正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(67)譙国しょうこく桓氏かんし④(桓温かんおん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

【三国志人物伝】か(67)譙国桓氏④桓温

譙国しょうこく桓氏かんし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁かんかつの子の兄弟の順について

晋書しんじょ桓豁かんかつでんには、

桓豁かんかつには20人の子がいたが、桓豁かんかつ苻堅ふけんの国中で「かたい石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行はやっていると聞き、そのすべての名に「石」の字をもちいた。中でも石虔せきけん石秀せきしゅう石民せきみん石生せきせい石綏せきすい石康せきこうらの名が知られている」

とあり、また晋書しんじょ桓玄伝かんげんでんには、

桓石康かんせきこう桓豁かんかつの次子、桓権かんけん桓石康かんせきこうの兄」

とあります。晋書しんじょ桓豁伝かんかつでん桓権かんけんの名前はありませんが、桓権かんけんが長子で、次子の桓石康かんせきこう以降、名前に「石」の字をもちいるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしについて

晋書しんじょ桓彝伝かんいでんには「後漢ごかん五更ごこう*1桓栄かんえいの9世の孫にあたる」とあり、譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしは同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝かんい桓郁かんいくの弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れわることを知る者のこと。続漢志ぞくかんしに「三老さんろう五更ごこうやしなう礼儀は、吉日に先んじて司徒しと太傅たいふ、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公さんこうの中から『徳行がある高齢者』をもちいて、三公さんこうから1名を三老さんろうとし、九卿きゅうけいから1名を五更ごこうとする」とあり、漢官儀かんかんぎには「三老さんろう五更ごこうはみな初婚の妻と息子と娘がすべてそなわっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国しょうこく桓氏かんしの人物④、

についてまとめています。

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か(67)譙国桓氏④

第3世代(桓温)

桓温かんおん元子げんし

永嘉えいか6年(312年)〜寧康ねいこう元年(373年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓彝かんい。子に桓熙かんき桓済かんせい桓歆かんきん桓禕かんい桓偉かんい桓玄かんげん

出自
名前の由来

幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん出身の温嶠おんきょうは、生まれたばかりの桓温かんおんを見て「この子にはめずらしい骨相がある。試しに泣かせてみよ」と言い、その泣き声を聞くと「まこと傑物けつぶつ(英物)なりっ!」と言った。温嶠おんきょうに賞賛されたことから、その子をおんと名づけた。

すると温嶠おんきょうは笑って「そんなことをされては、私の姓は後で変えることになるな」と言った。

父の仇討ち

桓温かんおんの父・桓彝かんい蘇峻そしゅんの将・韓晃かんこうに殺害された。15歳の時、桓温かんおんほこを枕に血の涙を流して父の仇にむくいることを誓った(志在復仇)。

桓温かんおんが18歳の時、韓晃かんこうの仲間であった涇県令けいけんれい江播こうはが亡くなり、江播こうはの子・江彪こうひょう兄弟3人はに服していた。桓温かんおんは杖の中に刃を隠して弔問ちょうもんおとずれると、江彪こうひょうを斬りつけ、2人の弟を追いかけて殺害した。当時の人々は彼の行いを称賛した。

容貌ようぼう

桓温かんおんは豪快でさわやかな風格を持ち、並外れて容姿に優れ、顔に7つのホクロがあった。

若い時から沛国はいこく出身の劉惔りゅうえんと仲が良く、劉惔りゅうえんは彼をたたえ、

桓温かんおんの眼は紫色のごつごつした岩石(石棱せきりょう)のようで、ひげ(須)は乱雑に張り付いている。孫仲謀そんちゅうぼう孫権そんけん)やしん宣王せんおう司馬懿しばい)と同じだ」

と言った。

大抜擢される

南康長公主なんこうちょうこうしゅ東晋とうしん明帝めいてい司馬紹しばしょう)の長女]を妻に迎えて駙馬都尉ふばといを拝命し、万寧男まんねいだんの爵位を継いで琅邪太守ろうやたいしゅとなり、昇進を重ねて徐州刺史じょしゅうししとなった。

桓温かんおん庾翼ゆよくは仲が良く、庾翼ゆよく東晋とうしん明帝めいてい司馬紹しばしょう)に桓温かんおんを推薦して、

桓温かんおんは若くして雄大な計略を持っています。願わくは彼を常人・常婿(普通の人・普通の婿むこ)扱いせず、地方より呼び寄せて、陛下の困難を克服する手助けをさせていただきたいと存じます」

と言った。

庾翼ゆよくが亡くなると、桓温かんおん都督ととく荊梁けいりょう四州よんしゅう諸軍事しょぐんじ安西将軍あんせいしょうぐん荊州刺史けいしゅうしし護南蛮校尉ごなんばんこうい仮節かせつとなった。

成漢を滅ぼす

この頃、成漢せいかん皇帝こうてい李勢りせいが微弱であったので、桓温かんおんしょくの地を滅ぼして勲功を立てたいと思い、東晋とうしん永和えいわ2年(346年)、桓温かんおんは軍勢をひきいて西伐を行った。

