正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(64)沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)①(桓栄(かんえい)・桓雍(かんよう)・桓郁(かんいく))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

沛郡桓氏系図

沛郡桓氏系図

沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)と譙国(しょうこく)桓氏(かんし)について

『晋書(しんじょ)』桓彝伝(かんいでん)には「後漢(ごかん)の五更(ごこう)*1・桓栄(かんえい)の9世の孫にあたる」とあり、沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)と譙国(しょうこく)桓氏(かんし)(晋(しん)の桓温(かんおん)・桓玄(かんげん)らの一族)は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝(かんい)を桓郁(かんいく)の弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れ替(か)わることを知る者のこと。『続漢志(ぞくかんし)』に「三老(さんろう)・五更(ごこう)を養(やしな)う礼儀は、吉日に先んじて司徒(しと)か太傅(たいふ)、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公(さんこう)の中から『徳行がある高齢者』を用(もち)いて、三公(さんこう)から1名を三老(さんろう)とし、九卿(きゅうけい)から1名を五更(ごこう)とする」とあり、『漢官儀(かんかんぎ)』には「三老(さんろう)・五更(ごこう)はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備(そな)わっている者から選ぶ」とある。


この記事では沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)の人物①、

についてまとめています。

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か(64)沛郡桓氏①

第1世代(桓栄)

桓栄(かんえい)・春卿(しゅんきょう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛郡(はいぐん)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。子に桓雍(かんよう)、桓郁(かんいく)。兄の名は不明。後漢(ごかん)の第2代皇帝・顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))の太子(たいし)少傅(しょうふ)。

出自

桓栄(かんえい)は斉(せい)の桓公(かんこう)の後裔(こうえい)である。桓公(かんこう)の庶子が桓公(かんこう)の謚号(しごう)を用(もち)いて一族の氏(うじ)とした。桓栄(かんえい)の先祖は斉(せい)の人であったが、龍亢県(りゅうこうけん)に移った。(龍亢県(りゅうこうけん)に移ってから)桓栄(かんえい)で6代目にあたる。

若くして長安(ちょうあん)で学び、歐陽尚書(おうようしょうしょ)を習(なら)い、揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)出身の博士(はくし)・朱普(しゅふ)に師事した。貧しく財産もなく、常に雇われて自給していたが、精力は衰(おとろ)えず、15年もの間、郷里に帰らなかった。王莽(おうもう)が帝位を簒奪(さんだつ)すると帰郷した。

師匠の朱普(しゅふ)が亡くなると、彼の郷里である九江郡(きゅうこうぐん)に駆けつけて喪(も)に服し、土を背(せ)負(お)って墳(はか)をつくり、九江郡(きゅうこうぐん)に留(とど)まって数百人に教授した。

王莽(おうもう)が敗れて天下が乱れると、桓栄(かんえい)は経書(けいしょ)を抱(かか)えて弟子と共に山谷に逃げ隠れ、常に困窮(こんきゅう)していても講論することを止(や)めず、(乱が収(おさ)まると)後(のち)にまた長江(ちょうこう)・淮水(わいすい)の辺りに身を寄せて教授した。

光武帝の目にとまる

建武(けんぶ)19年(43年)、桓栄(かんえい)は60余歳で初めて大司徒府(だいしとふ)に辟召(め)された。当時はちょうど顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))が皇太子(こうたいし)に立てられたところで、経書(けいしょ)に明るい者を選び求めていたので、桓栄(かんえい)の弟子である揚州(ようしゅう)・豫章郡(よしょうぐん)出身の何湯(かとう)を抜擢(ばってき)して虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)とし、太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]に『尚書(しょうしょ)』を教授させた。

世祖(せいそ)(光武帝(こうぶてい))はさりげなく何湯(かとう)に師匠は誰であるかを尋(たず)ね、すぐさま桓栄(かんえい)を召(め)して『尚書(しょうしょ)』を講義させたところ、その様子を見て大変満足した。これにより桓栄(かんえい)は議郎(ぎろう)を拝命し、銭10万を賜(たまわ)って、太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]に教授することになった。

