正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(67)譙国(しょうこく)桓氏(かんし)④(桓温(かんおん))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

【三国志人物伝】か(67)譙国桓氏④桓温

譙国(しょうこく)桓氏(かんし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁(かんかつ)の子の兄弟の順について

『晋書(しんじょ)』桓豁(かんかつでん)には、

「桓豁(かんかつ)には20人の子がいたが、桓豁(かんかつ)は苻堅(ふけん)の国中で「堅(かた)い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行(はや)っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用(もち)いた。中でも石虔(せきけん)、石秀(せきしゅう)、石民(せきみん)、石生(せきせい)、石綏(せきすい)、石康(せきこう)らの名が知られている」

とあり、また『晋書(しんじょ)』桓玄伝(かんげんでん)には、

「桓石康(かんせきこう)は桓豁(かんかつ)の次子、桓権(かんけん)は桓石康(かんせきこう)の兄」

とあります。『晋書(しんじょ)』桓豁伝(かんかつでん)に桓権(かんけん)の名前はありませんが、桓権(かんけん)が長子で、次子の桓石康(かんせきこう)以降、名前に「石」の字を用(もち)いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国(しょうこく)桓氏(かんし)と沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)について

『晋書(しんじょ)』桓彝伝(かんいでん)には「後漢(ごかん)の五更(ごこう)*1・桓栄(かんえい)の9世の孫にあたる」とあり、譙国(しょうこく)桓氏(かんし)と沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝(かんい)を桓郁(かんいく)の弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れ替(か)わることを知る者のこと。『続漢志(ぞくかんし)』に「三老(さんろう)・五更(ごこう)を養(やしな)う礼儀は、吉日に先んじて司徒(しと)か太傅(たいふ)、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公(さんこう)の中から『徳行がある高齢者』を用(もち)いて、三公(さんこう)から1名を三老(さんろう)とし、九卿(きゅうけい)から1名を五更(ごこう)とする」とあり、『漢官儀(かんかんぎ)』には「三老(さんろう)・五更(ごこう)はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備(そな)わっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国(しょうこく)桓氏(かんし)の人物④、

についてまとめています。

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か(67)譙国桓氏④

第3世代(桓温)

桓温(かんおん)・元子(げんし)

永嘉(えいか)6年(312年)〜寧康(ねいこう)元年(373年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・譙国(しょうこく)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓彝(かんい)。子に桓熙(かんき)、桓済(かんせい)、桓歆(かんきん)、桓禕(かんい)、桓偉(かんい)、桓玄(かんげん)。

出自
名前の由来

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)出身の温嶠(おんきょう)は、生まれたばかりの桓温(かんおん)を見て「この子には珍(めずら)しい骨相がある。試しに泣かせてみよ」と言い、その泣き声を聞くと「真(まこと)の傑物(けつぶつ)(英物)なりっ!」と言った。温嶠(おんきょう)に賞賛されたことから、その子を温(おん)と名づけた。

すると温嶠(おんきょう)は笑って「そんなことをされては、私の姓は後で変えることになるな」と言った。

父の仇討ち

桓温(かんおん)の父・桓彝(かんい)は蘇峻(そしゅん)の将・韓晃(かんこう)に殺害された。15歳の時、桓温(かんおん)は戈(ほこ)を枕に血の涙を流して父の仇に報(むく)いることを誓った(志在復仇)。

桓温(かんおん)が18歳の時、韓晃(かんこう)の仲間であった涇県令(けいけんれい)の江播(こうは)が亡くなり、江播(こうは)の子・江彪(こうひょう)兄弟3人は喪(も)に服していた。桓温(かんおん)は杖の中に刃を隠して弔問(ちょうもん)に訪(おとず)れると、江彪(こうひょう)を斬りつけ、2人の弟を追いかけて殺害した。当時の人々は彼の行いを称賛した。

容貌(ようぼう)

桓温(かんおん)は豪快で爽(さわ)やかな風格を持ち、並外れて容姿に優れ、顔に7つのホクロがあった。

若い時から沛国(はいこく)出身の劉惔(りゅうえん)と仲が良く、劉惔(りゅうえん)は彼を称(たた)え、

「桓温(かんおん)の眼は紫色のごつごつした岩石(石棱(せきりょう))のようで、鬚(ひげ)(須)は乱雑に張り付いている。孫仲謀(そんちゅうぼう)(孫権(そんけん))や晋(しん)の宣王(せんおう)(司馬懿(しばい))と同じだ」

と言った。

大抜擢される

南康長公主(なんこうちょうこうしゅ)[東晋(とうしん)の明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))の長女]を妻に迎えて駙馬都尉(ふばとい)を拝命し、万寧男(まんねいだん)の爵位を継いで琅邪太守(ろうやたいしゅ)となり、昇進を重ねて徐州刺史(じょしゅうしし)となった。

桓温(かんおん)と庾翼(ゆよく)は仲が良く、庾翼(ゆよく)は東晋(とうしん)の明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))に桓温(かんおん)を推薦して、

「桓温(かんおん)は若くして雄大な計略を持っています。願わくは彼を常人・常婿(普通の人・普通の婿(むこ))扱いせず、地方より呼び寄せて、陛下の困難を克服する手助けをさせていただきたいと存じます」

と言った。

庾翼(ゆよく)が亡くなると、桓温(かんおん)は都督(ととく)荊梁(けいりょう)四州(よんしゅう)諸軍事(しょぐんじ)・安西将軍(あんせいしょうぐん)・荊州刺史(けいしゅうしし)・護南蛮校尉(ごなんばんこうい)・仮節(かせつ)となった。

成漢を滅ぼす

この頃、成漢(せいかん)の皇帝(こうてい)・李勢(りせい)が微弱であったので、桓温(かんおん)は蜀(しょく)の地を滅ぼして勲功を立てたいと思い、東晋(とうしん)の永和(えいわ)2年(346年)、桓温(かんおん)は軍勢を率(ひき)いて西伐を行った。

