初平3年(192年)6月、長安を落として朝廷の実権を握った李傕と郭汜ですが、それぞれ自らの功績を誇って権力を争い、興平2年(195年)に入ると、ついに武力衝突にまで発展しました。
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目次
李傕政権内の不和
政権内部の対立
初平3年(192年)9月には、李傕が車騎将軍に任命されて将軍府を開き、興平元年(194年)5月には郭汜が後将軍、樊稠が右将軍に任命されて将軍府を開いたため、三公とあわせて6府が並存することとなり、それぞれが選挙(人材登用)に関与しました。
李傕、郭汜、樊稠はそれぞれ自らの功績を誇って権力を争い、何度も軍事衝突になりそうになっていましたが、その度に賈詡が大局を示して宥め戒めたので、内心わだかまりを持っていましたが、上辺だけは取り繕っていました。
豆知識
また、興平元年(194年)7月には楊定が安西将軍に任命され、将軍府を開いています。
董卓が誅殺されたばかりの頃、三輔地方(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)には数十万戸の民がいましたが、李傕らが兵を放って略奪を行った上に、蝗害と日照りによる飢饉も加わって、2年の間にほとんどの民がいなくなってしまいました。
李傕が樊稠を殺害する
樊稠が李利を叱責する
興平元年(194年)3月、「長平観の戦い」において、樊稠が馬騰と韓遂を撃ち破った時、共に戦っていた李傕の兄の子・李利が手を抜いていたことから、
「人(馬騰・韓遂)が汝の父(叔父・李傕)の頭を落とそうと欲している時に、どうしてこのようなのだ。私が卿(あなた)を斬れないとでも思っているのかっ!」
と、樊稠が李利を叱責したことがありました。
李利の密告
涼州に敗走する馬騰と韓遂を追って、樊稠と李利が司隷・右扶風・陳倉県まで来た時のこと。
韓遂が樊稠に言いました。
「我々が争っているのは私怨ではなく、王家の事が原因だ。貴殿は州里の人[同州(涼州)の出身]。共に善く語り合ってから別れたい」
すると樊稠はこの申し出に応え、騎兵を退けて韓遂と馬を並べ、しばらくの間親しく語り合いました。
この様子を見ていた李利は、長安に戻ると、
「樊稠と韓遂は馬を並べて談笑していました。その内容までは聞こえませんでしたが、その様子はとても親密でした」
と、李傕に密告します。
これにより李傕は、「樊稠が韓遂と秘かに和議を結び、異心を抱いているのではないか」と疑うようになりました。
樊稠が殺害される
ある時、樊稠が兵を率いて東に向かい函谷関を出たいと思い、李傕に増兵を申し入れました。
興平2年(195年)2月、李傕はこのことを理由に樊稠を会議に招き、その席で樊稠を殺害してしまいます。
このことがあってから、諸将はますます互いに猜疑し合うようになりました。
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李傕と郭汜の争い
争いの発端
李傕はしばしば酒宴を設けて郭汜を招き、時には郭汜を引き留めて家に泊まらせることもありました。
郭汜の妻は、李傕が郭汜に婢妾(召使いの女性)をあてがって、自分への愛を奪うのではないかと恐れ、2人を仲違いさせようと考えるようになります。
そんな時、ちょうど李傕から贈り物が届けられたので、郭汜の妻は豉(味噌)に毒薬を混ぜ、今まさに郭汜が食べようとした時、
「外から来た食べ物には、何か仕掛けがあるかもしれません」
と言って毒薬をつまみ出してみせると、
「『一栖(1つの巣)に両雄あらず(両雄並び立たず)』と言います。私は以前から将軍さまが李公(李傕)を信頼していらっしゃることを疑問に思っておりました」
と言いました。
後日、何も知らない李傕は、また郭汜を酒宴に招いて存分に酒を振る舞いますが、李傕が毒を盛ったのではないかと疑っている郭汜は、解毒作用があるとされる「糞を絞った汁」を飲んで見せたため、とうとう2人は不和となり、軍勢を整えて攻撃し合うようになります。
この事態に、献帝が侍中や尚書を派遣して李傕と郭汜を和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。
献帝争奪戦
興平2年(195年)3月、李傕と郭汜が争うようになると、郭汜は献帝を自分の陣営に迎えようと計画しましたが、その夜のうちに郭汜の元から逃亡して李傕に密告した者がありました。
すると李傕は、兄の子・李暹に数千の兵を率いて宮殿を包囲させ、3乗の車で献帝を迎え入れようとします。
この時、太尉の楊彪は、
「古来、帝王が人臣の家にお住まいになった例はありません。事を起こすには天下の人心に合致しなければなりません。諸君のやり方はよろしくない」
と李暹に忠告しますが、
