正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(67)譙国桓氏④(桓温)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物④、
についてまとめています。
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か(67)譙国桓氏④
第3世代(桓温)
桓温・元子
永嘉6年(312年)〜寧康元年(373年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓彝。子に桓熙、桓済、桓歆、桓禕、桓偉、桓玄。
出自
名前の由来
幷州(并州)・太原郡出身の温嶠は、生まれたばかりの桓温を見て「この子には珍しい骨相がある。試しに泣かせてみよ」と言い、その泣き声を聞くと「真の傑物(英物)なりっ!」と言った。温嶠に賞賛されたことから、その子を温と名づけた。
すると温嶠は笑って「そんなことをされては、私の姓は後で変えることになるな」と言った。
父の仇討ち
桓温の父・桓彝は蘇峻の将・韓晃に殺害された。15歳の時、桓温は戈を枕に血の涙を流して父の仇に報いることを誓った(志在復仇)。
桓温が18歳の時、韓晃の仲間であった涇県令の江播が亡くなり、江播の子・江彪兄弟3人は喪に服していた。桓温は杖の中に刃を隠して弔問に訪れると、江彪を斬りつけ、2人の弟を追いかけて殺害した。当時の人々は彼の行いを称賛した。
容貌
桓温は豪快で爽やかな風格を持ち、並外れて容姿に優れ、顔に7つのホクロがあった。
若い時から沛国出身の劉惔と仲が良く、劉惔は彼を称え、
「桓温の眼は紫色のごつごつした岩石(石棱)のようで、鬚(須)は乱雑に張り付いている。孫仲謀(孫権)や晋の宣王(司馬懿)と同じだ」
と言った。
大抜擢される
南康長公主[東晋の明帝(司馬紹)の長女]を妻に迎えて駙馬都尉を拝命し、万寧男の爵位を継いで琅邪太守となり、昇進を重ねて徐州刺史となった。
桓温と庾翼は仲が良く、庾翼は東晋の明帝(司馬紹)に桓温を推薦して、
「桓温は若くして雄大な計略を持っています。願わくは彼を常人・常婿(普通の人・普通の婿)扱いせず、地方より呼び寄せて、陛下の困難を克服する手助けをさせていただきたいと存じます」
と言った。
庾翼が亡くなると、桓温は都督荊梁四州諸軍事・安西将軍・荊州刺史・護南蛮校尉・仮節となった。
成漢を滅ぼす
この頃、成漢の皇帝・李勢が微弱であったので、桓温は蜀の地を滅ぼして勲功を立てたいと思い、東晋の永和2年(346年)、桓温は軍勢を率いて西伐を行った。
その出発にあたり桓温は、当時臨朝していた康献太后に上疏したが、朝廷では、
「蜀の地は遠く険しく、桓温の兵は少ない。敵地深く侵入することを甚だ憂慮する。昔、諸葛亮は(防備のため)魚復県の平坦で広大な砂原に、2丈(約4.84m)の間隔で八行(八卦?)の形に石塁(壘石)を築き、八陣図を造った。(敵は充分な備えをしているのではないか)」
という意見が出た。
これに桓温は「これ『常山の蛇勢*2』なり」と答えたが、居並ぶ文官・武官の中に納得した者はいなかった。
桓温は彭模を軍次に、周楚を参軍に命じ、孫盛に輜重(軍需物資)を守らせ、自らは歩兵を率いて成都に直行した。
成漢の李勢が、叔父の李福と従兄の李権らに彭模を攻撃させると、これを周楚が防ぎ、李福を退却させた。また、桓温は李権らを攻撃して3戦3勝し、賊軍は散り散りになって、間道を伝って成都に帰還した。