その出発にあたり桓温(かんおん)は、当時臨朝(りんちょう)していた康献太后(こうけんたいこう)に上疏(じょうそ)したが、朝廷では、

「蜀(しょく)の地は遠く険(けわ)しく、桓温(かんおん)の兵は少ない。敵地深く侵入することを甚(はなは)だ憂慮する。昔、諸葛亮(しょかつりょう)は(防備のため)魚復県(ぎょふくけん)の平坦で広大な砂原に、2丈(約4.84m)の間隔で八行(八卦?)の形に石塁(せきるい)(壘石)を築き、八陣図を造った。(敵は充分な備えをしているのではないか)」

という意見が出た。

これに桓温(かんおん)は「これ『常山(じょうざん)の蛇勢(だせい)*2』なり」と答えたが、居並ぶ文官・武官の中に納得した者はいなかった。


桓温(かんおん)は彭模(ほうぼ)を軍次(ぐんじ)に、周楚(しゅうそ)を参軍(さんぐん)に命じ、孫盛(そんせい)に輜重(しちょう)(軍需物資)を守らせ、自(みずか)らは歩兵を率(ひき)いて成都(せいと)に直行した。

成漢(せいかん)の李勢(りせい)が、叔父(おじ)の李福(りふく)と従兄の李権(りけん)らに彭模(ほうぼ)を攻撃させると、これを周楚(しゅうそ)が防ぎ、李福(りふく)を退却させた。また、桓温(かんおん)は李権(りけん)らを攻撃して3戦3勝し、賊軍は散(ち)り散(ぢ)りになって、間道を伝って成都(せいと)に帰還した。

これを受け、李勢(りせい)は全軍をもって笮橋(さくきょう)において桓温(かんおん)と戦った。この戦いの中で(桓温(かんおん)の)参軍(さんぐん)・龔護(きょうご)が戦死すると、桓温(かんおん)の兵たちは懼(おそ)れて退却することを望んでいたが、鼓吏(こり)が誤(あやま)って進鼓(しんこ)を打ち鳴らしたことで攻撃を続けることとなり、その結果、李勢(りせい)の軍は大いに潰滅(かいめつ)した。

桓温(かんおん)が勝ちに乗じて直進し、李勢(りせい)方の小城を焼き払うと、李勢(りせい)は夜を徹して敗走し、90里(約38.7km)離れた晋寿郡(しんじゅぐん)の葭萌城(かぼうじょう)に至ると、葭萌城(かぼうじょう)の将・鄧嵩(とうすう)と昝堅(さんけん)は李勢(りせい)に降伏を勧めた。李勢(りせい)が面縛輿櫬(めんばくよしん)*3して助命を請(こ)うと、桓温(かんおん)は縛(いまし)めを解(と)いて櫬(しん)(棺(ひつぎ))を焼き、李勢(りせい)を京師(けいし)(建康(けんこう))に送った。

桓温(かんおん)は30日間(三旬)蜀(しょく)に留(とど)まって、成漢(せいかん)の、

  • 尚書僕射(しょうしょぼくや)・王誓(おうせい)
  • 中書監(ちゅうしょかん)・王瑜(おうゆ)
  • 鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・鄧定(とうてい)
  • 散騎常侍(さんきじょうじ)・常璩(じょうきょ)

らの善行を表彰し、また彼らを参軍(さんぐん)としたので、蜀(しょく)の民は感激した。

ところが、軍が完全に帰還する前に王誓(おうせい)、鄧定(とうてい)、隗文(かいぶん)らが反乱を起こしたので、桓温(かんおん)は引き返してこれを討伐・平定した。その後桓温(かんおん)は江陵(こうりょう)に凱旋(がいせん)し、征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)に位を進め、開府を許されて臨賀郡公(りんがぐんこう)に封ぜられた。

脚注

*2先陣・後陣・右陣・左陣が互いに呼応して戦う陣法のこと。「常山(じょうざん)にいた率然(そつぜん)という双頭の蛇は、頭を打てば尾が、尾を叩けば頭が、胴を叩くと頭と尾が襲いかかるように、体のすべてを使って攻撃した」という説話から。『孫子(そんし)』九地篇(きゅうちへん)。

*3自(みずか)ら両手を後ろ手に縛り、空(から)の棺桶を荷車に乗せて出頭する降伏の方法。「櫬(しん)」は一番内側の棺(ひつぎ)のこと。

殷浩との対立

後趙(こうちょう)の皇帝(こうてい)・石季龍(せききりょう)(石虎(せきこ))が亡くなると、桓温(かんおん)は軍勢を率(ひき)いて北征することを望み、先に上疏(じょうそ)して朝廷に「水軍と陸軍の準備」を求めたが、長い間返答がなかった。

桓温(かんおん)は朝廷で、殷浩(いんこう)らが「北征に反対していること」を知った。桓温(かんおん)はひどく憤(いきどお)り、また殷浩(いんこう)とは竹馬の友の間柄であったので納得がいかなかった。

その後、国内には他に争いもなく数年が経(た)ったが、その間、桓温(かんおん)は東晋(とうしん)の臣下でありながら荊州(けいしゅう)で半独立状態となり、8州で兵士・物資を集め、ほとんど国家のために働かなかった。


永和(えいわ)7年(351年)、ついに桓温(かんおん)は「北伐」を表明すると、上表して長江(ちょうこう)を下り、武昌(ぶしょう)に着いた時には、その兵は4、5万となっていた。

身の危険を感じた殷浩(いんこう)は、騶虞幡(すうぐばん)(戦闘を停止させる時に使う旗)をもって桓温(かんおん)の進軍を止めようとしたが、朝廷の内外では彼らの衝突を噂(うわさ)してみな震え上がっていた。

会稽王(かいけいおう)・司馬昱(しばいく)(簡文帝(かんぶんてい))が撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)となると、司馬昱(しばいく)は桓温(かんおん)に書簡を送って「社稷(しゃしょく)(国家)の大計と桓温(かんおん)に対する疑惑」を明らかにした。