その出発にあたり桓温かんおんは、当時臨朝りんちょうしていた康献太后こうけんたいこう上疏じょうそしたが、朝廷では、

しょくの地は遠くけわしく、桓温かんおんの兵は少ない。敵地深く侵入することをはなはだ憂慮する。昔、諸葛亮しょかつりょうは(防備のため)魚復県ぎょふくけんの平坦で広大な砂原に、2丈(約4.84m)の間隔で八行(八卦?)の形に石塁せきるい(壘石)を築き、八陣図を造った。(敵は充分な備えをしているのではないか)」

という意見が出た。

これに桓温かんおんは「これ『常山じょうざん蛇勢だせい*2』なり」と答えたが、居並ぶ文官・武官の中に納得した者はいなかった。


桓温かんおん彭模ほうぼ軍次ぐんじに、周楚しゅうそ参軍さんぐんに命じ、孫盛そんせい輜重しちょう(軍需物資)を守らせ、みずからは歩兵をひきいて成都せいとに直行した。

成漢せいかん李勢りせいが、叔父おじ李福りふくと従兄の李権りけんらに彭模ほうぼを攻撃させると、これを周楚しゅうそが防ぎ、李福りふくを退却させた。また、桓温かんおん李権りけんらを攻撃して3戦3勝し、賊軍はりになって、間道を伝って成都せいとに帰還した。

これを受け、李勢りせいは全軍をもって笮橋さくきょうにおいて桓温かんおんと戦った。この戦いの中で(桓温かんおんの)参軍さんぐん龔護きょうごが戦死すると、桓温かんおんの兵たちはおそれて退却することを望んでいたが、鼓吏こりあやまって進鼓しんこを打ち鳴らしたことで攻撃を続けることとなり、その結果、李勢りせいの軍は大いに潰滅かいめつした。

桓温かんおんが勝ちに乗じて直進し、李勢りせい方の小城を焼き払うと、李勢りせいは夜を徹して敗走し、90里(約38.7km)離れた晋寿郡しんじゅぐん葭萌城かぼうじょうに至ると、葭萌城かぼうじょうの将・鄧嵩とうすう昝堅さんけん李勢りせいに降伏を勧めた。李勢りせい面縛輿櫬めんばくよしん*3して助命をうと、桓温かんおんいましめをいてしんひつぎ)を焼き、李勢りせい京師けいし建康けんこう)に送った。

桓温かんおんは30日間(三旬)しょくとどまって、成漢せいかんの、

  • 尚書僕射しょうしょぼくや王誓おうせい
  • 中書監ちゅうしょかん王瑜おうゆ
  • 鎮東将軍ちんとうしょうぐん鄧定とうてい
  • 散騎常侍さんきじょうじ常璩じょうきょ

らの善行を表彰し、また彼らを参軍さんぐんとしたので、しょくの民は感激した。

ところが、軍が完全に帰還する前に王誓おうせい鄧定とうてい隗文かいぶんらが反乱を起こしたので、桓温かんおんは引き返してこれを討伐・平定した。その後桓温かんおん江陵こうりょう凱旋がいせんし、征西大将軍せいせいだいしょうぐんに位を進め、開府を許されて臨賀郡公りんがぐんこうに封ぜられた。

脚注

*2先陣・後陣・右陣・左陣が互いに呼応して戦う陣法のこと。「常山じょうざんにいた率然そつぜんという双頭の蛇は、頭を打てば尾が、尾を叩けば頭が、胴を叩くと頭と尾が襲いかかるように、体のすべてを使って攻撃した」という説話から。孫子そんし九地篇きゅうちへん

*3みずから両手を後ろ手に縛り、からの棺桶を荷車に乗せて出頭する降伏の方法。「しん」は一番内側のひつぎのこと。

殷浩との対立

後趙こうちょう皇帝こうてい石季龍せききりょう石虎せきこ)が亡くなると、桓温かんおんは軍勢をひきいて北征することを望み、先に上疏じょうそして朝廷に「水軍と陸軍の準備」を求めたが、長い間返答がなかった。

桓温かんおんは朝廷で、殷浩いんこうらが「北征に反対していること」を知った。桓温かんおんはひどくいきどおり、また殷浩いんこうとは竹馬の友の間柄であったので納得がいかなかった。

その後、国内には他に争いもなく数年がったが、その間、桓温かんおん東晋とうしんの臣下でありながら荊州けいしゅうで半独立状態となり、8州で兵士・物資を集め、ほとんど国家のために働かなかった。


永和えいわ7年(351年)、ついに桓温かんおんは「北伐」を表明すると、上表して長江ちょうこうを下り、武昌ぶしょうに着いた時には、その兵は4、5万となっていた。

身の危険を感じた殷浩いんこうは、騶虞幡すうぐばん(戦闘を停止させる時に使う旗)をもって桓温かんおんの進軍を止めようとしたが、朝廷の内外では彼らの衝突をうわさしてみな震え上がっていた。

