建安3年(198年)、周瑜と魯粛が袁術の下を離れ、孫策に仕えた経緯についてまとめています。
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目次
袁術支配下の周瑜
袁術の揚州入り
初平4年(193年)に「匡亭の戦い」で曹操に敗れた袁術は、それまで本拠としていた荊州・南陽郡を放棄して揚州・九江郡・寿春県に逃走します。
この時、袁術によって揚州刺史に任命されていた陳瑀は、袁術の揚州入りを拒否しましたが、陳瑀を追い出して寿春県に入った袁術は、徐州伯を称して揚州への影響力を強めました。
袁術の逃走経路
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袁術と揚州刺史・劉繇の争い
興平元年(194年)、朝廷から揚州刺史に任命された劉繇は、揚州刺史の治所である寿春県に袁術が居座っているため着任することができずにいました。
ですがこの時、袁術によって任命された丹楊太守・呉景と丹楊都尉・孫賁が劉繇を迎え入れたので、しかたなく劉繇は、袁術との争いを避けて揚州・呉郡・曲阿県に治所を置きます。
その後、兵糧の供出を拒んだ廬江太守・陸康に激怒した袁術が、孫策に廬江郡を攻めさせると、これを漢王朝に対する反逆とみなした劉繇は、袁術によって任命された呉景と孫賁を丹楊郡(丹陽郡)から追い出しました。
これに袁術は、故吏の恵衢を勝手に揚州刺史にして呉景と孫賁に丹楊郡(丹陽郡)の奪還を命じますが、劉繇が派遣した樊能・于麋・張英らを撃ち破ることはできず、両軍は長江を挟んで対峙したまま膠着状態となり、1年以上が経過しました。
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孫策との再会
当時、秘かに独立の野心を抱いていた孫策は、袁術から「呉景らを助けて江東を平定する」許可を得ると、揚州・九江郡・歴陽国に入って旧知の周瑜に急ぎの使者を送ります。
ちょうどこの時、呉景に代わって丹楊太守に任命された従父の周尚の元に来ていた周瑜は、すぐさま兵を率いて孫策を出迎えました。
周瑜の出迎えを受けた孫策は、
「卿を得る事ができて、思いがかなったっ!」
と大喜びします。
九江郡の領城
その後、劉繇軍を破って曲阿県に入った孫策は、
「これだけの軍勢があれば、私1人で呉郡・会稽郡を手中に収め、山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)を平定するのに十分だ。
あなたには戻って丹楊郡(丹陽郡)の守りを固めて欲しい」
と言い、周瑜は揚州・丹楊郡(丹陽郡)に戻ります。
ですが、ちょうどこの頃、袁術が従弟の袁胤を丹陽太守として送り込んだので、元の丹陽太守・周尚と周瑜は、袁術の本拠地である揚州・九江郡・寿春県に呼び戻され、周瑜はこれに従いました。
この時の孫策は「江東に地盤を得て独立したい」との思いは持っていましたが、袁術の一部将にすぎません。孫策が言った「丹楊郡(丹陽郡)の守りを固めて欲しい」とは、「周瑜の従父・丹陽太守の周尚を助けよ」という意味でしょう。
この時周瑜は何の官職にもついておらず、周尚が寿春県に呼び戻されたならば、丹楊郡(丹陽郡)は袁胤に任せて従父に従うのは自然なことでした。
周瑜が居巣長に任命される
袁術は周瑜を部将として自分の配下につけようとしましたが、周瑜は「袁術が結局は失敗することになるであろう」ことを見通していたので、揚州・廬江郡・居巣県の県長になりたいと願い出て、そこから孫策の下に身を寄せようと考えました。
そして建安3年(198年)、袁術は周瑜の願いを聞いて彼を居巣長に任命します。
揚州・廬江郡・居巣県(居巣国)
