興平元年(194年)3月に、李傕らに降伏した馬騰と韓遂が反乱を起こした「長平観の戦い」についてまとめています。
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馬騰の挙兵
馬騰と韓遂
初平3年(192年)、李傕・郭汜らが朝廷の実権を握ると、韓遂と馬騰は軍勢を率いて長安に赴いて降伏を申し出ます。
すると李傕らは、韓遂を鎮西将軍に任命して涼州に帰らせ、馬騰を征西将軍に任命して司隷・右扶風・郿県に駐屯させました。
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馬騰の上奏
興平元年(194年)3月、穀物が不足して窮乏する将兵が多いことから、馬騰は自ら上奏して司隷・左馮翊・池陽県に行って穀物を得たいと願い出て、長安の東の覇橋に駐屯します。
ですが、李傕は馬騰の要求を拒否したため、馬騰は激怒しました。
長安周辺地図
馬騰の挙兵
馬騰は、李傕らが専横を極め、朝政(朝廷の政治)を乱していたことから、益州牧・劉焉に使者を派遣して、共に李傕らを誅殺することを提案します。
すると劉焉は、長安にいる息子・左中郎将の劉範に兵を率いて馬騰に味方するように伝えました。
かくして、
- 左中郎将の劉範
- 侍中の馬宇
- 諫議大夫*1の种劭(种邵)
らは、馬騰が長安を攻めたならば、城内から呼応して李傕らを誅殺することを約束します。
豆知識
諫議大夫*1の种劭(种邵)は、李傕らが長安を陥落させた時に戦死した衛尉*2・种拂の子で、父の仇を討つためにこの戦いに参加したのでした。
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脚注
*1 袁宏の『後漢紀』献帝紀では元の涼州刺史。『後漢書』献帝紀では前の益州刺史。
*2 袁宏の『後漢紀』献帝紀では太常。
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長平観の戦い
長平観の戦い
韓遂の上洛
馬騰と李傕らが衝突したことを知った韓遂は、彼らを和睦させようと長安に向かいます。
ですが事情を知った韓遂は、両者を和睦させるのではなく、馬騰と合流しました。
計画の発覚
馬騰と韓遂が兵を率いて長平観まで来た時、馬宇らの計画が発覚してしまいます。
中郎将の杜稟は賈詡と仲が悪く、司隷・右扶風の役人を脅迫して、馬騰のために槐里県を守って共に李傕を攻めようとしていたので、馬宇らは槐里県に逃げ込みました。
長平観と槐里県
長平観は、司隷・左馮翊・池陽県の南、長安から50里(約21km)の位置にあります。
池陽県は、池陽侯である李傕に与えられた封邑であり、馬騰の上奏文にあるように、穀物の集積場となっていたようです。
馬騰と韓遂は、李傕軍の兵糧の供給を絶つために、まずは池陽県を攻撃目標としたのだと思われます。
長平観の戦い
馬騰と韓遂が池陽県に向かっていることを知った李傕は、兄の子・李利、郭汜、樊稠を派遣しました。
馬騰・韓遂と李利らは、池陽県の南に位置する長平観で戦いとなります。
そして、この「長平観の戦い」で1万人余りの犠牲を出して敗れた馬騰と韓遂は、涼州に撤退しました。
樊稠への疑惑
その後、李利と樊稠は、馬騰と韓遂を司隷・右扶風・陳倉県まで追撃します。
すると韓遂は、樊稠に使者を送って次のように伝えてきました。
「天下はひっくり返ってどうなるか分からない。我らは同郷人だ。今は些細な食い違いはあるが、大きく捉えれば、きっと同じ思いであろう。ぜひ一度、共に語り合いたいものだ」
すると樊稠はこの申し出に応え、韓遂と馬を並べてしばらくの間親しく語り合います。
この様子を見ていた李利は、長安に戻った後、
「樊稠と韓遂は馬を並べて談笑していました。その内容までは聞こえませんでしたが、その様子はとても親密でした」
と、李傕に告げました。
これにより李傕は、樊稠が韓遂と秘かに和議を結び、異心を抱いているのではないかと疑うようになりました。
槐里県の陥落
その後李利と樊稠は、馬宇らが逃げ込んだ槐里県を数万の軍勢で包囲すると、夜中に城壁に梯子をかけて攻め入り、杜稟・馬宇・劉範・种劭(种邵)らを斬ってさらし首にしました。
馬騰と韓遂を赦す
4月、献帝が詔を発して馬騰らを赦し、馬騰を安狄将軍に、韓遂を安降将軍に任命します。
また、この2つの将軍号は一時的に設けられたもので、以降、この他に置かれることはありませんでした。
