正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(75)桓公かんこうせい〕です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(75)桓

桓公〔斉〕(かんこう)

桓公かんこうせい

春秋しゅんじゅう時代、せいの第16代君主(在位:紀元前685年~紀元前643年)。生年不詳〜桓公かんこう43年(紀元前643年)。いみな小白しょうはく。父はせいの第13代君主・釐公きこう。子に公子こうし無詭むき恵公元けいこうげん孝公昭こうこうしょう昭公潘しょうこうはん懿公商人いこうしょうじん公子こうしよう管仲かんちゅうが仕え、春秋五覇しゅんじゅうごはの1人となった。

即位前
第13代・釐公きこう

釐公きこう32年(紀元前699年)、せいの第13代国君・釐公きこうの同母弟・夷仲年いちゅうねんが亡くなった。釐公きこう夷仲年いちゅうねんの子・公孫無知こうそんむちを愛し、俸禄・服飾その他の待遇を太子たいしと同じくしていた。


釐公きこう33年(紀元前698年)に釐公きこうが亡くなると、太子たいし諸児しょげいが即位した。これがせいの第14代国君・襄公じょうこうである。

第14代・襄公じょうこう

襄公じょうこう元年、襄公じょうこうは以前、公孫無知こうそんむち太子たいしである自分と対等の待遇を受けていたことから、公孫無知こうそんむちの俸禄と服飾を降格したので、公孫無知こうそんむちはこれをうらんだ。


襄公じょうこう大夫たいふ連称れんしょう管至父かんしほ葵丘ききゅうを守らせ、1年したら交代することを約束していたが、期日が過ぎても交代の者は送られて来なかった。

襄公じょうこう12年(紀元前686年)、ある人が彼らのために交代を出すように求めたが、襄公じょうこうは許さなかったため、連称れんしょう管至父かんしほは怒り、公孫無知こうそんむちと共に反乱をくわだてた。

12月、沛丘はいきゅうで狩猟をした際、襄公じょうこうは車からちて足を負傷した。襄公じょうこうが負傷したことを知ると、公孫無知こうそんむち連称れんしょう管至父かんしほはついに兵をひきいて宮殿を襲い、襄公じょうこうを殺害して、公孫無知こうそんむちせいの第15代国君となった。

第15代・公孫無知こうそんむち

桓公かんこう元年(紀元前685年)春、斉君せいくん公孫無知こうそんむち雍林ようりんに遊んだが、この時公孫無知こうそんむちは、彼にうらみをいだく者に殺害された。

桓公の即位
2人の公子こうし

襄公じょうこうは生前、桓公かんこうを酒に酔わせて殺害し、その夫人ふじんと密通したのをはじめ、むやみに人を殺害し、女色におぼれて何度も大臣をあざむいたので、襄公じょうこうの弟たちはわざわいこうむることを恐れ、次弟のきゅうに、その下の弟の小白しょうはくきょ出奔しゅっぽんした。

きゅうの母親はの女性で管仲かんちゅう召忽しょうこつ傅役もりやく)となった。小白しょうはくの母親はえいの女性で釐公きこう寵愛ちょうあいされ、鮑叔ほうしゅく傅役もりやく)となった。

管仲かんちゅうの矢

小白しょうはくは若い頃から大夫たいふ高傒こうけいを親愛していた。

公孫無知こうそんむち雍林ようりんで殺害されると、せいでは国君を立てることが議論され、高氏こうし高傒こうけい)と国氏こくしの2大夫たいふひそかにきょにいた小白しょうはくまねいた。

また国でも公孫無知こうそんむちの死を聞き、兵を出して公子こうしきゅうを送り届けると共に、管仲かんちゅうに別軍を与えてきょの道を遮断しゃだんさせた。

この時、管仲かんちゅうの射た矢が小白しょうはく帯鉤たいこう帯留おびどめの金具)に命中し、小白しょうはくは死んだ振りをした。

管仲かんちゅうが使者に馬をせさせてに報告させると、公子こうしきゅうを送る一行は安心してますます遅れ、6日かかってやっとせいの都に着いた。

ところがその時にはすでに小白しょうはくせいの都に入り、高傒こうけい擁立ようりつされていた。これがせいの第16代国君・桓公かんこうである。

管仲を得る

桓公かんこう元年(紀元前685年)秋、せい乾時かんじで戦い、軍を敗走させた。せい軍は軍の退路をつと、書簡を送って「きゅうは兄弟であるから殺すに忍びない。どうかの方で殺していただきたい。召忽しょうこつ管仲かんちゅうあだであるから、彼らをもらい受け、しおから(人肉の塩漬け)としたいものである。聞き入れられないならば、の都を包囲するだろう」と言った。

