正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(68)譙国しょうこく桓氏かんし⑤(桓雲かんうん桓豁かんかつ桓秘かんひ桓沖かんちゅう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

譙国桓氏系図

譙国桓氏系図

譙国しょうこく桓氏かんし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。

桓豁かんかつの子の兄弟の順について

晋書しんじょ桓豁かんかつでんには、

桓豁かんかつには20人の子がいたが、桓豁かんかつ苻堅ふけんの国中で「かたい石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行はやっていると聞き、そのすべての名に「石」の字をもちいた。中でも石虔せきけん石秀せきしゅう石民せきみん石生せきせい石綏せきすい石康せきこうらの名が知られている」

とあり、また晋書しんじょ桓玄伝かんげんでんには、

桓石康かんせきこう桓豁かんかつの次子、桓権かんけん桓石康かんせきこうの兄」

とあります。晋書しんじょ桓豁伝かんかつでん桓権かんけんの名前はありませんが、桓権かんけんが長子で、次子の桓石康かんせきこう以降、名前に「石」の字をもちいるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。

譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしについて

晋書しんじょ桓彝伝かんいでんには「後漢ごかん五更ごこう*1桓栄かんえいの9世の孫にあたる」とあり、譙国しょうこく桓氏かんし沛郡はいぐん桓氏かんしは同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。

维基百科(中国語)では、桓彝かんい桓郁かんいくの弟の子孫としています。

脚注

*1老人で五行の徳が入れわることを知る者のこと。続漢志ぞくかんしに「三老さんろう五更ごこうやしなう礼儀は、吉日に先んじて司徒しと太傅たいふ、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公さんこうの中から『徳行がある高齢者』をもちいて、三公さんこうから1名を三老さんろうとし、九卿きゅうけいから1名を五更ごこうとする」とあり、漢官儀かんかんぎには「三老さんろう五更ごこうはみな初婚の妻と息子と娘がすべてそなわっている者から選ぶ」とある。


この記事では譙国しょうこく桓氏かんしの人物⑤、

についてまとめています。

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か(68)譙国桓氏⑤

第3世代(桓雲・桓豁・桓秘・桓沖)

桓雲かんうん雲子うんし

生年不詳〜昇平しょうへい4年(360年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓彝かんい。子に桓序かんじょ。兄は桓温かんおん。弟に桓豁かんかつ桓秘かんひ桓沖かんちゅう

初め驃騎将軍ひょうきしょうぐん何充かじゅう参軍さんぐん尚書郎しょうしょろうに任命されたが拝命しなかった。

永和えいわ4年(348年)、万年男まんねんだん万年県男まんねんけんだん)の爵位を継ぎ、建武将軍けんぶしょうぐん義成太守ぎせいたいしゅを歴任した。

母の孔氏こうしが亡くなると職をし、葬儀が終わると江州刺史こうしゅうししに任命されたが、病気を理由に辞退して母の墓の近くにいおりを結んだ。詔書しょうしょによって官にくことをせまられても固辞して受けなかったが、が明けると、都督ととく司豫しよ二州にしゅう軍事ぐんじ鎮蛮護軍ちんばんごぐん西陽太守せいようたいしゅ仮節かせつに任命された。

桓雲かんうんは民衆を招集して兵を充足させようと、あちこちで法を曲げて徴兵したので、民衆はみな怨嗟えんさの声を上げたが、当時は兄の桓温かんおんが権力をにぎっていたので、役人たちの中にえて桓雲かんうん弾劾だんがいする者はいなかった。

昇平しょうへい4年(360年)に亡くなり、平南将軍へいなんしょうぐんを贈られていおくりなされた。


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桓豁かんかつ朗子ろうし

東晋とうしん大興たいこう3年(320年)〜太元たいげん2年(377年)没、。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓彝かんい。子に桓石虔かんせきけん桓石秀かんせきしゅう桓石民かんせきみん桓石生かんせきせい桓石綏かんせきすい桓石康かんせきこう。兄は桓温かんおん桓雲かんうん。弟に桓秘かんひ桓沖かんちゅう

