正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(68)譙国(しょうこく)桓氏(かんし)⑤(桓雲(かんうん)・桓豁(かんかつ)・桓秘(かんひ)・桓沖(かんちゅう))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

譙国桓氏系図

譙国(しょうこく)桓氏(かんし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁(かんかつ)の子の兄弟の順について

『晋書(しんじょ)』桓豁(かんかつでん)には、

「桓豁(かんかつ)には20人の子がいたが、桓豁(かんかつ)は苻堅(ふけん)の国中で「堅(かた)い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行(はや)っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用(もち)いた。中でも石虔(せきけん)、石秀(せきしゅう)、石民(せきみん)、石生(せきせい)、石綏(せきすい)、石康(せきこう)らの名が知られている」

とあり、また『晋書(しんじょ)』桓玄伝(かんげんでん)には、

「桓石康(かんせきこう)は桓豁(かんかつ)の次子、桓権(かんけん)は桓石康(かんせきこう)の兄」

とあります。『晋書(しんじょ)』桓豁伝(かんかつでん)に桓権(かんけん)の名前はありませんが、桓権(かんけん)が長子で、次子の桓石康(かんせきこう)以降、名前に「石」の字を用(もち)いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国(しょうこく)桓氏(かんし)と沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)について

『晋書(しんじょ)』桓彝伝(かんいでん)には「後漢(ごかん)の五更(ごこう)*1・桓栄(かんえい)の9世の孫にあたる」とあり、譙国(しょうこく)桓氏(かんし)と沛郡(はいぐん)桓氏(かんし)は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝(かんい)を桓郁(かんいく)の弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れ替(か)わることを知る者のこと。『続漢志(ぞくかんし)』に「三老(さんろう)・五更(ごこう)を養(やしな)う礼儀は、吉日に先んじて司徒(しと)か太傅(たいふ)、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公(さんこう)の中から『徳行がある高齢者』を用(もち)いて、三公(さんこう)から1名を三老(さんろう)とし、九卿(きゅうけい)から1名を五更(ごこう)とする」とあり、『漢官儀(かんかんぎ)』には「三老(さんろう)・五更(ごこう)はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備(そな)わっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国(しょうこく)桓氏(かんし)の人物⑤、

についてまとめています。

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か(68)譙国桓氏⑤

第3世代(桓雲・桓豁・桓秘・桓沖)

桓雲(かんうん)・雲子(うんし)

生年不詳〜昇平(しょうへい)4年(360年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・譙国(しょうこく)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓彝(かんい)。子に桓序(かんじょ)。兄は桓温(かんおん)。弟に桓豁(かんかつ)、桓秘(かんひ)、桓沖(かんちゅう)。

初め驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・何充(かじゅう)の参軍(さんぐん)・尚書郎(しょうしょろう)に任命されたが拝命しなかった。

永和(えいわ)4年(348年)、万年男(まんねんだん)(万年県男(まんねんけんだん))の爵位を継ぎ、建武将軍(けんぶしょうぐん)・義成太守(ぎせいたいしゅ)を歴任した。

母の孔氏(こうし)が亡くなると職を辞(じ)し、葬儀が終わると江州刺史(こうしゅうしし)に任命されたが、病気を理由に辞退して母の墓の近くに廬(いおり)を結んだ。詔書(しょうしょ)によって官に就(つ)くことを迫(せま)られても固辞して受けなかったが、喪(も)が明けると、都督(ととく)司豫(しよ)二州(にしゅう)軍事(ぐんじ)・鎮蛮護軍(ちんばんごぐん)・西陽太守(せいようたいしゅ)・仮節(かせつ)に任命された。

桓雲(かんうん)は民衆を招集して兵を充足させようと、あちこちで法を曲げて徴兵したので、民衆はみな怨嗟(えんさ)の声を上げたが、当時は兄の桓温(かんおん)が権力を握(にぎ)っていたので、役人たちの中に敢(あ)えて桓雲(かんうん)を弾劾(だんがい)する者はいなかった。

昇平(しょうへい)4年(360年)に亡くなり、平南将軍(へいなんしょうぐん)を贈られ貞(てい)と諡(おくりな)された。


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桓豁(かんかつ)・朗子(ろうし)