すると桓温(かんおん)はすぐさま軍を返して江陵(こうりょう)に還(かえ)り、上疏(じょうそ)して「疑惑に対する申し開きと北伐の必要性」を説(と)いた。

その後、桓温(かんおん)は大尉(たいい)に位を進められたが、固辞して拝命しなかった。


永和(えいわ)8年(352年)、殷浩(いんこう)は北伐して洛陽(らくよう)に至ると、園陵(えんりょう)(皇帝(こうてい)の墓)を修復し、数年にわたって戦ったが、戦う度(たび)に敗北を重ね、すべての兵器が使い果たされた。

永和(えいわ)10年(354年)、再び司州(ししゅう)を督(とく)するようになった桓温(かんおん)は、朝野(ちょうや)(政府と民間)が(殷浩(いんこう)の北伐の失敗を)怨(うら)んでいることから「殷浩(いんこう)の罷免(ひめん)」を上奏して認められ、殷浩(いんこう)は庶人(しょじん)に落とされて失意のまま亡くなった。これ以降、内外共に桓温(かんおん)に権力が集中することになる。

桓温の第1次北伐

ついに桓温(かんおん)は、歩兵・騎兵4万を統率して江陵(こうりょう)を出発し、水軍は襄陽(じょうよう)から均口(きんこう)に入った。

南郷(なんきょう)に至ると、徒歩で淅川(せきせん)を渡って関中(かんちゅう)を征伐し、梁州刺史(りょうしゅうしし)の司馬勲(しばくん)に命じて子午道(しごどう)から関中(かんちゅう)に入らせた。また別軍は洛水(らくすい)を遡(さかのぼ)って、前秦(ぜんしん)の皇帝(こうてい)・苻健(ふけん)が任命した荊州刺史(けいしゅうしし)・郭敬(かくけい)を捕らえ、さらに青泥(せいでい)に進撃してこれを破った。

これに苻健(ふけん)が子の苻生(ふせい)と弟の苻雄(ふゆう)に数万の兵を与えて嶢柳(ぎょうりゅう)に駐屯させて、桓温(かんおん)を防がせると、ついに大戦となった。

苻生(ふせい)は自(みずか)ら戦って敵陣を陥落させ、桓温(かんおん)の将・応庭(おうてい)と劉泓(りゅうおう)を殺害して千余人を死傷したが、桓温(かんおん)軍が力戦したので苻生(ふせい)の軍は逃げ散った。

また苻雄(ふゆう)は、桓温(かんおん)の将軍(しょうぐん)・桓沖(かんちゅう)と白鹿原(はくかげん)で戦い、桓沖(かんちゅう)によって撃ち破られたが、苻雄(ふゆう)はそのまま軍を進めて司馬勲(しばくん)を襲撃し、司馬勲(しばくん)を女媧堡(じょかほう)に撤退させた。

桓温(かんおん)が進軍して霸上(はじょう)に至ると、苻健(ふけん)は塹壕(ざんごう)を深く掘って5千人で固守した。すると住民たちはみな安堵(あんど)してそれぞれの仕事に戻り、18、9人が牛と酒を持って桓温(かんおん)を出迎え、長老(耆老)は感激の涙を流して「思いがけなく、本日また官軍を見ることができるとはっ!」と言った。

当初、桓温(かんおん)はこの地の麦を軍糧として頼みにしていたが、苻健(ふけん)が苗(なえ)のうちに刈り取ってしまったことから軍糧が不足したため、3千余口(こう)の民を収めて帰還した。東晋(とうしん)の穆帝(ぼくてい)(司馬聃(しばたん))は侍中黄門(じちゅうこうもん)を襄陽(じょうよう)に派遣して桓温(かんおん)を労(ねぎら)った。

桓温と老婢

初め桓温(かんおん)は、自分の容姿や雰囲気(雄姿風気)が宣王(せんおう)(司馬懿(しばい))や劉琨(りゅうこん)に似ていると思っていたが、彼を王敦(おうとん)と比較する者もおり、甚(はなは)だ不満だった。

桓温(かんおん)が北伐から帰還するに及んで、北方で1人の老婢(ろうひ)(老(お)いた女奴隷)を得た。

老婢(ろうひ)は劉琨(りゅうこん)の伎女(ぎじょ)であったのだが、桓温(かんおん)を一目見てさめざめと泣き出した。桓温(かんおん)がその訳(わけ)を聞くと、老婢(ろうひ)は「公(こう)が劉司空(りゅうしくう)(劉琨(りゅうこん))にとても似ているもので…」と答えた。

桓温(かんおん)は大いに喜んで、衣冠を整えて外に出ると、もう1度老婢(ろうひ)を呼んで(どのように似ているのかを)問(と)うた。

すると老婢(ろうひ)は「顔はよく似ていますが残念ながら(桓温(かんおん)の方が)薄く、眼はよく似ていますが残念ながら(桓温(かんおん)の方が)小さく、鬚(ひげ)(須)はよく似ていますが残念ながら(桓温(かんおん)の鬚(ひげ)は)赤く、身長(形)はよく似ていますが残念ながら(桓温(かんおん)の方が)低く(短)、声はよく似ていますが残念ながら(桓温(かんおん)の声は)女性(雌)のようです」と言った。

これを聞いた桓温(かんおん)は、冠(かんむり)を外し帯(おび)を解くと、茫(ぼう)然(ぜん)自(じ)失(しつ)となって数日間落ち込んでいた。

母親の死

母の孔氏(こうし)が亡くなると、上疏(じょうそ)して「職を辞(じ)し、母を宛陵(えんりょう)に葬送したい」と願ったが、許されなかった。

桓温(かんおん)は母に臨賀太夫人(りんがたいふじん)の印綬(いんじゅ)を贈り、敬(けい)と諡(おくりな)すると、侍中(じちゅう)を遣(つか)わして弔祭(ちょうさい)を執(と)り行い、謁者(えっしゃ)に喪礼(そうれい)を監督・保護させた。桓温(かんおん)は葬儀が終わるのを見届けると、園陵(えんりょう)(皇帝(こうてい)の墓)を修復して都を洛陽(らくよう)に移したいと思い、10余度にわたって上表・上疏(じょうそ)を繰り返したが、許されなかった。