荊州

初め司徒府しとふ秘書郎ひしょろう辟召されたが、みなかなかった。その後、撫軍将軍ぶぐんしょうぐん司馬昱しばいくされて従事中郎じゅうじちゅうろうとなり、吏部郎りぶろうに転任したが、病気を理由に辞退し、また黄門郎こうもんろうに昇進しても拝命しなかった。

昇平しょうへい3年(359年)、西中郎将せいちゅうろうしょう謝万しゃばん前燕ぜんえん梁濮りょうぼくに敗れ、許昌きょしょう潁川えいせんの諸城があいいで陥落し、当地は混乱した。桓温かんおんは弟の桓豁かんかつ都督ととく沔中べんちゅう七郡しちぐん軍事ぐんじ建威将軍けんいしょうぐん新野しんや義成ぎせい二郡にぐん太守たいしゅとして前燕ぜんえん慕容屈塵ぼようくつじん慕容塵ぼようじん)を攻撃させ、桓豁かんかつはこれを破って右将軍ゆうしょうぐんに昇進した。

興寧こうねい3年(365年)、桓温かんおん桓豁かんかつ荊揚けいよう雍州ようしゅう軍事ぐんじ護南蛮校尉ごなんばんこうい荊州刺史けいしゅうしし仮節かせつとし、建威将軍けんいしょうぐんはこれまで通りとした。この年、梁州刺史りょうしゅうしし司馬勲しばくん梁州りょうしゅう益州えきしゅうそむくと、桓豁かんかつ参軍さんぐん桓羆かんひを派遣してこれを討った。

太和たいわ元年(366年)、南陽督護なんようとくご趙弘ちょうこう趙憶ちょうおく宛城えんじょうで反乱を起こすと、南陽太守なんようたいしゅ桓淡かんたん桓澹かんたん)は逃亡した。桓豁かんかつ竟陵太守しょうりょうたいしゅ羅崇らすうと共にこれを破った。また桓豁かんかつ宛城えんじょう南中郎将なんちゅうろうしょう趙盤ちょうばん攻撃して敗走させると、魯陽ろようまで追ってこれを捕らえ、京師けいし建康けんこう)に送った。

その後、桓豁かんかつ寧益ねいえき二州にしゅう軍事ぐんじとなり、寧康ねいこう元年(373年)に桓温かんおんが亡くなると、征西将軍せいせいしょうぐんに昇進し、都督ととく交広並前こうこうへいぜん五州ごしゅう軍事ぐんじとなった。

前秦との戦い

前秦ぜんしん苻堅ふけんしょくに侵攻すると、桓豁かんかつ江夏相こうかしょう竺瑤じくようを派遣したが、広漢太守こうかんたいしゅ趙長ちょうちょうらが戦死すると、竺瑤じくようは軍を退いた。

苻堅ふけんがまた涼州りょうしゅうに侵攻すると、桓豁かんかつの弟の桓沖かんちゅう輔国将軍ほこくしょうぐん朱序しゅじょと、桓豁かんかつの子で江州刺史こうしゅうしし桓石秀かんせきしゅうを派遣し、桓豁かんかつ督護とくご桓羆かんひ沔水べんすい漢水かんすいから涼州りょうしゅうの救援に向かわせた。

ところが、間もなく前涼ぜんりょう張天錫ちょうてんしゃくは敗北。朝廷は中書郎ちゅうしょろう王尋おうじんを派遣して桓豁かんかつに辺境の対応について意見を求め、桓豁かんかつ梁州刺史りょうしゅうしし毛憲祖もうけんそ監沔北軍事かんべんほくぐんじとし、兗州刺史えんしゅうしし朱序しゅじょ南中郎将なんちゅうろうしょう監沔中軍事かんべんちゅうぐんじとして襄陽じょうように駐屯(鎮)させ、北方の僻地へきち北鄙ほくひ)を守らせるように上表した。