これを受け、李勢は全軍をもって笮橋において桓温と戦った。この戦いの中で(桓温の)参軍・龔護が戦死すると、桓温の兵たちは懼れて退却することを望んでいたが、鼓吏が誤って進鼓を打ち鳴らしたことで攻撃を続けることとなり、その結果、李勢の軍は大いに潰滅した。
桓温が勝ちに乗じて直進し、李勢方の小城を焼き払うと、李勢は夜を徹して敗走し、90里(約38.7km)離れた晋寿郡の葭萌城に至ると、葭萌城の将・鄧嵩と昝堅は李勢に降伏を勧めた。李勢が面縛輿櫬*3して助命を請うと、桓温は縛めを解いて櫬(棺)を焼き、李勢を京師(建康)に送った。
桓温は30日間(三旬)蜀に留まって、成漢の、
- 尚書僕射・王誓
- 中書監・王瑜
- 鎮東将軍・鄧定
- 散騎常侍・常璩
らの善行を表彰し、また彼らを参軍としたので、蜀の民は感激した。
ところが、軍が完全に帰還する前に王誓、鄧定、隗文らが反乱を起こしたので、桓温は引き返してこれを討伐・平定した。その後桓温は江陵に凱旋し、征西大将軍に位を進め、開府を許されて臨賀郡公に封ぜられた。
脚注
*2先陣・後陣・右陣・左陣が互いに呼応して戦う陣法のこと。「常山にいた率然という双頭の蛇は、頭を打てば尾が、尾を叩けば頭が、胴を叩くと頭と尾が襲いかかるように、体のすべてを使って攻撃した」という説話から。『孫子』九地篇。
*3自ら両手を後ろ手に縛り、空の棺桶を荷車に乗せて出頭する降伏の方法。「櫬」は一番内側の棺のこと。
殷浩との対立
後趙の皇帝・石季龍(石虎)が亡くなると、桓温は軍勢を率いて北征することを望み、先に上疏して朝廷に「水軍と陸軍の準備」を求めたが、長い間返答がなかった。
桓温は朝廷で、殷浩らが「北征に反対していること」を知った。桓温はひどく憤り、また殷浩とは竹馬の友の間柄であったので納得がいかなかった。
その後、国内には他に争いもなく数年が経ったが、その間、桓温は東晋の臣下でありながら荊州で半独立状態となり、8州で兵士・物資を集め、ほとんど国家のために働かなかった。
永和7年(351年)、ついに桓温は「北伐」を表明すると、上表して長江を下り、武昌に着いた時には、その兵は4、5万となっていた。
身の危険を感じた殷浩は、騶虞幡(戦闘を停止させる時に使う旗)をもって桓温の進軍を止めようとしたが、朝廷の内外では彼らの衝突を噂してみな震え上がっていた。
会稽王・司馬昱(簡文帝)が撫軍大将軍となると、司馬昱は桓温に書簡を送って「社稷(国家)の大計と桓温に対する疑惑」を明らかにした。
すると桓温はすぐさま軍を返して江陵に還り、上疏して「疑惑に対する申し開きと北伐の必要性」を説いた。
その後、桓温は大尉に位を進められたが、固辞して拝命しなかった。
永和8年(352年)、殷浩は北伐して洛陽に至ると、園陵(皇帝の墓)を修復し、数年にわたって戦ったが、戦う度に敗北を重ね、すべての兵器が使い果たされた。
永和10年(354年)、再び司州を督するようになった桓温は、朝野(政府と民間)が(殷浩の北伐の失敗を)怨んでいることから「殷浩の罷免」を上奏して認められ、殷浩は庶人に落とされて失意のまま亡くなった。これ以降、内外共に桓温に権力が集中することになる。
桓温の第1次北伐
ついに桓温は、歩兵・騎兵4万を統率して江陵を出発し、水軍は襄陽から均口に入った。
南郷に至ると、徒歩で淅川を渡って関中を征伐し、梁州刺史の司馬勲に命じて子午道から関中に入らせた。また別軍は洛水を遡って、前秦の皇帝・苻健が任命した荊州刺史・郭敬を捕らえ、さらに青泥に進撃してこれを破った。
これに苻健が子の苻生と弟の苻雄に数万の兵を与えて嶢柳に駐屯させて、桓温を防がせると、ついに大戦となった。
苻生は自ら戦って敵陣を陥落させ、桓温の将・応庭と劉泓を殺害して千余人を死傷したが、桓温軍が力戦したので苻生の軍は逃げ散った。