「将軍(李傕)のお考えは既に決まっている」
と、李暹は取り合いませんでした。
こうして献帝は宮殿を出ることになり、3乗の車にはそれぞれ、
- 献帝
- 貴人の伏氏
- 賈詡と左霊
が乗り、その他の者はみな徒歩でお供しました。
李暹の兵士たちはすぐに殿中に入って宮女や御物(皇室の所有品)を奪い、李傕は献帝を脅して、献帝自身と御府(天子の府庫)の金帛(金と絹)を自分の営(陣屋)に移します。
その後、李傕は宮殿・官府に火を放ったので、その周辺に住む民がいなくなってしまいました。
郭汜が公卿を人質に取る
献帝は再び公卿(三公と九卿)を派遣して、李傕と郭汜を和解させようとしました。
ですが郭汜は、
- 太尉・楊彪
- 司空・張喜
- 尚書・王隆
- 光禄勲・劉淵
- 衛尉・士孫瑞
- 太僕・韓融
- 廷尉・宣璠
- 大鴻臚・栄郃
- 大司農・朱儁
- 将作大匠・梁邵
- 屯騎校尉・姜宣
らを自分の営(陣屋)に留めて人質にします。
この仕打ちを受けた朱儁は憤懣(憤って悶えること)し、病を発して亡くなってしまいました。
献帝が皇后を立てる
4月、献帝が徐州・琅邪国出身の貴人・伏氏を皇后に立て、皇后(伏氏)の父で侍中の伏完が執金吾に任命されました。
楊彪の気骨
ある時、郭汜が公卿たちをもてなして、李傕を攻撃するつもりで意見を求めました。
すると、太尉の楊彪が口を開きます。
「臣下たちが互いに闘い合い、1人は天子(献帝)を脅迫し、1人は公卿を人質にする。このような事をしても良いとお思いか?」
そして、これを聞いて大いに怒った郭汜が自らの剣の柄に手をかけると、楊彪は重ねて郭汜を一喝します。
「卿(あなた)は国家(天子)すら奉じていない!どうして私が生を求めようかっ!」
ですが、今にも楊彪を斬らんとするところへ、中郎将・楊密をはじめ左右の多くの者が固く諫めたので、郭汜は剣を収めました。
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李傕と郭汜の戦い
郭汜が李傕を破る
李傕が羌族や胡人(匈奴)数千人を招いて御物(皇室の所有品)の繒綵(綾絹)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜を攻撃させようとしました。
また一方の郭汜は、秘かに李傕に与していた中郎将・張苞と通じて李傕攻撃を謀ります。
郭汜が兵を率いて李傕の営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降り注ぎ、献帝が泊まっている高楼殿前の簾帷[簾と引き幕]の中にまで及び、李傕の左耳を貫きました。
一方、郭汜と内通した張苞らが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉の抵抗を受けた郭汜が兵を退いたので、張苞らは率いていた兵と共に郭汜に帰順します。
この日、李傕は献帝を北塢に移しました。
北塢は長安城内に築かれた塢のことで、李傕と郭汜はそれぞれ長安城内に塢を築いて戦っていました。
また、『魏書』董卓伝が注に引く『献帝起居注』では、李傕が宮殿から献帝を連れ出したその日に北塢に移したとされています。
李傕の横暴
李傕は献帝を北塢に移すと、校尉に命じて塢の門を見張らせ、外部との連絡を絶ち切りました。
献帝の御付きの臣下たちは飢えに苦しみ、夏の盛りで暑い時期であったにも拘わらず、人々はみな恐怖の余り心を凍らせていました。
献帝は臣下の食料として米5石と牛の骨5頭分を要求しましたが、李傕は、
「朝晩食事を差し上げているのに、どうして米がいるのだ」
と言い、腐った牛の骨を与えたため、みな臭いを嗅ぐだけで食べることができませんでした。
これに立腹した献帝は、李傕を厳しく問い詰めようとしますが、侍中の楊琦が密封した文書を奉り、
「李傕は田舎者で、野蛮な風俗に馴れた人間です。
今はまた自分の犯した非道な行為を自覚して、常に浮かぬ顔をしており、御車(献帝)を黄白城にお移しして鬱憤を晴らそうと考えております。
どうか陛下には、ご忍耐なされますように。彼(李傕)の罪を公になさいますのはよろしくありません」
と言上したので、献帝はこの意見を聞き入れました。
黄白城
趙温の手紙
はじめ李傕は黄白城に駐屯していたため、ここに献帝を移そうと計画していましたが、司徒の趙温が自分に同調しなかったので、塢の中に趙温を引き入れました。
趙温は、李傕が御車(献帝)を移すつもりだと聞くと、李傕に次のような手紙を送ります。
「公(李傕)は、先には董公(董卓)の復讐を名目にしながら、実際は王城(長安)を攻め滅ぼし、大臣たちを殺戮しました。
今度はわずかな怨みから郭汜と仲違いをして抗争し、不倶戴天の仇敵となってしまい、民衆は塗炭の苦しみを舐め、それぞれ生きるあてもない状態ですのに、少しも改めることなく、結局動乱が引き起こされたのです。