太元たいげん年間(376年〜396年)の初め、桓豁かんかつ征西大将軍せいせいだいしょうぐんに昇進して開府を許された。桓豁かんかつはこれを固辞したが、許されなかった。

前秦ぜんしん苻堅ふけん仇池きゅうちを滅ぼすと、桓豁かんかつ新野太守しんやたいしゅ吉挹きつゆう魏興太守ぎこうたいしゅ代行・督護とくご梁州りょうしゅう五郡ごぐん軍事ぐんじとして梁州りょうしゅうを守らせた。

また、苻堅ふけん涪城ふうじょうを陥落させると、梁州刺史りょうしゅうしし楊亮ようりょう益州刺史えきしゅうしし周仲孫しゅうちゅうそん潰走かいそうした。桓豁かんかつ上疏じょうそして敗戦を陳謝し、開府を固く辞退した。

桓豁かんかつすぐれた人物であったが、外敵の侵略に対して功績を建てることができなかったので、当時は桓沖かんちゅうの方が名声が高かった。

桓豁かんかつには20人の子がいたが、桓豁かんかつ苻堅ふけんの国中で「かたい石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行はやっていると聞き、そのすべての名に「石」の字をもちいた。中でも石虔せきけん石秀せきしゅう石民せきみん石生せきせい石綏せきすい石康せきこうらの名が知られている。


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桓秘かんひ穆子ぼくし

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓彝かんい。子に桓蔚かんい。兄は桓温かんおん桓雲かんうん桓豁かんかつ。弟に桓沖かんちゅう

幼い頃から才気があったが、世のならわしや倫理に外れた行いがあった。

初め秘書郎ひしょろうを拝命したが、兄の桓温かんおんは彼をもちいなかった。しばらくして輔国将軍ほこくしょうぐん宣城內史せんじょうないしとなった。

梁州刺史りょうしゅうしし司馬勲しばくんが反乱を起こしてしょく益州えきしゅう)に入ると、桓秘かんひ監梁益かんりょうえき二州にしゅう征討せいとう軍事ぐんじ仮節かせつとなり、司馬勲しばくんの反乱が平定されると郡(宣城郡せんじょうぐん)にかえった。その後散騎常侍さんきじょうじとなり、中領軍ちゅうりょうぐんに移った。

孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)が即位した当初、妖賊ようぞく盧竦ろしょう盧悚ろしょう)が宮中に侵入し、桓秘かんひ左衛将軍さえいしょうぐん殷康いんこうと共にこれをった。その後桓温かんおんが入朝すると、桓温かんおんはこのことを理由に尚書しょうしょ陸始りくしらを廷尉ていいに送り、非常に多くの者の罪を責めた。桓秘かんひ罷免ひめんされ、宛陵えんりょうに居住したが、日に日に不満をつのらせていった。


桓温かんおんの病気が重篤じゅうとくとなると、桓秘かんひ桓温かんおんの子・桓熙かんき桓済かんせいらと共に弟の桓沖かんちゅうの殺害をはかった。

桓沖かんちゅうは秘かにこの陰謀に気づいてはいたがえて介入せず、桓温かんおんが亡くなると、まず力士をって桓熙かんき桓済かんせい拘束こうそくし、その後で葬儀にのぞんだ。事ここに至り、桓秘かんひはついに陰謀をあきらめて桓温かんおんの墓(の近く)に居を移し、畑をたがやし風景を楽しんで過ごすことにした。

その後、桓秘かんひはまた散騎常侍さんきじょうじに任命されたが、3度上表して病気を理由に辞退した。桓秘かんひは以前から弟の桓沖かんちゅうを軽んじていたが、桓沖かんちゅうの隆盛に比べ常侍じょうじ散騎常侍さんきじょうじ)の位をいやしいものと恥じ、朝命に応じなかったのである。

謝安しゃあんと共にあらわした書や詩10首の言葉づかい(辞理)には見るべきものがあり、その多くは簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいく)の時代に寵遇ちょうぐうされたことを題材としていた。

