正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(75)桓公(かんこう)〔斉(せい)〕です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(75)桓

桓公〔斉〕(かんこう)

桓公(かんこう)〔斉(せい)〕

春秋(しゅんじゅう)時代、斉(せい)の第16代君主(在位:紀元前685年~紀元前643年)。生年不詳〜桓公(かんこう)43年(紀元前643年)。諱(いみな)は小白(しょうはく)。父は斉(せい)の第13代君主・釐公(きこう)。子に公子(こうし)無詭(むき)、恵公元(けいこうげん)、孝公昭(こうこうしょう)、昭公潘(しょうこうはん)、懿公商人(いこうしょうじん)、公子(こうし)雍(よう)。管仲(かんちゅう)が仕え、春秋五覇(しゅんじゅうごは)の1人となった。

即位前
第13代・釐公(きこう)

釐公(きこう)32年(紀元前699年)、斉(せい)の第13代国君・釐公(きこう)の同母弟・夷仲年(いちゅうねん)が亡くなった。釐公(きこう)は夷仲年(いちゅうねん)の子・公孫無知(こうそんむち)を愛し、俸禄・服飾その他の待遇を太子(たいし)と同じくしていた。


釐公(きこう)33年(紀元前698年)に釐公(きこう)が亡くなると、太子(たいし)の諸児(しょげい)が即位した。これが斉(せい)の第14代国君・襄公(じょうこう)である。

第14代・襄公(じょうこう)

襄公(じょうこう)元年、襄公(じょうこう)は以前、公孫無知(こうそんむち)が太子(たいし)である自分と対等の待遇を受けていたことから、公孫無知(こうそんむち)の俸禄と服飾を降格したので、公孫無知(こうそんむち)はこれを怨(うら)んだ。


襄公(じょうこう)は大夫(たいふ)の連称(れんしょう)と管至父(かんしほ)に葵丘(ききゅう)を守らせ、1年したら交代することを約束していたが、期日が過ぎても交代の者は送られて来なかった。

襄公(じょうこう)12年(紀元前686年)、ある人が彼らのために交代を出すように求めたが、襄公(じょうこう)は許さなかったため、連称(れんしょう)と管至父(かんしほ)は怒り、公孫無知(こうそんむち)と共に反乱を企(くわだ)てた。

12月、沛丘(はいきゅう)で狩猟をした際、襄公(じょうこう)は車から墜(お)ちて足を負傷した。襄公(じょうこう)が負傷したことを知ると、公孫無知(こうそんむち)と連称(れんしょう)、管至父(かんしほ)はついに兵を率(ひき)いて宮殿を襲い、襄公(じょうこう)を殺害して、公孫無知(こうそんむち)が斉(せい)の第15代国君となった。

第15代・公孫無知(こうそんむち)

桓公(かんこう)元年(紀元前685年)春、斉君(せいくん)・公孫無知(こうそんむち)は雍林(ようりん)に遊んだが、この時公孫無知(こうそんむち)は、彼に怨(うら)みを抱(いだ)く者に殺害された。

桓公の即位
2人の公子(こうし)

襄公(じょうこう)は生前、魯(ろ)の桓公(かんこう)を酒に酔わせて殺害し、その夫人(ふじん)と密通したのをはじめ、むやみに人を殺害し、女色に溺(おぼ)れて何度も大臣を欺(あざむ)いたので、襄公(じょうこう)の弟たちは禍(わざわい)を被(こうむ)ることを恐れ、次弟の糾(きゅう)は魯(ろ)に、その下の弟の小白(しょうはく)は莒(きょ)に出奔(しゅっぽん)した。

糾(きゅう)の母親は魯(ろ)の女性で管仲(かんちゅう)と召忽(しょうこつ)が傅(ふ)(傅役(もりやく))となった。小白(しょうはく)の母親は衛(えい)の女性で釐公(きこう)に寵愛(ちょうあい)され、鮑叔(ほうしゅく)が傅(ふ)(傅役(もりやく))となった。