朝廷からは、しきりに詔勅が下され、和解するように求められておりますが、その勅命は実行されず、ご恩沢は日々に損なわれております。
それをさらに、黄白城に御車(献帝)を移しまいらせるつもりとか。これは誠にこの老いぼれ(趙温)にとって理解しえないことです。
『易』においては、1度目の過失を『過』とし、2度目を『渉』とし、3度目でなお改めないのを、川を渡って頭の先まで没することと同じで『凶』であるとします。
郭汜と早く和解し、軍隊を引き連れて屯営に戻るのが一番です。上は天子を安んじまいらせ、下は生民を保全することになり、極めて幸福なことではないでしょうか」
この手紙を読んだ李傕は激怒して、人を遣って趙温を殺そうとしますが、元趙温の掾(属官)であった李傕の従弟の李応が数日に渡って諫言し、やっとのことで思いとどまらせました。
趙温が李傕に手紙を送ったことを聞いた献帝は、侍中の常洽に、
「李傕には事の善悪を判断する力がない。趙温の言葉は厳し過ぎるから、心が凍りつくほど心配でならぬ」
と漏らしましたが、常洽の、
「すでに李応が宥めました」
という言葉を聞き、大変喜びました。
献帝と李傕
李傕は生来、鬼神や妖術の類を好み、常に道士や巫女が歌い、鼓を鳴らして神降ろしをし、六丁(神の名前)を祭り、お札や まじない の道具で使わないものは1つとしてありませんでした。
ある時李傕は、朝廷の役所の門外に董卓の神坐(祭祀場)を設え、たびたび牛や羊を供えて祭り、それが終わると宮中の小門を通って献帝のご機嫌を伺い、拝謁を求めました。
この時李傕は3振りの刀を帯び、手にはさらに鞭と一緒に抜き身の刀を1振り持っています。
侍中や侍郎は李傕が武器を身につけているのを見ると、みな恐れおののき、自分たちも剣を帯び、抜き身の刀を持って、先に入室して献帝のまわりを固めました。
この時李傕は、献帝に対して「明陛下」と言ったり「明帝」と言ったりして、郭汜の無道振りを説明してきたので、献帝は李傕の意に沿うように受け答えをします。
すると李傕は退出した後で、
「明陛下(献帝)は本当に賢明な聖天子である」
と言い、内心自信満々で、本当に献帝の歓心を得ることができたと信じていました。
ですが、なおも側近の臣下が剣を帯びて献帝のまわりを固めていることには不服なようで、
「みな刀を持っているとは、こいつらは儂に手を下すつもりなのか」
と人に漏らしますが、李傕と同郷で侍中の李禎が、
「彼らが刀を持っているのは、軍中でそうするのが建前だからであって、これは国家の慣例です」
と言ったので、李傕の気持ちはやっと解れました。
皇甫酈の和睦交渉
献帝が皇甫酈を派遣する
閏5月、献帝は、涼州の名門であり、使者としても有能な謁者僕射の皇甫酈を派遣して、李傕と郭汜を和睦させようとします。
皇甫酈はまず郭汜の元を訪れると、郭汜は勅命を受け入れました。
次に皇甫酈は李傕を訪ねますが、李傕は勅命を受け入れようとせず、
「儂には呂布討伐の功績があり、政治を補佐して以来4年、三輔(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)は平穏になった。これは天下に周知の事実である。
郭多(郭汜)は馬泥棒に過ぎない。どうして厚かましくも儂と同等になろうとするのだ。儂はあくまで奴(郭汜)を殺すつもりだ。
君(皇甫酈)は涼州の人間だが、儂の策略と軍勢が郭多(郭汜)を始末できるかどうか見ていてくれ。
その上、郭多(郭汜)は公卿を脅して人質にした。奴(郭汜)のやることがこんな風なのに、仮にも君(皇甫酈)が郭多(郭汜)に利益を与えるつもりなら、この李傕にも肝っ玉があることを自ら知ることになるだろう」
と言いました。
すると皇甫酈は、
「昔、有窮の君・后羿は、弓術に優れていることを頼みにして、災難が降りかかるなど考えもせず、その挙げ句に滅亡いたしました。
最近では、董太師(董卓)の強大ぶりを、将軍(李傕)さまもその目でご覧になられたでしょう。
朝廷の内には王公たちがいて、太師(董卓)のために朝廷内を取り仕切り、外には董旻・董承・董璜ら親族がいて軍隊を統率しておりました。
ところが、呂布が恩を受けながら反逆して太師(董卓)殺害を企てますと、わずかの間に首が竿の先につり下げられました。
このような結果になりましたのは、武勇を持ちながら智謀がなかったからです。
今、将軍(李傕)ご自身は上将の位にあられ、(軍権を示す)鉞を手に(部下の裁判権を示す)節を杖つき、ご子孫方は権力を掌握され、ご一族は天子のご恩寵を受け、国家(天子)の下される高い爵位をすべて占有されています。
今、郭多(郭汜)は公卿を脅して人質にし、将軍(李傕)は至尊(献帝)を圧迫しておられる。どちらの罪が重いとお考えですか?
