正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑮、閻晏えんあん閻宇えんう閻温えんおん閻顕えんけん閻行えんこん閻纘えんさん閻志えんし閻芝えんし閻柔えんじゅう閻象えんしょう閻忠えんちゅう閻浮えんふ閻圃えんほ)です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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え⑮(閻)

閻(えん)

閻晏えんあん

生没年不詳。しょく行参軍こうさんぐん建義将軍けんぎしょうぐん李平りへい李厳りげん)を解任する決議をした23人の中に名前がある。

しょく建興けんこう9年(231年)、4度目の北伐ほくばつにおいて、李平りへい李厳りげん)が食糧輸送に失敗したことにより、諸葛亮しょかつりょう祁山きざんからの撤退を余儀なくされた。

成都せいとに戻ってみると李平りへい李厳りげん)は敗戦の責任をすべて諸葛亮しょかつりょうに着せようとしたので、諸葛亮しょかつりょうはこれまでの李平りへい李厳りげん)の罪をげ、劉琰りゅうえん魏延ぎえん袁綝えんりんら22人と協議して即刻李平りへい李厳りげん)を解任し、かんろくわりいんじゅさく(辞令)を召し上げ、そのしゃくほう)を没収した。


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閻宇えんう文平ぶんへい

生没年不詳。荊州けいしゅう南郡なんぐんの人。しょく右大将軍ゆうだいしょうぐん

長年に渡って業績を上げ、職務に熱心で次々と馬忠ばちゅうの後任(しょくの南部地帯の統治)をつとめたが、その威厳に満ちた風格、称賛されるべき功績の点ではどちらも馬忠ばちゅうに及ばなかった。

しょく延熙えんき20年(257年)頃、の混乱に乗じられないよう、朱績しゅせきから牽制けんせいを依頼されたしょくは、右将軍ゆうしょうぐん右大将軍ゆうだいしょうぐん)の閻宇えんうに兵士5千を指揮させて白帝城はくていじょうの守備を増強した。

しょく景耀けいよう5年(262年)、鄧艾とうがいに敗れた姜維きょうい沓中とうちゅうに駐屯すると、閻宇えんうは宮中で権力を握った宦官かんがん黄皓こうこうと結託。このため、姜維きょういは2度と成都せいとに帰還しなかった。

その翌年にが侵攻してくると、副将の羅憲らけんに2千の兵で永安城えいあんじょうの守備を任せ、成都せいとに召還された。


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閻温えんおん伯倹はくけん

生年不詳〜建安けんあん18年(213年)没。涼州りょうしゅう天水郡てんすいぐん漢陽郡かんようぐん)・西城県せいじょうけんの人。の臣。涼州りょうしゅう別駕べつがとして漢陽郡かんようぐん上邽県じょうけいけん県令けんれいを代行した。

建安けんあん16年(211年)、「潼関どうかんの戦い」で曹操そうそうに敗れた馬超ばちょう上邽県じょうけいけんに逃れてくると、郡民の任養じんようらはこぞって彼を出迎えた。これを引き止めることができなかった閻温えんおんは州治所である冀城きじょう冀県きけん)に入る。

建安けんあん18年(213年)、馬超ばちょうが再び冀城きじょう冀県きけん)を包囲すると、閻温えんおんはこっそり城を脱出して長安ちょうあんに駐屯する夏侯淵かこうえんに危急を知らせることになった。閻温えんおんは夜間に水中をくぐって抜け出したが、翌日にはそのあとを発見され顕親県けんしんけんの県境で捕らえられてしまう。

馬超ばちょう閻温えんおんいましめをくと、「もしわしの言葉に従い、引き返して『救援はない』と言うならば、わざわい転じて福となるだろう。従わなければ今すぐ死ぬことになる」と言い、閻温えんおんはそれを承諾した。

そこで馬超ばちょうは、閻温えんおんを車に載せて冀城きじょう冀県きけん)の城下に連れて行くと、閻温えんおんは「大軍が3日を過ぎぬうちに来ますぞ、頑張ってくれっ!」と大声で叫び、城中ではみな泣きながら「万歳」を唱えた。その後閻温えんおん馬超ばちょうに殺害された。


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閻顕えんけん

生年不詳〜延光えんこう4年(125年)没。司隷しれい河南尹かなんいん滎陽県けいようけんの人。閻太后えんたいこう*1の兄弟。弟に閻術えんじゅつ閻景えんけい閻耀えんよう閻晏えんあん

安帝あんてい崩御ほうぎょ後、閻太后えんたいこう臨朝りんちょう*2すると車騎将軍しゃきしょうぐんに任命され、宦官かんがん江京こうけいたちと組んで国政を壟断ろうだん(利益・権利を独占すること)したが、北郷侯ほくきょうこう(第7代皇帝・少帝しょうてい)が崩御ほうぎょすると、順帝じゅんていようする宦官かんがん孫程そんていらに敗れ誅殺ちゅうさつされた。