興平元年(194年)3月、馬騰と李傕の間に亀裂が生じると、李傕政権に反感を持っていた者たちが、馬騰と共に兵を挙げました。
元々戦をするために上洛したわけではない馬騰の兵は、決して多くはありませんでしたが、韓遂の援軍と長安城内にいる馬宇らが内応を約束したことで、馬騰にとって十分勝機のある戦いのはずでした。
ですが、馬宇らの内応の計画が事前に発覚したことで、数の上で圧倒的に不利な戦いを強いられることとなった馬騰と韓遂は、長平観で樊稠らに敗れ、涼州に撤退します。
李傕らはそのまま馬騰・韓遂に追撃をかけますが、本拠地に戻った彼らを完全に討伐する余力はないと判断し、2人を赦してそれぞれ安狄将軍と安降将軍に任命して懐柔することにしました。
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長平観の戦いについて
歴史書における記述
「長平観の戦い」に関する記述は、史料によって内容が異なっています。
上記は、異なる内容をなるべく無理のないようにまとめたものですが、以下にそれぞれの内容をご紹介しておきます。
『後漢書』献帝紀
興平元年3月、韓遂と馬騰が、郭汜・樊稠らと長平観に戦い、韓遂・馬騰たちは大敗し、左中郎将・劉範と前の益州刺史・种劭(种邵)は戦歿(戦死)した。
ポイント
- 韓遂・馬騰・劉範・种劭(种邵)らが郭汜・樊稠らと長平観で戦って敗れた。
- 劉範らは長平観で戦死した。
『漢書音義』
長平は坂の名で、池陽県の南にある。長平観があり、それは長安から50里(約21km)の位置にある。
『後漢書』董卓伝
興平元年、馬騰はと隴右より来朝し、進軍して覇橋に駐屯した。
この時馬騰は、李傕に要求したことが受け入れられなかったことに怒り、ついに侍中の馬宇・右中郎将の劉範・前の涼州刺史・种劭(种邵)・中郎将の杜稟たちと兵を合わせて李傕を攻めたが、数日経っても勝敗は決まらなかった。
韓遂がこれを聞き、軍勢を率いてやって来て馬騰と李傕を和睦させようとしたが、やがて馬騰の軍と合流した。
李傕は兄の子の李利を派遣して郭汜・樊稠と共に馬騰たちと長平観のもとで戦わせた。韓遂・馬騰は敗れ、1万人余りを斬首され、种劭(种邵)・劉範たちはみな戦死した。
韓遂・馬騰は逃げて涼州に帰還し、樊稠たちはこれを追った。
韓遂は人を派遣して樊稠に語らせ、「天下はひっくり返り、どうなるか分からない。我らは同郷人だ。今はいささか意見を違えているが、大きな部分ではきっと同じであろう。共に一度語り合いたいものだ」と言った。
そこで馬を並べ、腕を交え合って、しばらくの間談笑した。
軍が戻ると、李利は李傕に、
「樊稠と韓遂は馬を並べて談笑していました。その内容は不明ですが、その様子はとても親密でした」
と告げた。かくて李傕と樊稠は猜疑し合った。
ポイント
- 馬騰は覇橋に駐屯した。
- 馬騰・馬宇・劉範・种劭(种邵)・杜稟らが李傕を攻めるが決着がつかなかった。
- 馬騰・韓遂らが長平観で李利・郭汜・樊稠に敗れ、种劭(种邵)・劉範らが戦死した。
- 劉範らは長平観で戦死した。
- 韓遂・馬騰は涼州に撤退。樊稠らが追撃し、韓遂と樊稠が語り合った。
- 李傕と樊稠が猜疑し合うようになった。
『後漢紀』献帝紀
この時、李傕らが専横し朝政を乱していた。
馬騰は李傕に要求したことが受け入れられなかったことに怒り、益州刺史の劉焉が宗室出身の大臣であることから、使者を派遣して味方に招き、共に李傕を誅殺しようと提案した。
劉焉は子の劉範を派遣し、兵をを率いて馬騰につかせた。
元の涼州刺史・种劭(种邵)は、太常・种拂の子である。种拂が李傕に殺されていたため、种劭(种邵)は仇を報じようとして、ついにここで戦った。
韓遂がこれを聞き、軍勢を率いてやって来て馬騰と李傕を和睦させようとしたが、やがて馬騰の軍と合流した。
馬騰と韓遂は長平観に駐屯して長安を攻めようとした。李傕は樊稠・郭汜および兄の子・李利を派遣して馬騰・韓遂を破り、种劭(种邵)・劉範らはみな戦死した。
韓遂は西に逃走し、樊稠が追撃した。韓遂が樊稠に言う。
「天下はひっくり返り、どうなるか分からない。元々この争いの原因は私怨ではなく国家にある。貴殿とは同郷人であり、小さな意見の相違はあっても思いは同じはずだ。
この後顔を合わせることがあるかも分からぬのだから、共に一度語り合いたいものだ」
そこで2人は、馬を並べてしばらく談笑して別れた。