また朝会の度(たび)ごとに桓栄(かんえい)に命じて公卿(こうけい)の前で経書(けいしょ)についての意見を敷奏(ふそう)(奏上)させた。光武帝(こうぶてい)は満足して桓栄(かんえい)を称(たた)え、「先生に気づくのが遅かったわっ!」と言った。

また、歐陽尚書(おうようしょうしょ)の博士(はくし)に欠員が出た時、光武帝(こうぶてい)は桓栄(かんえい)を用(もち)いようとした。すると桓栄(かんえい)は叩頭(こうとう)して「臣(わたくし)の経術(けいじゅつ)など、同門生の郎中(ろうちゅう)・彭閎(ほうこう)や揚州従事(ようしゅうじゅうじ)・皐弘(こうこう)には及びません」と言ったが、光武帝(こうぶてい)は「分かった。だが君こそが相応(ふさわ)しいのだ」と言って桓栄(かんえい)を博士(はくし)とし、彭閎(ほうこう)と皐弘(こうこう)を議郎(ぎろう)に取り立てた。


光武帝(こうぶてい)は大学(たいがく)に行幸(ぎょうこう)し、博士(はくし)たちを集めて御前で論難(ろんなん)(相手の誤(あやま)り・欠点などを論じて非難すること)させた。この時桓栄(かんえい)は儒衣(じゅい)を身につけていたが、その様子は穏(おだ)やかで慎(つつし)み深く、寛大(かんだい)で余裕があり、経義(けいぎ)を述(の)べる際は常に礼儀正しく謙(へりくだ)っていた。儒者(じゅしゃ)の中に彼に及ぶ者はなく、特別に賞賜(しょうし)を加えられた。

また、詔(みことのり)により諸生たちが雅頌(がしょう)(宮廷音楽)を演奏した時のこと。日が沈(しず)み散会となると、参加者は庭に集められ、詔(みことのり)により珍しい果物を賜(たまわ)った。受け取った者たちはみなそれを懐(ふところ)に入れたが、桓栄(かんえい)はただ1人、手を挙(あ)げてそれを大切に捧(ささ)げ持ったので、光武帝(こうぶてい)は笑って桓栄(かんえい)を指(さ)し、「これぞ真(まこと)の儒生(じゅせい)なり」と言った。

これにより桓栄(かんえい)はいよいよ敬(うやま)われ厚遇されるようになり、常に太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]の宮殿に留(とど)まることを命ぜられた。

太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]の宮殿に留(とど)まること5年、桓栄(かんえい)は門下生である揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)出身の胡憲(こけん)を推薦して侍講(じこう)させることで宮殿を出ることを許され、それ以降は月に1度宮殿に行くことになった。

桓栄(かんえい)が病気で寝込んでいると、太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]は朝夕中傅(ちゅうふ)を遣(や)って病状を尋(たず)ね、珍羞(ちんちゅう)(ごちそう)・帷帳(いちょう)・奴婢(どひ)を下賜(かし)して「もし(あなたに)万一のことがあっても、家族のことは心配するな」と言った。後に病気は治り、また宮中に入って侍講(じこう)した。

明帝の太子少傅となる

建武(けんぶ)28年(52年)、光武帝(こうぶてい)は大々的に百官を集めて詔(みことのり)を下し、「誰が太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]の傅(ふ)(傅役(もりやく))に相応(ふさわ)しいか」を問(と)うた。群臣たちはみな光武帝(こうぶてい)に忖度(そんたく)して「太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]の舅(しゅうと)である執金吾(しつきんご)・原鹿侯(げんかこう)・陰識(いんしき)がよろしいでしょう」と言った。

すると博士(はくし)の張佚(ちょういつ)は色を正して「今、陛下が太子(たいし)を立てたのは、陰氏(いんし)のためでしょうか?天下のためでしょうか?陰氏(いんし)のためならば陰侯(いんこう)でよろしいが、天下のためならば、よろしく天下の賢才を用(もち)いるべきでございます」と言った。

