正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(71)譙国桓氏⑧(桓序・桓権・桓石康・桓石虔・桓石秀・桓石民・桓石生・桓石綏)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物⑧、
についてまとめています。
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か(71)譙国桓氏⑧
第4世代(桓権・桓石康・桓序・桓石虔・桓石秀・桓石民・桓石生・桓石綏)
桓権
生年不詳〜東晋の元興3年(404年)[桓玄の永始2年]没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。弟に桓石康、桓石虔、桓石秀、桓石民、桓石生、桓石綏。
帝位を簒奪した桓玄が、東晋再興の義兵を挙げた劉裕らに敗れて南へ逃走した時、劉裕が派遣した劉毅と劉道規の追撃を受け、兄・桓石虔の長子、桓洪らと共に殺害された。
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桓石康
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。兄に桓権。弟に桓石虔、桓石秀、桓石民、桓石生、桓石綏。
桓玄に寵愛され、桓玄が荊州刺史となると、振威将軍となり、累遷して荊州刺史となった。
新野の人・庾仄は、桓玄が九錫を受けたと聞くと義兵を起こし、襄陽の馮該を襲って敗走させた。
庾仄は7千の軍勢を有し、城の南に祭壇を設置して祖宗7廟を祭ると、南蛮参軍・庾彬、安西参軍・楊道護、江安令・鄧襄子らは謀ってこれに内応した。庾仄は殷仲堪の一党であったが、桓偉が死に、桓石康がまだ到着していない状況を利用し、江陵を震撼させたのである。
すると、桓玄の兄・桓済の子・桓亮は自ら平南将軍・湘州刺史と号し、「庾仄討伐」を名目に羅県において兵を起こした。南蛮校尉・羊僧寿は桓石康と共に襄陽を攻め、庾仄の軍は離散して後秦の姚興の元に逃亡し、庾彬らはみな殺害された。
桓玄が帝位を簒奪した際、庾仄を討伐した功績により右将軍・武陵郡王に封ぜられた。
劉裕らが東晋の再興の義兵を挙げると桓玄は敗北を重ね、劉裕配下の費恬・毛祐之・馮遷らの攻撃を受け、桓石康も桓玄と共に斬られた。
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桓石虔
生年不詳〜太元13年(388年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。子に桓洪、桓誕、桓振。弟に桓石秀、桓石民、桓石生、桓石綏、桓権、桓石康。
桓石虔は小字を鎮悪と言い、才覚があり、その身軽さは群を抜いていた。
従父が荊州にいた時、猟場において数本の箭を受けた猛獣を見つけた。督将たちは桓石虔の勇猛さを知っていたので、戯れにその箭を抜くように命じた。そこで桓石虔が素早く1本の箭を抜くと、猛獣が飛び跳ねたが、桓石虔はそれよりも高く跳び、猛獣を組み伏せてもう1本の箭を抜いて帰って来た。
伯父の桓温に従って関に入った。叔父の桓沖が前秦の苻健に包囲されて危機に陥った時、桓石虔は馬を躍ばして数万の敵兵の中へ突入し、桓沖を救い出したが、敵兵の中にこれを阻める者はいなかった。これにより三軍は感嘆し、敵軍を震え上がらせた。
人々が桓石虔を畏れる様子は、虐疾(重病)の者がいたとしても「桓石虔が来る」と言えば、みな治って逃げ出すほどだった。
以前、袁真が寿陽で叛乱を起こした時、桓石虔は甯遠将軍と南頓太守を率いてこれを攻め、南城において勝利を収めた。また、前秦の苻堅の将・王鑒を石橋で攻撃し、馬5百頭を獲た。
竟陵太守に任命されたが、父が亡くなったため職を去った。
苻堅がまた淮南に侵略して来ると、喪中の桓石虔に「桓石虔には文武の才があり、戎(異民族)を防ぐ術を持っている。古人は嘆き悲しんでいる時でも金革(武器と防具:戦争)を避けなかった。尽きぬ悲しみの中にあろうと辞退することなかれっ!奮威将軍・南平太守を授ける」と詔が下され、冠軍将軍に位を進めた。
苻堅は荊州刺史・梁成と襄陽太守・閻震に兵を率いて竟陵に攻め入らせ、桓石虔は弟の桓石民と共にこれを防いだ。
賊は敖水を盾として管城に駐屯したが、桓石虔は賊に気づかれないように夜の間に敖水を渡りきり、力戦して管城を陥落させた。桓石虔は7千級を斬首し、俘獲(捕虜)1万人、馬数百頭、牛・羊千頭、具装(馬鎧)・鎧3百領を獲、梁成は軽騎兵をもって襄陽を保つために逃走した。
桓石虔は河東太守として樊城に入ると、苻堅の兗州刺史・張崇を駆逐して、2千家を取り戻した。
叔父の桓沖が亡くなると、桓石虔は冠軍将軍監豫州揚州五郡軍事・豫州刺史となったが、母が亡くなったので職を去り、服喪期間を終えると元の職に復帰した。
しばらくして馬頭に移ることを命じられたが、桓石虔は歴陽に留まることを求め、これを許された。
太元13年(388年)に亡くなり、右将軍を追贈され、作塘侯に爵位を進めた。