ポイント
- 馬騰が劉焉に援軍を要請した。
- 馬騰・韓遂らが長平観で李利・郭汜・樊稠に敗れ、种劭(种邵)・劉範らが戦死した。
- 劉範らは長平観で戦死した。
- 韓遂・馬騰は涼州に撤退。樊稠らが追撃し、韓遂と樊稠が語り合った。
『蜀書』劉焉伝
劉焉の子の劉範は左中郎将、劉誕は治書御史、劉璋は奉車都尉となって、いずれも献帝に付き従って長安にいた。
(中略)
この頃、征西将軍の馬騰は郿に駐屯していたが、朝廷に反逆した。劉焉と劉範は馬騰と手を組んで、兵を引き連れて長安を襲撃した。
劉範は計略が外に漏れたため、槐里へ逃亡し、馬騰は敗北して涼州に逃げ帰った。
劉範は直ちに殺され、同時に劉誕は捕らえられて処刑された。
ポイント
- 劉範らは槐里県で戦死した。
- 韓遂の記述なし。
『献帝紀』
杜稟は賈詡と不和であり、扶風の役人を脅迫して馬騰のために槐里県を守り、共に李傕を攻めようとした。
李傕は樊稠および兄の子の李利を派遣し、数万人の軍勢をもって攻撃させて槐里県を包囲し、夜中に城に梯子をかけて攻め入り、城は陥落した。杜稟を斬ってさらし首にした。
ポイント
- 李傕が樊稠・李利を派遣して槐里県を落とした。
『魏書』董卓伝
侍中の馬宇は諫議大夫*1の种劭(种邵)、左中郎将・劉範らと謀って馬騰に長安を襲撃させ、自分が内から呼応して、李傕らを誅殺しようとした。
馬騰が軍隊を引き連れて長平観まで到達した時、馬宇らの計画が露見し、馬宇らは槐里に逃亡した。
樊稠が馬騰を攻撃し、敗北した馬騰は涼州に逃げ帰った。さらに樊稠は槐里を攻撃し、馬宇らは敗死した。
ポイント
- 馬宇が馬騰に長安を襲撃させ、自分が内から呼応する計画を立てる。
- 馬騰が長平観まで来た時、馬宇らの計画が露見し、馬宇らは槐里に逃亡した。
- 馬宇らは槐里で戦死した。
- 樊稠に敗れた馬騰が敗北し、馬騰が涼州に逃げ帰った。
- 韓遂の記述なし。
- 追撃の記述なし。
『魏書』董卓伝の注『九州春秋』
馬騰と韓遂が敗北した時、樊稠は彼らを陳倉まで追撃した。
韓遂が樊稠に、
「天下はひっくり返り、先行きがどうなるか分からない。この抗争の原因は元々私怨ではなく、国家の事なのだ。貴殿と私は同郷人であり、今些細な食い違いはあるが、きっと大きい立場では同一であろう。一緒に仲良く語り合った上で別れよう。万一思い通りに出会えなかったなら、後々二度と顔を合わせられるかどうか」
と言い、共に供回りの騎兵を遠ざけて進みより、轡を並べて互いの腕を握り合い、しばらく語り合ってから別れた。
李傕の兄の子・李利が樊稠に随行していたが、帰還してから李傕に、
「韓遂と樊稠が轡を並べて語り合い、何を話したかは分からないが、大変親密そうだった」
と報告した。
李傕はこのことによって、樊稠が韓遂と秘かに和議を結び、異心を抱いているのではないかと疑った。
ポイント
- 樊稠は馬騰と韓遂を陳倉まで追撃し、韓遂と樊稠が語り合った。
- 李傕が樊稠を疑うようになった。
『蜀書』馬超伝の注『典略』
この頃西州(涼州)では穀物が不足していたので、馬騰は自ら上奏して、
「軍人に窮乏する者が多いので、池陽に行って穀物を得たい」
と願い出た。かくて長平の岸辺に駐屯地を移した。
ところが、将軍の王承らは馬騰の存在が自分たちにとって害になるのではないかと恐れ、馬騰の軍営を攻撃した。
その時、馬騰は付近に外出していて無防備であったため、結局敗走して西方へのぼった。
ポイント
- 馬騰の挙兵は李傕に穀物の援助を断られたことが原因。
- 馬騰は将軍の王承に敗れて涼州に敗走した。
まとめ
以上をまとめると、大きく分けて次の3通りとなります。
1
- 馬騰が馬宇らと長安を攻めるが落とせず。
- 馬騰が韓遂と合流し、長平観に陣を移す。
- 馬騰・韓遂が長平観で樊稠らに敗れ、馬宇らが戦死する。
- 馬騰・韓遂が涼州に敗走する。
- 樊稠らが馬騰・韓遂を追撃する。
2
- 馬騰・韓遂・馬宇らが長平観で樊稠らに敗れ、馬宇らが戦死する。
- 馬騰・韓遂が涼州に敗走する。
- 樊稠らが馬騰・韓遂を追撃する。
3
- 馬騰が長安を攻め、馬宇らが内応する計画を立てる。
- 内応の計画が発覚し、馬宇らが槐里県に逃亡する。
- 馬騰が長平観で敗れ、涼州に敗走する。
- 追撃の記述なし。
- 樊稠らが槐里県を落とし、馬宇らを処刑する。
今回の記事では、3 をベースに樊稠らが馬騰・韓遂を追撃したことを加えて構成しています。