の人々は悩み、ついにきゅう笙瀆しょうとうで殺害した。また、召忽しょうこつは自害したが、管仲かんちゅうせい虜囚りょしゅうとなることを願った。


桓公かんこうは即位すると、ただちにを攻めて管仲かんちゅうを殺害しようと考えていたが、鮑叔牙ほうしゅくがは「わたくしさいわいにも我が君に従うことができ、我が君はついに位におきになりました。ですが、わたくしたちだけでは我が君のとうとさをこれ以上増すことはできません。せい1国を治めるだけなら高傒こうけい鮑叔牙わたくしで事足りますが、もし我が君が覇王はおうとなることを望まれるのなら、何としても管夷吾かんいご管仲かんちゅう)を手に入れなければなりません。管夷吾かんいご管仲かんちゅう)のいる国は、国として重きをなします。彼を失ってはなりません」と言った。

そこで桓公かんこうはこの言葉に従い、管仲かんちゅうし出して彼をもちいようとした。管仲かんちゅうはそれが分かっていたので、みずから行くことを願ったのである。

鮑叔牙ほうしゅくが管仲かんちゅうを迎え受け、堂阜どうふに到着すると桎梏しっこく手枷てかせ足枷あしかせ)を外し、身を清めはらって桓公かんこうに謁見させた。桓公かんこうは礼を厚くして管仲かんちゅう大夫たいふとし、国政を任せた。


桓公かんこう管仲かんちゅうを得てから、鮑叔牙ほうしゅくが隰朋しゅうほう高傒こうけいらと共にせいの国政を整え、五家の兵制*1を定め、物価調節の方法や漁労ぎょろう製塩せいえんの利をもうけて貧窮者ひんきゅうしゃの不足をおぎない、賢能の士にろくを与えたので、せいの人々はみな喜んだ。

脚注

*15家を:5人をと呼び、軌長きちょうひきいる、10:50人を小戎しょうじゅうと呼び、里有司りゆうしひきいる、4れん:200人をそつと呼び、連長れんちょうひきいる、10れんきょう:2,000人をりょと呼び、郷良人きょうりょうじんひきいる、5きょうを1すい:10,000人を1軍と呼び、5きょうすいひきいる事とし、3軍を中軍ちゅうぐん国氏こくし高氏こうしがそれぞれひきいる。

覇者となる
たんを滅ぼす

桓公かんこう2年(紀元前684年)、桓公かんこうたんを攻め滅ぼし、郯子たんしたんの国君)はきょ出奔しゅっぽんした。以前桓公かんこうが亡命してたんを通過した際、たんが無礼だったので征伐したのである。

を攻める

桓公かんこう5年(紀元前681年)、桓公かんこうを攻めて敗北させ、荘公しょうこう遂邑すいゆうを献上して和睦わぼくを求めた。桓公かんこうはこれを許し、と会盟することになった。

がまさに誓おうとした時、将軍しょうぐん曹沬そうかい匕首あいくちを手に壇上だんじょう桓公かんこうおどして「から奪った土地をかえせっ!」と言った。

桓公かんこうはこれを承諾しょうだくし、曹沬そうかい匕首あいくちを捨て北面して臣下の席についたが、桓公かんこうは後悔し、に土地を返さずに曹沬そうかいを殺そうとした。

すると管仲かんちゅうは「それはいけません。脅迫されて承諾しょうだくしたというのに、信義にそむいて殺したとしても、それは一時いっときの小さな満足に過ぎません。諸侯しょこうの信用を落とし、天下の支持を失うことになりましょう」と言った。

そこで桓公かんこうは、曹沬そうかいが3敗して失った土地を返還へんかんした。諸侯しょこうはこれを聞き、みなせいを信用し、せいにつこうとした。

覇者はしゃとなる

桓公かんこう7年(紀元前679年)、諸侯しょこうけん桓公かんこうと会盟し、ここに桓公かんこうは初めて覇者はしゃとなった。

ちん厲公れいこう公子こうしかんの帰順

桓公かんこう14年(紀元前672年)、ちん厲公れいこう公子こうしかん敬仲けいちゅうと号し、せい出奔しゅっぽんして来た。

せい桓公かんこうは彼をけいに取り立てようとしたが、公子こうしかん敬仲けいちゅう)が辞退したので、工正こうせい(百工の長官ちょうかん)に任命した。これが田斉子常でんせいしじょうの祖先である。

