正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(72)譙国桓氏⑨(桓蔚・桓嗣・桓謙・桓脩・桓弘)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物⑨、
についてまとめています。
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か(72)譙国桓氏⑨
第4世代(桓蔚・桓嗣・桓謙・桓脩・桓弘)
桓蔚
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓秘。
官は散騎常侍・遊擊将軍に至った。桓玄が帝位を簒奪すると、醴陵県王に封ぜられた。
その後、桓玄が東晋の再興を掲げた劉裕・劉毅・何無忌らに敗れて敗死すると、何無忌らは馬頭に桓謙を、龍洲に桓蔚を攻め、これをみな撃ち破った。
義熙元年(405年)正月、南陽太守の魯宗之が義兵を起こして襄陽を襲い、楚(桓楚)の雍州刺史であった桓蔚は撃ち破られ、最後は後秦に逃亡した。
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桓嗣・恭祖
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓沖。弟に桓謙、桓脩、桓崇、桓弘、桓羨、桓怡。
若くして高潔なことで知られ、伯父・桓豁の子、桓石秀と並んで桓氏の子の中で秀でていた。
伯父の桓豁が亡くなり、父・桓沖が桓豁に代わって都督江荊梁益寧交広七州揚州之義成雍州之京兆司州之河東軍事・護南蛮校尉・荊州刺史・持節となると、桓嗣に詔が下され、督荊州之三郡豫州之四郡軍事・建威将軍・江州刺史となった。
蒞事(公務)の処理は簡潔で、家と仕事場は茅葺きで建てられていたが、桓嗣は船官に命じて板葺きに代えさせた。
後に西陽・襄城二郡太守に転任し、夏口に駐屯(鎮)した。その後江夏相となり、在官のまま亡くなった。南中郎将を追贈され、靖と諡された。
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桓謙・敬祖
生年不詳〜東晋の義熙6年(410年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓沖。兄に桓嗣。弟に桓脩、桓崇、桓弘、桓羨、桓怡。
東晋
公平さと才能によって名声があった。
初め、父・桓沖の功績によって宜陽県開国侯に封ぜられ、昇進を重ねて輔国将軍・呉国内史となった。
孫恩の乱の時、桓謙は無錫に出奔したが、その後徵されて尚書を拝命し、その後驃騎大将軍・司馬元顕の諮議参軍となり、司馬に転任した。
元興年間(402年〜404年)の初め、朝廷は桓玄を討伐しようとしたが、当時桓氏は陝西に在り、荊楚には桓謙の父・桓沖の遺恵があったので、それらが背くことを懼れ、桓謙を持節・都督荊益甯梁四州諸軍事・西中郎将・荊州刺史・仮節とし、荊楚を安んじさせた。
楚(桓玄)
桓玄が朝廷で権力を握ると、桓謙は尚書左僕射となり、吏部尚書を統括して中軍将軍を加えられた。桓謙の兄弟はみな高位に就き、桓玄は彼らを頼りとしたが、その実、うまく機能していなかった。後に桓謙は甯都侯に改封。尚書令を拝命して散騎常侍を加えられ、その後また侍中・衛将軍・開府・録尚書事に昇進した。
桓玄が帝位を簒奪すると揚州刺史となり、本官はこれまで通りとされ、新安王に封ぜられた。
桓振
元興3年(404年)に桓玄が敗死すると、江陵は晋軍に奪還され、桓謙は身を隠していた。
やがて桓振が江陵を攻撃すると、桓謙はまた兵を集めてこれに応じて江陵を奪取し、江陵に残っていた晋の安帝(司馬徳宗)を捕らえた。
この時、桓振は安帝(司馬徳宗)を殺害しようとしたが、桓謙が力を尽くして説得したので、安帝(司馬徳宗)の命は救われ、江陵の群臣は玉璽を安帝(司馬徳宗)に奉還した。桓謙はまた侍中・衛将軍に復任し、江・豫二州刺史となった。
桓振は江陵を奪取して以降、酒色に溺れ、欲しいままに誅殺を繰り返した。桓謙は桓振に「軍を率いて出陣し、自ら江陵を守る」ように勧めたが、桓振は平素から桓謙を軽んじていたため、これに従わなかった。
東晋の義熙元年(405年)、晋軍が江陵に攻めて来ると、桓振は桓謙と馮該に江陵を守らせ、自ら兵を率いて南陽太守・魯宗之を攻撃したが、この時劉毅は江陵の城外20里(約8.6km)の豫章口において馮該を撃ち破っていた。桓謙は城を棄てて逃亡し、劉毅は江陵の奪還に成功し、これを見た桓振は自潰した。
