正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(69)譙国桓氏⑥(桓熙・桓済・桓歆・桓禕・桓偉)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物⑥、
についてまとめています。
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か(69)譙国桓氏⑥
第4世代(桓熙)
桓熙・伯道
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓温。弟に桓済、桓歆、桓禕、桓偉、桓玄。
初め、父・桓温の世子(後継ぎ)とされたが、後に桓温は「才能がない」として、桓温の末弟・桓沖に自分の後を継がせた(領其衆)。
父・桓温の病気が重篤となると、桓熙は叔父(桓沖のすぐ上の兄)の桓秘・弟の桓済らと共に桓沖の殺害を謀ったが、この謀は桓沖の知るところとなり、桓温が亡くなると桓沖が派遣した力士に桓済と共に拘束され、長沙に流刑となった。
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桓済・仲道
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓温。兄は桓熙。弟に桓歆、桓禕、桓偉、桓玄。
父・桓温の病気が重篤となると、桓済は叔父(桓沖のすぐ上の兄)の桓秘・兄の桓熙らと共に桓沖の殺害を謀ったが、この謀は桓沖の知るところとなり、桓温が亡くなると桓沖が派遣した力士に桓熙と共に拘束され、長沙に流刑となった。
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桓禕
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓温。兄は桓熙、桓済、桓歆。弟に桓偉、桓玄。
桓温の子の中で最も愚かで、不弁菽麦*1だった。
脚注
*1菽は豆。豆と麦を見分けることもできないような愚か者のこと。
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桓偉・幼道
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓温。兄は桓熙、桓済、桓歆、桓禕。弟に桓玄。
寛大で誠実な人柄で、任地では吏民に慕われた。
使持節・督荊益甯秦梁五州諸軍事・安西将軍・領南蛮校尉・荊州刺史・西昌侯となり、驃騎将軍を贈られて開府・儀同三司を許された。
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