えんを救援する

桓公かんこう23年(紀元前663年)、山戎さんじゅう北狄ほくてき)がえんを攻撃すると、えんせいに危急を告げた。これにせい桓公かんこうえんを救援してついに山戎さんじゅう北狄ほくてき)をち、孤竹こちくまで軍を進めて帰還した。

この時、えん荘公しょうこう桓公かんこうを送ってせいの領内まで入った。すると桓公かんこうは「天子てんしではない諸侯しょこうを送り合う場合、国境を出ないものである。わたしえんに礼を尽くさねばならない」と言い、荘公しょうこうが送って来た地点までをいてえんに与え、荘公しょうこうえんの祖・召公しょうこうまつりごとを回復させ、成王せいおう康王こうおうの時のようにしゅうに納貢するように命じた。諸侯しょこうはこれを聞いてみなせいに心服した。

妹の哀姜あいきょうを殺害する

湣公びんこうの母・哀姜あいきょう桓公かんこう女弟じょてい(妹)であった。

桓公かんこう27年(紀元前659年)、哀姜あいきょう公子こうし慶父けいほと密通し、慶父けいほ湣公びんこうを殺害した。哀姜あいきょう慶父けいほを位に立てようとしたが、の国人は釐公きこう僖公きこう)を立てた。桓公かんこう哀姜あいきょうし出して殺害した。

えいを救援する

桓公かんこう28年(紀元前658年)、えい文公ぶんこうえびすの乱にい、えいせいに危急を告げた。これにせいは、諸侯しょこうひきいて楚丘そきゅうに城をきずき、そこにえい文公ぶんこうを立てた。

さいを攻める

桓公かんこう29年(紀元前657年)、桓公かんこう夫人ふじん蔡姫さいきと船の中でたわむれた。蔡姫さいきは泳ぎがうまく、水に入って船を揺らした。桓公かんこうおそれてこれをめたが、蔡姫さいきめなかった。

桓公かんこうは船を下りると怒って蔡姫さいきを実家のさいに帰したが、離縁はしなかった。ところがこの扱いにさいもまた怒り、蔡姫さいきを他家の嫁に入らせた。そのことを聞いた桓公かんこうは怒り、諸侯しょこうひきいてさいに出兵した。

桓公かんこう30年(紀元前656年)春、せい桓公かんこうさいの兵を潰走かいそうさせた。

を攻める

桓公かんこう30年(紀元前656年)、桓公かんこうはついにった。すると成王せいおうも出兵し、使者をって「何ゆえ我が領土を侵略するのか」と問責もんせきした。

これに管仲かんちゅうは答えて言った。

「昔、しゅう召康公しょうこうこうは我が先君・太公たいこうに『たとえ五侯ごこう九伯きゅうはく(天下の諸侯しょこう)であっても、罪をおかした者があれば、なんじしゅう室を守るためにこれを討伐しても良い』と言われ、東は海に、西は黄河こうがに至り、南は穆陵ぼくりょう、北は無棣ぶていに至る地をたまわられた。今、みつぎ物の包茅ほうぼうたばねたちがや。祭時に酒をすためにもちいる)を入れぬため、おう祭祀さいしの道具がそろっておりませぬ。ゆえにこれを責めるために来たのである。またしゅう昭王しょうおうも南征されたが帰られなかった。ゆえにこれをいに来たのである」

するとそおう成王せいおう)は「みつぎ物を入れていないのは寡人わたしの罪だ。えて上納しなかったのだっ!だが、昭王しょうおうかえられなかったのは、(寡人わたしの知らぬこと)水辺にでもおいなされ」と言った。

その後、せい陘山けいざんに軍を進めた。

夏、そおう成王せいおう)は屈完くつかんに命じ、兵をひきいてせい軍を防がせると、せい軍は退いて召陵しょうりょうに駐屯した。

桓公かんこう屈完くつかんに、せい軍が大軍であることを誇示こじすると、屈完くつかんは「あなたの行為が道にのっとっておられるならよろしいが、もしそうでなければ、方城ほうじょう春秋しゅんじゅう時代にが築いた長城)を城とし、長江ちょうこう漢水かんすいほりとします。あなたはそれでも進むことができますか?」と言った。