光武帝(こうぶてい)はこの言葉を称(たた)え、「傅(ふ)(傅役(もりやく))を置こうとしたのは、太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]を輔(たす)けるためである。今、博士(はくし)(張佚(ちょういつ))は臆(おく)することなく朕(ちん)(私)を正した。太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]であれば尚更(なおさら)であろう」と言い、すぐに張佚(ちょういつ)を太子(たいし)太傅(たいふ)とし、桓栄(かんえい)を太子(たいし)少傅(しょうふ)として、2人に輜車(ししゃ)と乗馬を下賜(かし)した。

桓栄(かんえい)は諸生たちを集めて賜(たまわ)った車馬と印綬(いんじゅ)を並べ、「今日、これらを賜(たまわ)ったのは、日頃の稽古(けいこ)の力である。勉学に励(はげ)まずにいられようかっ!」と言った。

桓栄(かんえい)は太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]が経学(けいがく)を成畢(せいひつ)(完成)すると、上疏(じょうそ)して「臣(わたくし)は幸(さいわ)いにして帷幄(いあく)に侍(はべ)ることができ、連年経学(けいがく)を講義してまいりましたが、臣(わたくし)の知識・学問は浅く未熟で、ほんの僅(わず)かでも太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]の学問を補(おぎな)うことができませんでした。今、皇太子(こうたいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]は聡叡(そうえい)な姿であられ、また経義(けいぎ)に精通されておりますれば、古今の儲君(ちょくん)(皇太子(こうたいし))をみても、これほど専門的な知識を持った方は他におりません。これは誠(まこと)に国家の福祐(ふくゆう)(幸福)、天下の幸甚(こうじん)(この上ない幸せ)です。臣(わたくし)が太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]に教授できることはもうありません。慎(つつし)んで掾(えん)を遣(つか)わされ、臣(わたくし)に再拝して帰路につくことをお許しくださいますように」と言った。

これに太子(たいし)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))]は書をもって「荘(わたし)は無知な童(わらべ)の頃から学道に努(つと)めること9年、未(いま)だ典訓(古典の教え)を理解したとは言えず、曉識(ぎょうしき)(悟(さと)る)もありません。そもそも五経(ごけい)は広大で聖言(しょうごん)(聖人の言葉)は奥深く、天下の至精(しせい)(非常に詳しいこと)でなければ理解することはできないではありませんかっ!まして(荘(わたし)は)不才の身なれば、誨命(かいめい)(桓栄(かんえい)の辞任)を承知することなどできません。昔の先師(すでに亡くなった師匠)に弟子を帰郷させた方がいましたが、それは『上』は弟子が経旨(けいし)に通達(深くその道に達すること)して章句を理解したからであり、『下』は家を出て久しく故郷を懐(なつ)かしみ、門下を去ることを求めたためです。今、蒙(わたし)は『下』の列におり、弟子を辞(じ)することはできません。願わくは先生が病気に気をつけて養生し、お玉体(からだ)を大切になされますように」と答えた。

桓栄と桓元卿

建武(けんぶ)30年(54年)、桓栄(かんえい)は太常(たいじょう)を拝命した。

以前、桓栄(かんえい)は慌(あわ)ただしい時勢に遭(あ)い、族人の桓元卿(かんげんけい)と飢(う)えと苦悩を共にしたが、その時でも桓栄(かんえい)は経書(けいしょ)を講じ、読みあげることを怠(おこた)らなかった。それを見た桓元卿(かんげんけい)が嗤(あざわら)って「そんなに頑張っているが、いつになったら役に立つのかね?」と言ったが、桓栄(かんえい)はただ笑っているだけで答えなかった。

桓栄(かんえい)が太常(たいじょう)となると、桓元卿(かんげんけい)は嘆息(たんそく)して「農家の子の我(わたし)には、学問がこれほど役に立つとは思えなかった」と言った。

明帝の即位

顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))が即位すると、桓栄(かんえい)は師礼によって尊(とうと)ばれ、とても親しく重んじられて、桓栄(かんえい)の2人の子は郎(ろう)に取り立てられた。

桓栄(かんえい)は80歳を超え、自(みずか)ら老衰(ろうすい)を理由に、度(たび)々(たび)上書して隠居することを願い出たが、その度(たび)に賞賜(しょうし)を加えられた。