管仲(かんちゅう)の矢

小白(しょうはく)は若い頃から大夫(たいふ)の高傒(こうけい)を親愛していた。

公孫無知(こうそんむち)が雍林(ようりん)で殺害されると、斉(せい)では国君を立てることが議論され、高氏(こうし)(高傒(こうけい))と国氏(こくし)の2大夫(たいふ)は秘(ひそ)かに莒(きょ)にいた小白(しょうはく)を招(まね)いた。

また魯(ろ)国でも公孫無知(こうそんむち)の死を聞き、兵を出して公子(こうし)糾(きゅう)を送り届けると共に、管仲(かんちゅう)に別軍を与えて莒(きょ)の道を遮断(しゃだん)させた。

この時、管仲(かんちゅう)の射た矢が小白(しょうはく)の帯鉤(たいこう)(帯留(おびど)めの金具)に命中し、小白(しょうはく)は死んだ振りをした。

管仲(かんちゅう)が使者に馬を馳(は)せさせて魯(ろ)に報告させると、公子(こうし)糾(きゅう)を送る一行は安心して益(ます)々(ます)遅れ、6日かかってやっと斉(せい)の都に着いた。

ところがその時にはすでに小白(しょうはく)は斉(せい)の都に入り、高傒(こうけい)に擁立(ようりつ)されていた。これが斉(せい)の第16代国君・桓公(かんこう)である。

管仲を得る

桓公(かんこう)元年(紀元前685年)秋、斉(せい)は魯(ろ)と乾時(かんじ)で戦い、魯(ろ)軍を敗走させた。斉(せい)軍は魯(ろ)軍の退路を絶(た)つと、書簡を送って「糾(きゅう)は兄弟であるから殺すに忍びない。どうか魯(ろ)の方で殺していただきたい。召忽(しょうこつ)と管仲(かんちゅう)は讐(あだ)であるから、彼らをもらい受け、醢(しおから)(人肉の塩漬け)としたいものである。聞き入れられないならば、魯(ろ)の都を包囲するだろう」と言った。

魯(ろ)の人々は悩み、ついに糾(きゅう)を笙瀆(しょうとう)で殺害した。また、召忽(しょうこつ)は自害したが、管仲(かんちゅう)は斉(せい)の虜囚(りょしゅう)となることを願った。


桓公(かんこう)は即位すると、直(ただ)ちに魯(ろ)を攻めて管仲(かんちゅう)を殺害しようと考えていたが、鮑叔牙(ほうしゅくが)は「臣(わたくし)は幸(さいわ)いにも我が君に従うことができ、我が君はついに位にお即(つ)きになりました。ですが、臣(わたくし)たちだけでは我が君の尊(とうと)さをこれ以上増すことはできません。斉(せい)1国を治めるだけなら高傒(こうけい)と鮑叔牙(わたくし)で事足りますが、もし我が君が覇王(はおう)となることを望まれるのなら、何としても管夷吾(かんいご)(管仲(かんちゅう))を手に入れなければなりません。管夷吾(かんいご)(管仲(かんちゅう))のいる国は、国として重きをなします。彼を失ってはなりません」と言った。

そこで桓公(かんこう)はこの言葉に従い、管仲(かんちゅう)を召(め)し出して彼を用(もち)いようとした。管仲(かんちゅう)はそれが分かっていたので、自(みずか)ら行くことを願ったのである。

鮑叔牙(ほうしゅくが)が管仲(かんちゅう)を迎え受け、堂阜(どうふ)に到着すると桎梏(しっこく)(手枷(てかせ)足枷(あしかせ))を外し、身を清め祓(はら)って桓公(かんこう)に謁見させた。桓公(かんこう)は礼を厚くして管仲(かんちゅう)を大夫(たいふ)とし、国政を任せた。


桓公(かんこう)は管仲(かんちゅう)を得てから、鮑叔牙(ほうしゅくが)・隰朋(しゅうほう)・高傒(こうけい)らと共に斉(せい)の国政を整え、五家の兵制*1を定め、物価調節の方法や漁労(ぎょろう)・製塩(せいえん)の利を設(もう)けて貧窮者(ひんきゅうしゃ)の不足を補(おぎな)い、賢能の士に禄(ろく)を与えたので、斉(せい)の人々はみな喜んだ。