桓秘かんひ桓沖かんちゅうよりも先に亡くなった。


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桓沖かんちゅう幼子ようし

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・譙国しょうこく龍亢県りゅうこうけんの人。父は桓彝かんい。子に桓嗣かんし桓謙かんけん桓修かんしゅう桓崇かんすう桓弘かんこう桓羨かんせん桓怡かんい。兄は桓温かんおん桓雲かんうん桓豁かんかつ桓秘かんひ

桓温に重用される

桓温かんおんの弟たちの中で最も博学で軍事(武幹)にすぐれ、桓温かんおん桓沖かんちゅうをとても高く評価していた。

若くして太宰たいさい武陵王ぶりょうおう司馬晞しばき辟召まねかれたがかず、鷹揚将軍ようようしょうぐん鎮蛮護軍ちんばんごぐん西陽太守せいようたいしゅとなった。

桓温かんおんの征伐に従軍して功績を立て、とく荊州けいしゅう南陽なんよう襄陽じょうよう新野しんや義陽ぎよう順陽じゅんよう雍州ようしゅう京兆けいちょう揚州ようしゅう義成ぎせい七郡しちぐん軍事ぐんじ甯朔将軍ねいさくしょうぐん義成ぎせい新野しんや二郡にぐん太守たいしゅに昇進し、襄陽じょうように駐屯(鎮)した。

また桓温かんおんに従って姚襄ようじょうを破り、周成しゅうせいを捕らえ、征虜将軍せいりょしょうぐんに号を進めて豊城公ほうじょうこうの爵位をたまわり、その後また振威将軍しんいしょうぐん江州刺史こうしゅうしし鎮蛮護軍ちんばんごぐん西陽せいようしょう二郡にぐん太守たいしゅに昇進した。

桓温かんおん姚襄ようじょうを破り、姚襄ようじょうの将・張駿ちょうしゅん楊凝ようぎょうを捕らえると、尋陽じんように移った。この時桓沖かんちゅう江陵こうりょうにいたが、着任する前に張駿ちょうしゅんが500人の部下をひきいて江州督護こうしゅうとくご趙毗ちょうひを殺害し、武昌ぶしょうの府庫を略奪して反乱を起こした。桓沖かんちゅうは将を派遣し、討伐させてこれを捕らえると、速やかに帰還した。

幼時の恩返し

父の桓彝かんいが亡くなった時、桓沖かんちゅうの兄弟はみな幼く、家は貧しかった。母が病気をわずらったため、(精をつけるために)ひつじが必要となり、桓温かんおん桓沖かんちゅうを質に出そうとしたが、ひつじの持ち主は「質などいらない。買徳ばいとくやしなえることは私の幸せです」と言った。「買徳ばいとく」は桓沖かんちゅう小字しょうじ(幼名)である。

桓沖かんちゅう江州こうしゅうに赴任した時、桓沖かんちゅうは堂でひつじの持ち主を見かけて「私は買徳ばいとくである」と名乗り、かつての恩にあつむくいた。

しばらくして桓沖かんちゅうかんこうけい三州さんしゅう六郡ろくぐん軍事ぐんじ南中郎将なんちゅうろうしょう仮節かせつとなり、州郡はこれまで通りとされた。

桓温の死

桓沖かんちゅう江州こうしゅうに赴任すること13年で桓温かんおんが亡くなった。孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)はみことのりにより桓沖かんちゅう中軍将軍ちゅうぐんしょうぐん都督ととくようこう三州さんしゅう軍事ぐんじよう二州にしゅう刺史しし仮節かせつとした。

また孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)は、みことのりにより桓温かんおん(死者をとむらって遺族に贈る金品)として銭・布・うるしろうなどを下賜かししたが、大殮たいれんには及ばなかった。