また、西方の実力者・張済は郭多(郭汜)・楊定と共謀し、また高官の中にも支持者がおりますので、簡単には郭多(郭汜)を討ち取れませんぞ。
楊奉は白波賊の指揮官に過ぎませんが、それでも将軍(李傕)の行為が正しくないことをわきまえております。将軍(李傕)が彼(楊奉)に官位や恩寵を与えたとしましても、将軍(李傕)のために力の限り働くことは承知しないでしょう」
と答えます。
これを聞いた李傕は皇甫酈の意見を受け入れず、怒鳴りつけて退出させました。
皇甫酈を逃がす
皇甫酈は退出すると禁門まで参上し、李傕が詔勅に従うことを承知せず、その言葉が不敬であった旨を申し上げます。
侍中の胡邈は李傕に目をかけられていたので、詔勅を取り次ぐ役人を召して、皇甫酈の言葉を粉飾して献帝に報告させ、皇甫酈に言いました。
「李将軍(李傕)は貴殿に粗末な扱いをされていない。また皇甫公(皇甫酈の伯父・皇甫嵩)が太尉に取り立てられたのは、李将軍(李傕)のお陰ですぞ」
皇甫酈が、
「胡敬才(敬才は胡邈の字)、貴殿は国家(天子)の常伯*1であり、お側にあって補佐にあたる臣ですぞ。そのようなことを言って、一体何の役に立つのだ?」
と問うと胡邈は、
「あなたが李将軍(李傕)の気持ちを損なうと、おそらく重大な結果を招くだろうと、気にかけてあげたのです。私はあなたのためを思えばこそ、そうしたのです。それをどういうことですか」
と答えます。
すると皇甫酈はこう言いました。
「私は代々天子のご恩をこうむり、自身もまた常にお側近くお仕えしてきました。主君が恥辱を受ければ、下臣は命を投げ出すものとか。国家(天子)の御為に李傕に殺されても、天命です」
献帝は皇甫酈の言葉が厳しいことから李傕の耳に入ることを恐れ、直ちに皇甫酈を逃亡させるように命じました。
皇甫酈が営門を出ると、李傕は虎賁(近衛兵)の王昌に彼を呼びに行かせます。
王昌は皇甫酈が忠義で正しい人間なのを知っていたので、見逃して行かせた後、戻って李傕に「追いかけたが追いつけなかった」と報告しました。
脚注
*1周時代の職名で三公を指したが、後に天子の左右に仕える侍中・散騎常侍などの官職を意味するようになる。
李傕が大司馬に任命される
献帝は左中郎将の李固に節(使者の印)を持たせ、李傕を大司馬に任命し、三公の上に位させます。
李傕はこれを「鬼神の助力を得た」ためだと思い込み、巫者たちに懇ろに褒美をやりました。
初平3年(192年)6月、長安を落として朝廷の実権を握った李傕ら旧董卓勢力ですが、李傕・郭汜・樊稠・楊定らが相次いで将軍府を開くようになると、それぞれ自らの功績を誇って権力を争うようになりました。
そんな中、郭汜の妻の嫉妬により、李傕と郭汜が決定的に反目し、武力衝突にまで発展します。
その後、李傕は献帝を、郭汜は公卿たちを人質に取り、睨み合いが続くようになりました。