脚注

*15家を軌(き):5人を伍(ご)と呼び、軌長(きちょう)が率(ひき)いる、10軌(き)を里(り):50人を小戎(しょうじゅう)と呼び、里有司(りゆうし)が率(ひき)いる、4里(り)を連(れん):200人を卒(そつ)と呼び、連長(れんちょう)が率(ひき)いる、10連(れん)を郷(きょう):2,000人を旅(りょ)と呼び、郷良人(きょうりょうじん)が率(ひき)いる、5郷(きょう)を1帥(すい):10,000人を1軍と呼び、5郷(きょう)の帥(すい)が率(ひき)いる事とし、3軍を中軍(ちゅうぐん)・国氏(こくし)・高氏(こうし)がそれぞれ率(ひき)いる。

覇者となる
郯(たん)を滅ぼす

桓公(かんこう)2年(紀元前684年)、桓公(かんこう)は郯(たん)を攻め滅ぼし、郯子(たんし)(郯(たん)の国君)は莒(きょ)に出奔(しゅっぽん)した。以前桓公(かんこう)が亡命して郯(たん)を通過した際、郯(たん)が無礼だったので征伐したのである。

魯(ろ)を攻める

桓公(かんこう)5年(紀元前681年)、桓公(かんこう)は魯(ろ)を攻めて敗北させ、魯(ろ)の荘公(しょうこう)は遂邑(すいゆう)を献上して和睦(わぼく)を求めた。桓公(かんこう)はこれを許し、柯(か)で魯(ろ)と会盟することになった。

魯(ろ)がまさに誓おうとした時、魯(ろ)の将軍(しょうぐん)・曹沬(そうかい)が匕首(あいくち)を手に壇上(だんじょう)で桓公(かんこう)を脅(おど)して「魯(ろ)から奪った土地を反(かえ)せっ!」と言った。

桓公(かんこう)はこれを承諾(しょうだく)し、曹沬(そうかい)は匕首(あいくち)を捨て北面して臣下の席についたが、桓公(かんこう)は後悔し、魯(ろ)に土地を返さずに曹沬(そうかい)を殺そうとした。

すると管仲(かんちゅう)は「それはいけません。脅迫されて承諾(しょうだく)したというのに、信義に背(そむ)いて殺したとしても、それは一時(いっとき)の小さな満足に過ぎません。諸侯(しょこう)の信用を落とし、天下の支持を失うことになりましょう」と言った。

そこで桓公(かんこう)は、曹沬(そうかい)が3敗して失った土地を魯(ろ)に返還(へんかん)した。諸侯(しょこう)はこれを聞き、みな斉(せい)を信用し、斉(せい)につこうとした。

覇者(はしゃ)となる

桓公(かんこう)7年(紀元前679年)、諸侯(しょこう)は甄(けん)で桓公(かんこう)と会盟し、ここに桓公(かんこう)は初めて覇者(はしゃ)となった。

陳(ちん)の厲公(れいこう)の公子(こうし)完(かん)の帰順

桓公(かんこう)14年(紀元前672年)、陳(ちん)の厲公(れいこう)の公子(こうし)完(かん)は敬仲(けいちゅう)と号し、斉(せい)に出奔(しゅっぽん)して来た。

斉(せい)の桓公(かんこう)は彼を卿(けい)に取り立てようとしたが、公子(こうし)完(かん)(敬仲(けいちゅう))が辞退したので、工正(こうせい)(百工の長官(ちょうかん))に任命した。これが田斉子常(でんせいしじょう)の祖先である。

燕(えん)を救援する

桓公(かんこう)23年(紀元前663年)、山戎(さんじゅう)(北狄(ほくてき))が燕(えん)を攻撃すると、燕(えん)は斉(せい)に危急を告げた。これに斉(せい)の桓公(かんこう)は燕(えん)を救援してついに山戎(さんじゅう)(北狄(ほくてき))を伐(う)ち、孤竹(こちく)まで軍を進めて帰還した。

この時、燕(えん)の荘公(しょうこう)は桓公(かんこう)を送って斉(せい)の領内まで入った。すると桓公(かんこう)は「天子(てんし)ではない諸侯(しょこう)を送り合う場合、国境を出ないものである。吾(わたし)は燕(えん)に礼を尽くさねばならない」と言い、荘公(しょうこう)が送って来た地点までを割(さ)いて燕(えん)に与え、荘公(しょうこう)に燕(えん)の祖・召公(しょうこう)の政(まつりごと)を回復させ、成王(せいおう)・康王(こうおう)の時のように周(しゅう)に納貢するように命じた。諸侯(しょこう)はこれを聞いてみな斉(せい)に心服した。