東晋(とうしん)の大興(たいこう)3年(320年)〜太元(たいげん)2年(377年)没、。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・譙国(しょうこく)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓彝(かんい)。子に桓石虔(かんせきけん)、桓石秀(かんせきしゅう)、桓石民(かんせきみん)、桓石生(かんせきせい)、桓石綏(かんせきすい)、桓石康(かんせきこう)。兄は桓温(かんおん)、桓雲(かんうん)。弟に桓秘(かんひ)、桓沖(かんちゅう)。

荊州

初め司徒府(しとふ)や秘書郎(ひしょろう)に辟召(め)されたが、みな就(つ)かなかった。その後、撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)・司馬昱(しばいく)に召(め)されて従事中郎(じゅうじちゅうろう)となり、吏部郎(りぶろう)に転任したが、病気を理由に辞退し、また黄門郎(こうもんろう)に昇進しても拝命しなかった。

昇平(しょうへい)3年(359年)、西中郎将(せいちゅうろうしょう)の謝万(しゃばん)が前燕(ぜんえん)の梁濮(りょうぼく)に敗れ、許昌(きょしょう)・潁川(えいせん)の諸城が相(あい)次(つ)いで陥落し、当地は混乱した。桓温(かんおん)は弟の桓豁(かんかつ)を都督(ととく)沔中(べんちゅう)七郡(しちぐん)軍事(ぐんじ)・建威将軍(けんいしょうぐん)・新野(しんや)義成(ぎせい)二郡(にぐん)太守(たいしゅ)として前燕(ぜんえん)の慕容屈塵(ぼようくつじん)(慕容塵(ぼようじん))を攻撃させ、桓豁(かんかつ)はこれを破って右将軍(ゆうしょうぐん)に昇進した。

興寧(こうねい)3年(365年)、桓温(かんおん)は桓豁(かんかつ)を荊揚(けいよう)雍州(ようしゅう)軍事(ぐんじ)・護南蛮校尉(ごなんばんこうい)・荊州刺史(けいしゅうしし)・仮節(かせつ)とし、建威将軍(けんいしょうぐん)はこれまで通りとした。この年、梁州刺史(りょうしゅうしし)の司馬勲(しばくん)が梁州(りょうしゅう)・益州(えきしゅう)で叛(そむ)くと、桓豁(かんかつ)は参軍(さんぐん)の桓羆(かんひ)を派遣してこれを討った。

太和(たいわ)元年(366年)、南陽督護(なんようとくご)の趙弘(ちょうこう)と趙憶(ちょうおく)が宛城(えんじょう)で反乱を起こすと、南陽太守(なんようたいしゅ)の桓淡(かんたん)(桓澹(かんたん))は逃亡した。桓豁(かんかつ)は竟陵太守(しょうりょうたいしゅ)・羅崇(らすう)と共にこれを破った。また桓豁(かんかつ)は宛城(えんじょう)の南中郎将(なんちゅうろうしょう)・趙盤(ちょうばん)攻撃して敗走させると、魯陽(ろよう)まで追ってこれを捕らえ、京師(けいし)(建康(けんこう))に送った。

その後、桓豁(かんかつ)は寧益(ねいえき)二州(にしゅう)軍事(ぐんじ)となり、寧康(ねいこう)元年(373年)に桓温(かんおん)が亡くなると、征西将軍(せいせいしょうぐん)に昇進し、都督(ととく)交広並前(こうこうへいぜん)五州(ごしゅう)軍事(ぐんじ)となった。

前秦との戦い

前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)が蜀(しょく)に侵攻すると、桓豁(かんかつ)は江夏相(こうかしょう)の竺瑤(じくよう)を派遣したが、広漢太守(こうかんたいしゅ)の趙長(ちょうちょう)らが戦死すると、竺瑤(じくよう)は軍を退(ひ)いた。

苻堅(ふけん)がまた涼州(りょうしゅう)に侵攻すると、桓豁(かんかつ)の弟の桓沖(かんちゅう)は輔国将軍(ほこくしょうぐん)の朱序(しゅじょ)と、桓豁(かんかつ)の子で江州刺史(こうしゅうしし)の桓石秀(かんせきしゅう)を派遣し、桓豁(かんかつ)は督護(とくご)の桓羆(かんひ)に沔水(べんすい)・漢水(かんすい)から涼州(りょうしゅう)の救援に向かわせた。