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周瑜と魯粛の交わり
東城県の魯粛
徐州・下邳国・東城県(東成県)の魯粛は生まれてすぐに父親を亡くし、祖母と一緒に生活していました。
魯粛の家は裕福だったので、魯粛は財貨を盛大にばらまき、田畑を売りに出してでも困窮している人々を救い、有能な人物と交わりを結ぶことにつとめて郷里の人々の心を掴んでいました。
周瑜の訪問を受ける
居巣長となった周瑜は、数百人を連れてわざわざ魯粛の元に挨拶に行き、資金や食糧の援助を求めます。
魯粛の家には2つの蔵にそれぞれ3千斛の米がありましたが、この時魯粛はそのうちの1つの蔵を指して、それをそっくり周瑜に与えました。
周瑜は、こうしたことからますます彼が非凡な人物であることを知り、魯粛と親しい交わりを結んで厚い友情を固めました。
居巣県と東城県(東成県)
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周瑜と魯粛が孫策に身を寄せる
魯粛が東城長に任命される
その後、魯粛の名声を聞いた袁術は、彼を東城長[徐州・下邳国・東城県(東成県)の県長]に任命します。
ですが魯粛は、袁術のやることが支離滅裂で、共に大事を成すには足らないと見て取って、老人や子供たちの手を引き、血気にはやる若者たち百余人を引き連れて、居巣県の周瑜の元に身を寄せました。
豆知識
『呉書』魯粛伝が注に引く『呉書』に、この時のことが詳しく記されています。
(魯粛は)天下が騒がしくなってくると、剣術と騎馬と弓とを習い、若者たちを集めて彼らに衣食を支給し、南山を駆け回って狩猟を行うと共に、秘かに彼らを指揮して兵法の練習を行った。
(中略)
後に英雄俊傑たちが各地に蜂起して中原が騒がしくなると、魯粛はその部下たちに宣言をした。
「国家の中央は統治の能力を失い、賊徒たちが横暴を働いて、淮水・泗水の辺りも子孫を残し留めるべき土地ではなくなってしまった。
聞くところでは、江東は沃野(よく肥えた平野)が万里に広がり、民は富み兵は強く、難を避けるに足る土地らしい。
私と共にかの楽土に行き、時勢が変化するのを見守ろうとする者はおらぬか」
彼の部下たちはみなその言葉に従い、弱い者を先頭に立て、壮健で力がある者がその後に続いて男女3百人が出発した。
すると州の役所から、この一行を引き留めようと騎馬の者が追って来たので、魯粛らは歩みを緩め、兵器を取り弓を引きしぼりつつ、追っ手に向かって言った。
「あなた達も立派な大人なのだから、時勢の流れは分かるであろう。今日、天下に兵乱が広がっており、手柄があっても賞せられることなく、我々を追跡しなくとも罰せられることもない。
それなのに、なぜ我々に干渉されるのか」
そう言うと、自ら地面に盾を立てて矢を射かけてみせると、矢はみな盾を貫き通した。
騎馬の者たちは、魯粛の言葉を「もっともだ」と思い、またとても制止しきれるものではないと見て取って、連れ立って引き返して行った。
孫策に仕える
もともと孫策の下に身を寄せようと考えていた周瑜は、魯粛を迎えると、一緒に長江を渡って東方に進んで孫策の元に向かいます。
官職を棄ててやって来た2人を出迎えた孫策は、周瑜を建威中郎将に任命し、魯粛の非凡さを認めて特に尊重しました。そして魯粛は揚州・呉郡・曲阿県に居を移します。
建安3年(198年)、魯粛の援助を得て彼と意気投合した周瑜は、共に官職を棄て、長江を渡って孫策の下に身を投じました。
また、建安2年(197年)春に袁術が天子(皇帝)を僭称したことにより、すでに孫策は袁術と決別していましたので、もはや孫策と袁術の関係性に気を遣う必要はありません。
この時孫策は、呉郡と丹楊郡(丹陽郡)の東部に加え、王朗を降伏させて会稽郡の平定を終えていました。