妹の哀姜(あいきょう)を殺害する

魯(ろ)の湣公(びんこう)の母・哀姜(あいきょう)は桓公(かんこう)の女弟(じょてい)(妹)であった。

桓公(かんこう)27年(紀元前659年)、哀姜(あいきょう)は魯(ろ)の公子(こうし)慶父(けいほ)と密通し、慶父(けいほ)は湣公(びんこう)を殺害した。哀姜(あいきょう)は慶父(けいほ)を位に立てようとしたが、魯(ろ)の国人は釐公(きこう)(僖公(きこう))を立てた。桓公(かんこう)は哀姜(あいきょう)を召(め)し出して殺害した。

衛(えい)を救援する

桓公(かんこう)28年(紀元前658年)、衛(えい)の文公(ぶんこう)は戎(えびす)の乱に遭(あ)い、衛(えい)は斉(せい)に危急を告げた。これに斉(せい)は、諸侯(しょこう)を率(ひき)いて楚丘(そきゅう)に城を築(きず)き、そこに衛(えい)の文公(ぶんこう)を立てた。

蔡(さい)を攻める

桓公(かんこう)29年(紀元前657年)、桓公(かんこう)は夫人(ふじん)の蔡姫(さいき)と船の中で戯(たわむ)れた。蔡姫(さいき)は泳ぎがうまく、水に入って船を揺らした。桓公(かんこう)は懼(おそ)れてこれを止(と)めたが、蔡姫(さいき)は止(や)めなかった。

桓公(かんこう)は船を下りると怒って蔡姫(さいき)を実家の蔡(さい)に帰したが、離縁はしなかった。ところがこの扱いに蔡(さい)もまた怒り、蔡姫(さいき)を他家の嫁に入らせた。そのことを聞いた桓公(かんこう)は怒り、諸侯(しょこう)を率(ひき)いて蔡(さい)に出兵した。

桓公(かんこう)30年(紀元前656年)春、斉(せい)の桓公(かんこう)は蔡(さい)の兵を潰走(かいそう)させた。

楚(そ)を攻める

桓公(かんこう)30年(紀元前656年)、桓公(かんこう)はついに楚(そ)を伐(う)った。すると楚(そ)の成王(せいおう)も出兵し、使者を遣(や)って「何ゆえ我が領土を侵略するのか」と問責(もんせき)した。

これに管仲(かんちゅう)は答えて言った。

「昔、周(しゅう)の召康公(しょうこうこう)は我が先君・太公(たいこう)に『たとえ五侯(ごこう)九伯(きゅうはく)(天下の諸侯(しょこう))であっても、罪を犯(おか)した者があれば、汝(なんじ)は周(しゅう)室を守るためにこれを討伐しても良い』と言われ、東は海に、西は黄河(こうが)に至り、南は穆陵(ぼくりょう)、北は無棣(ぶてい)に至る地を賜(たまわ)られた。今、楚(そ)は貢(みつ)ぎ物の包茅(ほうぼう)(束(たば)ねた茅(ちがや)。祭時に酒を濾(こ)すために用(もち)いる)を入れぬため、王(おう)の祭祀(さいし)の道具が揃(そろ)っておりませぬ。故(ゆえ)にこれを責めるために来たのである。また周(しゅう)の昭王(しょうおう)も南征されたが帰られなかった。故(ゆえ)にこれを問(と)いに来たのである」

すると楚王(そおう)(成王(せいおう))は「貢(みつ)ぎ物を入れていないのは寡人(わたし)の罪だ。敢(あ)えて上納しなかったのだっ!だが、昭王(しょうおう)が還(かえ)られなかったのは、(寡人(わたし)の知らぬこと)水辺にでもお問(と)いなされ」と言った。