また苻雄は、桓温の将軍・桓沖と白鹿原で戦い、桓沖によって撃ち破られたが、苻雄はそのまま軍を進めて司馬勲を襲撃し、司馬勲を女媧堡に撤退させた。
桓温が進軍して霸上に至ると、苻健は塹壕を深く掘って5千人で固守した。すると住民たちはみな安堵してそれぞれの仕事に戻り、18、9人が牛と酒を持って桓温を出迎え、長老(耆老)は感激の涙を流して「思いがけなく、本日また官軍を見ることができるとはっ!」と言った。
当初、桓温はこの地の麦を軍糧として頼みにしていたが、苻健が苗のうちに刈り取ってしまったことから軍糧が不足したため、3千余口の民を収めて帰還した。東晋の穆帝(司馬聃)は侍中黄門を襄陽に派遣して桓温を労った。
桓温と老婢
初め桓温は、自分の容姿や雰囲気(雄姿風気)が宣王(司馬懿)や劉琨に似ていると思っていたが、彼を王敦と比較する者もおり、甚だ不満だった。
桓温が北伐から帰還するに及んで、北方で1人の老婢(老いた女奴隷)を得た。
老婢は劉琨の伎女であったのだが、桓温を一目見てさめざめと泣き出した。桓温がその訳を聞くと、老婢は「公が劉司空(劉琨)にとても似ているもので…」と答えた。
桓温は大いに喜んで、衣冠を整えて外に出ると、もう1度老婢を呼んで(どのように似ているのかを)問うた。
すると老婢は「顔はよく似ていますが残念ながら(桓温の方が)薄く、眼はよく似ていますが残念ながら(桓温の方が)小さく、鬚(須)はよく似ていますが残念ながら(桓温の鬚は)赤く、身長(形)はよく似ていますが残念ながら(桓温の方が)低く(短)、声はよく似ていますが残念ながら(桓温の声は)女性(雌)のようです」と言った。
これを聞いた桓温は、冠を外し帯を解くと、茫然自失となって数日間落ち込んでいた。
母親の死
母の孔氏が亡くなると、上疏して「職を辞し、母を宛陵に葬送したい」と願ったが、許されなかった。
桓温は母に臨賀太夫人の印綬を贈り、敬と諡すると、侍中を遣わして弔祭を執り行い、謁者に喪礼を監督・保護させた。桓温は葬儀が終わるのを見届けると、園陵(皇帝の墓)を修復して都を洛陽に移したいと思い、10余度にわたって上表・上疏を繰り返したが、許されなかった。
桓温は征討大都督・督司冀二州諸軍事に昇進し、北伐についての全権を委任された。(委以專征之任)
第2次北伐
出陣
桓温は督護の高武を派遣して魯陽を守らせると、輔国将軍の戴施を黄河の河上に駐屯させ、水軍(舟師)を率いて許水や洛水に迫らせて譙・梁の水路を通し、徐州・豫州(予州)の兵に淮水・泗水から黄河に入るように要請した。
桓温は自ら江陵に向けて北伐に出陣し、その途上に金城に立ち寄ったところ、そこには若い頃に琅邪で見た品種の柳が生い茂っていた。
これを見た桓温は嘆いて「木ですら自由に遠い土地まで広く分布しているのに、人(漢民族)はなぜ南方に押し込められて堪えているのかっ!」と言い、柳の枝を手に取って、はらはらと涙を流した。
桓温と袁宏
桓温は淮水・泗水を通過して(東晋の)北の国境に到達すると、属官たち(諸僚属)と平乗楼に登って中原を眺め見て、嘆いて言った。
「ついに神州の陸(漢民族の土地)は沈み(侵略され)、百年の丘(洛陽)は廃墟となった。(西晋の)王夷甫(王衍)とその部下たちは責任を取らなければならなかったのだっ!」
これに袁宏が、
「運には興廃(波)があるものです。どうして誰かの過ちと言えましょうかっ!」
と言うと、桓温はさっと顔色を変え、属官たちに向かって言った。
「聞くところによると、劉景升(劉表)が飼っていた千斤(約220kg)の大牛は、普通の牛の10倍の芻豆(餌)を食むが、重い荷物を載せて遠くまで運ぶことができた。ところが老いて痩せてしまうと、荊州に入った魏武(曹操)は、その大牛を兵士たちにご馳走したのだそうだ」