ところが、間もなく前涼(ぜんりょう)の張天錫(ちょうてんしゃく)は敗北。朝廷は中書郎(ちゅうしょろう)の王尋(おうじん)を派遣して桓豁(かんかつ)に辺境の対応について意見を求め、桓豁(かんかつ)は梁州刺史(りょうしゅうしし)の毛憲祖(もうけんそ)を監沔北軍事(かんべんほくぐんじ)とし、兗州刺史(えんしゅうしし)の朱序(しゅじょ)を南中郎将(なんちゅうろうしょう)・監沔中軍事(かんべんちゅうぐんじ)として襄陽(じょうよう)に駐屯(鎮)させ、北方の僻地(へきち)(北鄙(ほくひ))を守らせるように上表した。


太元(たいげん)年間(376年〜396年)の初め、桓豁(かんかつ)は征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)に昇進して開府を許された。桓豁(かんかつ)はこれを固辞したが、許されなかった。

前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)が仇池(きゅうち)を滅ぼすと、桓豁(かんかつ)は新野太守(しんやたいしゅ)の吉挹(きつゆう)を魏興太守(ぎこうたいしゅ)代行・督護(とくご)梁州(りょうしゅう)五郡(ごぐん)軍事(ぐんじ)として梁州(りょうしゅう)を守らせた。

また、苻堅(ふけん)が涪城(ふうじょう)を陥落させると、梁州刺史(りょうしゅうしし)の楊亮(ようりょう)と益州刺史(えきしゅうしし)の周仲孫(しゅうちゅうそん)は潰走(かいそう)した。桓豁(かんかつ)は上疏(じょうそ)して敗戦を陳謝し、開府を固く辞退した。

桓豁(かんかつ)は優(すぐ)れた人物であったが、外敵の侵略に対して功績を建てることができなかったので、当時は桓沖(かんちゅう)の方が名声が高かった。

桓豁(かんかつ)には20人の子がいたが、桓豁(かんかつ)は苻堅(ふけん)の国中で「堅(かた)い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行(はや)っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用(もち)いた。中でも石虔(せきけん)、石秀(せきしゅう)、石民(せきみん)、石生(せきせい)、石綏(せきすい)、石康(せきこう)らの名が知られている。


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桓秘(かんひ)・穆子(ぼくし)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・譙国(しょうこく)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓彝(かんい)。子に桓蔚(かんい)。兄は桓温(かんおん)、桓雲(かんうん)、桓豁(かんかつ)。弟に桓沖(かんちゅう)。

幼い頃から才気があったが、世の習(なら)わしや倫理に外れた行いがあった。

初め秘書郎(ひしょろう)を拝命したが、兄の桓温(かんおん)は彼を用(もち)いなかった。しばらくして輔国将軍(ほこくしょうぐん)・宣城內史(せんじょうないし)となった。

梁州刺史(りょうしゅうしし)の司馬勲(しばくん)が反乱を起こして蜀(しょく)(益州(えきしゅう))に入ると、桓秘(かんひ)は監梁益(かんりょうえき)二州(にしゅう)征討(せいとう)軍事(ぐんじ)・仮節(かせつ)となり、司馬勲(しばくん)の反乱が平定されると郡(宣城郡(せんじょうぐん))に還(かえ)った。その後散騎常侍(さんきじょうじ)となり、中領軍(ちゅうりょうぐん)に移った。

孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))が即位した当初、妖賊(ようぞく)の盧竦(ろしょう)(盧悚(ろしょう))が宮中に侵入し、桓秘(かんひ)は左衛将軍(さえいしょうぐん)・殷康(いんこう)と共にこれを擊(う)った。その後桓温(かんおん)が入朝すると、桓温(かんおん)はこのことを理由に尚書(しょうしょ)の陸始(りくし)らを廷尉(ていい)に送り、非常に多くの者の罪を責めた。桓秘(かんひ)は罷免(ひめん)され、宛陵(えんりょう)に居住したが、日に日に不満を募(つの)らせていった。