その後、斉(せい)は陘山(けいざん)に軍を進めた。

夏、楚王(そおう)(成王(せいおう))は屈完(くつかん)に命じ、兵を率(ひき)いて斉(せい)軍を防がせると、斉(せい)軍は退(ひ)いて召陵(しょうりょう)に駐屯した。

桓公(かんこう)が屈完(くつかん)に、斉(せい)軍が大軍であることを誇示(こじ)すると、屈完(くつかん)は「君(あなた)の行為が道に則(のっと)っておられるならよろしいが、もしそうでなければ、楚(そ)は方城(ほうじょう)(春秋(しゅんじゅう)時代に楚(そ)が築いた長城)を城とし、長江(ちょうこう)・漢水(かんすい)を掘(ほり)とします。君(あなた)はそれでも進むことができますか?」と言った。

事ここに及んで斉(せい)は屈完(くつかん)と盟約を結んで兵を退(ひ)いた。

その途上、斉(せい)軍は陳(ちん)を通過したが、陳(ちん)の袁涛塗(えんとうと)は斉(せい)を騙(だま)して道を東方にとらせようとしたが、発覚した。

秋、斉(せい)は陳(ちん)を討伐した。この年、晋(しん)は太子(たいし)申生(しんせい)を殺害した。

驕慢(きょうまん)になる

桓公(かんこう)35年(紀元前651年)夏、桓公(かんこう)は甄(けん)で諸侯(しょこう)と会盟した。

周(しゅう)の襄王(じょうおう)は太宰(たいさい)の孔(こう)を遣(つか)わして、桓公(かんこう)に文王(ぶんおう)・武王(ぶおう)を祭った胙(ひもろぎ)(お供(そな)え物)・朱塗りの弓矢・大路(参朝用の大車)を下賜(かし)し、今後特別に堂を下って拝礼する必要のないことを申し添(そ)えた。

桓公(かんこう)はその通りにしようとしたが、管仲(かんちゅう)が「それはいけません」と言ったので、堂を下って拝礼し、堂上でその賜(たまわ)り物を受け取った。

秋、桓公(かんこう)はまた諸侯(しょこう)と葵丘(ききゅう)で会盟したが、桓公(かんこう)の態度に益(ます)々(ます)驕慢(きょうまん)の色が見えた。この時、周(しゅう)は太宰(たいさい)の孔(こう)を遣(つか)わしたが、諸侯(しょこう)の中には桓公(かんこう)に背(そむ)く者がかなりいた。

晋侯(しんこう)は病気のため遅れて会盟に向かっていたが、そこで帰途についた周(しゅう)の太宰(たいさい)の孔(こう)と出会った。太宰(たいさい)孔(こう)は「斉公(せいこう)は驕慢(きょうまん)になられた。行く必要はありませんよ」と言い、晋侯(しんこう)はこれに従った。

晋(しん)の後継者争いに介入する

この年[桓公(かんこう)35年(紀元前651年)]、晋(しん)の献公(けんこう)が亡くなると、晋(しん)の大夫(たいふ)・里克(りこく)(裏克(りこく))が公子(こうし)の奚斉(けいせい)と卓子(たくし)を殺害し、秦(しん)の穆公(ぼくこう)は夫人(ふじん)(献公(けんこう)の公女(こうじょ))の縁故で(夫人(ふじん)の弟である)公子(こうし)夷吾(いご)を晋(しん)に入れ、晋(しん)の国君とした。

すると桓公(かんこうも「晋(しん)の内乱を討伐する」と言って高梁(こうりょう)に行き、隰朋(しゅうほう)を派遣して公子(こうし)夷吾(いご)を晋(しん)の国君に立てさせて帰還した。

4強の時代

当時、周(しゅう)室は衰微(すいび)しており、斉(せい)・楚(そ)・秦(しん)・晋(しん)の4国が強盛となっていた。

当初、晋(しん)は会盟に参加していたが、献公(けんこう)が亡くなって国内が乱れたため、秦(しん)の穆公(ぼくこう)は国が辟遠(へきえん)の地にあるため、いずれも中国(ちゅうごく)(中原(ちゅうげん))の会盟に参加しなかった。また楚(そ)の成王(せいおう)は初めて荊蛮(けいばん)の地を収(おさ)めてこれを保有すると、自(みずか)ら夷狄(いてき)の国と称して参加しなかった。