桓温(かんおん)は征討大都督(せいとうだいととく)・督司(とくし)冀二州(きにしゅう)諸軍事(しょぐんじ)に昇進し、北伐についての全権を委任された。(委以專征之任)

第2次北伐
出陣

桓温(かんおん)は督護(とくご)の高武(こうぶ)を派遣して魯陽(ろよう)を守らせると、輔国将軍(ほこくしょうぐん)の戴施(たいし)を黄河(こうが)の河上に駐屯させ、水軍(舟師)を率(ひき)いて許水(きょすい)や洛水(らくすい)に迫(せま)らせて譙(しょう)・梁(りょう)の水路を通し、徐州(じょしゅう)・豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の兵に淮水(わいすい)・泗水(しすい)から黄河(こうが)に入るように要請した。

桓温(かんおん)は自(みずか)ら江陵(こうりょう)に向けて北伐に出陣し、その途上に金城(きんじょう)に立ち寄ったところ、そこには若い頃に琅邪(ろうや)で見た品種の柳(やなぎ)が生(お)い茂(しげ)っていた。

これを見た桓温(かんおん)は嘆(なげ)いて「木ですら自由に遠い土地まで広く分布しているのに、人(漢(かん)民族)はなぜ南方に押し込められて堪(た)えているのかっ!」と言い、柳(やなぎ)の枝を手に取って、はらはらと涙を流した。

桓温(かんおん)と袁宏(えんこう)

桓温(かんおん)は淮水(わいすい)・泗水(しすい)を通過して(東晋(とうしん)の)北の国境に到達すると、属官たち(諸僚属)と平乗楼(へいじょうろう)に登って中原(ちゅうげん)を眺(なが)め見て、嘆(なげ)いて言った。

「ついに神州(しんしゅう)の陸(漢(かん)民族の土地)は沈(しず)み(侵略され)、百年の丘(洛陽(らくよう))は廃墟となった。(西晋(せいしん)の)王夷甫(おういほ)(王衍(おうえん))とその部下たちは責任を取らなければならなかったのだっ!」

これに袁宏(えんこう)が、

「運には興廃(波)があるものです。どうして誰かの過ちと言えましょうかっ!」

と言うと、桓温(かんおん)はさっと顔色を変え、属官たちに向かって言った。

「聞くところによると、劉景升(りゅうけいしょう)(劉表(りゅうひょう))が飼っていた千斤(きん)(約220kg)の大牛は、普通の牛の10倍の芻豆(すうとう)(餌(えさ))を食(は)むが、重い荷物を載(の)せて遠くまで運ぶことができた。ところが老(お)いて痩(や)せてしまうと、荊州(けいしゅう)に入った魏武(ぎぶ)(曹操(そうそう))は、その大牛を兵士たちにご馳走(ちそう)したのだそうだ」

これ(「袁宏(えんこう)も大牛のようになるぞ」という脅(おど)し)を聞き、その場にいた者たちはみな顔色を失った。

洛陽(らくよう)の奪還

桓温(かんおん)の軍が伊水(いすい)を渡ると、北岸に駐屯する姚襄(ようじょう)と戦いになった。桓温(かんおん)は隊列を組んで前進すると自(みずか)ら兜(かぶと)を被(かぶ)って弟の桓沖(かんちゅう)を督戦し、諸将は奮戦して姚襄(ようじょう)を大破した。敵味方数千人の戦死者を出し、姚襄(ようじょう)は北芒山(ほくぼうざん)を越えて西の平陽(へいよう)に逃走した。

桓温(かんおん)は(洛陽(らくよう)に入って)昔の太極殿(たいきょくでん)の前に駐屯し、洛陽(らくよう)の東北の金墉城(きんようじょう)に移ると、先帝の諸陵に参拝し、陵墓を修復して陵令(りょうれい)を置いた。


その後桓温(かんおん)は軍を返して賊(ぞく)の周成(しゅうせい)を降伏し、また長江(ちょうこう)と漢水(かんすい)の間に住む3千余人を降伏させた。また、西陽太守(せいようたいしゅ)・滕畯(とうしゅん)に黄城(こうじょう)を出て蛮賊(ばんぞく)の文盧(ぶんろ)らを討伐させ、さらに江夏相(こうかしょう)(江夏太守(こうかたいしゅ))・劉岵(りゅうこ)と義陽太守(ぎようたいしゅ)・胡驥(こき)を派遣して妖賊(ようぞく)の李弘(りこう)を討伐さてみなこれを撃ち破り、それらの首を京都(けいと)(建康(けんこう))に送った。


その後桓温(かんおん)が帰還すると、司州(ししゅう)、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))、青州(せいしゅう)、兗州(えんしゅう)は再び賊(ぞく)の手に陥(お)ちた。升平(しょうへい)年間(357年〜361年)、桓温(かんおん)は南郡公(なんぐんこう)に改封され、次子の桓済(かんせい)が(桓温(かんおん)の)臨賀郡公(りんがぐんこう)から降格されて臨賀県公(りんがけんこう)に封ぜられた。

隆和(りゅうわ)年間(362年〜363年)の初め、河南郡(かなんぐん)が侵略を受けると、河南太守(かなんたいしゅ)の戴施(たいし)は出奔(しゅっぽん)し、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)の陳祐(ちんゆう)が危急を告げた。桓温(かんおん)は竟陵太守(しょうりょうたいしゅ)の鄧遐(とうか)に3千人を率(ひき)いさせて陳祐(ちんゆう)を助けると共に、「洛陽(らくよう)に都を戻して欲しい」と上疏(じょうそ)したが、朝廷からそのことについての返答はなかった。