桓温(かんおん)の病気が重篤(じゅうとく)となると、桓秘(かんひ)は桓温(かんおん)の子・桓熙(かんき)、桓済(かんせい)らと共に弟の桓沖(かんちゅう)の殺害を謀(はか)った。

桓沖(かんちゅう)は秘かにこの陰謀に気づいてはいたが敢(あ)えて介入せず、桓温(かんおん)が亡くなると、まず力士を遣(や)って桓熙(かんき)と桓済(かんせい)を拘束(こうそく)し、その後で葬儀に臨(のぞ)んだ。事ここに至り、桓秘(かんひ)はついに陰謀を諦(あきら)めて桓温(かんおん)の墓(の近く)に居を移し、畑を耕(たがや)し風景を楽しんで過ごすことにした。

その後、桓秘(かんひ)はまた散騎常侍(さんきじょうじ)に任命されたが、3度上表して病気を理由に辞退した。桓秘(かんひ)は以前から弟の桓沖(かんちゅう)を軽んじていたが、桓沖(かんちゅう)の隆盛に比べ常侍(じょうじ)(散騎常侍(さんきじょうじ))の位を卑(いや)しいものと恥じ、朝命に応じなかったのである。

謝安(しゃあん)と共に著(あらわ)した書や詩10首の言葉遣(づか)い(辞理)には見るべきものがあり、その多くは簡文帝(かんぶんてい)(司馬昱(しばいく))の時代に寵遇(ちょうぐう)されたことを題材としていた。

桓秘(かんひ)は桓沖(かんちゅう)よりも先に亡くなった。


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桓沖(かんちゅう)・幼子(ようし)

生没年不詳。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・譙国(しょうこく)・龍亢県(りゅうこうけん)の人。父は桓彝(かんい)。子に桓嗣(かんし)、桓謙(かんけん)、桓修(かんしゅう)、桓崇(かんすう)、桓弘(かんこう)、桓羨(かんせん)、桓怡(かんい)。兄は桓温(かんおん)、桓雲(かんうん)、桓豁(かんかつ)、桓秘(かんひ)。

桓温に重用される

桓温(かんおん)の弟たちの中で最も博学で軍事(武幹)に優(すぐ)れ、桓温(かんおん)は桓沖(かんちゅう)をとても高く評価していた。

若くして太宰(たいさい)の武陵王(ぶりょうおう)・司馬晞(しばき)に辟召(まね)かれたが就(つ)かず、鷹揚将軍(ようようしょうぐん)・鎮蛮護軍(ちんばんごぐん)・西陽太守(せいようたいしゅ)となった。

桓温(かんおん)の征伐に従軍して功績を立て、督(とく)荊州(けいしゅう)之(の)南陽(なんよう)襄陽(じょうよう)新野(しんや)義陽(ぎよう)順陽(じゅんよう)雍州(ようしゅう)之(の)京兆(けいちょう)揚州(ようしゅう)之(の)義成(ぎせい)七郡(しちぐん)軍事(ぐんじ)・甯朔将軍(ねいさくしょうぐん)・義成(ぎせい)新野(しんや)二郡(にぐん)太守(たいしゅ)に昇進し、襄陽(じょうよう)に駐屯(鎮)した。

また桓温(かんおん)に従って姚襄(ようじょう)を破り、周成(しゅうせい)を捕らえ、征虜将軍(せいりょしょうぐん)に号を進めて豊城公(ほうじょうこう)の爵位を賜(たまわ)り、その後また振威将軍(しんいしょうぐん)・江州刺史(こうしゅうしし)・鎮蛮護軍(ちんばんごぐん)・西陽(せいよう)譙(しょう)二郡(にぐん)太守(たいしゅ)に昇進した。

桓温(かんおん)は姚襄(ようじょう)を破り、姚襄(ようじょう)の将・張駿(ちょうしゅん)、楊凝(ようぎょう)を捕らえると、尋陽(じんよう)に移った。この時桓沖(かんちゅう)は江陵(こうりょう)にいたが、着任する前に張駿(ちょうしゅん)が500人の部下を率(ひき)いて江州督護(こうしゅうとくご)・趙毗(ちょうひ)を殺害し、武昌(ぶしょう)の府庫を略奪して反乱を起こした。桓沖(かんちゅう)は将を派遣し、討伐させてこれを捕らえると、速やかに帰還した。