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桓石秀
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。兄に桓石虔。子に桓稚玉。弟に桓石民、桓石生、桓石綏、桓権、桓石康。
桓石秀は幼い頃から名声が高く品格・風采に優れ、広く君書を読み、特に『老子』『荘子』に詳しかった。いつも1人で部屋にいて、人付き合いは簡素で、ただ時の人である庾純と付き合いがあるだけであり、簡文帝からも高く評価された*1。
父の桓豁が荊州刺史となると、鷹揚将軍・竟陵太守となることを請われたが、叔父の桓沖に代わって甯遠将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽太守として尋陽に居住した。
桓石秀は自由奔放な性格で、常に林や沢で狩りや釣りをし、栄達や爵位に興味がなく、騎射が得意で、矢を射れば必ず命中するほどだった。
以前、桓沖の猟に従って九井山に登った時のこと。その一団は盛大で、見物人はみな跪いたが、桓石秀は決して見栄を張らず歌を口ずさんでいた。
また以前、謝安が世の情勢について尋ねたが、桓石秀は黙して答えなかったので、謝安はこれを甚だ怪しんだ。後日、謝安からそのことを聞いた従弟の桓嗣がその理由を問うと、桓石秀は「謝安どのは世の情勢についてよくお分かりだ。私に言えることなどないっ!」と言った。
州にいること5年、病気のために職を去り、43歳の時に家で亡くなった。朝野(官民)はみな彼の死を悼み惜しんだ。後将軍を追贈され、後に太常を改贈された。
脚注
*1訳に自信がありません。原文:常獨處一室,簡于應接,時人方之庾純。甚為簡文帝所重。
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桓石民
生年不詳〜東晋の太元14年(389年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。兄に桓石虔、桓石秀。弟に桓石生、桓石綏、桓権、桓石康。
桓石民は若くして名を知られ、衛将軍・謝安の参軍となった。
叔父・桓沖の上疏により督荊江豫三州之十郡軍事・振武将軍となり、襄城太守として夏口を守り、桓石虔と共に前秦の苻堅の荊州刺史・梁成らを竟陵に攻めた。
また翌年、隨郡太守・夏侯澄と共に漳口において苻堅の将・慕容垂、姜成らを破り、譙国内史・梁郡太守となった。
桓沖が亡くなると、詔により監荊州軍事・西中郎将・荊州刺史となった。桓氏は代々荊土(荊州)を治めていたため、桓石民はその才能と人望によって一目置かれる存在であった。
以前、桓沖が竟陵太守・趙統に襄陽を攻めさせたが、この時桓石民は兵を派遣してこれを助けた。
前秦の苻堅が淮肥で敗れると、桓石民は南陽太守・高茂を派遣して山陵を守らせた。
苻堅が敗れると、慕容垂らは勢力を盛り返した。桓石民は将軍の晏謙に弘農を討伐させ、賊の東中郎将・慕容夔を降伏させた。
以前、湖県・陝県に2戍(屯)を置き、関中で擔幢伎(曲芸師)を獲らえたので、太楽(太楽令)に入れた。
苻堅の子・苻丕は河北で僭号し、洛陽を襲おうと謀った。これに桓石民は将軍の馮該にこれを討伐させて苻丕を斬り、その左僕射・王孚と吏部尚書・苟操らを京都(健康)に送った。
その後、丁零(トルコ系遊牧民)の翟遼らがまた山陵に侵略すると、桓石民は河南太守・馮遵にこれを討伐させたが、乞活(漢民族の武装流民集団)の黄淮が幷州刺史を自称して、翟遼と共に数千の兵で長社を攻めた。
桓石民はまた、南平太守・郭銓と松滋太守・王遐之に黄淮を攻撃させて黄淮を斬り、翟遼は河北に逃走した。
前後の功績により、左将軍に位を進めた。
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桓石生
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。兄に桓石虔、桓石秀、桓石民。弟に桓石綏、桓権、桓石康。
隆安年間(397年〜401年)に司徒左長史から侍中に昇進し、驃騎長史・太傅長史を歴任した。
会稽王・司馬道子の世子、司馬元顕が桓玄を討伐しようとしていた時、桓石生はすぐに密書を送って桓玄に知らせた。
桓玄が司馬元顕を誅殺して朝権を握ると、前将軍・江州刺史に任命されたが、在官のまま亡くなった。
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桓石綏
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓豁。兄に桓石虔、桓石秀、桓石民、桓石生。弟に桓権、桓石康。
司馬元顕(が司徒)の時、司徒左長史となった。
桓玄が司馬元顕を誅殺して朝権を握った時に黄門郎・左衛将軍に任命されたが、桓玄が敗れると江西の塗中に逃走し、兵を集めて歴陽を攻めたが、後に梁州刺史となった傅歆之*2によって殺害された。
脚注
*2『資治通鑑』巻115、『宋書』傅弘之伝では傅韶。
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