桓謙は桓怡・桓蔚・何澹之・温楷らと共に後秦の姚興の元に逃亡した。
後秦(譙縦)
東晋の義熙3年(407年)、西蜀の譙縦は後秦の姚興に臣従しながら、盧循と使者を通じて影響し合い、桓謙と共に東(荊州)を攻めることを請う上表をした。
姚興がそのことを桓謙に問うと、桓謙は「臣の一門は荊楚に著しい恩を施しており、従弟の桓玄が帝位を簒奪しましたが、そうせざるを得なかったことは人神の知るところです。今、臣が譙縦と共に東(荊州)に下れば、民衆は驚いて自ら応じるでしょう」と言った。
すると姚興は「小さな水に大舟を浮かべることはできない。もし譙縦に事を成すことができなければ、君が彼の鱗翼となる必要はない。あなたの思うようにやりなさい」と言って桓謙を派遣した。
桓謙は成都に到着すると、謙虚に蜀の地の士人たちを招いたが、譙縦はその行為に疑念を抱き、桓謙を龍格に置いて監視するように命じた。桓謙は涙を流して弟たちに「姚主(姚興)の言葉は正に神のようだっ!」と言った。
荊州侵攻
東晋の義熙6年(410年)、東晋が盧循の叛乱を鎮圧していた時のこと。譙縦は後秦の姚興に東晋を攻めるための兵を請い、桓謙を荊州刺史に任命して、譙道福と共に2万の兵を率いて荊州に攻め込ませた。
桓謙はその道中に桓氏の支持者を召集し、2万人を得て枝江に駐屯した。一時は江陵を脅かし、江陵の住民が城内の様子を桓謙に報告してくる程であったが、東晋の荊州刺史・劉道規が水陸から進軍してくると、桓謙は敗れ、援軍として派遣された後秦の前将軍・苟林の元に身を寄せようとしたが、劉道規の追擊を受けて殺害された。
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桓脩・承祖(桓修)
生年不詳〜東晋の元興3年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓沖。兄に桓嗣、桓謙。弟に桓崇、桓弘、桓羨、桓怡。妻は東晋の簡文帝(司馬昱)の女・武昌公主。
吏部郎を経て左衛将軍に昇進した。
王恭が譙王・司馬尚之を討伐しようとした時のこと。先に何澹之と孫無終を句容に向かわせた。
桓脩は左衛将軍に振武将軍を加えられ、輔国将軍・陶無忌と共に兵を率いてこれを防ぎ、自ら兵を率いて句容に向かった。王恭が敗れると孫無終は桓脩に書簡を送って降伏することを求めた。ところが、桓脩が勝利を収めて凱旋するとすぐに、王恭に呼応した楊佺期が軍を率いて石頭城に至ったので、朝廷では何の防備もできていなかったため人々は驚き慌てた。
この時、桓脩は「現在朝廷では、殷氏・桓氏以下、みな王恭を頼りにしています。彼がすでに破滅したと聞けば、狼狽しない者はおりません。もし今、詔をもって桓玄を用いれば、桓玄は喜び、殷仲堪や楊佺期を制御して命令に従うでしょう」と言った。
すると朝廷はこれを受け容れ、桓脩を龍驤将軍・荊州刺史・仮節とし、左衛文武の鎮を領させて、劉牢之に千人の兵で送らせ、また殷仲堪を広州刺史とした。
ところが桓脩は、出発する前に桓玄らと尋陽で会盟し、朝廷に劉牢之の誅殺を要求した。また譙王・司馬尚之は殷仲堪の無罪を訴え、詔により殷仲堪は荊州刺史に復帰した。
御史中丞の江績は「桓脩が楊佺期に説得されて朝廷を誤らせた」として廷尉に下すように要請した。これにより桓脩は免官となり、代わって王凝之が中護軍となった。
その直後、桓玄は殷仲堪と楊佺期を破り、詔により桓脩を征虜将軍・江州刺史となり、またすぐに中護軍となった。
桓玄が朝廷の実権を握ると、桓脩は都督六州・右将軍・徐兗二州刺史・仮節となり、すぐに撫軍将軍に位を進め、散騎常侍を加えられた。
桓玄が帝位を簒奪すると、撫軍大将軍となり、安成王に封ぜられた。
東晋の元興3年(404年)、劉裕・劉毅・何無忌らが東晋再興の兵を挙げると、京口において劉裕らに斬られた。
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桓弘
生年不詳〜東晋の元興3年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓沖。兄に桓嗣、桓謙、桓崇。弟に桓羨、桓怡。
東晋の元興3年(404年)、劉裕・劉毅・何無忌らが東晋再興の兵を挙げると、広陵において劉裕らに斬られた。
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