建安(けんあん)3年(198年)に孫策(そんさく)が行った朝廷工作と、その後の丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))平定についてまとめています。

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孫策の朝廷工作

孫策が朝貢する

建安(けんあん)3年(198年)、孫策(そんさく)が正議校尉(せいぎこうい)*1・張紘(ちょうこう)を派遣して再び朝廷に地方の産物を献上しました。その内容は、建安(けんあん)元年(196年)の献上物に倍するものでした。

すると曹操(そうそう)は、孫策(そんさく)を懐柔(かいじゅう)しておきたいと思い、孫策(そんさく)を討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)*2に任命して呉侯(ごこう)に封じます。


また曹操(そうそう)は、弟の娘を孫策(そんさく)の弟・孫匡(そんきょう)に嫁がせ、子の曹彰(そうしょう)に孫策(そんさく)の従兄・孫賁(そんふん)の娘を娶(めと)らせ、礼を用(もち)いて孫策(そんさく)の弟・孫権(そんけん)と孫翊(そんよく)を招聘(しょうへい)し、張紘(ちょうこう)を侍御史(じぎょし)に任命しました。

またこの時曹操(そうそう)は、揚州刺史(ようしゅうしし)の厳象(げんしょう)に命じて孫権(そんけん)を茂才(もさい)(秀才(しゅうさい))に推挙させています。

脚注

*1正議校尉(せいぎこうい)は孫策(そんさく)が自(みずか)ら置いた官です。

*2討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)はこの時初めて置かれました。また、烏程侯(うていこう)から呉侯(ごこう)への転封は、加増になります。

孫策の朝貢について

建安(けんあん)元年(196年)の朝貢

『呉書(ごしょ)』孫策伝(そんさくでん)が注に引く『江表伝(こうひょうでん)』に、


「孫策(そんさく)は奉正都尉(ほうせいとい)の劉由(りゅうゆう)と五官掾(ごかんえん)の高承(こうしょう)を使者に立て、上奏文を携(たずさ)えて許県(きょけん)に行き、謹(つつし)んで土地の産物を献上させた」


とあり、これが建安(けんあん)元年(196年)の朝貢だと思われます。

張紘(ちょうこう)が派遣された時期

一方『呉書(ごしょ)』張紘伝(ちょうこうでん)には、


「建安(けんあん)4年(199年)、孫策(そんさく)が張紘(ちょうこう)を使者として派遣し、許宮(きょきゅう)に赴(おもむ)いて上奏文を奉(たてまつ)らせたところ、張紘(ちょうこう)はそのまま許県(きょけん)に引き留(と)められて侍御史(じぎょし)に任ぜられた。許県(きょけん)にあっては少府(しょうふ)の孔融(こうゆう)ほかの人々がそれぞれに彼と親しい交(まじ)わりを結んだ」


とあり、また『呉書(ごしょ)』張紘伝(ちょうこうでん)が注に引く『呉書(ごしょ)』には、


「張紘(ちょうこう)は許県(きょけん)にやって来ると、朝廷の公卿(こうけい)や知人たちに向かって『孫策(そんさく)の資質と知謀は飛び抜けて優(すぐ)れており、3つの郡を平定した際には、あたかも風が草をなびかせるように容易に事が運び、加えて忠義と敬虔(けいけん)さと誠(まこと)をもって王室のためを考えている』と吹聴(ふいちょう)した。

当時、曹操(そうそう)は司空(しくう)の任にあって、厚い恩恵を施(ほどこ)して、遠い地方の者たちの機嫌を取ろうと計っており、文事に優(すぐ)れる者を鄭重(ていちょう)に遇(ぐう)して、新しい位号を与えたり加封(かほう)をしたりしていた。

そうしたことから張紘(ちょうこう)をその府(やくしょ)に辟(まね)いて掾(えん)に任ずると、推挙し高い評価を与えて及第させて侍御史(じぎょし)の役目を与え、後(のち)には張紘(ちょうこう)を九江太守(きゅうこうたいしゅ)に任じた。