桓沖かんちゅう上疏じょうそして「桓温かんおんは質素倹約につとめてきたが、その私物は凶事を起こすのに充分なため、官庫に返還したい」と求めた。孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)はそれを許さなかったが、桓沖かんちゅうかたくなにこばみ続けた。

生前、桓温かんおんは権力をにぎると、大辟たいへきの罪(死に相当する罪)はみな自分で判決を下した。桓沖かんちゅう上疏じょうそして「生殺の事は重要です。古今ここんつつしみにならい、死罪にする場合はすべて、先にご報告くださいますように」と言った。

桓沖かんちゅう桓温かんおんに代わって任につき、王室に忠節を尽くした。この時、桓沖かんちゅうに反対派を粛清し、権力の座につくように勧める者がいたが、桓沖かんちゅうは従わなかった。*1

脚注

*1原文:或勸沖誅除時望,專執權衡,沖不從。

謝安

民衆は謝安しゃあんが国政をたすけることを望んだので、桓沖かんちゅうおそれ悩み苦しんだ。

寧康ねいこう3年(375年)、桓沖かんちゅうみずか揚州刺史ようしゅうししを辞任して地方に出ることを求めたが、桓氏かんしの一党はこれにいきどおり、諫言かんげんしない者はなく、郗超ちちょうもまた強く制止した。桓沖かんちゅうはそのどれをも受け入れなかったが、それらをうらみとは思わず、心を尽くした忠言であるとした。

その結果、桓沖かんちゅう都督ととくじょえんせいよう五州ごしゅう六郡ろくぐん軍事ぐんじ車騎将軍しゃきしょうぐん徐州刺史じょしゅうししに改授され、北中郎府ほくちゅうろうふへい中軍ちゅうぐん鎮京口ちんけいこう仮節かせつとなった。

また、みことのりにより桓沖かんちゅう謝安しゃあんは共に侍中じちゅうを加えられ、甲杖こうちょう50人を連れて入殿することを許された。

丹陽尹たんよういん王蘊おううんの後父は謝安しゃあんと親しかったので、謝安しゃあん王蘊おううんを地方に出して方伯ほうはくの職を与えようとし、桓沖かんちゅう徐州刺史じょしゅうししの任をいた。桓沖かんちゅう車騎将軍しゃきしょうぐん都督ととくこう二州にしゅう六郡ろくぐん軍事ぐんじとなり、みずか京口けいこうから姑熟こしゅく鎮所ちんしょうつした。

前秦の侵略

前秦ぜんしん苻堅ふけん涼州りょうしゅうに侵略すると、桓沖かんちゅう宣城内史せんじょうないし朱序しゅじょ豫州刺史よしゅうしし桓伊かんい寿陽じゅように派遣し、淮南太守わいなんたいしゅ劉波りゅうは淮水わいすい泗水しすいに舟をかべて涼州りょうしゅうを救援したが、前涼ぜんりょう張天錫ちょうてんしゃくが敗北すると兵を退いた。

間もなく桓豁かんかつが亡くなると、桓沖かんちゅう都督ととくこうけいりょうえきねいこうこう七州しちしゅう揚州ようしゅう義成ぎせい雍州ようしゅう京兆けいちょう司州ししゅう河東かとう軍事ぐんじ護南蛮校尉ごなんばんこうい荊州刺史けいしゅうしし持節じせつとなり、将軍しょうぐん侍中じちゅうはこれまで通りとされた。また子の桓嗣かんし江州刺史こうしゅうししとなった。

桓沖かんちゅうが任地におもむくにあたり、孝武帝こうぶてい司馬曜しばよう)は餞別せんべつとして銭50万を下賜かしし、また文武をねぎらって酒340こくと牛50頭を犒賜こうしし、謝安しゃあん溧洲りつしゅうまで見送った。

桓沖かんちゅう江陵こうりょうに着任した当時、苻堅ふけんが強盛だったので、桓沖かんちゅう上疏じょうそして鎮所ちんしょ江南こうなんに移すことをい、鎮所ちんしょ上明じょうめいに移すと、冠軍将軍かんぐんしょうぐん劉波りゅうは江陵こうりょうを守らせ、諮議參軍しぎさんぐん楊亮ようりょう江夏こうかを守らせた。

