正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(68)譙国桓氏⑤(桓雲・桓豁・桓秘・桓沖)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
譙国桓氏系図
譙国桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
桓豁の子の兄弟の順について
『晋書』桓豁には、
「桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている」
とあり、また『晋書』桓玄伝には、
「桓石康は桓豁の次子、桓権は桓石康の兄」
とあります。『晋書』桓豁伝に桓権の名前はありませんが、桓権が長子で、次子の桓石康以降、名前に「石」の字を用いるようになったと考えると自然なため、上図の順にしました。
譙国桓氏と沛郡桓氏について
『晋書』桓彝伝には「後漢の五更*1・桓栄の9世の孫にあたる」とあり、譙国桓氏と沛郡桓氏は同族ですが、史料で続柄を確認できないため、家系図を分けています。
维基百科(中国語)では、桓彝を桓郁の弟の子孫としています。
脚注
*1老人で五行の徳が入れ替わることを知る者のこと。『続漢志』に「三老・五更を養う礼儀は、吉日に先んじて司徒か太傅、もしくは皇帝の学問の師であった元の三公の中から『徳行がある高齢者』を用いて、三公から1名を三老とし、九卿から1名を五更とする」とあり、『漢官儀』には「三老・五更はみな初婚の妻と息子と娘がすべて備わっている者から選ぶ」とある。
この記事では譙国桓氏の人物⑤、
についてまとめています。
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か(68)譙国桓氏⑤
第3世代(桓雲・桓豁・桓秘・桓沖)
桓雲・雲子
生年不詳〜昇平4年(360年)没。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓彝。子に桓序。兄は桓温。弟に桓豁、桓秘、桓沖。
初め驃騎将軍・何充の参軍・尚書郎に任命されたが拝命しなかった。
永和4年(348年)、万年男(万年県男)の爵位を継ぎ、建武将軍・義成太守を歴任した。
母の孔氏が亡くなると職を辞し、葬儀が終わると江州刺史に任命されたが、病気を理由に辞退して母の墓の近くに廬を結んだ。詔書によって官に就くことを迫られても固辞して受けなかったが、喪が明けると、都督司豫二州軍事・鎮蛮護軍・西陽太守・仮節に任命された。
桓雲は民衆を招集して兵を充足させようと、あちこちで法を曲げて徴兵したので、民衆はみな怨嗟の声を上げたが、当時は兄の桓温が権力を握っていたので、役人たちの中に敢えて桓雲を弾劾する者はいなかった。
昇平4年(360年)に亡くなり、平南将軍を贈られ貞と諡された。
「桓雲」の関連記事
桓豁・朗子
東晋の大興3年(320年)〜太元2年(377年)没、。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓彝。子に桓石虔、桓石秀、桓石民、桓石生、桓石綏、桓石康。兄は桓温、桓雲。弟に桓秘、桓沖。
荊州
初め司徒府や秘書郎に辟召されたが、みな就かなかった。その後、撫軍将軍・司馬昱に召されて従事中郎となり、吏部郎に転任したが、病気を理由に辞退し、また黄門郎に昇進しても拝命しなかった。
昇平3年(359年)、西中郎将の謝万が前燕の梁濮に敗れ、許昌・潁川の諸城が相次いで陥落し、当地は混乱した。桓温は弟の桓豁を都督沔中七郡軍事・建威将軍・新野義成二郡太守として前燕の慕容屈塵(慕容塵)を攻撃させ、桓豁はこれを破って右将軍に昇進した。
興寧3年(365年)、桓温は桓豁を荊揚雍州軍事・護南蛮校尉・荊州刺史・仮節とし、建威将軍はこれまで通りとした。この年、梁州刺史の司馬勲が梁州・益州で叛くと、桓豁は参軍の桓羆を派遣してこれを討った。
太和元年(366年)、南陽督護の趙弘と趙憶が宛城で反乱を起こすと、南陽太守の桓淡(桓澹)は逃亡した。桓豁は竟陵太守・羅崇と共にこれを破った。また桓豁は宛城の南中郎将・趙盤攻撃して敗走させると、魯陽まで追ってこれを捕らえ、京師(建康)に送った。