その後桓温(かんおん)は、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・司州(ししゅう)・冀州(きしゅう)の3州に改授(かいじゅ)され、交州(こうしゅう)・広州(こうしゅう)と遠く離れていることから都督(ととく)を罷免(ひめん)されたが、これを辞退して受けず、侍中(じちゅう)・大司馬(だいしば)・都督(ととく)中外(ちゅうがい)諸軍事(しょぐんじ)を加えられ、仮黄鉞(かこうえつ)(軍隊を独自に動かせる権限)を与えられた。

桓温(かんおん)はすでに内外の軍権を握(にぎ)っていたが、(任地が都から)遠いことを良しとせず、上疏(じょうそ)して次の7つの提案をして認められた。

  1. 朋党(ほうとう)(派閥)が同調して私議が沸騰(ふっとう)しており、名声や富を競う者を用(もち)いないこと。
  2. 人口が減少して漢(かん)代の1郡に満たない地域は、無駄な官職を省(はぶ)いて長く職務に従事させること。
  3. 重要な政務が滞(とどこお)らないように、普段から草案の作成に期限を設(もう)けること。
  4. 「長幼の礼」を明らかにし、国家への忠義を奨励すること。
  5. 褒貶賞罰(ほうへんしょうばつ)は事実に即(そく)して行うこと。
  6. 前典に遵(したが)い、学業を奨励(しょうれい)すること。
  7. 史官(しかん)を選び建てて『晋書(しんじょ)』を編纂(へんさん)すること。

朝廷は桓温(かんおん)に羽葆(うほう)*5・鼓吹(こすい)を与え、左右長史(さゆうちょうし)・司馬(しば)・従事中郎(じゅうじちゅうろう)の4人を置くことを提案したが、桓温(かんおん)は鼓吹(こすい)のみを受けてそれ以外はみな辞退した。

桓温(かんおん)がまた水軍(舟軍)を率(ひき)いて合肥(がっぴ)に軍を進めると、朝廷は侍中(じちゅう)の顏旄(がんぼう)を派遣して「桓温(かんおん)に揚州牧(ようしゅうぼく)・録尚書事(ろくしょうしょじ)を加える」という宣旨(せんじ)を下し、朝政に参画(建康(けんこう)に召還)させようとした。

すると桓温(かんおん)は上疏(じょうそ)して中原(ちゅうげん)回復の重要性を説(と)き、「朝廷では有能な会稽王(かいけいおう)・司馬昱(しばいく)が輔政しているのだから、自分が朝政に参画しても政治が煩雑(はんざつ)になるだけである」と言ってこれを辞退した。

朝廷はこれを許さなかったが、桓温(かんおん)は軍を進めた。桓温(かんおん)が赭圻(しゃき)連峰(れんぽう)に至ると、再び尚書(しょうしょ)の車潅(しゃかん)が派遣されて桓温(かんおん)を制止したが、赭圻(しゃき)連峰(れんぽう)の城を落とすと、桓温(かんおん)は詔(みことのり)を固辞(こじ)して揚州牧(ようしゅうぼく)を遙領(ようりょう)(任地に赴(おもむ)かずに仕事を取り仕切ること)した。

脚注

*5羽葆蓋車(うほうがいしゃ)。美しい羽根で飾られた蓋(おおい)のついた皇帝(こうてい)が乗る馬車。

桓温の野望

興寧(こうねい)3年(365年)、鮮卑(せんぴ)(前燕(ぜんえん))が洛陽(らくよう)を攻撃し、(守将の)陳祐(ちんゆう)は出奔(しゅっぽん)した。

会稽王(かいけいおう)・司馬昱(しばいく)は洌洲(れつしゅう)にいる桓温(かんおん)にこれを征討させることを協議し、桓温(かんおん)は姑孰(こしゅく)に移ったが、ちょうど哀帝(あいてい)(司馬丕(しばひ))が崩御(ほうぎょ)したために中止された。


桓温(かんおん)は元々倹約家で、酒宴の際にもお供(そな)え物の器(うつわ)に茶果を乗せて出すだけであったが、国家の軍隊を専有するようになって、身分に相応(ふさわ)しくない大望(帝位)を願い窺(うかが)うようになった。

ある時桓温(かんおん)は(リラックスして)横になりながら、親しい側近たちに「このまま大人(おとな)しくしていたら、文(ぶん)・景(けい)(司馬昭(しばしょう)と司馬師(しばし))に笑われてしまうかな…」と言った。

あえて言葉を返す者はいなかったが、桓温(かんおん)は枕を撫(な)でて起き上がるとまた、「儂(わし)は後世に名を残すことはできまい。醜聞(しゅうぶん)(遺臭)で名を残す程(ほど)でもないっ!」と言った。


また、桓温(かんおん)が(逆臣の)王敦(おうとん)の墓の前を通った時には「可人、可人っ!」と言った。

可人とは「見(み)習(なら)うべき所のある人」のこと。以前、自分が王敦(おうとん)と比較された時にはそれを不満に思っていたが、この時には(逆臣の)王敦(おうとん)を肯定している。


当時、遠方に道術を使う比丘尼(びくに)(尼僧)がいて、別室で入浴をしていた。桓温(かんおん)がこっそり覗(のぞ)き見ると、比丘尼(びくに)は裸身に刀を当てて自(みずか)ら腹を破り、続いて両足を切り落として浴室から出てきた。

桓温(かんおん)が比丘尼(びくに)に吉凶を問(と)うと「公(あなた)が天子(てんし)になるということは、こういうことです」と言った。

第3次北伐

太和(たいわ)4年(369年)、桓温(かんおん)はまた「全軍をもって北伐したい」と上疏(じょうそ)した。

平北将軍(へいほくしょうぐん)・郗愔(ちいん)が病気のため解任されると、桓温(かんおん)は平北将軍(へいほくしょうぐん)・徐兗(じょえん)二州(にしゅう)刺史(しし)となり、弟の南中郎(なんちゅうろう)・桓沖(かんちゅう)と西中郎(せいちゅうろう)・袁真(えんしん)に歩兵・騎兵5万を率(ひき)いて北伐に赴(おもむ)いた。この時、百官はみな南州(なんしゅう)に見送りに出て、都はすべて放置された。