これ(「袁宏も大牛のようになるぞ」という脅し)を聞き、その場にいた者たちはみな顔色を失った。
洛陽の奪還
桓温の軍が伊水を渡ると、北岸に駐屯する姚襄と戦いになった。桓温は隊列を組んで前進すると自ら兜を被って弟の桓沖を督戦し、諸将は奮戦して姚襄を大破した。敵味方数千人の戦死者を出し、姚襄は北芒山を越えて西の平陽に逃走した。
桓温は(洛陽に入って)昔の太極殿の前に駐屯し、洛陽の東北の金墉城に移ると、先帝の諸陵に参拝し、陵墓を修復して陵令を置いた。
その後桓温は軍を返して賊の周成を降伏し、また長江と漢水の間に住む3千余人を降伏させた。また、西陽太守・滕畯に黄城を出て蛮賊の文盧らを討伐させ、さらに江夏相(江夏太守)・劉岵と義陽太守・胡驥を派遣して妖賊の李弘を討伐さてみなこれを撃ち破り、それらの首を京都(建康)に送った。
その後桓温が帰還すると、司州、豫州(予州)、青州、兗州は再び賊の手に陥ちた。升平年間(357年〜361年)、桓温は南郡公に改封され、次子の桓済が(桓温の)臨賀郡公から降格されて臨賀県公に封ぜられた。
隆和年間(362年〜363年)の初め、河南郡が侵略を受けると、河南太守の戴施は出奔し、冠軍将軍の陳祐が危急を告げた。桓温は竟陵太守の鄧遐に3千人を率いさせて陳祐を助けると共に、「洛陽に都を戻して欲しい」と上疏したが、朝廷からそのことについての返答はなかった。
その後桓温は、幷州(并州)・司州・冀州の3州に改授され、交州・広州と遠く離れていることから都督を罷免されたが、これを辞退して受けず、侍中・大司馬・都督中外諸軍事を加えられ、仮黄鉞(軍隊を独自に動かせる権限)を与えられた。
桓温はすでに内外の軍権を握っていたが、(任地が都から)遠いことを良しとせず、上疏して次の7つの提案をして認められた。
- 朋党(派閥)が同調して私議が沸騰しており、名声や富を競う者を用いないこと。
- 人口が減少して漢代の1郡に満たない地域は、無駄な官職を省いて長く職務に従事させること。
- 重要な政務が滞らないように、普段から草案の作成に期限を設けること。
- 「長幼の礼」を明らかにし、国家への忠義を奨励すること。
- 褒貶賞罰は事実に即して行うこと。
- 前典に遵い、学業を奨励すること。
- 史官を選び建てて『晋書』を編纂すること。
朝廷は桓温に羽葆*5・鼓吹を与え、左右長史・司馬・従事中郎の4人を置くことを提案したが、桓温は鼓吹のみを受けてそれ以外はみな辞退した。
桓温がまた水軍(舟軍)を率いて合肥に軍を進めると、朝廷は侍中の顏旄を派遣して「桓温に揚州牧・録尚書事を加える」という宣旨を下し、朝政に参画(建康に召還)させようとした。
すると桓温は上疏して中原回復の重要性を説き、「朝廷では有能な会稽王・司馬昱が輔政しているのだから、自分が朝政に参画しても政治が煩雑になるだけである」と言ってこれを辞退した。
朝廷はこれを許さなかったが、桓温は軍を進めた。桓温が赭圻連峰に至ると、再び尚書の車潅が派遣されて桓温を制止したが、赭圻連峰の城を落とすと、桓温は詔を固辞して揚州牧を遙領(任地に赴かずに仕事を取り仕切ること)した。
脚注
*5羽葆蓋車。美しい羽根で飾られた蓋のついた皇帝が乗る馬車。
桓温の野望
興寧3年(365年)、鮮卑(前燕)が洛陽を攻撃し、(守将の)陳祐は出奔した。
会稽王・司馬昱は洌洲にいる桓温にこれを征討させることを協議し、桓温は姑孰に移ったが、ちょうど哀帝(司馬丕)が崩御したために中止された。
