正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(66)譙国しょうこく桓氏かんし③(桓顥かんこう桓彝かんい)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

譙国桓氏系図

譙国しょうこく桓氏かんし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁かんかつの子の兄弟の順について

晋書しんじょ桓豁かんかつでんには、

桓豁かんかつには20人の子がいたが、桓豁かんかつ苻堅ふけんの国中で「かたい石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行はやっていると聞き、そのすべての名に「石」の字をもちいた。中でも石虔せきけん石秀せきしゅう石民せきみん石生せきせい石綏せきすい石康せきこうらの名が知られている」

とあり、また晋書しんじょ桓玄伝かんげんでんには、

桓石康かんせきこう桓豁かんかつの次子、桓権かんけん桓石康かんせきこうの兄」

とあります。晋書しんじょ桓豁伝かんかつでん桓権かんけんの名前はありませんが、桓権かんけんが長子で、次子の桓石康かんせきこう以降、名前に「石」の字をもちいるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしについて

晋書しんじょ桓彝伝かんいでんには「後漢ごかん五更ごこう*1桓栄かんえいの9世の孫にあたる」とあり、譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしは同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝かんい桓郁かんいくの弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れわることを知る者のこと。続漢志ぞくかんしに「三老さんろう五更ごこうやしなう礼儀は、吉日に先んじて司徒しと太傅たいふ、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公さんこうの中から『徳行がある高齢者』をもちいて、三公さんこうから1名を三老さんろうとし、九卿きゅうけいから1名を五更ごこうとする」とあり、漢官儀かんかんぎには「三老さんろう五更ごこうはみな初婚の妻と息子と娘がすべてそなわっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国しょうこく桓氏かんしの人物③、

についてまとめています。

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か(66)譙国桓氏③

第1世代(桓顥)

桓顥かんこう

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。子に桓彝かんい

官は郎中ろうちゅうに至った。


桓顥かんこう」の関連記事

第2世代(桓彝)

桓彝かんい茂倫ぼうりん桓温かんおんの父)

西晋せいしん咸寧かんねい2年(276年)〜東晋とうしん咸和かんわ3年(328年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。子に桓温かんおん桓雲かんうん桓豁かんかつ桓秘かんひ桓沖かんちゅう

出自

後漢ごかん五更ごこう*1桓栄かんえいの9世の孫にあたる。

幼くして父を亡くし貧しい生活をしていたが、性格は明るく落ち着いており、若い頃から庾亮ゆりょうと親交を結び、周顗しゅうぎに高く評価された。

西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の時代に州の主簿しゅぼとなり、斉王せいおう司馬冏しばけいの元におもむいて騎都尉きといを拝命した。のち安東将軍あんとうしょうぐん司馬睿しばえい元帝げんてい)に随行ずいこうして江南こうなんに渡り、逡遒県令しゅんしゅうけんれいに任命されたが、すぐに辟召まねかれて丞相じょうしょう中兵属ちゅうへいぞくとなり、昇進を重ねて中書郎ちゅうしょろう尚書吏部郎しょうしょりぶろうとなって、朝廷において名を知られる存在となった。

脚注

*1老人で五行の徳が入れわることを知る者のこと。続漢志ぞくかんしに「三老さんろう五更ごこうやしなう礼儀は、吉日に先んじて司徒しと太傅たいふ、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公さんこうの中から『徳行がある高齢者』をもちいて、三公さんこうから1名を三老さんろうとし、九卿きゅうけいから1名を五更ごこうとする」とあり、漢官儀かんかんぎには「三老さんろう五更ごこうはみな初婚の妻と息子と娘がすべてそなわっている者から選ぶ」とある。

王敦の乱

東晋とうしん永昌えいしょう元年(322年)、王敦おうとんの乱により王敦おうとんが専権するようになると、周囲から反発を買い、桓彝かんいも病気を理由に職を辞した。

東晋とうしん太寧たいねい2年(324年)に至り、司馬紹しばしょう王敦おうとん討伐の軍を起こすと、桓彝かんい散騎常侍さんきじょうじに任命されて機密謀略に参与し、王敦おうとんの乱が平定されると万寧県男まんねいけんだんに封ぜられた。のちに地方に出て宣城内史せんじょうないしとなると、その仁政が領民たちに愛された。

蘇峻の乱

東晋とうしん咸和かんわ2年(327年)、王敦おうとんの乱鎮圧に功績のあった蘇峻そしゅんが、祖約そやくと連合して「(蘇峻そしゅんの兵権を剥奪はくだつしようとした)庾亮ゆりょうを討つ」ことを名目に挙兵すると、桓彝かんいは義兵を集め、朝廷を助けるために蘇峻そしゅん討伐の兵を起こそうとした。

この時、長史ちょうし裨恵ひけいは「宣城郡せんじょうぐん寡兵かへいの上に弱く、すぐに近隣の山人が侵略して来ます。今すぐ朝廷を支援するのではなく、時期を待って挙兵すべきです」と言ったが、桓彝かんいは従わなかった。

桓彝かんい将軍しょうぐん朱綽しゅしゃく蕪湖ぶこに派遣し、蘇峻そしゅんの別軍を攻撃して撃ち破った。

桓彝かんいはすぐに兵をひきいて石硊せきぎに向かったが、慈湖じこを守る朝廷の将軍しょうぐん司馬しば流先りゅうせん蘇峻そしゅんの将・韓晃かんこうに敗れ、敵軍が長駆ちょうくして軍を進めて来ると、宣城郡せんじょうぐんには堅城がないため、桓彝かんいは軍を退いて広徳こうとくを守った。

翌年の咸和かんわ3年(328年)、蘇峻そしゅん王師おうし建康けんこう)を陥落させて朝廷を掌握しょうあくすると、それを聞いた桓彝かんい慷慨こうがい(正義に外れた事などを激しくいきどおなげくこと)して涙を流し、軍を進めて涇県けいけんに駐屯した。

事ここに至り、州郡の多くは蘇峻そしゅんに降伏の使者を送った。長史ちょうし裨恵ひけいは「敵の攻撃をけるためいつわって投降すること」を勧めたが、桓彝かんいはこれに従わず、更に将軍しょうぐん兪縱ゆしょうを派遣して蘭石らんせきを守らせた。

すると蘇峻そしゅん韓晃かんこうを派遣して兪縱ゆしょうを攻撃し、兪縱ゆしょうは敗れた。左右の者たちは兪縱ゆしょうに退却することを勧めたが、兪縱ゆしょうは「私は死して桓侯かんこう桓彝かんい)の大恩にむくいるつもりだ。桓侯かんこう桓彝かんい)が国を裏切らないように、私も桓侯かんこう桓彝かんい)を裏切るわけにはいかない」と言い、ついに力戦して戦死した。

その後、韓晃かんこうは軍を進めて桓彝かんいを攻撃し、桓彝かんいは孤軍で固守し続けた。ぞく韓晃かんこう)は「桓彝かんいが降伏すれば、礼をもって優遇する」ことを約束すると、将士たちは「いつわりの投降をして次の手を考える」ように勧めたが、桓彝かんいは従わず、語気は勇壮(辞気壮烈)でくじけず、節義を曲げなかった(志節不撓)。

6月、城は陥落し、桓彝かんい韓晃かんこうによって殺害された。享年53歳。蘇峻そしゅんの乱が平定されると廷尉ていいを追贈され、かんおくりなされた。また、東晋とうしん咸安かんあん年間(371年〜372年)に太常たいじょうに改贈された。


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