乗輿(じょうよ)(明帝(めいてい))はかつて太常府(たいじょうふ)に行幸(ぎょうこう)し、桓栄(かんえい)を東面に座らせて几杖(きじょう)(肘掛(ひじか)けと杖(つえ))を設(もう)け、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・東平王(とうへいおう)・劉蒼(りゅうそう)以下、百官と桓栄(かんえい)の門下生・数百人を集め、天子(てんし)(明帝(めいてい))自(みずか)ら経学(けいがく)を講(こう)じ(執業)、何か言う度(たび)に「大師(たいし)(桓栄(かんえい))はここにおられる」と言った。

講義が終わると、太官(たいかん)の供具(ごちそう)をすべて太常(たいじょう)(桓栄(かんえい))の家に下賜(かし)した。顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))の桓栄(かんえい)に対する恩礼はこのようであった。


永平(えいへい)2年(59年)、三雍(さんよう)(明堂(めいどう)・霊台(れいだい)・辟雍(へきよう))が初めて完成し、桓栄(かんえい)を五更(ごこう)*1とした。

大射(たいしゃ)養老(ようろう)の礼が終わる度(たび)に、顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))はその都度(つど)、桓栄(かんえい)とその弟子を引き連れて堂に昇(のぼ)らせ、経書(けいしょ)を執(と)って自(みずか)ら講義を行った。桓栄(かんえい)を関内侯(かんだいこう)に封じ、食邑(しょくゆう)を5千戸とした。


桓栄(かんえい)が病気に伏せる度(たび)に、顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は使者を遣(つか)わして容態(ようだい)を尋(たず)ねさせ、(明帝(めいてい)が派遣した)太官(たいかん)と太医(たいい)がすれ違う程(ほど)であった。

いよいよ病気が重くなると、桓栄(かんえい)は上疏(じょうそ)してこれまで受けた恩に感謝の言葉を述(の)べ、爵位と封土(ほうど)(食邑(しょくゆう))を返還した。

顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は桓栄(かんえい)の日常生活の様子を問(と)うために彼の家に行幸(ぎょうこう)した。顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は街に入ると車を降り、経書(けいしょ)を持って桓栄(かんえい)の前まで行くと、彼を撫(な)でて涙を流し、牀茵(しょういん)(ベッド)・帷帳(いちょう)・刀剣(とうけん)・衣被(きぬかずき)を下賜(かし)し、しばらく経(た)って辞去した。

それ以降、諸侯(しょこう)・将軍(しょうぐん)・大夫(たいふ)など桓栄(かんえい)を見舞う者たちは、自(おの)ずから車に乗ったまま門の前まで行かず、みな床下で拝礼するようになった。

桓栄(かんえい)が亡くなると、顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は自(みずか)ら(喪服(もふく)に)着替え、喪(も)に臨(のぞ)んで葬列を見送り、首山(しゅざん)(首陽山(しゅようざん))の陽(南)に冢塋(ちょうえい)(墓)を下賜(かし)した。

また顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は、桓栄(かんえい)の兄の子2人を四百石(よんひゃくせき)の官職に就(つ)け、(桓栄(かんえい)門下の)都講生(塾頭)8人を二百石(にひゃくせき)の官職に就(つ)けた他、門下生の多くが九卿(きゅうけい)に至った。

脚注

*1老人で五行の徳が入れ替(か)わることを知る者のこと。『続漢志(ぞくかんし)』に「三老(さんろう)・五更(ごこう)を養(やしな)う礼儀は、吉日に先んじて司徒(しと)か太傅(たいふ)、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公(さんこう)の中から『徳行がある高齢者』を用(もち)いて、三公(さんこう)から1名を三老(さんろう)とし、九卿(きゅうけい)から1名を五更(ごこう)とする」とあり、『漢官儀(かんかんぎ)』には「三老(さんろう)・五更(ごこう)はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備(そな)わっている者から選ぶ」とある。


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第2世代(桓雍・桓郁)

桓雍(かんよう)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛郡(はいぐん)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓栄(かんえい)。弟に桓郁(かんいく)。

顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))が即位すると、弟の桓郁(かんいく)と共に郎(ろう)に取り立てられたが、早くに亡くなった。


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桓郁(かんいく)・仲恩(ちゅうおん)