事ここに及んでせい屈完くつかんと盟約を結んで兵を退いた。

その途上、せい軍はちんを通過したが、ちん袁涛塗えんとうとせいだまして道を東方にとらせようとしたが、発覚した。

秋、せいちんを討伐した。この年、しん太子たいし申生しんせいを殺害した。

驕慢きょうまんになる

桓公かんこう35年(紀元前651年)夏、桓公かんこうけん諸侯しょこうと会盟した。

しゅう襄王じょうおう太宰たいさいこうつかわして、桓公かんこう文王ぶんおう武王ぶおうを祭ったひもろぎ(おそなえ物)・朱塗りの弓矢・大路(参朝用の大車)を下賜かしし、今後特別に堂を下って拝礼する必要のないことを申しえた。

桓公かんこうはその通りにしようとしたが、管仲かんちゅうが「それはいけません」と言ったので、堂を下って拝礼し、堂上でそのたまわり物を受け取った。

秋、桓公かんこうはまた諸侯しょこう葵丘ききゅうで会盟したが、桓公かんこうの態度にますます驕慢きょうまんの色が見えた。この時、しゅう太宰たいさいこうつかわしたが、諸侯しょこうの中には桓公かんこうそむく者がかなりいた。

晋侯しんこうは病気のため遅れて会盟に向かっていたが、そこで帰途についたしゅう太宰たいさいこうと出会った。太宰たいさいこうは「斉公せいこう驕慢きょうまんになられた。行く必要はありませんよ」と言い、晋侯しんこうはこれに従った。

しんの後継者争いに介入する

この年[桓公かんこう35年(紀元前651年)]、しん献公けんこうが亡くなると、しん大夫たいふ里克りこく裏克りこく)が公子こうし奚斉けいせい卓子たくしを殺害し、しん穆公ぼくこう夫人ふじん献公けんこう公女こうじょ)の縁故で(夫人ふじんの弟である)公子こうし夷吾いごしんに入れ、しんの国君とした。

すると桓公かんこうも「しんの内乱を討伐する」と言って高梁こうりょうに行き、隰朋しゅうほうを派遣して公子こうし夷吾いごしんの国君に立てさせて帰還した。

4強の時代

当時、しゅう室は衰微すいびしており、せいしんしんの4国が強盛となっていた。

当初、しんは会盟に参加していたが、献公けんこうが亡くなって国内が乱れたため、しん穆公ぼくこうは国が辟遠へきえんの地にあるため、いずれも中国ちゅうごく中原ちゅうげん)の会盟に参加しなかった。また成王せいおうは初めて荊蛮けいばんの地をおさめてこれを保有すると、みずか夷狄いてきの国と称して参加しなかった。

ただ1国、せいだけが中国ちゅうごく中原ちゅうげん)の諸侯しょこうを会盟し、しかも桓公かんこう覇者はしゃとしての徳を宣布することができたので、諸侯しょこうはこれに服従した。

桓公かんこうは得意になって言った。

寡人わたしは南方をち、召陵しょうりょうに行って熊山ゆうさんを望見し、北方に山戎さんじゅう離枝れいし孤竹こちくの国をち、西方は大夏たいかって流沙さばくをわたり、また馬を何頭も一緒につなぎ、車を引き上げて太行たいこうの険をよじ登り、卑耳山へきじさんまで行ってかえった。諸侯しょこうには寡人わたしの命令にそむく者がいない。寡人わたしは兵車を従えて会盟すること3度、兵車を従えず乗車だけで平和に会盟すること6度、諸侯しょこうを会合させること都合9度、天下の乱をただした。昔、いんしゅうの3代が天命を受けて帝王となったことと、わたしの成した大業と何が異なろうか?わたし泰山たいざんに封じて天を祭り、梁父りょうほぜんして山川を祭ろうと思う」

管仲かんちゅうはこれを固くいさめたが、桓公かんこうは聞き入れようとしないので、「遠方から珍怪な物が到来したならば、封禅ほうぜんを行うことができます」と説いて、ようやく桓公かんこうを思いとどまらせた。


桓公かんこう38年(紀元前648年)、しゅう襄王じょうおうの弟・たいじゅうてきと共謀してしゅうを攻撃すると、せいしゅうのために管仲かんちゅうを派遣してじゅうを平定させた。するとしゅう上卿じょうけいの位をもって管仲かんちゅうを礼遇しようとした。管仲かんちゅう頓首とんしゅ(頭を地面にりつけて拝礼すること)して「わたくし陪臣ばいしん(臣下の家臣)です。お受けできませんっ!」と3度辞退したが、ついに下卿かけいの礼を受けて襄王じょうおう謁見えっけんした。


桓公かんこう39年(紀元前647年)、しゅう襄王じょうおうの弟・たい出奔しゅっぽんしてせいに来た。せい仲孫ちゅうそんを派遣してたいに代わって襄王じょうおうびさせたが、襄王じょうおうは怒って聞き入れなかった。