軍次(ぐんじ)(副官?)の湖陸(こりく)が前燕(ぜんえん)の慕容暐(ぼようい)の将・慕容忠(ぼようちゅう)を攻撃して捕らえ、金郷(きんきょう)に軍を進めた。

当時は深刻な旱(ひでり)で水路が干(ひ)上(あ)がっていたため、黄河(こうが)から鉅野(きょや)まで3百余里(約129km)にわたって掘り進め、水を引き入れて舟運(しゅううん)を可能にした。

慕容暐(ぼようい)の将・慕容垂(ぼようすい)と傅末波(ふばつは)らは8万の兵を率(ひき)いて桓温(かんおん)と林渚(りんしょ)で戦ったが、桓温(かんおん)はこれを破り、ついに枋頭(へいとう)に至った。

桓温(かんおん)は、先に袁真(えんしん)を派遣して譙(しょう)・梁(りょう)を伐(う)たせ、石門を開いて水運を通そうとしたが、袁真(えんしん)は譙(しょう)・梁(りょう)を討(う)ち平定することはできたものの石門を開くことはできず、軍糧が枯渇(こかつ)した。

そこで桓温(かんおん)は舟を燃やして陸行で退却し、東の燕(えん)から倉垣(そうえん)を出て陳留(ちんりゅう)を経由し、井戸を掘って喉(のど)の渇(かわ)きをしのぎ、7百余里(約301km)の道を進んだ。

慕容垂(ぼようすい)は8千騎をもってこれを追撃し、桓温(かんおん)は襄邑(じょうゆう)において戦いに敗れ、3万人の死者を出した。

桓温(かんおん)はこれを大いに恥じ、帰還すると敗戦の責任を袁真(えんしん)の罪として「袁真(えんしん)を庶人(しょじん)に落とす」ように上表したので、袁真(えんしん)は自分を誣告(ぶこく)した桓温(かんおん)を怨(うら)み、寿陽(じゅよう)を固く守って秘かに前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)と前燕(ぜんえん)の慕容暐(ぼようい)と通じた。


朝廷は侍中(じちゅう)の羅含(らがん)を遣(つか)わして山陽(さんよう)で牛と酒で桓温(かんおん)を労(ねぎら)い、またその途中、会稽王(かいけいおう)・司馬昱(しばいく)が桓温(かんおん)と会って、詔(みことのり)により桓温(かんおん)の世子(せいし)(後継ぎ)で給事(きゅうじ)の桓熙(かんき)を征虜将軍(せいりょしょうぐん)・豫州刺史(よしゅうしし)・仮節(かせつ)とした。

ちょうど南康公主(なんこうこうしゅ)[桓温(かんおん)の妻・東晋(とうしん)の明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))の長女]が亡くなり、賻(ふ)(死者を弔(とむら)って遺族に贈る金品)として布千匹・銭百万を与える詔(みことのり)が下されたが、桓温(かんおん)は固辞(こじ)して受け取らなかった。また、息子の桓熙(かんき)はこれから3年間の服喪(ふくも)期間に入る上に年少でもあることから、遠隔地の任務を辞退したいと陳情したが、許されなかった。

その後桓温(かんおん)は州の領民を徴発(ちょうはつ)し、広陵城(こうりょうじょう)を築いてそこに移ったが、この時まで桓温(かんおん)は長年に渡って労役を課していた上に、疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)したため10人中4、5人が死亡する事態となり、領民の間から桓温(かんおん)に対する怨嗟(えんさ)の声が上がった。

袁真の反乱

袁真(えんしん)が亡くなると、袁真(えんしん)の将・朱輔(しゅほ)は袁真(えんしん)の子・袁瑾(えんきん)に後を継がせ、前燕(ぜんえん)の慕容暐(ぼようい)と前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)は袁瑾(えんきん)に援軍を送った。

これに桓温(かんおん)は、督護(とくご)の竺瑶(ちくよう)と喬陽之(きょうようし)らに水軍を与えてこれを攻撃させた。ちょうど慕容暐(ぼようい)の軍が到着したが、竺瑶(ちくよう)らは武丘(ぶきゅう)でこれを破った。桓温(かんおん)が兵2万を率(ひき)いて広陵(こうりょう)から到着すると、袁瑾(えんきん)は城の守りを固め、桓温(かんおん)は長大な包囲陣を敷いた。

苻堅(ふけん)は配下の将・王鑒(おうかん)、張蠔(ちょうこう)らを袁瑾(えんきん)の救援に派遣して洛澗(らくかん)に駐屯させ、精騎兵5千を肥水(ひすい)の北に進ませた。

桓温(かんおん)は、桓伊(かんい)と弟の子・桓石虔(かんせきけん)らに迎え撃たせてこれを大いに撃ち破ると、ついに袁瑾(えんきん)軍を潰滅させて袁瑾(えんきん)を生(い)け捕(ど)りにした。その宗族(そうぞく)数十人と朱輔(しゅほ)を京都(けいと)(建康(けんこう))に送って処刑し、彼らに従っていた乞活(きつかつ)(黄河(こうが)一帯で活動していた漢(かん)民族の武装流民集団)数百人を生き埋(う)めにして、袁瑾(えんきん)らの妻子を褒賞(ほうしょう)として将士に与えた。

桓温(かんおん)はこの功績により班剣(はんけん)10人を加えられ、軍兵には帰還の途中に労(ねぎら)いの酒宴が設(もう)けられ、文官・武官にはそれぞれ差をつけて論功行賞が行われた。

簡文帝の擁立

桓温(かんおん)は自(みずか)らの才能と権力を自負し、以前から異志(いし)(謀反(むほん)の心)を抱(いだ)いており、河朔(かさく)(河北(かほく))において功績を立て、その功績をもって九錫(きゅうせき)を受けいと思っていた。