生年不詳〜永元(えいげん)5年(93年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛郡(はいぐん)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓栄(かんえい)。子に桓普(かんふ)、桓延(かんえん)、桓焉(かんえん)、桓俊(かんしゅん)、桓鄷(かんほう)、桓良(かんりょう)。兄に桓雍(かんよう)。

若くして父・桓栄(かんえい)の功績によって郎(ろう)に取り立てられた。親切・誠実で人情に厚く、学問に熱心で父・桓栄(かんえい)の学業を伝え、常に数百人の門徒生に尚書(しょうしょ)を教授した。

父・桓栄(かんえい)が亡くなると、(兄・桓雍(かんよう)がすでに亡くなっていたため)桓郁(かんいく)は父・桓栄(かんえい)の爵位を継ぐべきであったが、上書して兄の子・桓汎(かんはん)に譲(ゆず)ろうとした。ところが顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))はそれを許さなかったため、桓郁(かんいく)はやむを得ず封爵(ほうしゃく)を受け、封地からの収入をすべて桓汎(かんはん)に与えた。

顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は桓郁(かんいく)が先師(桓栄(かんえい))の子であり、また礼讓(れいじょう)(礼儀正しく謙(へりくだ)った態度をとること)を備(そな)えていることから彼を大変厚遇した。常に禁中(きんちゅう)で経書(けいしょ)を論じ、政事についても質問するようになり、少しして侍中(じちゅう)に昇進した*2。

顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は自(みずか)ら『五家要説章句(ごかようせつしょうく)』を著(あらわ)したが、桓郁(かんいく)に宣明殿(せんめいでん)においてそれを校定させ、侍中(じちゅう)に加え虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)を兼任した。

永平(えいへい)15年(72年)、桓郁(かんいく)は宮中に入って皇太子(こうたいし)に経書(けいしょ)を教授した。また桓郁(かんいく)が越騎校尉(えっきこうい)に昇進すると、顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))は太子(たいし)・諸王(しょおう)に詔勅(しょうちょく)を下して、それぞれ礼を尽くしてお祝いを申し上げさせた。桓郁(かんいく)は数々の忠言を進言し、その多くが聞き入れられた。


肅宗(しゅくそう)(章帝(しょうてい))が即位すると、桓郁(かんいく)は母の喪(も)に服すために辞職を願い出たが、肅宗(しゅくそう)(章帝(しょうてい))は詔(みことのり)を下して「侍中(じちゅう)のまま喪(も)に服すことを許した。建初(けんしょ)2年(77年)、屯騎校尉(とんきこうい)に昇進した。


次に即位した和帝(わてい)は年少であったため、侍中(じちゅう)の竇憲(とうけん)は自分が外戚(がいせき)の重鎮(じゅうちん)であることから、少主(和帝(わてい))に「経学(けいがく)に広く通じて欲しい」と考えて、皇太后(こうたいごう)に上疏(じょうそ)して「桓郁(かんいく)と宗正(そうせい)の劉方(りゅうほう)を宮中に入れて和帝(わてい)に教授させる」ように言った。

竇憲の上疏・全文
タップ(クリック)すると開きます。

『大戴礼記(だたいらいき)』保傅篇(ほふへん)に「天下の命運は天子(てんし)に懸(か)かっており、天子(てんし)の善(ぜん)は習(なら)うところに成(な)る。『習』が『智』と共に長(ちょう)ずれば、身近なものとして退(しりぞ)けることのできないものになる(常に自(みずか)ら強く励(はげ)んで戒(いまし)めを用(もち)いない)。『化』が『心』と共に善(よ)く成(な)れば、道に当たること性のごとくなる。昔、(周(しゅう)の)成王(せいおう)が幼小でまだ襁保(むつき)(おむつ)をつけていた頃、周公(しゅうこう)は前に、史佚(しいつ)は後ろに、太公望(たいこうぼう)は左に、召公(しょうこう)は右にあった。成王(せいおう)はその中心に立って朝政を聴(き)き、4人の聖人のお陰で(3代に及ぶ政(まつりごと)の伝統を)維持することができた。これにより(政治の)思慮(しりょ)に遺計(いけい)(手(て)抜(ぬ)かり)はなく、(政治の)大事に過(あやま)ちはなかった」とあります。