幼時の恩返し

父の桓彝(かんい)が亡くなった時、桓沖(かんちゅう)の兄弟はみな幼く、家は貧しかった。母が病気を患(わずら)ったため、(精をつけるために)羊(ひつじ)が必要となり、桓温(かんおん)は桓沖(かんちゅう)を質に出そうとしたが、羊(ひつじ)の持ち主は「質などいらない。買徳(ばいとく)を養(やしな)えることは私の幸せです」と言った。「買徳(ばいとく)」は桓沖(かんちゅう)の小字(しょうじ)(幼名)である。

桓沖(かんちゅう)が江州(こうしゅう)に赴任した時、桓沖(かんちゅう)は堂で羊(ひつじ)の持ち主を見かけて「私は買徳(ばいとく)である」と名乗り、かつての恩に厚(あつ)く報(むく)いた。

しばらくして桓沖(かんちゅう)は監(かん)江(こう)荊(けい)豫(よ)三州(さんしゅう)之(の)六郡(ろくぐん)軍事(ぐんじ)・南中郎将(なんちゅうろうしょう)・仮節(かせつ)となり、州郡はこれまで通りとされた。

桓温の死

桓沖(かんちゅう)が江州(こうしゅう)に赴任すること13年で桓温(かんおん)が亡くなった。孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))は詔(みことのり)により桓沖(かんちゅう)を中軍将軍(ちゅうぐんしょうぐん)・都督(ととく)揚(よう)江(こう)豫(よ)三州(さんしゅう)軍事(ぐんじ)・揚(よう)豫(よ)二州(にしゅう)刺史(しし)・仮節(かせつ)とした。

また孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))は、詔(みことのり)により桓温(かんおん)の賻(ふ)(死者を弔(とむら)って遺族に贈る金品)として銭・布・漆(うるし)・蠟(ろう)などを下賜(かし)したが、大殮(たいれん)には及ばなかった。

桓沖(かんちゅう)は上疏(じょうそ)して「桓温(かんおん)は質素倹約に努(つと)めてきたが、その私物は凶事を起こすのに充分なため、官庫に返還したい」と求めた。孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))はそれを許さなかったが、桓沖(かんちゅう)は頑(かたく)なに拒(こば)み続けた。

生前、桓温(かんおん)は権力を握(にぎ)ると、大辟(たいへき)の罪(死に相当する罪)はみな自分で判決を下した。桓沖(かんちゅう)は上疏(じょうそ)して「生殺の事は重要です。古今(ここん)の慎(つつ)しみに倣(なら)い、死罪にする場合はすべて、先にご報告くださいますように」と言った。

桓沖(かんちゅう)は桓温(かんおん)に代わって任につき、王室に忠節を尽くした。この時、桓沖(かんちゅう)に反対派を粛清し、権力の座につくように勧める者がいたが、桓沖(かんちゅう)は従わなかった。*1

脚注

*1原文:或勸沖誅除時望,專執權衡,沖不從。

謝安

民衆は謝安(しゃあん)が国政を輔(たす)けることを望んだので、桓沖(かんちゅう)は懼(おそ)れ悩み苦しんだ。

寧康(ねいこう)3年(375年)、桓沖(かんちゅう)は自(みずか)ら揚州刺史(ようしゅうしし)を辞任して地方に出ることを求めたが、桓氏(かんし)の一党はこれに憤(いきどお)り、諫言(かんげん)しない者はなく、郗超(ちちょう)もまた強く制止した。桓沖(かんちゅう)はそのどれをも受け入れなかったが、それらを恨(うら)みとは思わず、心を尽くした忠言であるとした。

その結果、桓沖(かんちゅう)は都督(ととく)徐(じょ)兗(えん)豫(よ)青(せい)揚(よう)五州(ごしゅう)之(の)六郡(ろくぐん)軍事(ぐんじ)・車騎将軍(しゃきしょうぐん)・徐州刺史(じょしゅうしし)に改授され、北中郎府(ほくちゅうろうふ)並(へい)中軍(ちゅうぐん)・鎮京口(ちんけいこう)・仮節(かせつ)となった。

