正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧①、於仇賁おきゅうふん於夫羅おふら区景おうけい区星おうせいです。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

おう


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お①(於・区)

於(お)

於仇賁おきゅうふん

生没年不詳。鮮卑せんぴ族の大人たいじん(部族長)。

光武帝こうぶてい[在位:建武けんぶ元年(25年)〜建武中元けんぶちゅうげん2年(57年)]の時になり、南北の単于ぜんうがお互いに攻伐を繰り返して匈奴きょうどの力が損耗そんもうすると、鮮卑せんぴはそれに乗じて勢力を盛んにした。

建武けんぶ30年(54年)、鮮卑せんぴ大人たいじん於仇賁おきゅうふんは、部族民を引き連れて都にのぼって朝貢し、おうに封ぜられた。


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於夫羅おふら於扶羅おふら

生年不詳〜建安けんあん元年(195年)。父は羌渠きょうきょ。子に劉豹りゅうほう。弟に呼廚泉こちゅうせん。孫は前趙ぜんちょう高祖こうそ光文帝こうぶんてい劉淵りゅうえん)。南匈奴みなみきょうど単于ぜんう

父・羌渠きょうきょ単于ぜんうに立てられると、その子於夫羅おふら右賢王ゆうけんおうに立てられた。

中平ちゅうへい年間(184年〜189年)に朝廷が匈奴きょうどの兵を徴発ちょうはつした時、於夫羅おふらは統率者としてかんを援助した。

中平ちゅうへい5年(188年)、反乱により父・羌渠きょうきょが殺害されたため於夫羅おふら単于ぜんうに立てられたが、羌渠きょうきょを殺害した国人たちは須卜骨都侯しゅうほくこつとこう単于ぜんう擁立ようりつ於夫羅おふらみずか洛陽らくよう雒陽らくよう)に行きかんの朝廷に訴えたが、この時朝廷は霊帝れいてい崩御の混乱にあったため相手にされなかった。

その後本国に帰ることもかなわず、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・西河郡せいかぐん白波賊はくはぞくと合流して諸郡を荒らし回ったが、単于ぜんうに即位して7年、建安けんあん元年(195年)に亡くなった。


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区(おう)

区景おうけい

生没年不詳。荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐんの人。張津ちょうしんの部将。蒼梧都督そうごととく

朱符しゅふの死後、朝廷は張津ちょうしんを派遣して交州刺史こうしゅうししとしたが、部将の区景おうけいに殺害された。


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区星おうせい

生没年不詳。荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐんの人*1

中平ちゅうへい4年(187年)10月、荊州けいしゅう零陵郡れいりょうぐん桂陽郡けいようぐんで反乱を起こした周朝しゅうちょう郭石かくせきと呼応して荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐんで反乱を起こした。

区星おうせいは勝手に将軍しょうぐんを名乗り、1万余人の人数を集めて町々を包囲し攻撃を加えていたが、長沙太守ちょうさたいしゅに任命された孫堅そんけんに、1ヶ月もたないうちに撃ち破られた。

脚注

*1区景おうけいの同族と考えられている。


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【三国志人物伝】総索引