しかし張紘(ちょうこう)自身は心中、昔の主君(孫策(そんさく))との恩義に引かれ、呉(ご)に戻って復命したいと考えていたので、病気を理由にしてそうした任官を固持した」


とありますが、『資治通鑑(しじつがん)』胡三省(こさんせい)注は『呉書(ごしょ)』張紘伝(ちょうこうでん)が建安(けんあん)4年(199年)としているのは、建安(けんあん)3年(198年)の誤(あやま)りとしています。

曹操が王朗を招く

また、曹操(そうそう)が上奏して、孫策(そんさく)に降伏した元会稽太守(かいけいたいしゅ)・王朗(おうろう)を徴(まね)きました。

孫策(そんさく)がこれに従って王朗(おうろう)を朝廷に還(かえ)らせたので、曹操(そうそう)は王朗(おうろう)を諫議大夫(かんぎたいふ)に任命して司空(しくう)の軍事(ぐんじ)に参画させます。


※時期としては、次に紹介する周瑜(しゅうゆ)と魯粛(ろしゅく)が孫策(そんさく)に従った後のことです。


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孫策の丹楊郡(丹陽郡)平定

周瑜と魯粛が孫策に従う

この頃袁術(えんじゅつ)が、周瑜(しゅうゆ)を居巣長(きょそうちょう)(揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・居巣県(きょそうけん)の県長(けんちょう))に任命し、臨淮(りんわい)(徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく))出身の魯粛(ろしゅく)を東城長(とうじょうちょう)[徐州(じょしゅう)・下邳国(かひこく)・東城県(とうじょうけん)(東成県(とうせいけん))の県長(けんちょう)]に任命しました。

ですが2人は、「袁術(えんじゅつ)には将来性がない」と思っていたので、官職を棄(す)て、長江(ちょうこう)を渡って孫策(そんさく)に従いました。そこで孫策(そんさく)は周瑜(しゅうゆ)を建威中郎将(けんいちゅうろうしょう)に任命し、魯粛(ろしゅく)は揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)・曲阿県(きょくあけん)に居を移しました。

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周瑜と魯粛が袁術を見限り孫策に仕える

袁術の煽動工作

袁術(えんじゅつ)が揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の大帥(たいすい)(山賊の頭目)・祖郎(そろう)らに密使を遣(つか)わして印綬(いんじゅ)を与え、山越(さんえつ)(揚州(ようしゅう)の山岳地帯に住む異民族)を扇動(せんどう)して孫策(そんさく)を攻撃させようとしました。

丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の状勢

興平(こうへい)2年(195年)、孫策(そんさく)の攻撃を受けた劉繇(りゅうよう)は、長江(ちょうこう)を遡(さかのぼ)って豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に逃亡しました。


劉繇の逃亡経路2

劉繇(りゅうよう)の逃亡経路


この時、劉繇(りゅうよう)配下の太史慈(たいしじ)は、途中、蕪湖県(ぶこけん)で姿をくらませて山中に入ると、勝手に丹楊太守(たんようたいしゅ)を名乗ります。

当時、揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の宣城県(せんじょうけん)以東は、孫策(そんさく)によって平定されていましたが、涇県(けいけん)以西の6県は未(いま)だ服従していませんでした。

そこで太史慈(たいしじ)は、涇県(けいけん)まで出てそこに屯府(とんふ)(軍事的な行政機構)を立てたところ、多くの山越(さんえつ)(揚州(ようしゅう)の山岳地帯に住む異民族)たちが帰属してきました。


丹楊郡(丹陽郡)の勢力図

青:孫策(そんさく)

赤:太史慈(たいしじ)・祖郎(そろう)


※丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))には、建安(けんあん)2年(197年)夏にも陳瑀(ちんう)が袁術(えんじゅつ)と同様の工作を行っています。


丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))には、袁術(えんじゅつ)が従弟(いとこ)の袁胤(えんいん)を丹陽太守(たんようたいしゅとして送り込んでいましたが、建安(けんあん)2年(197年)春、袁術(えんじゅつ)が天子(てんし)(皇帝(こうてい))を僭称(せんしょう)すると、孫策(そんさく)は徐琨(じょこん)に袁胤(えんいん)を討伐させ、徐琨(じょこん)を丹陽太守(たんようたいしゅに任命します。

そして、孫策(そんさく)と袁術(えんじゅつ)が敵対したことにより、袁術(えんじゅつ)によって徐州(じょしゅう)の広陵太守(こうりょうたいしゅに任命されていた呉景(ごけい)が戻ってくると、呉景(ごけい)がかつて丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))にあって、思いやりのある統治を行って人望を得ていたことから、徐琨(じょこん)に代えて呉景(ごけい)が丹陽太守(たんようたいしゅとなりました。

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祖郎と太史慈を討つ

祖郎(そろう)の帰順

袁術(えんじゅつ)の工作を知った孫策(そんさく)は、自(みずか)ら兵を率(ひき)いて陵陽県(りょうようけん)で涇県(けいけん)の大帥(たいすい)(山賊の頭目)・祖郎(そろう)を討ち、捕虜にした祖郎(そろう)に言いました。


「私は昔、お前に襲われて全滅に近い損害を受けたが、今、私は軍を立て直してお前を捕らえた。私は過去の遺恨(いこん)を忘れ、能力がある者を用(もち)いたいと思っている。これは何もお前に対してだけではないが、お前が恐れることはない」


この言葉を聞いた祖郎(そろう)は地面に頭を打ち付けて謝罪したので、孫策(そんさく)はすぐに祖郎(そろう)の械(かい)(刑具)を外してやり、彼を門下賊曹(もんかぞくそう)に任命しました。

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袁術の誤算。孫策に命じた陸康攻撃と揚州刺史・劉繇との衝突

太史慈(たいしじ)の帰順

続いて孫策(そんさく)は、自(みずか)ら勇里(ゆうり)(涇県(けいけん)に属す)に太史慈(たいしじ)を攻め、彼を捕虜にします。

太史慈(たいしじ)が引き出されて来ると、孫策(そんさく)はすぐさま彼の縄目を解かせ、その手を取って、


「神亭(しんてい)の時のこと*3を覚えておられるだろうか。もしあなたがあの時私を捕らえていたら、どう処分されただろう?」


と尋(たず)ねます。これに太史慈(たいしじ)が、


「想像もつきません」


と答えると、孫策(そんさく)は大いに笑って言いました。


「では、私は今から、あなたが私にしたであろう処遇をするとしよう。

聞けばあなたはかつて、郡の太守(たいしゅのために州の上奏文を奪い取られ、また文挙(ぶんきょ)(孔融(こうゆう)の字(あざな)どのの元に行かれては、玄徳(げんとく)(劉備(りゅうび)の字(あざな)どのへの使者に立ちたいと願い出られたとのこと。

これらはみな輝かしい『義』の行動であって、天下にかくれなき智士であられるのだが、ただこれまでに身を寄せられた相手が、十分にあなたに相応(ふさわ)しい人物ではなかった。

自分を殺そうとして射かけた矢が帯鉤(おびど)めに当たり、斬りかけた剣が袪(そで)を切り裂いた人物に対しても、古人はその者を任用するのに躊躇(ちゅうちょ)することがなかった*4。

ましてや私はあなたの知己(ちき)(お互いを理解し合った親友)なのだ。十分な処遇を受けられないのではないかとのご心配は無用である」


また孫策(そんさく)は、教(きょう)(配下への布告)を出して「太史慈(たいしじ)を優遇せよ」と命じ、


「龍が天翔(あまか)けようとする時、まず尺木(せきぼく)(龍の霊力が宿るとされるキノコ状の角)を借りるものなのである」

(自分が飛躍するためには、まず太史慈(たいしじ)のような配下が必要なのだ)


と言って、その場で太史慈(たいしじ)を門下督(もんかとくの役目につけます。


祖郎(そろう)と太史慈(たいしじ)が孫策(そんさく)の軍を先導しているのを見た丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の人々は、みな孫策(そんさく)に心服しました。