桓温は元々倹約家で、酒宴の際にもお供え物の器に茶果を乗せて出すだけであったが、国家の軍隊を専有するようになって、身分に相応しくない大望(帝位)を願い窺うようになった。
ある時桓温は(リラックスして)横になりながら、親しい側近たちに「このまま大人しくしていたら、文・景(司馬昭と司馬師)に笑われてしまうかな…」と言った。
あえて言葉を返す者はいなかったが、桓温は枕を撫でて起き上がるとまた、「儂は後世に名を残すことはできまい。醜聞(遺臭)で名を残す程でもないっ!」と言った。
また、桓温が(逆臣の)王敦の墓の前を通った時には「可人、可人っ!」と言った。
可人とは「見習うべき所のある人」のこと。以前、自分が王敦と比較された時にはそれを不満に思っていたが、この時には(逆臣の)王敦を肯定している。
当時、遠方に道術を使う比丘尼(尼僧)がいて、別室で入浴をしていた。桓温がこっそり覗き見ると、比丘尼は裸身に刀を当てて自ら腹を破り、続いて両足を切り落として浴室から出てきた。
桓温が比丘尼に吉凶を問うと「公が天子になるということは、こういうことです」と言った。
第3次北伐
太和4年(369年)、桓温はまた「全軍をもって北伐したい」と上疏した。
平北将軍・郗愔が病気のため解任されると、桓温は平北将軍・徐兗二州刺史となり、弟の南中郎・桓沖と西中郎・袁真に歩兵・騎兵5万を率いて北伐に赴いた。この時、百官はみな南州に見送りに出て、都はすべて放置された。
軍次(副官?)の湖陸が前燕の慕容暐の将・慕容忠を攻撃して捕らえ、金郷に軍を進めた。
当時は深刻な旱で水路が干上がっていたため、黄河から鉅野まで3百余里(約129km)にわたって掘り進め、水を引き入れて舟運を可能にした。
慕容暐の将・慕容垂と傅末波らは8万の兵を率いて桓温と林渚で戦ったが、桓温はこれを破り、ついに枋頭に至った。
桓温は、先に袁真を派遣して譙・梁を伐たせ、石門を開いて水運を通そうとしたが、袁真は譙・梁を討ち平定することはできたものの石門を開くことはできず、軍糧が枯渇した。
そこで桓温は舟を燃やして陸行で退却し、東の燕から倉垣を出て陳留を経由し、井戸を掘って喉の渇きをしのぎ、7百余里(約301km)の道を進んだ。
慕容垂は8千騎をもってこれを追撃し、桓温は襄邑において戦いに敗れ、3万人の死者を出した。
桓温はこれを大いに恥じ、帰還すると敗戦の責任を袁真の罪として「袁真を庶人に落とす」ように上表したので、袁真は自分を誣告した桓温を怨み、寿陽を固く守って秘かに前秦の苻堅と前燕の慕容暐と通じた。
朝廷は侍中の羅含を遣わして山陽で牛と酒で桓温を労い、またその途中、会稽王・司馬昱が桓温と会って、詔により桓温の世子(後継ぎ)で給事の桓熙を征虜将軍・豫州刺史・仮節とした。
ちょうど南康公主[桓温の妻・東晋の明帝(司馬紹)の長女]が亡くなり、賻(死者を弔って遺族に贈る金品)として布千匹・銭百万を与える詔が下されたが、桓温は固辞して受け取らなかった。また、息子の桓熙はこれから3年間の服喪期間に入る上に年少でもあることから、遠隔地の任務を辞退したいと陳情したが、許されなかった。
その後桓温は州の領民を徴発し、広陵城を築いてそこに移ったが、この時まで桓温は長年に渡って労役を課していた上に、疫病が蔓延したため10人中4、5人が死亡する事態となり、領民の間から桓温に対する怨嗟の声が上がった。
袁真の反乱
袁真が亡くなると、袁真の将・朱輔は袁真の子・袁瑾に後を継がせ、前燕の慕容暐と前秦の苻堅は袁瑾に援軍を送った。
これに桓温は、督護の竺瑶と喬陽之らに水軍を与えてこれを攻撃させた。ちょうど慕容暐の軍が到着したが、竺瑶らは武丘でこれを破った。桓温が兵2万を率いて広陵から到着すると、袁瑾は城の守りを固め、桓温は長大な包囲陣を敷いた。
