正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(73)譙国桓氏⑩[桓亮・桓濬(桓浚)・桓邈・桓昇(桓升)・桓放之・桓洪・桓誕・桓振・桓稚玉・桓胤]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物⑩、
についてまとめています。
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か(73)譙国桓氏⑩
第5世代(桓亮・桓濬・桓邈・桓・)
桓亮・景真
生年不詳〜東晋の義熙元年(405年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓済。
東晋の元興2年(403年)、新野の人・庾仄は、桓玄が九錫を受けたと聞くと義兵を起こし、襄陽の馮該を襲って敗走させた。庾仄は7千の軍勢を有し、城の南に祭壇を設置して祖宗7廟を祭ると、南蛮参軍・庾彬、安西参軍・楊道護、江安令・鄧襄子らは謀ってこれに内応した。
すると桓亮は、自ら平南将軍・湘州刺史と号し、「庾仄討伐」を名目に羅県において兵を起こした。南蛮校尉・羊僧寿は桓石康と共に襄陽を攻め、庾仄の軍は離散して後秦の姚興の元に逃亡し、庾彬らはみな殺害された。
庾仄が敗れると、桓亮は乱に乗じて自ら叛乱の兵を起こして国法に違反したため、長沙相の陶延寿がこれを收め、桓玄は桓亮を衡陽に徙し、同謀した桓奥らを誅殺した。
この年、桓玄は帝位を簒奪したが、翌年には東晋の再興を掲げた劉裕・劉毅・何無忌らに敗れて敗死した。
それでも桓亮と桓振、桓謙らの子や甥たちは、荊州・湘州・江州・渝州の4ヶ所を執拗に攻撃した。
桓亮は自ら江州刺史と号して豫章を攻めたが、東晋の正式な江州刺史・劉敬宣に敗れた。
その後、また自ら鎮南将軍・湘州刺史と号して湘中に出兵し、前の衡陽太守・韓絵之ら郡内の官員を殺害したが、最期は益陽において広武将軍・郭弥に殺害された。
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桓濬(桓浚)
生年不詳〜楚(桓楚)の永始2年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓偉。弟に桓邈。
東晋の元興元年(402年)に叔父の桓玄が朝廷の実権を握ると、桂陽郡公に封ぜられた。
楚(桓楚)の永始元年(403年)に桓玄が帝位を簒奪すると、父・桓偉の爵位(西昌侯)を継いで輔国将軍となった。
楚(桓楚)の永始2年(404年)に劉裕・劉毅・何無忌らが東晋の再興を掲げて挙兵すると、桓玄は敗北を重ね、桓濬(桓浚)は桓玄と桓玄の子・桓升と共に逃亡したが、枚回洲に達したところで費恬・毛祐之らの攻撃を受け、桓玄・桓石康らと共に斬られた。
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桓邈
生年不詳〜楚(桓楚)の永始2年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓偉。兄に桓濬(桓浚)。
東晋の元興元年(402年)に叔父の桓玄が朝廷の実権を握ると、西昌県王に封ぜられた。
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桓昇(桓升)
生年不詳〜東晋の元興3年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓玄。
楚(桓楚)の永始元年(403年)に父・桓玄が帝位を簒奪すると、豫章郡王に封ぜられた。
楚(桓楚)の永始2年(404年)、劉裕・劉毅・何無忌らが東晋の再興を掲げて挙兵すると、桓玄は桓謙と何澹之を東陵に、卞範之を覆舟山の西に駐屯させ、合わせて2万の兵で劉裕の義軍を防がせたが、桓謙ら諸軍は一瞬のうちに潰走した。
桓玄は親信(旗本)数千人を率いて出陣を宣言し、子の桓昇(桓升)と兄・桓偉の子・桓濬(桓浚)と共に南の掖門を出て西の石頭に至ると、殷仲文に船を準備させて一緒に南へ急いだ。
腹心は戦うことを勧めたが、桓玄はそれには答えずただ天を指差した。数日間食べる物もなく、左右の者が粗末な食事を出しても喉を通らず、年端も行かぬ桓昇(桓升)を胸に抱いて撫で、悲しみに打ちひしがれた。
その後桓玄が敗死すると、桓昇(桓升)は東晋軍によって江陵に送られ、市で斬られた。
桓振は東晋の安帝(司馬徳宗)に謁見するために馬に飛び乗って戈を振るい、行宮の階下まで来ると、桓昇(桓升)の所在を尋ねた。
そこですでに桓昇(桓升)が殺されたことを聞くと、桓振は安帝(司馬徳宗)に睨みを利かせ、
「臣の一族は国に背いたわけでもないのに、どうしてこのように族滅されなければならないのでしょうかっ!」
と言った。
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桓放之
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓序。
桓玄が帝位を簒奪すると、寧都県王に封ぜられた。
桓玄が敗死した後、毛璩が涪陵太守の文処茂を東方に派遣すると、桓振は桓放之を益州に派遣して夷陵に駐屯させ、文処茂を防がせたが、桓放之は敗走して江陵に還った。
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桓洪
生年不詳〜東晋の元興3年(404年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓石虔。
