正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑲(閻晏・閻宇・閻温・閻顕・閻行・閻芝・閻象・閻忠・閻浮)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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え⑲(閻)
閻(えん)
閻晏
生没年不詳。蜀の行参軍・建義将軍。李平(李厳)を解任する決議をした23人の中に名前がある。
蜀の建興9年(231年)、4度目の北伐において、李平(李厳)が食糧輸送に失敗したことにより、諸葛亮は祁山からの撤退を余儀なくされた。
成都に戻ってみると李平(李厳)は敗戦の責任をすべて諸葛亮に着せようとしたので、諸葛亮はこれまでの李平(李厳)の罪を挙げ、劉琰、魏延、袁綝ら22人と協議して即刻李平(李厳)を解任し、官禄・割符・印綬・符策(辞令)を召し上げ、その爵土(封土)を没収した。
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閻宇・文平
生没年不詳。荊州・南郡の人。蜀の右大将軍。
長年に渡って業績を上げ、職務に熱心で次々と馬忠の後任(蜀の南部地帯の統治)を務めたが、その威厳に満ちた風格、称賛されるべき功績の点ではどちらも馬忠に及ばなかった。
蜀の延熙20年(257年)頃、呉の混乱に乗じられないよう、呉の朱績から魏の牽制を依頼された蜀は、右将軍(右大将軍)の閻宇に兵士5千を指揮させて白帝城の守備を増強した。
蜀の景耀5年(262年)、鄧艾に敗れた姜維が沓中に駐屯すると、閻宇は宮中で権力を握った宦官の黄皓と結託したため、姜維は2度と成都に帰還しなかった。
その翌年に魏が侵攻してくると、副将の羅憲に2千の兵で永安城の守備を任せ、成都に召還された。
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閻温・伯倹
生年不詳〜建安18年(213年)没。涼州・天水郡(漢陽郡)・西城県の人。魏の臣。涼州の別駕として漢陽郡・上邽県の県令を代行した。
建安16年(211年)、「潼関の戦い」で曹操に敗れた馬超が上邽県に逃れてくると、郡民の任養らはこぞって彼を出迎えた。これを引き止めることができなかった閻温は州治所である冀城(冀県)に入る。
建安18年(213年)、馬超が再び冀城(冀県)を包囲すると、閻温はこっそり城を脱出して長安に駐屯する夏侯淵に危急を知らせることになった。閻温は夜間に水中を潜って抜け出したが、翌日にはその跡を発見され顕親県の県境で捕らえられてしまう。
馬超は閻温の縛めを解くと、「もし儂の言葉に従い、引き返して『救援はない』と言うならば、災い転じて福となるだろう。従わなければ今すぐ死ぬことになる」と言い、閻温はそれを承諾した。
そこで馬超は、閻温を車に載せて冀城(冀県)の城下に連れて行くと、閻温は「大軍が3日を過ぎぬうちに来ますぞ、頑張ってくれっ!」と大声で叫び、城中ではみな泣きながら「万歳」を唱えた。その後閻温は馬超に殺害された。
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閻顕
生年不詳〜延光4年(125年)没。司隷・河南尹・滎陽県の人。閻太后*1の兄弟。弟に閻術、閻景、閻耀、閻晏。
安帝の崩御後、閻太后が臨朝*2すると車騎将軍に任命され、宦官の江京たちと組んで国政を壟断(利益・権利を独占すること)したが、北郷侯(第7代皇帝・少帝)が崩御すると、順帝を擁する宦官の孫程らに敗れ誅殺された。
「曹爽が処刑される夢」を見た皇甫謐は、「昔、後漢の閻顕は皇太后の高貴さを頼みとして国家権力を手中にした。これ以上の重さはないと言って良い。だがそれでも宦官19人のため、ある日死体となって横たわったのだ。(まして曹爽ごときが処刑されることは十分あり得ることだ)」と言った。
脚注
*1後漢の第6代皇帝・安帝の皇后。