会稽王かいけいおう司馬昱しばいく簡文帝かんぶんてい)が撫軍大将軍ぶぐんだいしょうぐんとなると、司馬昱しばいく桓温かんおんに書簡を送って「社稷しゃしょく(国家)の大計と桓温かんおんに対する疑惑」を明らかにした。

すると桓温かんおんはすぐさま軍を返して江陵こうりょうかえり、上疏じょうそして「疑惑に対する申し開きと北伐の必要性」をいた。

その後、桓温かんおん大尉たいいに位を進められたが、固辞して拝命しなかった。


永和えいわ8年(352年)、殷浩いんこうは北伐して洛陽らくように至ると、園陵えんりょう皇帝こうていの墓)を修復し、数年にわたって戦ったが、戦うたびに敗北を重ね、すべての兵器が使い果たされた。

永和えいわ10年(354年)、再び司州ししゅうとくするようになった桓温かんおんは、朝野ちょうや(政府と民間)が(殷浩いんこうの北伐の失敗を)うらんでいることから「殷浩いんこう罷免ひめん」を上奏して認められ、殷浩いんこう庶人しょじんに落とされて失意のまま亡くなった。これ以降、内外共に桓温かんおんに権力が集中することになる。

桓温の第1次北伐

ついに桓温かんおんは、歩兵・騎兵4万を統率して江陵こうりょうを出発し、水軍は襄陽じょうようから均口きんこうに入った。

南郷なんきょうに至ると、徒歩で淅川せきせんを渡って関中かんちゅうを征伐し、梁州刺史りょうしゅうしし司馬勲しばくんに命じて子午道しごどうから関中かんちゅうに入らせた。また別軍は洛水らくすいさかのぼって、前秦ぜんしん皇帝こうてい苻健ふけんが任命した荊州刺史けいしゅうしし郭敬かくけいを捕らえ、さらに青泥せいでいに進撃してこれを破った。

これに苻健ふけんが子の苻生ふせいと弟の苻雄ふゆうに数万の兵を与えて嶢柳ぎょうりゅうに駐屯させて、桓温かんおんを防がせると、ついに大戦となった。

苻生ふせいみずから戦って敵陣を陥落させ、桓温かんおんの将・応庭おうてい劉泓りゅうおうを殺害して千余人を死傷したが、桓温かんおん軍が力戦したので苻生ふせいの軍は逃げ散った。

また苻雄ふゆうは、桓温かんおん将軍しょうぐん桓沖かんちゅう白鹿原はくかげんで戦い、桓沖かんちゅうによって撃ち破られたが、苻雄ふゆうはそのまま軍を進めて司馬勲しばくんを襲撃し、司馬勲しばくん女媧堡じょかほうに撤退させた。

桓温かんおんが進軍して霸上はじょうに至ると、苻健ふけん塹壕ざんごうを深く掘って5千人で固守した。すると住民たちはみな安堵あんどしてそれぞれの仕事に戻り、18、9人が牛と酒を持って桓温かんおんを出迎え、長老(耆老)は感激の涙を流して「思いがけなく、本日また官軍を見ることができるとはっ!」と言った。

当初、桓温かんおんはこの地の麦を軍糧として頼みにしていたが、苻健ふけんなえのうちに刈り取ってしまったことから軍糧が不足したため、3千余こうの民を収めて帰還した。東晋とうしん穆帝ぼくてい司馬聃しばたん)は侍中黄門じちゅうこうもん襄陽じょうように派遣して桓温かんおんねぎらった。

桓温と老婢

初め桓温かんおんは、自分の容姿や雰囲気(雄姿風気)が宣王せんおう司馬懿しばい)や劉琨りゅうこんに似ていると思っていたが、彼を王敦おうとんと比較する者もおり、はなはだ不満だった。

桓温かんおんが北伐から帰還するに及んで、北方で1人の老婢ろうひいた女奴隷)を得た。

老婢ろうひ劉琨りゅうこん伎女ぎじょであったのだが、桓温かんおんを一目見てさめざめと泣き出した。桓温かんおんがそのわけを聞くと、老婢ろうひは「こう劉司空りゅうしくう劉琨りゅうこん)にとても似ているもので…」と答えた。

桓温かんおんは大いに喜んで、衣冠を整えて外に出ると、もう1度老婢ろうひを呼んで(どのように似ているのかを)うた。

すると老婢ろうひは「顔はよく似ていますが残念ながら(桓温かんおんの方が)薄く、眼はよく似ていますが残念ながら(桓温かんおんの方が)小さく、ひげ(須)はよく似ていますが残念ながら(桓温かんおんひげは)赤く、身長(形)はよく似ていますが残念ながら(桓温かんおんの方が)低く(短)、声はよく似ていますが残念ながら(桓温かんおんの声は)女性(雌)のようです」と言った。