当時荊州けいしゅう洪水こうずい旱魃かんばつ飢饉ききんにより荒廃こうはいしており、また桓沖かんちゅうが新しく鎮所ちんしょを移したことから、「収穫が回復するまで毎年30万こくの軍資を供出するように」とのみことのりが下された。

3郡を平定する

前秦ぜんしん苻堅ふけんがその将・苻融ふゆう樊城はんじょう鄧城とうじょうを、石越せきえつ魯陽ろようを、姚萇ようちょう南郷なんきょうを、韋鐘いしょう魏興ぎこうを攻撃させて陥落かんらくさせた。桓沖かんちゅう江夏相こうかしょう劉奭りゅうせき南中郎将なんちゅうろうしょう朱序しゅじょにこれを撃たせたが、劉奭りゅうせきおそひるんで進まず、朱序しゅじょぞくの捕虜となった。

桓沖かんちゅうみずからの責任を深くとがめ、上疏じょうそしてしょうせつを送って自分を解任するようにうたが許されず、左衛将軍さえいしょうぐん張玄之ちょうげんし桓沖かんちゅうの元に派遣され、共に軍事について諮謀はかることとなった。


桓沖かんちゅう前将軍ぜんしょうぐん劉波りゅうはと兄・桓豁かんかつの子で振威将軍しんいしょうぐん桓石民かんせきみん冠軍将軍かんぐんしょうぐん桓石虔かんせきけんらに苻堅ふけんを討伐させて築陽ちくようを陥落させた。また、武当ぶとうを攻めて苻堅ふけんが任命した兗州刺史えんしゅうしし張崇ちょうすうを敗走させた。

その後、苻堅ふけん慕容垂ぼようすい毛当もうとう鄧城とうじょうを攻撃させ、苻熙ふき新野しんやを攻撃させた。桓沖かんちゅう苻堅ふけんの軍をおそれ、疫病えきびょうを理由に上明じょうめいかえると、

夏口かこう長江ちょうこう沔水べんすい要衝ようしょうでありながら強寇きょうこうと接しています。兄・桓豁かんかつの子、桓石民かんせきみんとくけいこう十郡じゅうぐん軍事ぐんじ振武将軍しんぶしょうぐん襄城太守じょうじょうたいしゅとして、北に強蛮きょうばんと接する尋陽じんようから西に連なるけいえいの地域を一任し、王薈おうわい江州刺史こうしゅうししとなされますように」

と上表し、朝廷はこの意見に従った。

ところが、王薈おうわいは当時、兄・王劭おうしょうを亡くしたところであり、葬儀のためこれを辞退したので、衛将軍えいしょうぐん謝安しゃあん中領軍ちゅうりょうぐん謝輶しゃゆうをその代わりとした。これを聞いて怒った桓沖かんちゅうは、謝輶しゃゆうでは文武の両方において任務にでえられないからと、みずか江州刺史こうしゅうししとなることを願い出て許された。

桓沖かんちゅう桓石虔かんせきけん苻堅ふけんが任命した襄陽太守じょうようたいしゅ閻震えんしんを攻撃させ、閻震えんしんと大小のすい29人を捕虜にして京都けいと健康けんこう)に送った。みことのりにより桓沖かんちゅうは府(上明じょうめい?)に帰り、閻震えんしんを平定した功績により桓沖かんちゅうの次子・桓謙かんけん宜陽侯ぎようこうに封ぜられた。

その後、苻堅ふけんがその将・郝貴かくき襄陽じょうようを守らせると、桓沖かんちゅう揚威将軍よういしょうぐん朱綽しゅしゃくにこれを攻撃させて沔北べんほくの田稲を焼き、6百余戸を奪還した。また上庸太守じょうようたいしゅ郭宝かくほうに、苻堅ふけんが任命した魏興太守ぎこうたいしゅ褚垣ちょえん上庸太守じょうようたいしゅ段方だんほうを攻撃させて共に降伏させ、新城太守しんじょうたいしゅ麹常きくじょう遁走とんそうさせた。これにより3郡はみな平定され、みことのりにより銭百万とほう(上衣)の生地千たんたまわった。