また、詔(みことのり)により桓沖(かんちゅう)と謝安(しゃあん)は共に侍中(じちゅう)を加えられ、甲杖(こうちょう)50人を連れて入殿することを許された。

丹陽尹(たんよういん)・王蘊(おううん)の後父は謝安(しゃあん)と親しかったので、謝安(しゃあん)は王蘊(おううん)を地方に出して方伯(ほうはく)の職を与えようとし、桓沖(かんちゅう)の徐州刺史(じょしゅうしし)の任を解(と)いた。桓沖(かんちゅう)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・都督(ととく)豫(よ)江(こう)二州(にしゅう)之(の)六郡(ろくぐん)軍事(ぐんじ)となり、自(みずか)ら京口(けいこう)から姑熟(こしゅく)に鎮所(ちんしょ)を遷(うつ)した。

前秦の侵略

前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)が涼州(りょうしゅう)に侵略すると、桓沖(かんちゅう)は宣城内史(せんじょうないし)・朱序(しゅじょ)と豫州刺史(よしゅうしし)・桓伊(かんい)を寿陽(じゅよう)に派遣し、淮南太守(わいなんたいしゅ)・劉波(りゅうは)は淮水(わいすい)・泗水(しすい)に舟を泛(う)かべて涼州(りょうしゅう)を救援したが、前涼(ぜんりょう)の張天錫(ちょうてんしゃく)が敗北すると兵を退(ひ)いた。

間もなく桓豁(かんかつ)が亡くなると、桓沖(かんちゅう)は都督(ととく)江(こう)荊(けい)梁(りょう)益(えき)寧(ねい)交(こう)広(こう)七州(しちしゅう)揚州(ようしゅう)之(の)義成(ぎせい)雍州(ようしゅう)之(の)京兆(けいちょう)司州(ししゅう)之(の)河東(かとう)軍事(ぐんじ)・護南蛮校尉(ごなんばんこうい)・荊州刺史(けいしゅうしし)・持節(じせつ)となり、将軍(しょうぐん)・侍中(じちゅう)はこれまで通りとされた。また子の桓嗣(かんし)は江州刺史(こうしゅうしし)となった。

桓沖(かんちゅう)が任地に赴(おもむ)くにあたり、孝武帝(こうぶてい)(司馬曜(しばよう))は餞別(せんべつ)として銭50万を下賜(かし)し、また文武を労(ねぎら)って酒340石(こく)と牛50頭を犒賜(こうし)し、謝安(しゃあん)は溧洲(りつしゅう)まで見送った。

桓沖(かんちゅう)が江陵(こうりょう)に着任した当時、苻堅(ふけん)が強盛だったので、桓沖(かんちゅう)は上疏(じょうそ)して鎮所(ちんしょ)を江南(こうなん)に移すことを請(こ)い、鎮所(ちんしょ)を上明(じょうめい)に移すと、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・劉波(りゅうは)に江陵(こうりょう)を守らせ、諮議參軍(しぎさんぐん)・楊亮(ようりょう)に江夏(こうか)を守らせた。

当時荊州(けいしゅう)に洪水(こうずい)や旱魃(かんばつ)、飢饉(ききん)により荒廃(こうはい)しており、また桓沖(かんちゅう)が新しく鎮所(ちんしょ)を移したことから、「収穫が回復するまで毎年30万斛(こく)の軍資を供出するように」との詔(みことのり)が下された。

3郡を平定する

前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)がその将・苻融(ふゆう)に樊城(はんじょう)・鄧城(とうじょう)を、石越(せきえつ)に魯陽(ろよう)を、姚萇(ようちょう)に南郷(なんきょう)を、韋鐘(いしょう)に魏興(ぎこう)を攻撃させて陥落(かんらく)させた。桓沖(かんちゅう)は江夏相(こうかしょう)・劉奭(りゅうせき)と南中郎将(なんちゅうろうしょう)・朱序(しゅじょ)にこれを撃たせたが、劉奭(りゅうせき)は畏(おそ)れ怯(ひる)んで進まず、朱序(しゅじょ)は賊(ぞく)の捕虜となった。