これを聞いた桓温かんおんは、かんむりを外しおびを解くと、ぼうぜんしつとなって数日間落ち込んでいた。

母親の死

母の孔氏こうしが亡くなると、上疏じょうそして「職をし、母を宛陵えんりょうに葬送したい」と願ったが、許されなかった。

桓温かんおんは母に臨賀太夫人りんがたいふじん印綬いんじゅを贈り、けいおくりなすると、侍中じちゅうつかわして弔祭ちょうさいり行い、謁者えっしゃ喪礼そうれいを監督・保護させた。桓温かんおんは葬儀が終わるのを見届けると、園陵えんりょう皇帝こうていの墓)を修復して都を洛陽らくように移したいと思い、10余度にわたって上表・上疏じょうそを繰り返したが、許されなかった。

桓温かんおん征討大都督せいとうだいととく督司とくし冀二州きにしゅう諸軍事しょぐんじに昇進し、北伐についての全権を委任された。(委以專征之任)

第2次北伐
出陣

桓温かんおん督護とくご高武こうぶを派遣して魯陽ろようを守らせると、輔国将軍ほこくしょうぐん戴施たいし黄河こうがの河上に駐屯させ、水軍(舟師)をひきいて許水きょすい洛水らくすいせまらせてしょうりょうの水路を通し、徐州じょしゅう豫州よしゅう予州よしゅう)の兵に淮水わいすい泗水しすいから黄河こうがに入るように要請した。

桓温かんおんみずか江陵こうりょうに向けて北伐に出陣し、その途上に金城きんじょうに立ち寄ったところ、そこには若い頃に琅邪ろうやで見た品種のやなぎしげっていた。

これを見た桓温かんおんなげいて「木ですら自由に遠い土地まで広く分布しているのに、人(かん民族)はなぜ南方に押し込められてえているのかっ!」と言い、やなぎの枝を手に取って、はらはらと涙を流した。

桓温かんおん袁宏えんこう

桓温かんおん淮水わいすい泗水しすいを通過して(東晋とうしんの)北の国境に到達すると、属官たち(諸僚属)と平乗楼へいじょうろうに登って中原ちゅうげんながめ見て、なげいて言った。

「ついに神州しんしゅうの陸(かん民族の土地)はしずみ(侵略され)、百年の丘(洛陽らくよう)は廃墟となった。(西晋せいしんの)王夷甫おういほ王衍おうえん)とその部下たちは責任を取らなければならなかったのだっ!」

これに袁宏えんこうが、

「運には興廃(波)があるものです。どうして誰かの過ちと言えましょうかっ!」

と言うと、桓温かんおんはさっと顔色を変え、属官たちに向かって言った。

「聞くところによると、劉景升りゅうけいしょう劉表りゅうひょう)が飼っていた千きん(約220kg)の大牛は、普通の牛の10倍の芻豆すうとうえさ)をむが、重い荷物をせて遠くまで運ぶことができた。ところがいてせてしまうと、荊州けいしゅうに入った魏武ぎぶ曹操そうそう)は、その大牛を兵士たちにご馳走ちそうしたのだそうだ」

これ(「袁宏えんこうも大牛のようになるぞ」というおどし)を聞き、その場にいた者たちはみな顔色を失った。

洛陽らくようの奪還

桓温かんおんの軍が伊水いすいを渡ると、北岸に駐屯する姚襄ようじょうと戦いになった。桓温かんおんは隊列を組んで前進するとみずかかぶとかぶって弟の桓沖かんちゅうを督戦し、諸将は奮戦して姚襄ようじょうを大破した。敵味方数千人の戦死者を出し、姚襄ようじょう北芒山ほくぼうざんを越えて西の平陽へいように逃走した。

桓温かんおんは(洛陽らくように入って)昔の太極殿たいきょくでんの前に駐屯し、洛陽らくようの東北の金墉城きんようじょうに移ると、先帝の諸陵に参拝し、陵墓を修復して陵令りょうれいを置いた。


その後桓温かんおんは軍を返してぞく周成しゅうせいを降伏し、また長江ちょうこう漢水かんすいの間に住む3千余人を降伏させた。また、西陽太守せいようたいしゅ滕畯とうしゅん黄城こうじょうを出て蛮賊ばんぞく文盧ぶんろらを討伐させ、さらに江夏相こうかしょう江夏太守こうかたいしゅ)・劉岵りゅうこ義陽太守ぎようたいしゅ胡驥こきを派遣して妖賊ようぞく李弘りこうを討伐さてみなこれを撃ち破り、それらの首を京都けいと建康けんこう)に送った。


その後桓温かんおんが帰還すると、司州ししゅう豫州よしゅう予州よしゅう)、青州せいしゅう兗州えんしゅうは再びぞくの手にちた。升平しょうへい年間(357年〜361年)、桓温かんおん南郡公なんぐんこうに改封され、次子の桓済かんせいが(桓温かんおんの)臨賀郡公りんがぐんこうから降格されて臨賀県公りんがけんこうに封ぜられた。

隆和りゅうわ年間(362年〜363年)の初め、河南郡かなんぐんが侵略を受けると、河南太守かなんたいしゅ戴施たいし出奔しゅっぽんし、冠軍将軍かんぐんしょうぐん陳祐ちんゆうが危急を告げた。桓温かんおん竟陵太守しょうりょうたいしゅ鄧遐とうかに3千人をひきいさせて陳祐ちんゆうを助けると共に、「洛陽らくように都を戻して欲しい」と上疏じょうそしたが、朝廷からそのことについての返答はなかった。