また、孫策(そんさく)は呉(ご)に戻ると、太史慈(たいしじ)に兵士を預けて折衝中郎将(せっしょうちゅうろうしょうに任命します。

脚注

*3神亭(しんてい)において孫策(そんさく)と太史慈(たいしじ)が一騎打ちを行ったこと。(下に関連記事があります)

*4斉(せい)の桓公(かんこう)と公子糾(こうしきゅう)が国君の地位を争った時、公子糾(こうしきゅう)に仕えていた管仲(かんちゅう)は桓公(かんこう)に矢を射かけ、その矢は帯鉤(おびど)めに当たって桓公(かんこう)はあやうく死を免(まぬか)れた。公子糾(こうしきゅう)が死に、桓公(かんこう)が斉君(せいくん)となると、桓公(かんこう)は管仲(かんちゅう)を罰せず、かえって宰相(さいしょうに用(もち)いて国を治め、五覇(ごは)の1人となった。
また晋(しん)の献公(けんこう)の指図で公子(こうしの重耳(ちょうじ)を伐(き)った寺人(じにん)(宦官(かんがん))の披(ひ)は、逃げる重耳(ちょうじ)を追って斬りつけたが、その袪(そで)を斬っただけであった。やがて国に戻った重耳(ちょうじ)が晋王(しんおう)となると、旧悪を忘れて披(ひ)を用(もち)い、これも五覇(ごはの1人となった。

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孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る


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孫策が豫章郡を安撫する

劉繇の死と華歆

この頃、孫策(そんさく)の攻撃を受けて揚州(ようしゅう)・豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に拠点を移していた劉繇(りゅうよう)が亡くなりました。

するとその配下にあった者たちはみな、豫章太守(よしょうたいしゅの華歆(かきん)を主君に戴(いただ)きたいと願い出ますが、華歆(かきん)自身は「時世を利用して勝手に任命を引き受けることは、人臣として義に反することだ」と考えていました。

人々は華歆(かきん)を囲んで何ヶ月も説得しましたが、結局華歆(かきん)は彼らに謝意だけを伝えて帰らせたので、劉繇(りゅうよう)配下の兵士や民衆たち1万余人は身の依(よ)り所を失ってしまいました。

太史慈の忠義

太史慈(たいしじ)に豫章郡(よしょうぐん)を安撫(あんぶ)させる

劉繇(りゅうよう)が死んだことを知った孫策(そんさく)は、太史慈(たいしじ)を呼んで「豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))の様子を探り、(孫策(そんさく)に)味方する者を糾合(きゅうごう)してくる」ように頼み、そのために必要な兵は「望み通りの人数をつけよう」と言いました。

孫策の太史慈への言葉全文
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劉牧(りゅうぼく)(劉繇(りゅうよう))どのは、かつて私が袁氏(えんし)(袁術(えんじゅつ))の手先となって廬江郡(ろこうぐん)を攻めたことを咎(とが)めておられたが、そのお気持ちはいささか意固地で、こちらの事情を十分に思いやってはいただけなかった。

袁氏(えんし)(袁術(えんじゅつ))の手先とならねばならなかったのは、亡き父上(孫堅(そんけん))の配下の兵士数千余人が、みんな公路(こうろ)(袁術(えんじゅつ))どのの下(もと)にあって、大業を成し遂(と)げんと志す私としては、公路(こうろ)(袁術(えんじゅつ))どのの言うままになって、以前の部下を還(かえ)してくれるよう頼むほかはなかったのだ。

ただ、2度まで公路(こうろ)(袁術(えんじゅつ))どのの元に赴(おもむ)いたが、千余人を還(かえ)してもらえただけであった。

このような事情のもとに私に廬江郡(ろこうぐん)の攻撃を命じられたので、成り行きとしてどうしても廬江郡(ろこうぐん)へ出撃せざるを得なかった。

しかし後(のち)になると、公路(こうろ)(袁術(えんじゅつ))どのは臣下としての節を守らず、道義を棄(す)てて反逆(はんぎゃく)僭上(せんじょう)の沙汰をなし、それを諫(いさ)めても聴き入れなくなった。(袁術(えんじゅつ)の皇帝僭称(せんしょう)のこと)