(東晋(とうしん))はすでに覆(くつがえ)り敗(やぶ)れ、国家の名声と功績は急落しており、参軍(さんぐん)の郗超(ちちょう)は廃位の計(はかりごと)を進め、桓温(かんおん)は廃帝(はいてい)(司馬奕(しばえき))を廃して簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))を擁立(ようりつ)した。

詔(みことのり)により桓温(かんおん)は諸葛亮(しょかつりょう)の故事に倣(なら)って甲仗(こうじょう)(甲冑(かっちゅう)と武器を装備した者)100人を従えての入殿が許され、銭5千万に絹2万匹(ひき)、布10万匹(ひき)を賜(たまわ)った。

桓温(かんおん)は(反対派の)粛清を始め、庾倩(ゆせい)、殷涓(いんけん)、曹秀(そうしゅう)らを誅殺(ちゅうさつ)した。これにより桓温(かんおん)の威勢は益々盛んになった。


ある時、侍中(じちゅう)の謝安(しゃあん)は遠く離れた所から桓温(かんおん)に拝礼した(遙拝(ようはい))。

桓温(かんおん)は驚いて「謝安(しゃあん)よ、卿(あなた)はなぜそのようなことをするのかっ!」と言うと謝安(しゃあん)は「未有君拜於前,臣揖於後。」


当時、桓温(かんおん)は脚(あし)を患(わずら)っていたので、詔(みことのり)により輿(こし)に乗って入朝することを許された。

桓温(かんおん)は簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))に謁見(えっけん)すると、廃帝(はいてい)(司馬奕(しばえき))を廃した本意を述(の)べようとしたが、簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))はずっと嗚咽(おえつ)していたので、桓温(かんおん)は慎(つつし)み懼(おそ)れて一言も発さないまま退出した。

桓温の不満

桓温(かんおん)は白石(はくせき)に還(かえ)ると上疏(じょうそ)して姑孰(こしゅく)に帰ることを求めたが、朝廷は「桓温(かんおん)を丞相(じょうしょう)に進め、大司馬(だいしば)の本官はみなこれまで通りとし、京都(けいと)(建康(けんこう))に留(とど)まって社稷(しゃしょく)を守るように」との詔(みことのり)を下した。

桓温(かんおん)が固辞(こじ)して鎮(ちん)(姑孰(こしゅく)?)に還(かえ)ることを請(こ)うと、朝廷は侍中(じちゅう)の王坦之(おうたんし)を派遣して「桓温(かんおん)を相(しょう)として朝廷に迎え、1万戸を加増する」ことを伝えたが、桓温(かんおん)はこれも辞退した。

するとまた詔(みことのり)が下され、袁真(えんしん)の事故(反乱)により西府(せいふ)の軍用が不足していたことから、桓温(かんおん)の世子(せいし)(後継ぎ)・桓熙(かんき)に布3万匹・米6万斛(こく)が与えられ、また桓熙(かんき)の弟・桓済(かんせい)は給侍中(きゅうじちゅう)に任命された。

簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))の病(やまい)(不豫(ふよ))が重篤(じゅうとく)となると「桓温(かんおん)に後事を託(たく)す故(ゆえ)、すぐに参内するように」との詔(みことのり)が1日1夜のうちに4度も下された。桓温(かんおん)は、

「臣(わたくし)・温(おん)(桓温(かんおん))は老齢(朽邁(きゅうまい))で疾病(しっぺい)があり、幼い皇子(おうじ)をお支えすることはできません。今、朝廷の賢臣と呼べるのは謝安(しゃあん)と王坦之(おうたんし)でしょう。どうか陛下(へいか)には、謝安(しゃあん)らに後事を託(たく)されますように」

と上疏(じょうそ)したが、その上疏(じょうそ)が到着する前に簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))は崩御(ほうぎょ)した。

簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))は桓温(かんおん)に「諸葛武侯(しょかつぶこう)(諸葛亮(しょかつりょう))や王丞相(おうじょうしょう)(王導(おうどう))の故事に倣(なら)え(幼帝(ようてい)をしっかり補佐するように)」と遺詔(いしょう)した。*6

桓温(かんおん)は初め、簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))が臨終(りんじゅう)すれば「自分が禅譲(ぜんじょう)を受ける」か「周公(しゅうこう)のように幼帝(ようてい)に代わって政務を執(と)る」ことを望んでいた。ところが自分の望み通りにならないことを知ると、大いに憤怒(ふんど)して弟(おとうと)の桓沖(かんちゅう)に書を送り、「遺詔(いしょう)は儂(わし)に『武侯(ぶこう)(諸葛亮(しょかつりょう))や王公(おうこう)(王導(おうどう))の故事に倣(なら)え』と言っておる」と不満をぶちまけた。

この遺詔(いしょう)によって王坦之(おうたんし)と謝安(しゃあん)が政務の大事を処(しょ)することになり、桓温(かんおん)は日々憤懣(ふんまん)を募(つの)らせていった。

脚注

*6『晋書(しんじょ)』王坦之伝(おうたんしでん)には「簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))は『周(しゅう)の武王(ぶおう)の弟・周公(しゅうこう)(周公旦(しゅうこうたん))が幼い成王(せいおう)に代わって政務を執(と)った故事に倣(なら)え』という遺詔(いしょう)を作らせたが、王坦之(おうたんし)は帝(みかど)の目の前でこれを破り捨てて諫(いさ)めたので、簡文帝(かんぶんてい)は遺詔(いしょう)の内容を改めた」とある。

孝武帝の即位

孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))が即位すると、孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))は「内外の諸事は桓温(かんおん)に意見を尋(たず)ねた上で施行する」という詔(みことのり)を下した。また孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))は、謝安(しゃあん)を派遣して桓温(かんおん)に入朝を求め、前部羽葆(うほう)*5・鼓吹(こすい)・武賁(ぶほん)60人を加えることを伝えさせたが、桓温(かんおん)は辞退して受けなかった。