その後、桓豁は寧益二州軍事となり、寧康元年(373年)に桓温が亡くなると、征西将軍に昇進し、都督交広並前五州軍事となった。
前秦との戦い
前秦の苻堅が蜀に侵攻すると、桓豁は江夏相の竺瑤を派遣したが、広漢太守の趙長らが戦死すると、竺瑤は軍を退いた。
苻堅がまた涼州に侵攻すると、桓豁の弟の桓沖は輔国将軍の朱序と、桓豁の子で江州刺史の桓石秀を派遣し、桓豁は督護の桓羆に沔水・漢水から涼州の救援に向かわせた。
ところが、間もなく前涼の張天錫は敗北。朝廷は中書郎の王尋を派遣して桓豁に辺境の対応について意見を求め、桓豁は梁州刺史の毛憲祖を監沔北軍事とし、兗州刺史の朱序を南中郎将・監沔中軍事として襄陽に駐屯(鎮)させ、北方の僻地(北鄙)を守らせるように上表した。
太元年間(376年〜396年)の初め、桓豁は征西大将軍に昇進して開府を許された。桓豁はこれを固辞したが、許されなかった。
前秦の苻堅が仇池を滅ぼすと、桓豁は新野太守の吉挹を魏興太守代行・督護梁州五郡軍事として梁州を守らせた。
また、苻堅が涪城を陥落させると、梁州刺史の楊亮と益州刺史の周仲孫は潰走した。桓豁は上疏して敗戦を陳謝し、開府を固く辞退した。
桓豁は優れた人物であったが、外敵の侵略に対して功績を建てることができなかったので、当時は桓沖の方が名声が高かった。
桓豁には20人の子がいたが、桓豁は苻堅の国中で「堅い石を打ち砕いたのは誰だ?」という歌が流行っていると聞き、そのすべての名に「石」の字を用いた。中でも石虔、石秀、石民、石生、石綏、石康らの名が知られている。
「桓豁」の関連記事
桓秘・穆子
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓彝。子に桓蔚。兄は桓温、桓雲、桓豁。弟に桓沖。
幼い頃から才気があったが、世の習わしや倫理に外れた行いがあった。
初め秘書郎を拝命したが、兄の桓温は彼を用いなかった。しばらくして輔国将軍・宣城內史となった。
梁州刺史の司馬勲が反乱を起こして蜀(益州)に入ると、桓秘は監梁益二州征討軍事・仮節となり、司馬勲の反乱が平定されると郡(宣城郡)に還った。その後散騎常侍となり、中領軍に移った。
孝武帝(司馬曜)が即位した当初、妖賊の盧竦(盧悚)が宮中に侵入し、桓秘は左衛将軍・殷康と共にこれを擊った。その後桓温が入朝すると、桓温はこのことを理由に尚書の陸始らを廷尉に送り、非常に多くの者の罪を責めた。桓秘は罷免され、宛陵に居住したが、日に日に不満を募らせていった。
桓温の病気が重篤となると、桓秘は桓温の子・桓熙、桓済らと共に弟の桓沖の殺害を謀った。
桓沖は秘かにこの陰謀に気づいてはいたが敢えて介入せず、桓温が亡くなると、まず力士を遣って桓熙と桓済を拘束し、その後で葬儀に臨んだ。事ここに至り、桓秘はついに陰謀を諦めて桓温の墓(の近く)に居を移し、畑を耕し風景を楽しんで過ごすことにした。
その後、桓秘はまた散騎常侍に任命されたが、3度上表して病気を理由に辞退した。桓秘は以前から弟の桓沖を軽んじていたが、桓沖の隆盛に比べ常侍(散騎常侍)の位を卑しいものと恥じ、朝命に応じなかったのである。
謝安と共に著した書や詩10首の言葉遣い(辞理)には見るべきものがあり、その多くは簡文帝(司馬昱)の時代に寵遇されたことを題材としていた。
桓秘は桓沖よりも先に亡くなった。
「桓秘」の関連記事
桓沖・幼子
生没年不詳。豫州(予州)・譙国・龍亢県の人。父は桓彝。子に桓嗣、桓謙、桓修、桓崇、桓弘、桓羨、桓怡。兄は桓温、桓雲、桓豁、桓秘。
桓温に重用される
桓温の弟たちの中で最も博学で軍事(武幹)に優れ、桓温は桓沖をとても高く評価していた。
若くして太宰の武陵王・司馬晞に辟召かれたが就かず、鷹揚将軍・鎮蛮護軍・西陽太守となった。
桓温の征伐に従軍して功績を立て、督荊州之南陽襄陽新野義陽順陽雍州之京兆揚州之義成七郡軍事・甯朔将軍・義成新野二郡太守に昇進し、襄陽に駐屯(鎮)した。
また桓温に従って姚襄を破り、周成を捕らえ、征虜将軍に号を進めて豊城公の爵位を賜り、その後また振威将軍・江州刺史・鎮蛮護軍・西陽譙二郡太守に昇進した。