男同士が義によって交わりを結んだ時、もし天下の正義にもとる行いがあったなら、その関係を解消せざるを得ない。

私が公路(こうろ)(袁術(えんじゅつ))どのを頼り、後(のち)にはまたその関係を断った顛末(てんまつ)はこのようであったのだ。

今劉繇(りゅうよう)どのは亡くなられ、生きているうちに事情を詳しく説明できなかったことを心残りに思っている。


現在、彼の子息(しそく)(息子)が豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))におるが、華子魚(かしぎょ)(華歆(かきん))どのは彼をどのように処遇され、その元からの部曲(ぶきょく)(子飼いの兵士たち)は今もその下(もと)にいるのであろうか。

あなたは劉繇(りゅうよう)どのとは同じ青州(せいしゅう)の出身であり、以前に彼の下(もと)におられたこともある。

どうか、豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))まで行ってその子息(しそく)の様子をたずね、また私の気持ちを部曲(ぶきょく)たちに伝えていただけないだろうか。

部曲(ぶきょく)の中でこちらに来たいと願うものは一緒に連れて来てくださり、来たいと思わない者たちにも、優しい言葉をかけてやって欲しい。

それと同時に、子魚(しぎょ)(華歆(かきん)の字(あざな))どのがどのようにしてその地を治め、将来にどのような見通しを持っているかを偵察し、また廬陵県(ろりょうけん)や鄱陽県(はようけん)の民衆が、彼に心を寄せているのかも視(み)てきていただきたい。

配下には、あなたのお望み通りの数の兵士をつけてさし上げよう。


すると太史慈(たいしじ)は、


「私めは死刑を免(まぬか)れぬ大罪を犯しておりますのに、将軍(あなた)(孫策(そんさく))さまは斉(せい)の桓公(かんこう)や晋(しん)の文公(ぶんこう)ほどの度量でもって、望外の処遇をお与え下さいました。

古人も、その死を許されたことへのご恩に報いるために 生命を投げ出し忠節を尽くして、その生涯をかけて変わることがなかったのでございます。

ただ今はみなが兵を休めております時にあたり、多くの兵を動かすべきではありません。数十人を率(ひき)いて行けば、往(い)って還(かえ)って来るのに不足はありません」


と答えました。

側近たちの懸念(けねん)

この時孫策(そんさく)の側近たちは揃(そろ)って、


「太史慈(たいしじ)はきっと北(故郷の青州(せいしゅう))に走って戻っては来ないでしょう」


と言いました。ですが孫策(そんさく)は、


「子義(しぎ)(太史慈(たいしじ)の字(あざな))どのは、私を棄(す)てて他に誰と力を合わせられると言うのか」


と言い、昌門(しょうもん)(呉県(ごけん)の西の城門)まで太史慈(たいしじ)を見送りに出ると、その腕を取って別れを告げ、


「いつ頃戻って来られるだろうか?」


と尋(たず)ねました。太史慈(たいしじ)は、


「60日以上はかかりません」


と答え、数十人を連れて豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))に出発しました。

太史慈(たいしじ)の帰還

孫策(そんさく)が太史慈(たいしじ)を派遣した当初は、

  • 太史慈(たいしじ)は華子魚(かしぎょ)(華歆(かきん))と同郷であるから、あちらに留(とど)まって参謀(さんぼう)となるであろう。
  • 太史慈(たいしじ)はそのまま西に行って黄祖(こうそ)に身を寄せ、その上で北方に還(かえ)って行くかもしれない。