その後、ついに入朝する気になった桓温(かんおん)は、入朝するに及んで山陵(さんりょう)(簡文帝(かんぶんてい)の陵墓(りょうぼ)・高平陵(こうへいりょう))に参拝(さんぱい)した。

桓温(かんおん)に「公(こう)(桓温(かんおん))には尊重すべき勲徳があり、朕(ちん)(孝武帝(こうぶてい))の躬(み)を導いてくれているが、公(こう)(桓温(かんおん))には『[朕(ちん)(孝武帝(こうぶてい))に対する]敬意がない』との風患(ふうかん)がある」との詔(みことのり)が下され、また尚書(しょうしょ)の謝安(かんおん)らには新亭(しんてい)において桓温(かんおん)を奉迎し、百官(百僚)はみな道側(みちばた)に並んで拝礼するように敕(ちょく)が下った。

当時、位・人望があった者はみな戦(おのの)き懾(おび)えて色を失い、「王坦之(おうたんし)と謝安(しゃあん)は(桓温(かんおん)に)殺されるのではないか」と内外の者たちは懼(おそ)れを懐(いだ)いた。

桓温(かんおん)は建康(けんこう)に至ると、以前、妖賊(ようぞく)の盧悚(ろしょう)(盧竦(ろしょう))が宮中に侵入したこと*7を理由に尚書(しょうしょ)の陸始(りくし)らを廷尉(ていい)に送ってその罪を責めた。


桓温(かんおん)はまた高平陵(こうへいりょう)に参拝(さんぱい)したが、左右の者は桓温(かんおん)の参拝(さんぱい)中の様子がおかしいと感じていた。

桓温(かんおん)が帰りの車に乗り込むと、従者が「先帝(せんてい)(簡文帝(かんぶんてい))の霊が見えました」と言った。帝(みかど)(簡文帝(かんぶんてい)の霊)の様子や発した言葉については述(の)べなかったので、みな何を言っているのか分からなかったが、桓温(かんおん)は陵墓(りょうぼ)の前でしきりに「臣(わたくし)がそんなこと(簒奪(さんだつ))をするはずがありません(臣不敢)」と言っていた。

また、桓温(かんおん)は左右の者に殷涓(いんけん)の体型を尋(たず)ね、その中の1人が「太っていて小柄です」と答えた。すると桓温(かんおん)は「帝(みかど)(簡文帝(かんぶんてい)の霊)の側(そば)に(殷涓(いんけん)が)いた…」と言った。

以前、桓温(かんおん)は殷涓(いんけん)の父・殷浩(いんこう)を死に追いやったが、殷涓(いんけん)はとても気高く、ついに桓温(かんおん)の元に赴(おもむ)くことはなかった。殷涓(いんけん)は武陵王(ぶりょうおう)・司馬晞(しばき)と交遊していたため、桓温(かんおん)は彼を疑って殺害したが、殷涓(いんけん)を見たことはなかった。

桓温(かんおん)には2人の霊が見えていた。1人は簡文帝(かんぶんてい)と分かったが、もう1人が分からない。もう1人は殷涓(いんけん)ではないかと思ったが、殷涓(いんけん)を見たことがなかったので、彼の体型を確認したのである。

その後、桓温(かんおん)は殷涓(いんけん)に祟(たた)られたかのように体調を崩(くず)し、姑孰(こしゅく)に帰還した。京師(けいし)(建康(けんこう))に滞在(たいざい)していたのは、わずか14日間であった。

脚注

*5羽葆蓋車(うほうがいしゃ)。美しい羽根で飾られた蓋(おおい)のついた皇帝(こうてい)が乗る馬車。

*7孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))が即位した当初、妖賊(ようぞく)の盧竦(ろしょう)(盧悚(ろしょう))が宮中に侵入し、桓温(かんおん)の弟で中領軍(ちゅうりょうぐん)の桓秘(かんひ)が左衛将軍(さえいしょうぐん)・殷康(いんこう)と共にこれを擊(う)った事件のこと。

桓温の死

ついに病(やまい)を発して起き上がれなくなった桓温(かんおん)は「自分に九錫(きゅうせき)を加える」よう朝廷に何度も催促した。

謝安(しゃあん)と王坦之(おうたんし)は、桓温(かんおん)の病(やまい)が重篤(じゅうとく)なことを聞くと、秘かにその手続きを遅らせた。

錫文(せきぶん)(九錫(きゅうせき)を下賜(かし)する文)が完成する前に桓温(かんおん)は亡くなった。享年(きょうねん)62歳であった。


皇太后(こうたいこう)と孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))は朝堂に3日間滞在(たいざい)し、九命(きゅうめい)袞冕(こんべん)の服、朝服1具(ぐ)、衣1襲(しゅう)、東園の秘器、銭2百万、布2千匹(ひき)、臘(ろう)5百斤(きん)を下賜(かし)して喪事(そうじ)に供するよう詔(みことのり)を下した。

その葬儀は太宰(たいさい)・安平献王(あんぺいけんおう)・司馬孚(しばふ)や漢(かん)の大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)の故事に倣(なら)って行われ、九旒(きゅうりゅう)鸞輅(らんろ)(天子(てんし)の車)、黄屋(こうおく)左纛(さとう)(上部に犛牛(やく)の毛飾りをつけた鉾(ほこ))、縕輬車(おんりょうしゃ)(葬儀用馬車)、輓歌(ばんか)(哀悼(あいとう)の歌)2部(ぶ)、羽葆(うほう)*5・鼓吹(こすい)、武賁(ぶほん)・班剣(はんけん)百人が下賜(かし)された。

また、以前封ぜられた南郡公(なんぐんこう)に7,500戸と進地3百里四方を加増され、銭5千万、絹2万匹(ひき)、布10万匹(ひき)を賜(たまわ)り、丞相(じょうしょう)を追贈された。

脚注

*5羽葆蓋車(うほうがいしゃ)。美しい羽根で飾られた蓋(おおい)のついた皇帝(こうてい)が乗る馬車。


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