その後桓温かんおんは、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・司州ししゅう冀州きしゅうの3州に改授かいじゅされ、交州こうしゅう広州こうしゅうと遠く離れていることから都督ととく罷免ひめんされたが、これを辞退して受けず、侍中じちゅう大司馬だいしば都督ととく中外ちゅうがい諸軍事しょぐんじを加えられ、仮黄鉞かこうえつ(軍隊を独自に動かせる権限)を与えられた。

桓温かんおんはすでに内外の軍権をにぎっていたが、(任地が都から)遠いことを良しとせず、上疏じょうそして次の7つの提案をして認められた。

  1. 朋党ほうとう(派閥)が同調して私議が沸騰ふっとうしており、名声や富を競う者をもちいないこと。
  2. 人口が減少してかん代の1郡に満たない地域は、無駄な官職をはぶいて長く職務に従事させること。
  3. 重要な政務がとどこおらないように、普段から草案の作成に期限をもうけること。
  4. 「長幼の礼」を明らかにし、国家への忠義を奨励すること。
  5. 褒貶賞罰ほうへんしょうばつは事実にそくして行うこと。
  6. 前典にしたがい、学業を奨励しょうれいすること。
  7. 史官しかんを選び建てて晋書しんじょ編纂へんさんすること。

朝廷は桓温かんおん羽葆うほう*5鼓吹こすいを与え、左右長史さゆうちょうし司馬しば従事中郎じゅうじちゅうろうの4人を置くことを提案したが、桓温かんおん鼓吹こすいのみを受けてそれ以外はみな辞退した。

桓温かんおんがまた水軍(舟軍)をひきいて合肥がっぴに軍を進めると、朝廷は侍中じちゅう顏旄がんぼうを派遣して「桓温かんおん揚州牧ようしゅうぼく録尚書事ろくしょうしょじを加える」という宣旨せんじを下し、朝政に参画(建康けんこうに召還)させようとした。

すると桓温かんおん上疏じょうそして中原ちゅうげん回復の重要性をき、「朝廷では有能な会稽王かいけいおう司馬昱しばいくが輔政しているのだから、自分が朝政に参画しても政治が煩雑はんざつになるだけである」と言ってこれを辞退した。

朝廷はこれを許さなかったが、桓温かんおんは軍を進めた。桓温かんおん赭圻しゃき連峰れんぽうに至ると、再び尚書しょうしょ車潅しゃかんが派遣されて桓温かんおんを制止したが、赭圻しゃき連峰れんぽうの城を落とすと、桓温かんおんみことのり固辞こじして揚州牧ようしゅうぼく遙領ようりょう(任地におもむかずに仕事を取り仕切ること)した。

脚注

*5羽葆蓋車うほうがいしゃ。美しい羽根で飾られたおおいのついた皇帝こうていが乗る馬車。

桓温の野望

興寧こうねい3年(365年)、鮮卑せんぴ前燕ぜんえん)が洛陽らくようを攻撃し、(守将の)陳祐ちんゆう出奔しゅっぽんした。

会稽王かいけいおう司馬昱しばいく洌洲れつしゅうにいる桓温かんおんにこれを征討させることを協議し、桓温かんおん姑孰こしゅくに移ったが、ちょうど哀帝あいてい司馬丕しばひ)が崩御ほうぎょしたために中止された。


桓温かんおんは元々倹約家で、酒宴の際にもおそなえ物のうつわに茶果を乗せて出すだけであったが、国家の軍隊を専有するようになって、身分に相応ふさわしくない大望(帝位)を願いうかがうようになった。

ある時桓温かんおんは(リラックスして)横になりながら、親しい側近たちに「このまま大人おとなしくしていたら、ぶんけい司馬昭しばしょう司馬師しばし)に笑われてしまうかな…」と言った。

あえて言葉を返す者はいなかったが、桓温かんおんは枕をでて起き上がるとまた、「わしは後世に名を残すことはできまい。醜聞しゅうぶん(遺臭)で名を残すほどでもないっ!」と言った。


また、桓温かんおんが(逆臣の)王敦おうとんの墓の前を通った時には「可人、可人っ!」と言った。

可人とは「ならうべき所のある人」のこと。以前、自分が王敦おうとんと比較された時にはそれを不満に思っていたが、この時には(逆臣の)王敦おうとんを肯定している。


当時、遠方に道術を使う比丘尼びくに(尼僧)がいて、別室で入浴をしていた。桓温かんおんがこっそりのぞき見ると、比丘尼びくには裸身に刀を当ててみずから腹を破り、続いて両足を切り落として浴室から出てきた。