ただ1国、斉(せい)だけが中国(ちゅうごく)(中原(ちゅうげん))の諸侯(しょこう)を会盟し、しかも桓公(かんこう)は覇者(はしゃ)としての徳を宣布することができたので、諸侯(しょこう)はこれに服従した。

桓公(かんこう)は得意になって言った。

「寡人(わたし)は南方を伐(う)ち、召陵(しょうりょう)に行って熊山(ゆうさん)を望見し、北方に山戎(さんじゅう)・離枝(れいし)・孤竹(こちく)の国を伐(う)ち、西方は大夏(たいか)を伐(う)って流沙(さばく)をわたり、また馬を何頭も一緒に繋(つな)ぎ、車を引き上げて太行(たいこう)の険をよじ登り、卑耳山(へきじさん)まで行って還(かえ)った。諸侯(しょこう)には寡人(わたし)の命令に背(そむ)く者がいない。寡人(わたし)は兵車を従えて会盟すること3度、兵車を従えず乗車だけで平和に会盟すること6度、諸侯(しょこう)を会合させること都合9度、天下の乱を匡(ただ)した。昔、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)の3代が天命を受けて帝王となったことと、吾(わたし)の成した大業と何が異なろうか?吾(わたし)は泰山(たいざん)に封じて天を祭り、梁父(りょうほ)に禅(ぜん)して山川を祭ろうと思う」

管仲(かんちゅう)はこれを固く諫(いさ)めたが、桓公(かんこう)は聞き入れようとしないので、「遠方から珍怪な物が到来したならば、封禅(ほうぜん)を行うことができます」と説いて、ようやく桓公(かんこう)を思い留(とど)まらせた。


桓公(かんこう)38年(紀元前648年)、周(しゅう)の襄王(じょうおう)の弟・帯(たい)が戎(じゅう)・翟(てき)と共謀して周(しゅう)を攻撃すると、斉(せい)は周(しゅう)のために管仲(かんちゅう)を派遣して戎(じゅう)を平定させた。すると周(しゅう)は上卿(じょうけい)の位をもって管仲(かんちゅう)を礼遇しようとした。管仲(かんちゅう)は頓首(とんしゅ)(頭を地面に擦(す)りつけて拝礼すること)して「臣(わたくし)は陪臣(ばいしん)(臣下の家臣)です。お受けできませんっ!」と3度辞退したが、ついに下卿(かけい)の礼を受けて襄王(じょうおう)に謁見(えっけん)した。


桓公(かんこう)39年(紀元前647年)、周(しゅう)の襄王(じょうおう)の弟・帯(たい)が出奔(しゅっぽん)して斉(せい)に来た。斉(せい)は仲孫(ちゅうそん)を派遣して帯(たい)に代わって襄王(じょうおう)に詫(わ)びさせたが、襄王(じょうおう)は怒って聞き入れなかった。