また、前漢(ぜんかん)の孝昭皇帝(こうしょうこうてい)は8歳で即位すると、大臣が輔政(ほせい)し、名儒(めいじゅ)の韋賢(いけん)・蔡義(さいぎ)・夏侯勝(かこうしょう)らを選んで宮中に入れ、皇帝に教授して聖徳を完成させました。

近いところでは建初(けんしょ)元年(76年)、張酺(ちょうほ)・魏応(ぎおう)・召訓(しょうくん)もまた禁中で講義をしました。

臣(わたくし)が伏(ふ)して惟(おも)いますに、皇帝陛下はありのままの姿で教学を進めるべきですが、ただ左右のつまらない臣下だけを相手として、未(いま)だ経典(けいてん)の教義を聞いておりません。

昔、五更(ごこう)*1の桓栄(かんえい)は親しく帝(みかど)[顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))の]師となり、その子の桓郁(かんいく)は結髪(けっぱつ)(成人)して敦(あつ)く尚(たっと)ばれ、父の学業を継承していました。故(ゆえ)にまた校尉(こうい)として宮中に入って先帝(章帝(しょうてい))に経書(けいしょ)を教授しており、桓栄(かんえい)・桓郁(かんいく)父子が禁中に給事すること(光武帝(こうぶてい)・明帝(めいてい)・章帝(しょうてい)・和帝(わてい)の)4世にわたっております。

今、桓郁(かんいく)は年老いて白髪となるも変わらず「礼」を好み、経典(けいてん)に則(のっと)った行いを篤(あつ)く備(そな)えております。また、宗正(そうせい)の劉方(りゅうほう)は宗室の手本であり、善(よ)く『詩経(しきょう)』を修(おさ)め、先帝(章帝(しょうてい))に賞賛されております。

どうか桓郁(かんいく)と劉方(りゅうほう)を共に宮中に入れて和帝(わてい)に教授させ、もって本朝を崇(たっと)び、大化に光を示すべきであります。


この上疏(じょうそ)によって桓郁(かんいく)は長楽少府(ちょうらくしょうふ)に昇進し、また宮中に入って侍講(じこう)した。しばらくして侍中(じちゅう)・奉車都尉(ほうしゃとい)に転任した。

永元(えいげん)4年(92年)に丁鴻(ていこう)に代わって太常(たいじょう)となったが、その翌年に病気で亡くなった。


桓郁(かんいく)は(章帝(しょうてい)・和帝(わてい)の)2帝に教授し、恩寵(おんちょう)は大変篤(あつ)く、賞賜(しょうし)は前後数百万から1千万ほどに及び、当世において顕著(けんちょ)であった。門下生の楊震(ようしん)と朱寵(しゅちょう)はみな三公(さんこう)に至った。

以前、桓栄(かんえい)が朱普(しゅふ)に師事した時、その章句は40万言であったが、根拠のない冗長な言葉ばかりで、多くは本来の意味から外れていた。桓栄(かんえい)が宮中に入って顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))に教授することになって、(無駄を省(はぶ)いて)23万言とし、桓郁(かんいく)はさらに省(はぶ)いて12万言とした。こうして『桓君大小太常章句(かんくんだいしょうたいじょうしょうく)』ができた。

脚注

*1老人で五行の徳が入れ替(か)わることを知る者のこと。『続漢志(ぞくかんし)』に「三老(さんろう)・五更(ごこう)を養(やしな)う礼儀は、吉日に先んじて司徒(しと)か太傅(たいふ)、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公(さんこう)の中から『徳行がある高齢者』を用(もち)いて、三公(さんこう)から1名を三老(さんろう)とし、九卿(きゅうけい)から1名を五更(ごこう)とする」とあり、『漢官儀(かんかんぎ)』には「三老(さんろう)・五更(ごこう)はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備(そな)わっている者から選ぶ」とある。

*2『東観漢記(とうかんかんき)』に「(桓郁(かんいく)は)永平(えいへい)14年(71年)に議郎(ぎろう)となり、侍中(じちゅう)に昇進した」とある。


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【三国志人物伝】総索引