桓温かんおん比丘尼びくにに吉凶をうと「あなた天子てんしになるということは、こういうことです」と言った。

第3次北伐

太和たいわ4年(369年)、桓温かんおんはまた「全軍をもって北伐したい」と上疏じょうそした。

平北将軍へいほくしょうぐん郗愔ちいんが病気のため解任されると、桓温かんおん平北将軍へいほくしょうぐん徐兗じょえん二州にしゅう刺史ししとなり、弟の南中郎なんちゅうろう桓沖かんちゅう西中郎せいちゅうろう袁真えんしんに歩兵・騎兵5万をひきいて北伐におもむいた。この時、百官はみな南州なんしゅうに見送りに出て、都はすべて放置された。

軍次ぐんじ(副官?)の湖陸こりく前燕ぜんえん慕容暐ぼよういの将・慕容忠ぼようちゅうを攻撃して捕らえ、金郷きんきょうに軍を進めた。

当時は深刻なひでりで水路ががっていたため、黄河こうがから鉅野きょやまで3百余里(約129km)にわたって掘り進め、水を引き入れて舟運しゅううんを可能にした。

慕容暐ぼよういの将・慕容垂ぼようすい傅末波ふばつはらは8万の兵をひきいて桓温かんおん林渚りんしょで戦ったが、桓温かんおんはこれを破り、ついに枋頭へいとうに至った。

桓温かんおんは、先に袁真えんしんを派遣してしょうりょうたせ、石門を開いて水運を通そうとしたが、袁真えんしんしょうりょうち平定することはできたものの石門を開くことはできず、軍糧が枯渇こかつした。

そこで桓温かんおんは舟を燃やして陸行で退却し、東のえんから倉垣そうえんを出て陳留ちんりゅうを経由し、井戸を掘ってのどかわきをしのぎ、7百余里(約301km)の道を進んだ。

慕容垂ぼようすいは8千騎をもってこれを追撃し、桓温かんおん襄邑じょうゆうにおいて戦いに敗れ、3万人の死者を出した。

桓温かんおんはこれを大いに恥じ、帰還すると敗戦の責任を袁真えんしんの罪として「袁真えんしん庶人しょじんに落とす」ように上表したので、袁真えんしんは自分を誣告ぶこくした桓温かんおんうらみ、寿陽じゅようを固く守って秘かに前秦ぜんしん苻堅ふけん前燕ぜんえん慕容暐ぼよういと通じた。


朝廷は侍中じちゅう羅含らがんつかわして山陽さんようで牛と酒で桓温かんおんねぎらい、またその途中、会稽王かいけいおう司馬昱しばいく桓温かんおんと会って、みことのりにより桓温かんおん世子せいし(後継ぎ)で給事きゅうじ桓熙かんき征虜将軍せいりょしょうぐん豫州刺史よしゅうしし仮節かせつとした。

ちょうど南康公主なんこうこうしゅ桓温かんおんの妻・東晋とうしん明帝めいてい司馬紹しばしょう)の長女]が亡くなり、(死者をとむらって遺族に贈る金品)として布千匹・銭百万を与えるみことのりが下されたが、桓温かんおん固辞こじして受け取らなかった。また、息子の桓熙かんきはこれから3年間の服喪ふくも期間に入る上に年少でもあることから、遠隔地の任務を辞退したいと陳情したが、許されなかった。

その後桓温かんおんは州の領民を徴発ちょうはつし、広陵城こうりょうじょうを築いてそこに移ったが、この時まで桓温かんおんは長年に渡って労役を課していた上に、疫病えきびょう蔓延まんえんしたため10人中4、5人が死亡する事態となり、領民の間から桓温かんおんに対する怨嗟えんさの声が上がった。

袁真の反乱

袁真えんしんが亡くなると、袁真えんしんの将・朱輔しゅほ袁真えんしんの子・袁瑾えんきんに後を継がせ、前燕ぜんえん慕容暐ぼようい前秦ぜんしん苻堅ふけん袁瑾えんきんに援軍を送った。

これに桓温かんおんは、督護とくご竺瑶ちくよう喬陽之きょうようしらに水軍を与えてこれを攻撃させた。ちょうど慕容暐ぼよういの軍が到着したが、竺瑶ちくようらは武丘ぶきゅうでこれを破った。桓温かんおんが兵2万をひきいて広陵こうりょうから到着すると、袁瑾えんきんは城の守りを固め、桓温かんおんは長大な包囲陣を敷いた。

苻堅ふけんは配下の将・王鑒おうかん張蠔ちょうこうらを袁瑾えんきんの救援に派遣して洛澗らくかんに駐屯させ、精騎兵5千を肥水ひすいの北に進ませた。

桓温かんおんは、桓伊かんいと弟の子・桓石虔かんせきけんらに迎え撃たせてこれを大いに撃ち破ると、ついに袁瑾えんきん軍を潰滅させて袁瑾えんきんりにした。その宗族そうぞく数十人と朱輔しゅほ京都けいと建康けんこう)に送って処刑し、彼らに従っていた乞活きつかつ黄河こうが一帯で活動していたかん民族の武装流民集団)数百人を生きめにして、袁瑾えんきんらの妻子を褒賞ほうしょうとして将士に与えた。

