正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(64)沛郡桓氏①(桓栄・桓雍・桓郁)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
沛郡桓氏系図
沛郡桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
沛郡桓氏と譙国桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、沛郡桓氏と譙国桓氏(晋の桓温・桓玄らの一族)は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では沛郡桓氏の人物①、
についてまとめています。
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か(64)沛郡桓氏①
第1世代(桓栄)
桓栄・春卿
生没年不詳。豫州(予州)・沛郡・龍亢県の人。子に桓雍、桓郁。兄の名は不明。後漢の第2代皇帝・顕宗(明帝)の太子少傅。
出自
桓栄は斉の桓公の後裔である。桓公の庶子が桓公の謚号を用いて一族の氏とした。桓栄の先祖は斉の人であったが、龍亢県に移った。(龍亢県に移ってから)桓栄で6代目にあたる。
若くして長安で学び、歐陽尚書を習い、揚州・九江郡出身の博士・朱普に師事した。貧しく財産もなく、常に雇われて自給していたが、精力は衰えず、15年もの間、郷里に帰らなかった。王莽が帝位を簒奪すると帰郷した。
師匠の朱普が亡くなると、彼の郷里である九江郡に駆けつけて喪に服し、土を背負って墳をつくり、九江郡に留まって数百人に教授した。
王莽が敗れて天下が乱れると、桓栄は経書を抱えて弟子と共に山谷に逃げ隠れ、常に困窮していても講論することを止めず、(乱が収まると)後にまた長江・淮水の辺りに身を寄せて教授した。
光武帝の目にとまる
建武19年(43年)、桓栄は60余歳で初めて大司徒府に辟召された。当時はちょうど顕宗(明帝)が皇太子に立てられたところで、経書に明るい者を選び求めていたので、桓栄の弟子である揚州・豫章郡出身の何湯を抜擢して虎賁中郎将とし、太子[顕宗(明帝)]に『尚書』を教授させた。
世祖(光武帝)はさりげなく何湯に師匠は誰であるかを尋ね、すぐさま桓栄を召して『尚書』を講義させたところ、その様子を見て大変満足した。これにより桓栄は議郎を拝命し、銭10万を賜って、太子[顕宗(明帝)]に教授することになった。
また朝会の度ごとに桓栄に命じて公卿の前で経書についての意見を敷奏(奏上)させた。光武帝は満足して桓栄を称え、「先生に気づくのが遅かったわっ!」と言った。
また、歐陽尚書の博士に欠員が出た時、光武帝は桓栄を用いようとした。すると桓栄は叩頭して「臣の経術など、同門生の郎中・彭閎や揚州従事・皐弘には及びません」と言ったが、光武帝は「分かった。だが君こそが相応しいのだ」と言って桓栄を博士とし、彭閎と皐弘を議郎に取り立てた。
光武帝は大学に行幸し、博士たちを集めて御前で論難(相手の誤り・欠点などを論じて非難すること)させた。この時桓栄は儒衣を身につけていたが、その様子は穏やかで慎み深く、寛大で余裕があり、経義を述べる際は常に礼儀正しく謙っていた。儒者の中に彼に及ぶ者はなく、特別に賞賜を加えられた。
また、詔により諸生たちが雅頌(宮廷音楽)を演奏した時のこと。日が沈み散会となると、参加者は庭に集められ、詔により珍しい果物を賜った。受け取った者たちはみなそれを懐に入れたが、桓栄はただ1人、手を挙げてそれを大切に捧げ持ったので、光武帝は笑って桓栄を指し、「これぞ真の儒生なり」と言った。
これにより桓栄はいよいよ敬われ厚遇されるようになり、常に太子[顕宗(明帝)]の宮殿に留まることを命ぜられた。
太子[顕宗(明帝)]の宮殿に留まること5年、桓栄は門下生である揚州・九江郡出身の胡憲を推薦して侍講させることで宮殿を出ることを許され、それ以降は月に1度宮殿に行くことになった。