苻堅は配下の将・王鑒、張蠔らを袁瑾の救援に派遣して洛澗に駐屯させ、精騎兵5千を肥水の北に進ませた。
桓温は、桓伊と弟の子・桓石虔らに迎え撃たせてこれを大いに撃ち破ると、ついに袁瑾軍を潰滅させて袁瑾を生け捕りにした。その宗族数十人と朱輔を京都(建康)に送って処刑し、彼らに従っていた乞活(黄河一帯で活動していた漢民族の武装流民集団)数百人を生き埋めにして、袁瑾らの妻子を褒賞として将士に与えた。
桓温はこの功績により班剣10人を加えられ、軍兵には帰還の途中に労いの酒宴が設けられ、文官・武官にはそれぞれ差をつけて論功行賞が行われた。
簡文帝の擁立
桓温は自らの才能と権力を自負し、以前から異志(謀反の心)を抱いており、河朔(河北)において功績を立て、その功績をもって九錫を受けいと思っていた。
(東晋)はすでに覆り敗れ、国家の名声と功績は急落しており、参軍の郗超は廃位の計を進め、桓温は廃帝(司馬奕)を廃して簡文帝(司馬昱)を擁立した。
詔により桓温は諸葛亮の故事に倣って甲仗(甲冑と武器を装備した者)100人を従えての入殿が許され、銭5千万に絹2万匹、布10万匹を賜った。
桓温は(反対派の)粛清を始め、庾倩、殷涓、曹秀らを誅殺した。これにより桓温の威勢は益々盛んになった。
ある時、侍中の謝安は遠く離れた所から桓温に拝礼した(遙拝)。
桓温は驚いて「謝安よ、卿はなぜそのようなことをするのかっ!」と言うと謝安は「未有君拜於前,臣揖於後。」
当時、桓温は脚を患っていたので、詔により輿に乗って入朝することを許された。
桓温は簡文帝(司馬昱)に謁見すると、廃帝(司馬奕)を廃した本意を述べようとしたが、簡文帝(司馬昱)はずっと嗚咽していたので、桓温は慎み懼れて一言も発さないまま退出した。
桓温の不満
桓温は白石に還ると上疏して姑孰に帰ることを求めたが、朝廷は「桓温を丞相に進め、大司馬の本官はみなこれまで通りとし、京都(建康)に留まって社稷を守るように」との詔を下した。
桓温が固辞して鎮(姑孰?)に還ることを請うと、朝廷は侍中の王坦之を派遣して「桓温を相として朝廷に迎え、1万戸を加増する」ことを伝えたが、桓温はこれも辞退した。
するとまた詔が下され、袁真の事故(反乱)により西府の軍用が不足していたことから、桓温の世子(後継ぎ)・桓熙に布3万匹・米6万斛が与えられ、また桓熙の弟・桓済は給侍中に任命された。
簡文帝(司馬昱)の病(不豫)が重篤となると「桓温に後事を託す故、すぐに参内するように」との詔が1日1夜のうちに4度も下された。桓温は、
「臣・温(桓温)は老齢(朽邁)で疾病があり、幼い皇子をお支えすることはできません。今、朝廷の賢臣と呼べるのは謝安と王坦之でしょう。どうか陛下には、謝安らに後事を託されますように」
と上疏したが、その上疏が到着する前に簡文帝(司馬昱)は崩御した。
簡文帝(司馬昱)は桓温に「諸葛武侯(諸葛亮)や王丞相(王導)の故事に倣え(幼帝をしっかり補佐するように)」と遺詔した。*6
桓温は初め、簡文帝(司馬昱)が臨終すれば「自分が禅譲を受ける」か「周公のように幼帝に代わって政務を執る」ことを望んでいた。ところが自分の望み通りにならないことを知ると、大いに憤怒して弟の桓沖に書を送り、「遺詔は儂に『武侯(諸葛亮)や王公(王導)の故事に倣え』と言っておる」と不満をぶちまけた。
この遺詔によって王坦之と謝安が政務の大事を処することになり、桓温は日々憤懣を募らせていった。
脚注
*6『晋書』王坦之伝には「簡文帝(司馬昱)は『周の武王の弟・周公(周公旦)が幼い成王に代わって政務を執った故事に倣え』という遺詔を作らせたが、王坦之は帝の目の前でこれを破り捨てて諫めたので、簡文帝は遺詔の内容を改めた」とある。