*2幼い天子(皇帝)に代わって皇太后が政務を執ること。
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閻行・彦明
生没年不詳。涼州・金城郡の人。後の名は艶。
年少の頃から屈強との評判があり、最初下っ端の将校として韓約(韓遂)に従っていた。
建安年間の初め、韓遂と馬騰が互いに攻撃し合った時、閻行は馬騰の子・馬超を突き刺して矛を折り、折れた矛で馬超の首筋を殴って瀕死の状態にした。
建安14年(209年)、韓遂の使者として曹操の元を訪れた際、(益州の)犍為太守に任命され、韓遂に進言して韓遂の子と自分の父母を鄴県に住まわせた。
その後、韓遂が馬超と結んで曹操に敵対すると、閻行はこれに反対した。韓遂と馬超が曹操に敗れ夏侯淵が涼州の平定に乗り出すと、閻行は韓遂に叛旗を翻し、曹操に列侯に封ぜられた。
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閻芝
生年不詳〜蜀の建興6年(228年)以前没。蜀の巴西太守。
蜀の章武2年(222年)、劉備が猇亭(夷陵の戦い)で敗北を喫した時、閻芝は諸県の兵・5千人を徴発して馬忠に送って行かせ、空いた穴を埋めさせた。
蜀の建興6年(228年)に諸葛亮が上奏した『後出師表』に、「臣(諸葛亮)が漢中に行きましてからわずか1年しか経っておりませんのに、趙雲*3・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃・鄧銅ら、さらに曲長や屯将を失い、(以下略)」と、精兵の1人としてその名前が記されている。
脚注
*3趙雲の死は漢中遠征後6年経ってからであり、この記述は事実に合わない。
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閻象
生没年不詳。袁術配下の主簿。
興平2年(195年)12月、天子(献帝)が李傕らに敗れると、袁術は配下の者を集めて「自ら天子の位に昇ること」を相談した。
この時、誰も思いきって答える者はいない中、閻象が進み出て、
「昔、周は后稷から文王に至るまで恩徳を積み、手柄を重ねて天下の2/3を支配しながらも、なお殷に臣下として仕えました。殿(袁術)のお家は代々繁栄しておられますが、まだ周の隆盛には及びませんし、漢の王室は衰えたとは言っても、未だ殷の紂王の暴虐さには至っておりません」
と諫めた。袁術は押し黙ったまま不機嫌な様子だったが、この諫言を受け入れた。
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閻忠
生没年不詳。涼州・漢陽郡の人。冀州・安平国・信都県の県令。
若い頃の賈詡を認める者はいなかったが、閻忠だけは「賈詡には張良や陳平*3のような奇略がある」と彼を高く評価していた。
中平元年(184年)、「黄巾の乱」を討伐してその威光を天下に鳴り響かせた車騎将軍・皇甫嵩に、
「人に勝る功績を樹立しながら凡庸な君主(霊帝)に仕え続けていては、身の安泰を図ることはできません」
と独立することを勧めたが、皇甫嵩が聞き入れなかったため涼州に逃亡した。
この年の冬、涼州で宋建・王国らが反乱を起こすと、辺章と韓遂は王国を追放して閻忠を指導者に祭り上げ、36の部将を統率させて車騎将軍の称号を奉ったが、閻忠は感情を昂ぶらせ、発病して亡くなった。
脚注
*3張良、陳平共に前漢・高祖(劉邦)の策士。
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閻浮
生没年不詳。魏の部将。
魏と呉の国境にいた閻浮と趙楫は、呉に身を寄せようと行動を起こしたが、呉の呼応が遅かったために身の破滅を招いた(殺害された)。
このことは建安17年(212年)、呉の胡綜が、魏の呉質が国内で疑惑を持たれていることを利用して偽作した「呉への降伏文3篇」の中に記述されている。
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