桓栄が病気で寝込んでいると、太子[顕宗(明帝)]は朝夕中傅を遣って病状を尋ね、珍羞(ごちそう)・帷帳・奴婢を下賜して「もし(あなたに)万一のことがあっても、家族のことは心配するな」と言った。後に病気は治り、また宮中に入って侍講した。
明帝の太子少傅となる
建武28年(52年)、光武帝は大々的に百官を集めて詔を下し、「誰が太子[顕宗(明帝)]の傅(傅役)に相応しいか」を問うた。群臣たちはみな光武帝に忖度して「太子[顕宗(明帝)]の舅である執金吾・原鹿侯・陰識がよろしいでしょう」と言った。
すると博士の張佚は色を正して「今、陛下が太子を立てたのは、陰氏のためでしょうか?天下のためでしょうか?陰氏のためならば陰侯でよろしいが、天下のためならば、よろしく天下の賢才を用いるべきでございます」と言った。
光武帝はこの言葉を称え、「傅(傅役)を置こうとしたのは、太子[顕宗(明帝)]を輔けるためである。今、博士(張佚)は臆することなく朕(私)を正した。太子[顕宗(明帝)]であれば尚更であろう」と言い、すぐに張佚を太子太傅とし、桓栄を太子少傅として、2人に輜車と乗馬を下賜した。
桓栄は諸生たちを集めて賜った車馬と印綬を並べ、「今日、これらを賜ったのは、日頃の稽古の力である。勉学に励まずにいられようかっ!」と言った。
桓栄は太子[顕宗(明帝)]が経学を成畢(完成)すると、上疏して「臣は幸いにして帷幄に侍ることができ、連年経学を講義してまいりましたが、臣の知識・学問は浅く未熟で、ほんの僅かでも太子[顕宗(明帝)]の学問を補うことができませんでした。今、皇太子[顕宗(明帝)]は聡叡な姿であられ、また経義に精通されておりますれば、古今の儲君(皇太子)をみても、これほど専門的な知識を持った方は他におりません。これは誠に国家の福祐(幸福)、天下の幸甚(この上ない幸せ)です。臣が太子[顕宗(明帝)]に教授できることはもうありません。慎んで掾を遣わされ、臣に再拝して帰路につくことをお許しくださいますように」と言った。
これに太子[顕宗(明帝)]は書をもって「荘は無知な童の頃から学道に努めること9年、未だ典訓(古典の教え)を理解したとは言えず、曉識(悟る)もありません。そもそも五経は広大で聖言(聖人の言葉)は奥深く、天下の至精(非常に詳しいこと)でなければ理解することはできないではありませんかっ!まして(荘は)不才の身なれば、誨命(桓栄の辞任)を承知することなどできません。昔の先師(すでに亡くなった師匠)に弟子を帰郷させた方がいましたが、それは『上』は弟子が経旨に通達(深くその道に達すること)して章句を理解したからであり、『下』は家を出て久しく故郷を懐かしみ、門下を去ることを求めたためです。今、蒙は『下』の列におり、弟子を辞することはできません。願わくは先生が病気に気をつけて養生し、お玉体を大切になされますように」と答えた。
桓栄と桓元卿
建武30年(54年)、桓栄は太常を拝命した。
以前、桓栄は慌ただしい時勢に遭い、族人の桓元卿と飢えと苦悩を共にしたが、その時でも桓栄は経書を講じ、読みあげることを怠らなかった。それを見た桓元卿が嗤って「そんなに頑張っているが、いつになったら役に立つのかね?」と言ったが、桓栄はただ笑っているだけで答えなかった。
桓栄が太常となると、桓元卿は嘆息して「農家の子の我には、学問がこれほど役に立つとは思えなかった」と言った。
明帝の即位
顕宗(明帝)が即位すると、桓栄は師礼によって尊ばれ、とても親しく重んじられて、桓栄の2人の子は郎に取り立てられた。
桓栄は80歳を超え、自ら老衰を理由に、度々上書して隠居することを願い出たが、その度に賞賜を加えられた。
乗輿(明帝)はかつて太常府に行幸し、桓栄を東面に座らせて几杖(肘掛けと杖)を設け、驃騎将軍・東平王・劉蒼以下、百官と桓栄の門下生・数百人を集め、天子(明帝)自ら経学を講じ(執業)、何か言う度に「大師(桓栄)はここにおられる」と言った。
講義が終わると、太官の供具をすべて太常(桓栄)の家に下賜した。顕宗(明帝)の桓栄に対する恩礼はこのようであった。
永平2年(59年)、三雍(明堂・霊台・辟雍)が初めて完成し、桓栄を五更*1とした。
大射養老の礼が終わる度に、顕宗(明帝)はその都度、桓栄とその弟子を引き連れて堂に昇らせ、経書を執って自ら講義を行った。桓栄を関内侯に封じ、食邑を5千戸とした。