桓沖(かんちゅう)は自(みずか)らの責任を深く咎(とが)め、上疏(じょうそ)して章(しょう)と節(せつ)を送って自分を解任するように請(こ)うたが許されず、左衛将軍(さえいしょうぐん)・張玄之(ちょうげんし)が桓沖(かんちゅう)の元に派遣され、共に軍事について諮謀(はか)ることとなった。


桓沖(かんちゅう)は前将軍(ぜんしょうぐん)・劉波(りゅうは)と兄・桓豁(かんかつ)の子で振威将軍(しんいしょうぐん)の桓石民(かんせきみん)、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)・桓石虔(かんせきけん)らに苻堅(ふけん)を討伐させて築陽(ちくよう)を陥落させた。また、武当(ぶとう)を攻めて苻堅(ふけん)が任命した兗州刺史(えんしゅうしし)・張崇(ちょうすう)を敗走させた。

その後、苻堅(ふけん)が慕容垂(ぼようすい)と毛当(もうとう)に鄧城(とうじょう)を攻撃させ、苻熙(ふき)に新野(しんや)を攻撃させた。桓沖(かんちゅう)は苻堅(ふけん)の軍を憚(おそ)れ、疫病(えきびょう)を理由に上明(じょうめい)に還(かえ)ると、

「夏口(かこう)・長江(ちょうこう)・沔水(べんすい)は要衝(ようしょう)でありながら強寇(きょうこう)と接しています。兄・桓豁(かんかつ)の子、桓石民(かんせきみん)を督(とく)荊(けい)江(こう)十郡(じゅうぐん)軍事(ぐんじ)・振武将軍(しんぶしょうぐん)・襄城太守(じょうじょうたいしゅ)として、北に強蛮(きょうばん)と接する尋陽(じんよう)から西に連なる荊(けい)・郢(えい)の地域を一任し、王薈(おうわい)を江州刺史(こうしゅうしし)となされますように」

と上表し、朝廷はこの意見に従った。

ところが、王薈(おうわい)は当時、兄・王劭(おうしょう)を亡くしたところであり、葬儀のためこれを辞退したので、衛将軍(えいしょうぐん)・謝安(しゃあん)が中領軍(ちゅうりょうぐん)・謝輶(しゃゆう)をその代わりとした。これを聞いて怒った桓沖(かんちゅう)は、謝輶(しゃゆう)では文武の両方において任務に堪(た)でえられないからと、自(みずか)ら江州刺史(こうしゅうしし)となることを願い出て許された。

桓沖(かんちゅう)は桓石虔(かんせきけん)に苻堅(ふけん)が任命した襄陽太守(じょうようたいしゅ)・閻震(えんしん)を攻撃させ、閻震(えんしん)と大小の帥(すい)29人を捕虜にして京都(けいと)(健康(けんこう))に送った。詔(みことのり)により桓沖(かんちゅう)は府(上明(じょうめい)?)に帰り、閻震(えんしん)を平定した功績により桓沖(かんちゅう)の次子・桓謙(かんけん)が宜陽侯(ぎようこう)に封ぜられた。

その後、苻堅(ふけん)がその将・郝貴(かくき)に襄陽(じょうよう)を守らせると、桓沖(かんちゅう)は揚威将軍(よういしょうぐん)の朱綽(しゅしゃく)にこれを攻撃させて沔北(べんほく)の田稲を焼き、6百余戸を奪還した。また上庸太守(じょうようたいしゅ)・郭宝(かくほう)に、苻堅(ふけん)が任命した魏興太守(ぎこうたいしゅ)・褚垣(ちょえん)と上庸太守(じょうようたいしゅ)・段方(だんほう)を攻撃させて共に降伏させ、新城太守(しんじょうたいしゅ)・麹常(きくじょう)を遁走(とんそう)させた。これにより3郡はみな平定され、詔(みことのり)により銭百万と袍(ほう)(上衣)の生地千端(たん)を賜(たまわ)った。