桓温かんおんはこの功績により班剣はんけん10人を加えられ、軍兵には帰還の途中にねぎらいの酒宴がもうけられ、文官・武官にはそれぞれ差をつけて論功行賞が行われた。

簡文帝の擁立

桓温かんおんみずからの才能と権力を自負し、以前から異志いし謀反むほんの心)をいだいており、河朔かさく河北かほく)において功績を立て、その功績をもって九錫きゅうせきを受けいと思っていた。

東晋とうしん)はすでにくつがえやぶれ、国家の名声と功績は急落しており、参軍さんぐん郗超ちちょうは廃位のはかりごとを進め、桓温かんおん廃帝はいてい司馬奕しばえき)を廃して簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)を擁立ようりつした。

みことのりにより桓温かんおん諸葛亮しょかつりょうの故事にならって甲仗こうじょう甲冑かっちゅうと武器を装備した者)100人を従えての入殿が許され、銭5千万に絹2万ひき、布10万ひきたまわった。

桓温かんおんは(反対派の)粛清を始め、庾倩ゆせい殷涓いんけん曹秀そうしゅうらを誅殺ちゅうさつした。これにより桓温かんおんの威勢は益々盛んになった。


ある時、侍中じちゅう謝安しゃあんは遠く離れた所から桓温かんおんに拝礼した(遙拝ようはい)。

桓温かんおんは驚いて「謝安しゃあんよ、あなたはなぜそのようなことをするのかっ!」と言うと謝安しゃあんは「未有君拜於前,臣揖於後。


当時、桓温かんおんあしわずらっていたので、みことのりにより輿こしに乗って入朝することを許された。

桓温かんおん簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)に謁見えっけんすると、廃帝はいてい司馬奕しばえき)を廃した本意をべようとしたが、簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)はずっと嗚咽おえつしていたので、桓温かんおんつつしおそれて一言も発さないまま退出した。

桓温の不満

桓温かんおん白石はくせきかえると上疏じょうそして姑孰こしゅくに帰ることを求めたが、朝廷は「桓温かんおん丞相じょうしょうに進め、大司馬だいしばの本官はみなこれまで通りとし、京都けいと建康けんこう)にとどまって社稷しゃしょくを守るように」とのみことのりを下した。

桓温かんおん固辞こじしてちん姑孰こしゅく?)にかえることをうと、朝廷は侍中じちゅう王坦之おうたんしを派遣して「桓温かんおんしょうとして朝廷に迎え、1万戸を加増する」ことを伝えたが、桓温かんおんはこれも辞退した。

するとまたみことのりが下され、袁真えんしんの事故(反乱)により西府せいふの軍用が不足していたことから、桓温かんおん世子せいし(後継ぎ)・桓熙かんきに布3万匹・米6万こくが与えられ、また桓熙かんきの弟・桓済かんせい給侍中きゅうじちゅうに任命された。

簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)のやまい不豫ふよ)が重篤じゅうとくとなると「桓温かんおんに後事をたくゆえ、すぐに参内するように」とのみことのりが1日1夜のうちに4度も下された。桓温かんおんは、

わたくしおん桓温かんおん)は老齢(朽邁きゅうまい)で疾病しっぺいがあり、幼い皇子おうじをお支えすることはできません。今、朝廷の賢臣と呼べるのは謝安しゃあん王坦之おうたんしでしょう。どうか陛下へいかには、謝安しゃあんらに後事をたくされますように」

上疏じょうそしたが、その上疏じょうそが到着する前に簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)は崩御ほうぎょした。

簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)は桓温かんおんに「諸葛武侯しょかつぶこう諸葛亮しょかつりょう)や王丞相おうじょうしょう王導おうどう)の故事にならえ(幼帝ようていをしっかり補佐するように)」と遺詔いしょうした。*6

桓温かんおんは初め、簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)が臨終りんじゅうすれば「自分が禅譲ぜんじょうを受ける」か「周公しゅうこうのように幼帝ようていに代わって政務をる」ことを望んでいた。ところが自分の望み通りにならないことを知ると、大いに憤怒ふんどしておとうと桓沖かんちゅうに書を送り、「遺詔いしょうわしに『武侯ぶこう諸葛亮しょかつりょう)や王公おうこう王導おうどう)の故事にならえ』と言っておる」と不満をぶちまけた。

この遺詔いしょうによって王坦之おうたんし謝安しゃあんが政務の大事をしょすることになり、桓温かんおんは日々憤懣ふんまんつのらせていった。

脚注

*6晋書しんじょ王坦之伝おうたんしでんには「簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)は『しゅう武王ぶおうの弟・周公しゅうこう周公旦しゅうこうたん)が幼い成王せいおうに代わって政務をった故事にならえ』という遺詔いしょうを作らせたが、王坦之おうたんしみかどの目の前でこれを破り捨てていさめたので、簡文帝かんぶんてい遺詔いしょうの内容を改めた」とある。

孝武帝の即位

孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)が即位すると、孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)は「内外の諸事は桓温かんおんに意見をたずねた上で施行する」というみことのりを下した。また孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)は、謝安しゃあんを派遣して桓温かんおんに入朝を求め、前部羽葆うほう*5鼓吹こすい武賁ぶほん60人を加えることを伝えさせたが、桓温かんおんは辞退して受けなかった。