孝武帝の即位
孝武帝(司馬曜)が即位すると、孝武帝(司馬曜)は「内外の諸事は桓温に意見を尋ねた上で施行する」という詔を下した。また孝武帝(司馬曜)は、謝安を派遣して桓温に入朝を求め、前部羽葆*5・鼓吹・武賁60人を加えることを伝えさせたが、桓温は辞退して受けなかった。
その後、ついに入朝する気になった桓温は、入朝するに及んで山陵(簡文帝の陵墓・高平陵)に参拝した。
桓温に「公(桓温)には尊重すべき勲徳があり、朕(孝武帝)の躬を導いてくれているが、公(桓温)には『[朕(孝武帝)に対する]敬意がない』との風患がある」との詔が下され、また尚書の謝安らには新亭において桓温を奉迎し、百官(百僚)はみな道側に並んで拝礼するように敕が下った。
当時、位・人望があった者はみな戦き懾えて色を失い、「王坦之と謝安は(桓温に)殺されるのではないか」と内外の者たちは懼れを懐いた。
桓温は建康に至ると、以前、妖賊の盧悚(盧竦)が宮中に侵入したこと*7を理由に尚書の陸始らを廷尉に送ってその罪を責めた。
桓温はまた高平陵に参拝したが、左右の者は桓温の参拝中の様子がおかしいと感じていた。
桓温が帰りの車に乗り込むと、従者が「先帝(簡文帝)の霊が見えました」と言った。帝(簡文帝の霊)の様子や発した言葉については述べなかったので、みな何を言っているのか分からなかったが、桓温は陵墓の前でしきりに「臣がそんなこと(簒奪)をするはずがありません(臣不敢)」と言っていた。
また、桓温は左右の者に殷涓の体型を尋ね、その中の1人が「太っていて小柄です」と答えた。すると桓温は「帝(簡文帝の霊)の側に(殷涓が)いた…」と言った。
以前、桓温は殷涓の父・殷浩を死に追いやったが、殷涓はとても気高く、ついに桓温の元に赴くことはなかった。殷涓は武陵王・司馬晞と交遊していたため、桓温は彼を疑って殺害したが、殷涓を見たことはなかった。
桓温には2人の霊が見えていた。1人は簡文帝と分かったが、もう1人が分からない。もう1人は殷涓ではないかと思ったが、殷涓を見たことがなかったので、彼の体型を確認したのである。
その後、桓温は殷涓に祟られたかのように体調を崩し、姑孰に帰還した。京師(建康)に滞在していたのは、わずか14日間であった。
脚注
*5羽葆蓋車。美しい羽根で飾られた蓋のついた皇帝が乗る馬車。
*7孝武帝(司馬曜)が即位した当初、妖賊の盧竦(盧悚)が宮中に侵入し、桓温の弟で中領軍の桓秘が左衛将軍・殷康と共にこれを擊った事件のこと。
桓温の死
ついに病を発して起き上がれなくなった桓温は「自分に九錫を加える」よう朝廷に何度も催促した。
謝安と王坦之は、桓温の病が重篤なことを聞くと、秘かにその手続きを遅らせた。
錫文(九錫を下賜する文)が完成する前に桓温は亡くなった。享年62歳であった。
皇太后と孝武帝(司馬曜)は朝堂に3日間滞在し、九命袞冕の服、朝服1具、衣1襲、東園の秘器、銭2百万、布2千匹、臘5百斤を下賜して喪事に供するよう詔を下した。
その葬儀は太宰・安平献王・司馬孚や漢の大将軍・霍光の故事に倣って行われ、九旒鸞輅(天子の車)、黄屋左纛(上部に犛牛の毛飾りをつけた鉾)、縕輬車(葬儀用馬車)、輓歌(哀悼の歌)2部、羽葆*5・鼓吹、武賁・班剣百人が下賜された。
また、以前封ぜられた南郡公に7,500戸と進地3百里四方を加増され、銭5千万、絹2万匹、布10万匹を賜り、丞相を追贈された。
脚注
*5羽葆蓋車。美しい羽根で飾られた蓋のついた皇帝が乗る馬車。
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