桓温は姚襄を破り、姚襄の将・張駿、楊凝を捕らえると、尋陽に移った。この時桓沖は江陵にいたが、着任する前に張駿が500人の部下を率いて江州督護・趙毗を殺害し、武昌の府庫を略奪して反乱を起こした。桓沖は将を派遣し、討伐させてこれを捕らえると、速やかに帰還した。
幼時の恩返し
父の桓彝が亡くなった時、桓沖の兄弟はみな幼く、家は貧しかった。母が病気を患ったため、(精をつけるために)羊が必要となり、桓温は桓沖を質に出そうとしたが、羊の持ち主は「質などいらない。買徳を養えることは私の幸せです」と言った。「買徳」は桓沖の小字(幼名)である。
桓沖が江州に赴任した時、桓沖は堂で羊の持ち主を見かけて「私は買徳である」と名乗り、かつての恩に厚く報いた。
しばらくして桓沖は監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎将・仮節となり、州郡はこれまで通りとされた。
桓温の死
桓沖が江州に赴任すること13年で桓温が亡くなった。孝武帝(司馬曜)は詔により桓沖を中軍将軍・都督揚江豫三州軍事・揚豫二州刺史・仮節とした。
また孝武帝(司馬曜)は、詔により桓温の賻(死者を弔って遺族に贈る金品)として銭・布・漆・蠟などを下賜したが、大殮には及ばなかった。
桓沖は上疏して「桓温は質素倹約に努めてきたが、その私物は凶事を起こすのに充分なため、官庫に返還したい」と求めた。孝武帝(司馬曜)はそれを許さなかったが、桓沖は頑なに拒み続けた。
生前、桓温は権力を握ると、大辟の罪(死に相当する罪)はみな自分で判決を下した。桓沖は上疏して「生殺の事は重要です。古今の慎しみに倣い、死罪にする場合はすべて、先にご報告くださいますように」と言った。
桓沖は桓温に代わって任につき、王室に忠節を尽くした。この時、桓沖に反対派を粛清し、権力の座につくように勧める者がいたが、桓沖は従わなかった。*1
脚注
*1原文:或勸沖誅除時望,專執權衡,沖不從。
謝安
民衆は謝安が国政を輔けることを望んだので、桓沖は懼れ悩み苦しんだ。
寧康3年(375年)、桓沖は自ら揚州刺史を辞任して地方に出ることを求めたが、桓氏の一党はこれに憤り、諫言しない者はなく、郗超もまた強く制止した。桓沖はそのどれをも受け入れなかったが、それらを恨みとは思わず、心を尽くした忠言であるとした。
その結果、桓沖は都督徐兗豫青揚五州之六郡軍事・車騎将軍・徐州刺史に改授され、北中郎府並中軍・鎮京口・仮節となった。
また、詔により桓沖と謝安は共に侍中を加えられ、甲杖50人を連れて入殿することを許された。
丹陽尹・王蘊の後父は謝安と親しかったので、謝安は王蘊を地方に出して方伯の職を与えようとし、桓沖の徐州刺史の任を解いた。桓沖は車騎将軍・都督豫江二州之六郡軍事となり、自ら京口から姑熟に鎮所を遷した。
前秦の侵略
前秦の苻堅が涼州に侵略すると、桓沖は宣城内史・朱序と豫州刺史・桓伊を寿陽に派遣し、淮南太守・劉波は淮水・泗水に舟を泛かべて涼州を救援したが、前涼の張天錫が敗北すると兵を退いた。
間もなく桓豁が亡くなると、桓沖は都督江荊梁益寧交広七州揚州之義成雍州之京兆司州之河東軍事・護南蛮校尉・荊州刺史・持節となり、将軍・侍中はこれまで通りとされた。また子の桓嗣は江州刺史となった。
桓沖が任地に赴くにあたり、孝武帝(司馬曜)は餞別として銭50万を下賜し、また文武を労って酒340石と牛50頭を犒賜し、謝安は溧洲まで見送った。
桓沖が江陵に着任した当時、苻堅が強盛だったので、桓沖は上疏して鎮所を江南に移すことを請い、鎮所を上明に移すと、冠軍将軍・劉波に江陵を守らせ、諮議參軍・楊亮に江夏を守らせた。
当時荊州に洪水や旱魃、飢饉により荒廃しており、また桓沖が新しく鎮所を移したことから、「収穫が回復するまで毎年30万斛の軍資を供出するように」との詔が下された。
3郡を平定する
前秦の苻堅がその将・苻融に樊城・鄧城を、石越に魯陽を、姚萇に南郷を、韋鐘に魏興を攻撃させて陥落させた。桓沖は江夏相・劉奭と南中郎将・朱序にこれを撃たせたが、劉奭は畏れ怯んで進まず、朱序は賊の捕虜となった。