管仲(かんちゅう)の死

桓公(かんこう)41年(紀元前645年)、秦(しん)の穆公(ぼくこう)は晋(しん)の恵公(けいこう)を虜(とりこ)にし、やがてまた国に帰らせた。

この年、管仲(かんちゅう)と隰朋(しゅうほう)が亡くなったが、生前、桓公(かんこう)は病床の管仲(かんちゅう)に問(と)うて言った。

桓公(かんこう)「群臣のうち、誰が宰相(さいしょう)として適当だろうか?」

管仲(かんちゅう)「臣下を知ること、主君に勝る者はいないと存じます」

桓公(かんこう)「易牙(えきが)(桓公(かんこう)に寵愛(ちょうあい)された料理人)は如何(いかが)か?」

管仲(かんちゅう)「彼は我が子を煮(に)殺(ころ)して我が君の意に適(かな)いました。これは人情ではなく適任ではありません」

桓公(かんこう)「開方(かいほう)(衛(えい)の公子(こうし))は如何(いかが)か?」

管仲(かんちゅう)「彼は親に背(そむ)いて我が君の意に適(かな)いました。これも人情ではなく近づけ難(がた)いと存じます」

桓公(かんこう)「豎刁(じゅちょう)は如何(いかが)か?」

管仲(かんちゅう)「彼は自(みずか)ら去勢して宮中に入り、我が君の意に適(かな)いました。これも人情ではなく親しみ難(がた)いと存じます」

管仲(かんちゅう)の死後、桓公(かんこう)は管仲(かんちゅう)の忠告を用(もち)いず、結局この3人を近づけたので、3人は専権を振るった。

周(しゅう)を救援する

桓公(かんこう)42年(紀元前644年)、戎(じゅう)が周(しゅう)を攻撃すると、周(しゅう)は斉(せい)に危急を告げた。これを受け、斉(せい)は諸侯(しょこう)に号令し、それぞれ出兵して周(しゅう)を守らせた。

この年、晋(しん)の公子(こうし)重耳(ちょうじ)が斉(せい)にやって来た。桓公(かんこう)は彼に公女(こうじょ)を娶(めあわ)せた。

桓公(かんこう)の死

これより前のこと。桓公(かんこう)の3人の夫人(ふじん)、王姫(おうき)・徐姫(じょき)・蔡姫(さいき)にはみな子がなかったが、桓公(かんこう)は好色で寵愛(ちょうあい)した女性が多く、夫人(ふじん)に類する者が6人いた。その中で長衛姫(ちょうえいき)(衛公(えいこう)の女(むすめ)。長は姉の意味)は無詭(むき)を生み、少衛姫(しょうえいき)(衛公(えいこう)の女(むすめ)。少は妹の意味)は恵公元(けいこうげん)を生み、鄭姫(ていき)は孝公昭(こうこうしょう)を生み、葛嬴(かつえい)は昭公潘(しょうこうはん)を生み、密姫(みつき)は懿公商人(いこうしょうじん)を生み、宋華子(そうかし)(宋華氏(えいかし)の女(むすめ))は公子(こうし)雍(よう)を生んだ。

桓公(かんこう)43年(紀元前643年)、桓公(かんこう)は管仲(かんちゅう)と相談して孝公昭(こうこうしょう)を宋(そう)の襄公(じょうこう)に委託し、斉(せい)の太子(たいし)とした。

雍巫(ようふ)(易牙(えきが))は衛共姫(えいきょうき)(長衛姫(ちょうえいき))に気に入られ、また宦官(かんがん)の豎刁(じゅちょう)に取り入って桓公(かんこう)に手厚い献上物を贈(おく)ったので、桓公(かんこう)にも寵愛(ちょうあい)された。その結果、桓公(かんこう)は[雍巫(ようふ)(易牙(えきが))の求めに応じて]は無詭(むき)を太子(たいし)に立てることを承知した。

このようにして、管仲(かんちゅう)の死後、5人の公子(こうし)はみな太子(たいし)に立つことを求めるようになった。

冬10月、斉(せい)の桓公(かんこう)が亡くなった。


易牙(えきが)(雍巫(ようふ))は公宮に入り、豎刁(じゅちょう)と共に衛共姫(えいきょうき)(長衛姫(ちょうえいき))と結んで反対派の大夫(たいふ)のたちを殺害し、公子(こうし)無詭(むき)を立てて国君とした。太子(たいし)昭(しょう)(孝公昭(こうこうしょう))は宋(そう)に出奔(しゅっぽん)した。

すでに桓公(かんこう)の病気中から5人の公子(こうし)はそれぞれ党派を立てて後継者の地位を争っていたが、桓公(かんこう)が亡くなるとついに攻め合うようになった。そのため宮中は空(から)となり誰一人納棺する者がおらず、桓公(かんこう)の遺体は67日間も寝台の上に放置され、虫が湧(わ)いて戸から這(は)い出る始末であった。

12月、無詭(むき)が位に即(つ)いた。そこで桓公(かんこう)の遺体を納棺して喪(も)を発表し、斂殯(かりもがり)(死者を埋葬(まいそう)するまで棺(ひつぎ)に納(おさ)めてしばらく安置すること)をした。

桓公(かんこう)の10余人の子のうち、その後即位した者が5人あった。まず無詭(むき)は在位3ヶ月で亡くなり、諡(おくりな)はなかった。その次に孝公(こうこう)が立ち、さらに昭公(しょうこう)・懿公(いこう)・恵公(けいこう)が順番に立った。


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