桓沖の死

以前、桓沖(かんちゅう)が西(江陵(こうりょう))に着任した当時、賊(ぞく)(前秦(ぜんしん))の侵略が激しく、上明(じょうめい)に鎮所(ちんしょ)を移したが、これは力の弱い江東(こうとう)(東晋(とうしん))が国境を保持するための手段だった。

桓沖(かんちゅう)には謝安(しゃあん)のような徳望(とくぼう)がなかったため、四方を守り防ぐことを自(みずか)らの任務とした。また桓沖(かんちゅう)は朱序(しゅじょ)と親密で、朱序(しゅじょ)が賊(ぞく)に捕らわれると、朱序(しゅじょ)を用(もち)らいたことを深く愧(は)じ、悲しみ惜しんだ。


前秦(ぜんしん)の苻堅(ふけん)が国内に侵略してくると、桓沖(かんちゅう)は精鋭3,000人を京都(けいと)(健康(けんこう))に派遣したが、謝安(しゃあん)は「3,000人では何の足しにもならない」とこれを固く断って「朝廷の処分(守備計画)はすでに定まっているので闕(けつ)(宮殿)に兵は必要ない。西籓(せいはん)(桓沖(かんちゅう))は外で敵を防ぐべし」と言った。

この時、謝安(しゃあん)は兄の子・謝玄(しゃげん)、桓伊(かんい)らの諸軍を諸軍を派遣していたが、桓沖(かんちゅう)は佐吏(さり)(下級の属官)を召(め)して嘆(なげ)いて言った。

「謝安(しゃあん)には『廟堂(びょうどう)之(の)量(りょう)*2』があるが、将略はないようだ。今、大敵が迫(せま)っているというのに方(ほう)々(ぼう)で遊談ばかりしている。実戦経験のない若者を遣(や)ったところで役に立たないことは、天下の知るところだ。ついに私も左衽(さじん)*3することになるのかっ!」


ところが間もなく苻堅(ふけん)が敗れて謝安(しゃあん)が大勲(たいくん)を挙(あ)げ、またそれにより朱序(しゅじょ)が帰還することができたことを聞くと、桓沖(かんちゅう)は持病に慚恥(ざんち)の念が加わって発病し、亡くなった。享年(きょうねん)57歳。死後、太尉(たいい)が贈(おく)られて本官はこれまで通りとし、宣穆(せんぼく)と諡(おくりな)され、賻(ふ)(死者を弔(とむら)って遺族に贈る金品)として銭50万・布5百匹が下賜(かし)された。

脚注

*2政治を司(つかさど)ることができる立派な器量の人物のこと。

*3「左衽(さじん)する」とは、衣服を左前に着て夷狄(いてき)の風俗に倣(なら)うこと。ここでは異民族に支配されること。

逸話

桓沖(かんちゅう)の性格は倹素で、謙虛に士を愛した。その倹約の度合いは、入浴後に妻が新品の衣(ころも)を渡すと激怒した程だった。

南陽(なんよう)の処士(在野)・劉鄰(りゅうりん)を長史(ちょうし)に任命したが、劉鄰(りゅうりん)が応じなかったので、桓沖(かんちゅう)は親しく訪(たず)ねて手厚い礼を尽くして彼を迎えた。また、長沙(ちょうさ)の処士(在野)・鄧粲(とうさん)を礼を尽くして別駕(べつが)に辟召(まね)き、それに感激した鄧粲(とうさん)は桓沖(かんちゅう)の辟召(まね)きに応じた。

郗鑑(ちかん)(郗鑒(ちかん))・庾亮(ゆりょう)・庾翼(ゆよく)・

初,郗鑒、庾亮、庾翼臨終皆有表,樹置親戚,唯沖獨與謝安書云:「妙靈、靈寶尚小,亡兄寄託不終,以此為恨!」言不及私,論者益嘉之。

江陵(なんよう)において葬儀が行われると、老若男女を問(と)わずみな長江(ちょうこう)に臨(のぞ)み、哀しみを尽くして慟哭(どうこく)し、桓沖(かんちゅう)を見送った。後に桓玄(かんげん)が帝位を簒奪(さんだつ)すると、太傅(たいふ)・宣城王(せんじょうおう)を追贈(ついぞう)された。


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