曹爽そうそうが処刑される夢」を見た皇甫謐こうほひつは、「昔、後漢ごかん閻顕えんけん皇太后こうたいごうの高貴さを頼みとして国家権力を手中にした。これ以上の重さはないと言って良い。だがそれでも宦官かんがん19人のため、ある日死体となって横たわったのだ。(まして曹爽そうそうごときが処刑されることは十分あり得ることだ)」と言った。

脚注

*1後漢ごかんの第6代皇帝・安帝あんてい皇后こうごう

*2幼い天子てんし(皇帝)に代わって皇太后こうたいごうが政務をること。


閻行えんこう彦明げんめい

生没年不詳。涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの人。後の名はえん

年少の頃から屈強との評判があり、最初下っ将校しょうこうとして韓約かんやく韓遂かんすい)に従っていた。

建安けんあん年間の初め、韓遂かんすい馬騰ばとうが互いに攻撃し合った時、閻行えんこう馬騰ばとうの子・馬超ばちょうを突き刺してほこを折り、折れたほこ馬超ばちょうの首筋をなぐって瀕死ひんしの状態にした。

建安けんあん14年(209年)、韓遂かんすいの使者として曹操そうそうの元をおとずれた際、(益州えきしゅうの)犍為太守けんいたいしゅに任命され、韓遂かんすいに進言して韓遂かんすいの子と自分の父母を鄴県ぎょうけんに住まわせた。

その後、韓遂かんすい馬超ばちょうと結んで曹操そうそうに敵対すると、閻行えんこうはこれに反対した。韓遂かんすい馬超ばちょう曹操そうそうに敗れ夏侯淵かこうえん涼州りょうしゅうの平定に乗り出すと、閻行えんこう韓遂かんすい叛旗はんきひるがえし、曹操そうそう列侯れっこうに封ぜられた。


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閻纘えんさん続伯ぞくはく

生没年不詳。益州えきしゅう巴西郡はせいぐん安漢県あんかんけんの人。父は閻璞えんはく。祖父は閻圃えんほしん西戎司馬せいじゅうしば

広く詳細に物事に通じて、歴史の記録者として立派な資質を持っていた。


魏書ぎしょ管輅伝かんろでん裴松之はいしょうし注に、閻纘えんさん劉太常りゅうたいじょう劉寔りゅうしょく)から聞いた「管辰かんしん管輅伝かんろでんせていない管輅かんろの話」が紹介されている。

関連人物

閻志えんし

生没年不詳。幽州ゆうしゅう広陽郡こうようぐんの人。兄に閻柔えんじゅう上谷太守じょうこくたいしゅ

太和たいわ2年(228年)、護鮮卑校尉ごせんぴこうい田豫でんよの使者・夏舎かしゃ鮮卑せんぴ族の大人たいじん軻比能かひのう女婿むすめむこ鬱築鞬うつちくけんに殺害されたため、田豫でんよは西部鮮卑せんぴ蒲頭ほとう泄帰泥せつきでいひきいて長城ちょうじょうを出て鬱築鞬うつちくけんを討ち、これをひどく撃ち破った。

その帰還の途上、田豫でんよの軍が馬城ばじょう馬邑ばゆう故城こじょう)まで来た時、軻比能かひのうみずから3万騎をひきいてこれを包囲した。

その包囲は7日に及んだが、明帝めいてい曹叡そうえい)が平素から鮮卑せんぴ族が信頼を寄せている閻志えんしを派遣してさとしたため、軻比能かひのう馬城ばじょうの包囲を解いて引きげた。


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閻芝えんし

生年不詳〜しょく建興けんこう6年(228年)以前没。しょく巴西太守はせいたいしゅ

しょく章武しょうぶ2年(222年)、劉備りゅうび猇亭おうてい夷陵いりょうの戦い)で敗北をきっした時、閻芝えんしは諸県の兵・5千人を徴発ちょうはつして馬忠ばちゅうに送って行かせ、いた穴をめさせた。

しょく建興けんこう6年(228年)に諸葛亮しょかつりょうが上奏した後出師表ごすいしのひょうに、「臣(諸葛亮しょかつりょう)が漢中かんちゅうに行きましてからわずか1年しかっておりませんのに、趙雲ちょううん*3陽羣ようぐん馬玉ばぎょく閻芝えんし丁立ていりつ白寿はくじゅ劉郃りゅうこう鄧銅とうどうら、さらに曲長きょくちょう屯将とんしょうを失い、(以下略)」と、精兵の1人としてその名前がしるされている。


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脚注

*3趙雲ちょううんの死は漢中かんちゅう遠征後6年ってからであり、この記述は事実に合わない。


閻柔えんじゅう

生没年不詳。幽州ゆうしゅう広陽郡こうようぐんの人。弟に閻志えんし烏丸校尉うがんこうい

若い頃、烏丸うがん鮮卑せんぴの元に捕らわれていたが、やがて異民族たちの崇敬すうけいを集め、鮮卑せんぴ族の力を借りて烏丸校尉うがんこうい邢挙けいきょを殺害し、みずからその官についた。