襄城太守となった。
楚(桓楚)の永始2年(404年)、劉裕・劉毅・何無忌らが東晋の再興を掲げて挙兵すると、桓玄は敗北を重ねた。
劉裕は武陵王となって万機(諸々の重要な政務)を司り、行台を立てて百官を統制した。
また劉裕は、劉毅と劉道規に桓玄を追わせた。この時桓洪は、桓玄の諸兄子と桓石康の兄・桓権らと共に誅殺された。
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桓振・道全
生年不詳〜東晋の義熙元年(405年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓石虔。兄に桓洪、桓誕。
若い頃から決断力があり気性が鋭かったが、正しい行いがなかった。
桓玄が荊州刺史であった時、桓振は揚武将軍・淮南太守に任命され、後に江夏相に転任したが、凶暴なため罷免された。
その後も桓振は行いを改めなかったため、桓玄が帝位を簒奪した時にも、桓氏の子弟の中でも桓振だけは重用されなかった。
楚(桓楚)の永始2年(404年)、劉裕・劉毅・何無忌らが東晋の再興を掲げて挙兵すると、桓玄は敗北を重ねて西に逃走し、蜀に入ったところで殺害された。
当時、荊州の治所・江陵は東晋軍に占領されていたため、桓振は華容浦に身を隠していた。
そこへ巴陵に駐屯していた桓玄の旧将・王稚徽が、桓振に人を遣って「(桓玄の兄・)桓歆が京邑(建康)を、馮稚らが尋陽を攻略し、劉毅の諸軍が敗れた」ことを報告した。
桓振は大いに喜んで、数十人を集めて江陵に向かい、江陵に至るまでに兵は2百人に達した。これに桓謙も兵を集めて呼応してついに江陵を陥落させ、当時江陵にいた安帝(司馬徳宗)を行宮に迎えた。
この時、すでに桓玄の子・桓昇(桓升)が殺害されたことを聞いた桓振は大いに怒り、安帝(司馬徳宗)を殺害しようとしたが、桓謙に説得されて思い留まった。ついに安帝(司馬徳宗)は群臣に楚の滅亡を宣言すると、民の心は東晋に戻り、玉璽を安帝(司馬徳宗)に奉還した。
安帝(司馬徳宗)は琅邪王(司馬徳文)を徐州刺史とし、桓振は都督八州・鎮西将軍・荊州刺史となった。
桓振は安帝(司馬徳宗)の左右に侍る者たちをみな自分の腹心で固め、「公(桓玄)は我を用いなかったために、ついに敗北した。もし公(桓玄)が我を前鋒としていたならば、(東晋の)天下とはならなかっただろう。今、我は1人、どうすれば良いのだっ!」と嘆き、肆に酒色に耽って暴虐無道を尽くし、多くの者を殺害した。
この年、劉毅は桓玄の旧将・王稚徽を攻め滅ぼし、何無忌らは馬頭に桓謙を、龍洲に桓蔚を攻めてみな撃ち破り、勝ちに乗じて江陵に軍を進めた。この時、霊溪にいた桓振は何無忌と戦って大勝し、東晋軍は尋陽に撤退した。
桓振は江津に陣営を置いた。東晋の義熙元年(405年)正月、南陽太守の魯宗之が義兵を起こして襄陽を襲い、偽(楚)の雍州刺史の桓蔚を破った。
何無忌の諸軍は江陵の馬頭に進軍し、桓振は帝(司馬徳宗)を擁して江津に出た。魯宗之は柞溪で偽(楚)の武賁中郎・温楷を破り、軍を進めて紀南に至った。
桓振は温楷が敗れたことを聞くと、馮該を留めて軍営を守らせると、自ら兵を率いて魯宗之を攻撃し、これを撃ち破った。桓振が魯宗之を追撃したところ、単騎でいた魯宗之に出会ったが、桓振は彼を知らず、魯宗之自身に彼の居場所を問うた。魯宗之は「この先に行きました」と答え、その間に逃げ延びることができた。
その間に、劉毅らは馮該を破り、江陵を平定した。馮該が敗れたことを聞くと、桓振軍は潰走した。
その後、桓振は馮該の子・馮宏と共に溳城を出て江陵を攻め、荊州刺史・司馬休之を襄陽に敗走させて、自ら荊州刺史と号した。
輔国将軍・劉懐肅が甯遠将軍・索邈を率いて沙橋において桓振と戦った。桓振の兵は少なかったがみな力戦し、桓振は1合ごとに目を怒らせて猛烈な攻撃を繰り出すので、彼と戦う勇気のある者はおらず、劉毅は広武将軍・唐興を劉懐肅の援軍に派遣した。
桓振は陣中で酒に酔っているところに箭を射かけられ、負傷したところを唐興に斬り殺されて、江陵は東晋軍に奪還された。
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桓胤・茂遠
生年不詳〜東晋の義熙3年(407年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓嗣。
父・桓嗣の爵位(豊城県公)を継いだ。若い頃から気高い節操を有し、裕福な家柄にもかかわらず、静かで慎み深いことで知られていた。
初め秘書丞を拝命し、昇進を重ねて中書郎・秘書監となった。桓胤は叔父・桓玄の寵愛を受けて中書令に昇進し、桓玄が帝位を簒奪すると吏部尚書となった。
劉裕・劉毅・何無忌らが東晋の再興を掲げて挙兵すると、桓玄に従って西に逃亡したが、桓玄が敗死すると東晋に投降した。
東晋の義熙元年(405年)、劉毅らが桓謙・桓振らが支配する江陵を奪還し、安帝(司馬徳宗)を迎え入れた。
詔により大赦が行われ、桓氏は赦されなかったが、桓胤だけは祖父・桓沖の晋室への忠節を鑑み、特別に死罪を免れて新安郡への流罪となった。
東晋の義熙3年(407年)、東陽太守・殷仲文が永嘉太守・駱球と共に謀反を起こして桓胤を(桓玄の)後嗣ぎにしようとし、曹靖之・桓石鬆・卞承之・劉延祖らと秘かに結んだが、事が発覚して劉裕によって次々に斬られ、その家族も誅殺された。
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