など、「太史慈(たいしじ)はまだ十分に信用できない」という意見が飛び交(か)い、多くの者が「太史慈(たいしじ)を派遣したのは失策であった」と言っていました。

ですが孫策(そんさく)は、


「諸君らの言うところはみな間違っている。私にはよく分かっているのだ。

太史子義(たいししぎ)(太史慈(たいしじ))は、確かに勇気と大胆さを備えておられるが、権謀術数をこととするようなお人ではない。

その心中には物事に対する見通しがあり、行おうとするところは常に道義に外れず、人とした約束はあくまでも尊重されて、一度(ひとたび)相手を知己(ちき)として心を許したならば、死をかけてもそれを守り通される。諸君らの言うような心配は無用だ」


と言って太史慈(たいしじ)を待ち続けます。

果たして太史慈(たいしじ)は約束の期日通りに帰還し、太史慈(たいしじ)を疑っていた者たちは、誤りを認めました。

豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))の様子

帰還した太史慈(たいしじ)は、次のように豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))の様子を報告します。

  • 華歆(かきん)に野心はなく、ただ情況を見守っているだけである。
  • 廬陵県(ろりょうけん)で僮芝(とうし)が勝手に太守(たいしゅ)を名乗っている。
  • 鄱陽県(はようけん)では民衆たちが宗部(そうぶ)(宗教的自治組織)を作り、華歆(かきん)の支配を拒(こば)んでいる。
  • 身近な海昬国(かいこんこく)・上繚(じょうりょう)*1一帯でさえも、民衆が砦(とりで)に立て籠(こ)もって労働徴用を拒(こば)んでいる。
太史慈の報告全文
タップ(クリック)すると開きます。

華子魚(かしぎょ)(華歆(かきん))どのは立派な徳をお持ちではありますが、将来への見通しを持って行動するような才能はなく、特別の計略もないままひたすら現在の情況を守っておられるだけです。

加えて丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))出身の僮芝(とうし)が廬陵県(ろりょうけん)で勝手な振る舞いをし、詔書(しょうしょ)を受けて太守(たいしゅ)となったのだと詐称(さしょう)しており、鄱陽県(はようけん)では民衆たちの頭目が自分たちの宗部(そうぶ)(宗教的自治組織)を作りあげ、武力でもって境界を守り、華子魚(かしぎょ)(華歆(かきん))どのが遣(つか)わした長官たちをはねつけて、『我々は別に郡を立てたのだ。漢(かん)の王朝が本当の太守(たいしゅ)を派遣して来るなら受け入れよう』などと申しております。

華子魚(かしぎょ)(華歆(かきん))どのには、こうした情況にある廬陵県(ろりょうけん)や鄱陽県(はようけん)を安定させることができないだけでなく、身近な海昬国(かいこんこく)・上繚(じょうりょう)*1一帯には砦(とりで)があって、そこには5〜6千戸が立て籠(こ)もって宗伍(そうご)(宗部(そうぶ)などと同様の民衆組織)を結び、郡に対して年貢の布だけは供出しても、労働徴用には1人として応じさせることができません。

華子魚(かしぎょ)(華歆(かきん))どのはこれに対しても座視しておられるだけです。


この報告を聞いた孫策(そんさく)は掌(て)を打って大いに笑い、豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))を兼併(けんぺい)(併合)する方針を定めました。


豫章郡(予章郡)の情況

豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))の情況

脚注

*1建昌県(けんしょうけん)から海昬国(かいこんこく)にかけて僚水(りょうすい)が流れる地域。


建安(けんあん)3年(198年)、朝廷工作を済ませた孫策(そんさく)は、まだ完全に掌握(しょうあく)できておらず、反乱の火種がくすぶる丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の平定に乗り出します。

そして、丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の祖郎(そろう)と太史慈(たいしじ)を帰順させた孫策(そんさく)は、太史慈(たいしじ)に豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))の様子を探るように命じますが、孫策(そんさく)配下の多くは帰順したばかりの太史慈(たいしじ)を信頼していませんでした。

そんな中、太史慈(たいしじ)は約束の期日までに帰還し、太史慈(たいしじ)が持ち帰った情報を元に、孫策(そんさく)は豫章郡(よしょうぐん)(予章郡(よしょうぐん))を併合する野心を抱(いだ)きました。