その後、袁紹えんしょうに協力して劉虞りゅうぐを殺害した公孫瓚こうそんさんを滅ぼしたが、建安けんあん5年(200年)に袁紹えんしょう曹操そうそう官渡かんとで対峙すると曹操そうそうに帰順し、曹操そうそう河北かほくを平定すると正式に烏丸校尉うがんこういに任命された。


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閻象えんしょう

生没年不詳。袁術えんじゅつ配下の主簿しゅぼ

興平こうへい2年(195年)12月、天子てんし献帝けんてい)が李傕りかくらに敗れると、袁術えんじゅつは配下の者を集めて「みずか天子てんしの位に昇ること」を相談した。

この時、誰も思いきって答える者はいない中、閻象えんしょうが進み出て、

「昔、しゅう后稷こうしょくから文王ぶんおうに至るまで恩徳を積み、手柄を重ねて天下の2/3を支配しながらも、なおいんに臣下として仕えました。殿(袁術えんじゅつ)のお家は代々繁栄しておられますが、まだしゅうの隆盛には及びませんし、かんの王室はおとろえたとは言っても、いまいん紂王ちゅうおうの暴虐さには至っておりません」

いさめた。袁術えんじゅつは押し黙ったまま不機嫌な様子だったが、この諫言かんげんを受け入れた。


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閻忠えんちゅう

生没年不詳。涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんの人。冀州きしゅう安平国きしゅう信都県しんとけん県令けんれい

若い頃の賈詡かくを認める者はいなかったが、閻忠えんちゅうだけは「賈詡かくには張良ちょうりょう陳平ちんぺい*3のような奇略がある」と彼を高く評価していた。

中平ちゅうへい元年(184年)、「黄巾こうきんの乱」を討伐してその威光を天下に鳴り響かせた車騎将軍しゃきしょうぐん皇甫嵩こうほすうに、

「人に勝る功績を樹立しながら凡庸ぼんような君主(霊帝れいてい)に仕え続けていては、身の安泰をはかることはできません」

と独立することを勧めたが、皇甫嵩こうほすうが聞き入れなかったため涼州りょうしゅうに逃亡した。

この年の冬、涼州りょうしゅう宋建そうけん王国おうこくらが反乱を起こすと、辺章へんしょう韓遂かんすい王国おうこくを追放して閻忠えんちゅうを指導者に祭り上げ、36の部将を統率させて車騎将軍しゃきしょうぐんの称号をたてまつったが、閻忠えんちゅうは感情をたかぶらせ、発病して亡くなった。


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脚注

*3張良ちょうりょう陳平ちんぺい共に前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)の策士。


閻浮えんふ

生没年不詳。の部将。

の国境にいた閻浮えんふ趙楫ちょうしゅうは、に身を寄せようと行動を起こしたが、の呼応が遅かったために身の破滅をまねいた(殺害された)。

このことは建安けんあん17年(212年)、胡綜こそうが、呉質ごしつが国内で疑惑を持たれていることを利用して偽作した「への降伏文3篇」の中に記述されている。


閻圃えんほ

生年不詳〜[黄初こうしょ元年(220年)〜青龍せいりゅう4年(236年)]没。益州えきしゅう巴西郡はせいぐん安漢県あんかんけんの人。子は閻璞えんはく。孫に閻纘えんさん張魯ちょうろ功曹こうそう

益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんの住民の中に地中から玉印ぎょくいんを手に入れて献上した者があり、部下たちは張魯ちょうろ漢寧王かんねいおうの尊号を名乗ることを望んだが、閻圃えんほはこれをいさめ、張魯ちょうろも彼の意見に従った。

建安けんあん20年(215年)、曹操そうそう張魯ちょうろ征伐に向かい陽安関ようへいかんに達すると、張魯ちょうろ漢中郡かんちゅうぐんをあげて降伏しようとしたが、閻圃えんほは「今追い詰められた状態で出向いて行ったならば、きっと評価は小さくなりましょう。杜濩とこを頼るか朴胡ふこの元に行き、抵抗した後で臣下の礼を取られるならば、必ずや評価は大きくなりましょう」と言い、張魯ちょうろはこれに従って、蔵に封印をして立ち去った。

この態度に感心した曹操そうそうは使者を立てて慰撫いぶ・説得し、張魯ちょうろが出頭すると張魯ちょうろとその5人の子を列侯れっこうに封じた。この時、閻圃えんほ平楽郷侯へいらくきょうこうに封ぜられ、馬超ばちょうしょう董氏とうし)を与えられた。

黄初こうしょ年間に爵位と領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分となり、その後10年あまりで病死した。


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