桓沖は自らの責任を深く咎め、上疏して章と節を送って自分を解任するように請うたが許されず、左衛将軍・張玄之が桓沖の元に派遣され、共に軍事について諮謀ることとなった。
桓沖は前将軍・劉波と兄・桓豁の子で振威将軍の桓石民、冠軍将軍・桓石虔らに苻堅を討伐させて築陽を陥落させた。また、武当を攻めて苻堅が任命した兗州刺史・張崇を敗走させた。
その後、苻堅が慕容垂と毛当に鄧城を攻撃させ、苻熙に新野を攻撃させた。桓沖は苻堅の軍を憚れ、疫病を理由に上明に還ると、
「夏口・長江・沔水は要衝でありながら強寇と接しています。兄・桓豁の子、桓石民を督荊江十郡軍事・振武将軍・襄城太守として、北に強蛮と接する尋陽から西に連なる荊・郢の地域を一任し、王薈を江州刺史となされますように」
と上表し、朝廷はこの意見に従った。
ところが、王薈は当時、兄・王劭を亡くしたところであり、葬儀のためこれを辞退したので、衛将軍・謝安が中領軍・謝輶をその代わりとした。これを聞いて怒った桓沖は、謝輶では文武の両方において任務に堪でえられないからと、自ら江州刺史となることを願い出て許された。
桓沖は桓石虔に苻堅が任命した襄陽太守・閻震を攻撃させ、閻震と大小の帥29人を捕虜にして京都(健康)に送った。詔により桓沖は府(上明?)に帰り、閻震を平定した功績により桓沖の次子・桓謙が宜陽侯に封ぜられた。
その後、苻堅がその将・郝貴に襄陽を守らせると、桓沖は揚威将軍の朱綽にこれを攻撃させて沔北の田稲を焼き、6百余戸を奪還した。また上庸太守・郭宝に、苻堅が任命した魏興太守・褚垣と上庸太守・段方を攻撃させて共に降伏させ、新城太守・麹常を遁走させた。これにより3郡はみな平定され、詔により銭百万と袍(上衣)の生地千端を賜った。
桓沖の死
以前、桓沖が西(江陵)に着任した当時、賊(前秦)の侵略が激しく、上明に鎮所を移したが、これは力の弱い江東(東晋)が国境を保持するための手段だった。
桓沖には謝安のような徳望がなかったため、四方を守り防ぐことを自らの任務とした。また桓沖は朱序と親密で、朱序が賊に捕らわれると、朱序を用らいたことを深く愧じ、悲しみ惜しんだ。
前秦の苻堅が国内に侵略してくると、桓沖は精鋭3,000人を京都(健康)に派遣したが、謝安は「3,000人では何の足しにもならない」とこれを固く断って「朝廷の処分(守備計画)はすでに定まっているので闕(宮殿)に兵は必要ない。西籓(桓沖)は外で敵を防ぐべし」と言った。
この時、謝安は兄の子・謝玄、桓伊らの諸軍を諸軍を派遣していたが、桓沖は佐吏(下級の属官)を召して嘆いて言った。
「謝安には『廟堂之量*2』があるが、将略はないようだ。今、大敵が迫っているというのに方々で遊談ばかりしている。実戦経験のない若者を遣ったところで役に立たないことは、天下の知るところだ。ついに私も左衽*3することになるのかっ!」
ところが間もなく苻堅が敗れて謝安が大勲を挙げ、またそれにより朱序が帰還することができたことを聞くと、桓沖は持病に慚恥の念が加わって発病し、亡くなった。享年57歳。死後、太尉が贈られて本官はこれまで通りとし、宣穆と諡され、賻(死者を弔って遺族に贈る金品)として銭50万・布5百匹が下賜された。
脚注
*2政治を司ることができる立派な器量の人物のこと。
*3「左衽する」とは、衣服を左前に着て夷狄の風俗に倣うこと。ここでは異民族に支配されること。
逸話
桓沖の性格は倹素で、謙虛に士を愛した。その倹約の度合いは、入浴後に妻が新品の衣を渡すと激怒した程だった。
南陽の処士(在野)・劉鄰を長史に任命したが、劉鄰が応じなかったので、桓沖は親しく訪ねて手厚い礼を尽くして彼を迎えた。また、長沙の処士(在野)・鄧粲を礼を尽くして別駕に辟召き、それに感激した鄧粲は桓沖の辟召きに応じた。
郗鑑(郗鑒)・庾亮・庾翼・
初,郗鑒、庾亮、庾翼臨終皆有表,樹置親戚,唯沖獨與謝安書云:「妙靈、靈寶尚小,亡兄寄託不終,以此為恨!」言不及私,論者益嘉之。
江陵において葬儀が行われると、老若男女を問わずみな長江に臨み、哀しみを尽くして慟哭し、桓沖を見送った。後に桓玄が帝位を簒奪すると、太傅・宣城王を追贈された。
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