきらは桑落洲そうらくしゅう郭銓かくせん何澹之かたんし郭昶之かくちょうしらを破ると、尋陽じんように軍を進めた。

桓玄かんげんは舟艦200せきひきいて江陵こうりょうを出発し、苻宏ふこう羊僧寿ようそうじゅを前鋒とした。

また桓玄かんげん鄱陽太守はようたいしゅ徐放じょほう散騎常侍さんきじょうじとし、義軍(劉裕りゅうゆう軍)に派遣して説解(説得)させようとし、徐放じょほうに、

諸人もろびと(世間一般の人々)は天命を知らず、勝手気ままに行動し、ついに結託してて反乱を起こした。あなたは3州(劉裕りゅうゆう軍)にちん桓玄かんげん)の心を表明し、兵を退よろいを外せば、それぞれ官位をさずけ、失うものがないように取りはからおう。江水こうすい長江ちょうこう)がここにあり続けるように、ちん桓玄かんげん) が約束をたがえることはない」

と言うと、徐放じょほうは「劉裕りゅうゆう唱端しょうはの主(首謀者)であり、(その仲間の)劉毅りゅきの兄を陛下は誅殺ちゅうさつなされており、彼らを説得することはできません。何無忌かむき聖旨せいじを下すべきです」と言った。

すると桓玄かんげんは「あなたの使者の任務が成功すれば、あなた呉興相ごこうしょうとしよう」と言ったが、徐放じょほうはそのまま何無忌かむき軍に投降した。


劉裕りゅうゆう魏詠之ぎえいし歴陽れきよう桓歆かんきんを破り、諸葛長民しょかつちょうみんがまた芍陂しゃくひにおいて桓歆かんきんを破り、桓歆かんきんは単騎で淮水わいすいを渡った。

また、劉毅りゅき劉道規りゅうどうき下邳太守かひたいしゅ孟懐玉もうかいぎょくは共に崢嶸洲そうこうしゅう桓玄かんげんと戦った。当初、義軍(劉裕りゅうゆう軍)は数千、桓玄かんげんの兵の士気は盛んであったが、桓玄かんげんは敗北をおそれてたびたび軽舸けいか(軽舟)を岸につなぎ止めていたので、桓玄かんげんの兵は戦意を喪失そうしつしてしまった。

そこへ義軍(劉裕りゅうゆう軍)が風に乗せて火を放ち、全軍が先を争って戦ったので、桓玄かんげんの兵は潰滅かいめつした。輜重しちょうは焼かれて夜のうちに敗走し、郭銓かくせんは義軍(劉裕りゅうゆう軍)に降伏した。

また、桓玄かんげん故将こしょう(老将)・劉統りゅうとう馮稚ふうちらの一党400人が尋陽城じんようじょうを奇襲して陥落かんらくさせたが、劉毅りゅき建威将軍けんいしょうぐん劉懐肅りゅうかいしゅくを派遣してこれを平定した。

桓玄の死

桓玄かんげん永安皇后えいあんこうごう皇后こうごう巴陵はりょうとどめた。この時、殷仲文いんちゅうぶん桓玄かんげんふねにいたが、散り散りになった兵を集めるために別船を出すことを求め、桓玄かんげんそむいて夏口かこうに逃走した。

桓玄かんげん江陵城こうりょうじょうに入ると、馮該ふうがいはもっと戦うように勧めたが、桓玄かんげんは従わず、漢川かんせんに出て梁州刺史りょうしゅうしし桓希かんきの元に身を寄せようとしたが、桓希かんきこばまれたため(而人情乖阻)行くことはできなかった。

桓玄かんげんが馬に乗って都を出て門に至ると、暗闇の中で部下に襲われ、やっとのことで船に辿たどり着いた。


荊州別駕けいしゅうべつが王康産おうこうさん安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)を奉じて南郡なんぐんの府舍に入り、南郡太守なんぐんたいしゅ王騰之おうとうしが文武をひきいて護衛した。

この時、益州刺史えきしゅうしし毛璩もうきょが、従孫じゅうそん毛祐之もうゆうし参軍さんぐん費恬ひてんに兵2百を与えて弟・毛璠もうはんの葬儀への使者として江陵こうりょうに派遣し、桓玄かんげん配下の屯騎校尉とんきこういであった毛璩もうきょの弟の子・毛脩之もうしゅうしは、桓玄かんげんしょくに入るように誘い、桓玄かんげんはこれに従った。

桓玄かんげん枚回洲ばいかいしゅうに達すると、費恬ひてん毛祐之もうゆうし桓玄かんげんを迎撃し、雨のように矢をかけた。桓玄かんげん嬖人へいじん(お気に入り)の丁仙期ちょうせんき万蓋ばんがいらは桓玄かんげんを守り、その身に数十本のを受けて死んだ。

桓玄かんげん自身もを受けたが、そのたびに子の桓昇かんしょう桓升かんしょう)がを引き抜いた。益州督護えきしゅうとくご馮遷ふうせんが素早く刀を抜いて立ちはだかると、桓玄かんげんは頭から玉導ぎょくどうかんむりの装飾品)を抜いて渡し、「天子てんしを殺そうとする奴は誰だっ!」と言った。すると馮遷ふうせんは「天子てんしぞくを殺すのだ」と言い、ついに桓玄かんげんを斬った。享年きょうねん36歳。桓石康かんせきこう桓濬かんしゅん桓浚かんしゅん)ら5人が斬られ、庾頤之ゆいしは戦死した。

桓昇かんしょう桓升かんしょう)は「私は豫章王よしょうおうだ、殺さないでくれ」と言ったが、江陵こうりょうに送られ市で斬られた。

逸話

以前、桓玄かんげんが宮中にいた時のこと。桓玄かんげんは常に鬼神におびえ、親しい者に「死ぬのが恐い」と言っていた。

元興げんこう年間(402年〜404年)、衡陽こうよう雌鶏めんどり雄鳥おんどりけ、80日後に鶏冠とさかえた。桓玄かんげん桓楚かんそ)を建国した時、衡陽こうよう桓楚かんそ)に属したが、簒奪さんだつしてから敗れるまで、ちょうど80日だった。

当時の童謠どうように、

〽長幹巷、巷長幹、今年郎君ろうくんが殺されたが、後年、諸桓しょかんは斬られるだろう

というものがあり、その凶兆はその通りとなった。郎君ろうくんとは、司馬元顕しばげんけんのことである。

この月、王騰之おうとうし安帝あんてい司馬徳宗しばとくそう)を奉じて太府たいふに入居した。桓謙かんけん桓玄かんげんとむらうために人を集め、喪庭もてい霊堂れいどう)を立てて、武悼皇帝ぶとうこうてい偽諡ぎし(非公式のおくりな)した。

劉毅りゅきらが桓玄かんげんの首を大桁おおげた朱雀橋すざくきょう)にさらすと、それを見た民衆たちは大喜びした。


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