管仲かんちゅうの死

桓公かんこう41年(紀元前645年)、しん穆公ぼくこうしん恵公けいこうとりこにし、やがてまた国に帰らせた。

この年、管仲かんちゅう隰朋しゅうほうが亡くなったが、生前、桓公かんこうは病床の管仲かんちゅううて言った。

桓公かんこう「群臣のうち、誰が宰相さいしょうとして適当だろうか?」

管仲かんちゅう「臣下を知ること、主君に勝る者はいないと存じます」

桓公かんこう易牙えきが桓公かんこう寵愛ちょうあいされた料理人)は如何いかがか?」

管仲かんちゅう「彼は我が子をころして我が君の意にかないました。これは人情ではなく適任ではありません」

桓公かんこう開方かいほうえい公子こうし)は如何いかがか?」

管仲かんちゅう「彼は親にそむいて我が君の意にかないました。これも人情ではなく近づけがたいと存じます」

桓公かんこう豎刁じゅちょう如何いかがか?」

管仲かんちゅう「彼はみずから去勢して宮中に入り、我が君の意にかないました。これも人情ではなく親しみがたいと存じます」

管仲かんちゅうの死後、桓公かんこう管仲かんちゅうの忠告をもちいず、結局この3人を近づけたので、3人は専権を振るった。

しゅうを救援する

桓公かんこう42年(紀元前644年)、じゅうしゅうを攻撃すると、しゅうせいに危急を告げた。これを受け、せい諸侯しょこうに号令し、それぞれ出兵してしゅうを守らせた。

この年、しん公子こうし重耳ちょうじせいにやって来た。桓公かんこうは彼に公女こうじょめあわせた。

桓公かんこうの死

これより前のこと。桓公かんこうの3人の夫人ふじん王姫おうき徐姫じょき蔡姫さいきにはみな子がなかったが、桓公かんこうは好色で寵愛ちょうあいした女性が多く、夫人ふじんに類する者が6人いた。その中で長衛姫ちょうえいき衛公えいこうむすめ。長は姉の意味)は無詭むきを生み、少衛姫しょうえいき衛公えいこうむすめ。少は妹の意味)は恵公元けいこうげんを生み、鄭姫ていき孝公昭こうこうしょうを生み、葛嬴かつえい昭公潘しょうこうはんを生み、密姫みつき懿公商人いこうしょうじんを生み、宋華子そうかし宋華氏えいかしむすめ)は公子こうしようを生んだ。

桓公かんこう43年(紀元前643年)、桓公かんこう管仲かんちゅうと相談して孝公昭こうこうしょうそう襄公じょうこうに委託し、せい太子たいしとした。

雍巫ようふ易牙えきが)は衛共姫えいきょうき長衛姫ちょうえいき)に気に入られ、また宦官かんがん豎刁じゅちょうに取り入って桓公かんこうに手厚い献上物をおくったので、桓公かんこうにも寵愛ちょうあいされた。その結果、桓公かんこうは[雍巫ようふ易牙えきが)の求めに応じて]は無詭むき太子たいしに立てることを承知した。

このようにして、管仲かんちゅうの死後、5人の公子こうしはみな太子たいしに立つことを求めるようになった。

冬10月、せい桓公かんこうが亡くなった。


易牙えきが雍巫ようふ)は公宮に入り、豎刁じゅちょうと共に衛共姫えいきょうき長衛姫ちょうえいき)と結んで反対派の大夫たいふのたちを殺害し、公子こうし無詭むきを立てて国君とした。太子たいししょう孝公昭こうこうしょう)はそう出奔しゅっぽんした。

すでに桓公かんこうの病気中から5人の公子こうしはそれぞれ党派を立てて後継者の地位を争っていたが、桓公かんこうが亡くなるとついに攻め合うようになった。そのため宮中はからとなり誰一人納棺する者がおらず、桓公かんこうの遺体は67日間も寝台の上に放置され、虫がいて戸からい出る始末であった。

12月、無詭むきが位にいた。そこで桓公かんこうの遺体を納棺してを発表し、斂殯かりもがり(死者を埋葬まいそうするまでひつぎおさめてしばらく安置すること)をした。

桓公かんこうの10余人の子のうち、その後即位した者が5人あった。まず無詭むきは在位3ヶ月で亡くなり、おくりなはなかった。その次に孝公こうこうが立ち、さらに昭公しょうこう懿公いこう恵公けいこうが順番に立った。


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