その後、ついに入朝する気になった桓温かんおんは、入朝するに及んで山陵さんりょう簡文帝かんぶんてい陵墓りょうぼ高平陵こうへいりょう)に参拝さんぱいした。

桓温かんおんに「こう桓温かんおん)には尊重すべき勲徳があり、ちん孝武帝こうぶてい)のを導いてくれているが、こう桓温かんおん)には『[ちん孝武帝こうぶてい)に対する]敬意がない』との風患ふうかんがある」とのみことのりが下され、また尚書しょうしょ謝安かんおんらには新亭しんていにおいて桓温かんおんを奉迎し、百官(百僚)はみな道側みちばたに並んで拝礼するようにちょくが下った。

当時、位・人望があった者はみなおののおびえて色を失い、「王坦之おうたんし謝安しゃあんは(桓温かんおんに)殺されるのではないか」と内外の者たちはおそれをいだいた。

桓温かんおん建康けんこうに至ると、以前、妖賊ようぞく盧悚ろしょう盧竦ろしょう)が宮中に侵入したこと*7を理由に尚書しょうしょ陸始りくしらを廷尉ていいに送ってその罪を責めた。


桓温かんおんはまた高平陵こうへいりょう参拝さんぱいしたが、左右の者は桓温かんおん参拝さんぱい中の様子がおかしいと感じていた。

桓温かんおんが帰りの車に乗り込むと、従者が「先帝せんてい簡文帝かんぶんてい)の霊が見えました」と言った。みかど簡文帝かんぶんていの霊)の様子や発した言葉についてはべなかったので、みな何を言っているのか分からなかったが、桓温かんおん陵墓りょうぼの前でしきりに「わたくしがそんなこと(簒奪さんだつ)をするはずがありません(臣不敢)」と言っていた。

また、桓温かんおんは左右の者に殷涓いんけんの体型をたずね、その中の1人が「太っていて小柄です」と答えた。すると桓温かんおんは「みかど簡文帝かんぶんていの霊)のそばに(殷涓いんけんが)いた…」と言った。

以前、桓温かんおん殷涓いんけんの父・殷浩いんこうを死に追いやったが、殷涓いんけんはとても気高く、ついに桓温かんおんの元におもむくことはなかった。殷涓いんけん武陵王ぶりょうおう司馬晞しばきと交遊していたため、桓温かんおんは彼を疑って殺害したが、殷涓いんけんを見たことはなかった。

桓温かんおんには2人の霊が見えていた。1人は簡文帝かんぶんていと分かったが、もう1人が分からない。もう1人は殷涓いんけんではないかと思ったが、殷涓いんけんを見たことがなかったので、彼の体型を確認したのである。

その後、桓温かんおん殷涓いんけんたたられたかのように体調をくずし、姑孰こしゅくに帰還した。京師けいし建康けんこう)に滞在たいざいしていたのは、わずか14日間であった。

脚注

*5羽葆蓋車うほうがいしゃ。美しい羽根で飾られたおおいのついた皇帝こうていが乗る馬車。

*7孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)が即位した当初、妖賊ようぞく盧竦ろしょう盧悚ろしょう)が宮中に侵入し、桓温かんおんの弟で中領軍ちゅうりょうぐん桓秘かんひ左衛将軍さえいしょうぐん殷康いんこうと共にこれをった事件のこと。

桓温の死

ついにやまいを発して起き上がれなくなった桓温かんおんは「自分に九錫きゅうせきを加える」よう朝廷に何度も催促した。

謝安しゃあん王坦之おうたんしは、桓温かんおんやまい重篤じゅうとくなことを聞くと、秘かにその手続きを遅らせた。

錫文せきぶん九錫きゅうせき下賜かしする文)が完成する前に桓温かんおんは亡くなった。享年きょうねん62歳であった。


皇太后こうたいこう孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)は朝堂に3日間滞在たいざいし、九命きゅうめい袞冕こんべんの服、朝服1、衣1しゅう、東園の秘器、銭2百万、布2千ひきろう5百きん下賜かしして喪事そうじに供するようみことのりを下した。

その葬儀は太宰たいさい安平献王あんぺいけんおう司馬孚しばふかん大将軍だいしょうぐん霍光かくこうの故事にならって行われ、九旒きゅうりゅう鸞輅らんろ天子てんしの車)、黄屋こうおく左纛さとう(上部に犛牛やくの毛飾りをつけたほこ)、縕輬車おんりょうしゃ(葬儀用馬車)、輓歌ばんか哀悼あいとうの歌)2羽葆うほう*5鼓吹こすい武賁ぶほん班剣はんけん百人が下賜かしされた。

また、以前封ぜられた南郡公なんぐんこうに7,500戸と進地3百里四方を加増され、銭5千万、絹2万ひき、布10万ひきたまわり、丞相じょうしょうを追贈された。

脚注

*5羽葆蓋車うほうがいしゃ。美しい羽根で飾られたおおいのついた皇帝こうていが乗る馬車。


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