桓栄が病気に伏せる度に、顕宗(明帝)は使者を遣わして容態を尋ねさせ、(明帝が派遣した)太官と太医がすれ違う程であった。
いよいよ病気が重くなると、桓栄は上疏してこれまで受けた恩に感謝の言葉を述べ、爵位と封土(食邑)を返還した。
顕宗(明帝)は桓栄の日常生活の様子を問うために彼の家に行幸した。顕宗(明帝)は街に入ると車を降り、経書を持って桓栄の前まで行くと、彼を撫でて涙を流し、牀茵(ベッド)・帷帳・刀剣・衣被を下賜し、しばらく経って辞去した。
それ以降、諸侯・将軍・大夫など桓栄を見舞う者たちは、自ずから車に乗ったまま門の前まで行かず、みな床下で拝礼するようになった。
桓栄が亡くなると、顕宗(明帝)は自ら(喪服に)着替え、喪に臨んで葬列を見送り、首山(首陽山)の陽(南)に冢塋(墓)を下賜した。
また顕宗(明帝)は、桓栄の兄の子2人を四百石の官職に就け、(桓栄門下の)都講生(塾頭)8人を二百石の官職に就けた他、門下生の多くが九卿に至った。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
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第2世代(桓雍・桓郁)
桓郁・仲恩
生年不詳〜永元5年(93年)没。豫州(予州)・沛郡・龍亢県の人。父は桓栄。子に桓普、桓延、桓焉、桓俊、桓鄷、桓良。兄に桓雍。
若くして父・桓栄の功績によって郎に取り立てられた。親切・誠実で人情に厚く、学問に熱心で父・桓栄の学業を伝え、常に数百人の門徒生に尚書を教授した。
父・桓栄が亡くなると、(兄・桓雍がすでに亡くなっていたため)桓郁は父・桓栄の爵位を継ぐべきであったが、上書して兄の子・桓汎に譲ろうとした。ところが顕宗(明帝)はそれを許さなかったため、桓郁はやむを得ず封爵を受け、封地からの収入をすべて桓汎に与えた。
顕宗(明帝)は桓郁が先師(桓栄)の子であり、また礼讓(礼儀正しく謙った態度をとること)を備えていることから彼を大変厚遇した。常に禁中で経書を論じ、政事についても質問するようになり、少しして侍中に昇進した*2。
顕宗(明帝)は自ら『五家要説章句』を著したが、桓郁に宣明殿においてそれを校定させ、侍中に加え虎賁中郎将を兼任した。
永平15年(72年)、桓郁は宮中に入って皇太子に経書を教授した。また桓郁が越騎校尉に昇進すると、顕宗(明帝)は太子・諸王に詔勅を下して、それぞれ礼を尽くしてお祝いを申し上げさせた。桓郁は数々の忠言を進言し、その多くが聞き入れられた。
肅宗(章帝)が即位すると、桓郁は母の喪に服すために辞職を願い出たが、肅宗(章帝)は詔を下して「侍中のまま喪に服すことを許した。建初2年(77年)、屯騎校尉に昇進した。
次に即位した和帝は年少であったため、侍中の竇憲は自分が外戚の重鎮であることから、少主(和帝)に「経学に広く通じて欲しい」と考えて、皇太后に上疏して「桓郁と宗正の劉方を宮中に入れて和帝に教授させる」ように言った。
竇憲の上疏・全文
この上疏によって桓郁は長楽少府に昇進し、また宮中に入って侍講した。しばらくして侍中・奉車都尉に転任した。
永元4年(92年)に丁鴻に代わって太常となったが、その翌年に病気で亡くなった。
桓郁は(章帝・和帝の)2帝に教授し、恩寵は大変篤く、賞賜は前後数百万から1千万ほどに及び、当世において顕著であった。門下生の楊震と朱寵はみな三公に至った。
以前、桓栄が朱普に師事した時、その章句は40万言であったが、根拠のない冗長な言葉ばかりで、多くは本来の意味から外れていた。桓栄が宮中に入って顕宗(明帝)に教授することになって、(無駄を省いて)23万言とし、桓郁はさらに省いて12万言とした。こうして『桓君大小太常章句』ができた。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
*2『東観漢記』に「(桓郁は)永平14年(71年)に議郎となり、侍中に昇進した」とある。
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