桓沖の死

以前、桓沖かんちゅうが西(江陵こうりょう)に着任した当時、ぞく前秦ぜんしん)の侵略が激しく、上明じょうめい鎮所ちんしょを移したが、これは力の弱い江東こうとう東晋とうしん)が国境を保持するための手段だった。

桓沖かんちゅうには謝安しゃあんのような徳望とくぼうがなかったため、四方を守り防ぐことをみずからの任務とした。また桓沖かんちゅう朱序しゅじょと親密で、朱序しゅじょぞくに捕らわれると、朱序しゅじょもちらいたことを深くじ、悲しみ惜しんだ。


前秦ぜんしん苻堅ふけんが国内に侵略してくると、桓沖かんちゅうは精鋭3,000人を京都けいと健康けんこう)に派遣したが、謝安しゃあんは「3,000人では何の足しにもならない」とこれを固く断って「朝廷の処分(守備計画)はすでに定まっているのでけつ(宮殿)に兵は必要ない。西籓せいはん桓沖かんちゅう)は外で敵を防ぐべし」と言った。

この時、謝安しゃあんは兄の子・謝玄しゃげん桓伊かんいらの諸軍を諸軍を派遣していたが、桓沖かんちゅう佐吏さり(下級の属官)をしてなげいて言った。

謝安しゃあんには『廟堂びょうどうりょう*2』があるが、将略はないようだ。今、大敵がせまっているというのにほうぼうで遊談ばかりしている。実戦経験のない若者をったところで役に立たないことは、天下の知るところだ。ついに私も左衽さじん*3することになるのかっ!」


ところが間もなく苻堅ふけんが敗れて謝安しゃあん大勲たいくんげ、またそれにより朱序しゅじょが帰還することができたことを聞くと、桓沖かんちゅうは持病に慚恥ざんちの念が加わって発病し、亡くなった。享年きょうねん57歳。死後、太尉たいいおくられて本官はこれまで通りとし、宣穆せんぼくおくりなされ、(死者をとむらって遺族に贈る金品)として銭50万・布5百匹が下賜かしされた。

脚注

*2政治をつかさどることができる立派な器量の人物のこと。

*3左衽さじんする」とは、衣服を左前に着て夷狄いてきの風俗にならうこと。ここでは異民族に支配されること。

逸話

桓沖かんちゅうの性格は倹素で、謙虛に士を愛した。その倹約の度合いは、入浴後に妻が新品のころもを渡すと激怒した程だった。

南陽なんようの処士(在野)・劉鄰りゅうりん長史ちょうしに任命したが、劉鄰りゅうりんが応じなかったので、桓沖かんちゅうは親しくたずねて手厚い礼を尽くして彼を迎えた。また、長沙ちょうさの処士(在野)・鄧粲とうさんを礼を尽くして別駕べつが辟召まねき、それに感激した鄧粲とうさん桓沖かんちゅう辟召まねきに応じた。

郗鑑ちかん郗鑒ちかん)・庾亮ゆりょう庾翼ゆよく

初,郗鑒、庾亮、庾翼臨終皆有表,樹置親戚,唯沖獨與謝安書云:「妙靈、靈寶尚小,亡兄寄託不終,以此為恨!」言不及私,論者益嘉之。

江陵なんようにおいて葬儀が行われると、老若男女をわずみな長江ちょうこうのぞみ、哀しみを尽くして慟哭どうこくし、桓沖かんちゅうを見送った。後に桓玄かんげんが帝位を簒奪さんだつすると、太傅たいふ宣城王せんじょうおう追贈ついぞうされた。


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【三国志人物伝】総索引