建安3年(198年)に孫策が行った朝廷工作と、その後の丹楊郡(丹陽郡)平定についてまとめています。
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目次
孫策の朝廷工作
孫策が朝貢する
建安3年(198年)、孫策が正議校尉*1・張紘を派遣して再び朝廷に地方の産物を献上しました。その内容は、建安元年(196年)の献上物に倍するものでした。
すると曹操は、孫策を懐柔しておきたいと思い、孫策を討逆将軍*2に任命して呉侯に封じます。
また曹操は、弟の娘を孫策の弟・孫匡に嫁がせ、子の曹彰に孫策の従兄・孫賁の娘を娶らせ、礼を用いて孫策の弟・孫権と孫翊を招聘し、張紘を侍御史に任命しました。
またこの時曹操は、揚州刺史の厳象に命じて孫権を茂才(秀才)に推挙させています。
脚注
*1正議校尉は孫策が自ら置いた官です。
*2討逆将軍はこの時初めて置かれました。また、烏程侯から呉侯への転封は、加増になります。
孫策の朝貢について
建安元年(196年)の朝貢
『呉書』孫策伝が注に引く『江表伝』に、
「孫策は奉正都尉の劉由と五官掾の高承を使者に立て、上奏文を携えて許県に行き、謹んで土地の産物を献上させた」
とあり、これが建安元年(196年)の朝貢だと思われます。
張紘が派遣された時期
一方『呉書』張紘伝には、
「建安4年(199年)、孫策が張紘を使者として派遣し、許宮に赴いて上奏文を奉らせたところ、張紘はそのまま許県に引き留められて侍御史に任ぜられた。許県にあっては少府の孔融ほかの人々がそれぞれに彼と親しい交わりを結んだ」
とあり、また『呉書』張紘伝が注に引く『呉書』には、
「張紘は許県にやって来ると、朝廷の公卿や知人たちに向かって『孫策の資質と知謀は飛び抜けて優れており、3つの郡を平定した際には、あたかも風が草をなびかせるように容易に事が運び、加えて忠義と敬虔さと誠をもって王室のためを考えている』と吹聴した。
当時、曹操は司空の任にあって、厚い恩恵を施して、遠い地方の者たちの機嫌を取ろうと計っており、文事に優れる者を鄭重に遇して、新しい位号を与えたり加封をしたりしていた。
そうしたことから張紘をその府に辟いて掾に任ずると、推挙し高い評価を与えて及第させて侍御史の役目を与え、後には張紘を九江太守に任じた。
しかし張紘自身は心中、昔の主君(孫策)との恩義に引かれ、呉に戻って復命したいと考えていたので、病気を理由にしてそうした任官を固持した」
とありますが、『資治通鑑』胡三省注は『呉書』張紘伝が建安4年(199年)としているのは、建安3年(198年)の誤りとしています。
曹操が王朗を招く
また、曹操が上奏して、孫策に降伏した元会稽太守・王朗を徴きました。
孫策がこれに従って王朗を朝廷に還らせたので、曹操は王朗を諫議大夫に任命して司空の軍事に参画させます。
※時期としては、次に紹介する周瑜と魯粛が孫策に従った後のことです。
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孫策の丹楊郡(丹陽郡)平定
周瑜と魯粛が孫策に従う
この頃袁術が、周瑜を居巣長(揚州・廬江郡・居巣県の県長)に任命し、臨淮(徐州・下邳国)出身の魯粛を東城長[徐州・下邳国・東城県(東成県)の県長]に任命しました。
ですが2人は、「袁術には将来性がない」と思っていたので、官職を棄て、長江を渡って孫策に従いました。そこで孫策は周瑜を建威中郎将に任命し、魯粛は揚州・呉郡・曲阿県に居を移しました。
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袁術の煽動工作
袁術が揚州・丹楊郡(丹陽郡)の大帥(山賊の頭目)・祖郎らに密使を遣わして印綬を与え、山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)を扇動して孫策を攻撃させようとしました。
丹楊郡(丹陽郡)の状勢
興平2年(195年)、孫策の攻撃を受けた劉繇は、長江を遡って豫章郡(予章郡)に逃亡しました。
劉繇の逃亡経路
この時、劉繇配下の太史慈は、途中、蕪湖県で姿をくらませて山中に入ると、勝手に丹楊太守を名乗ります。
当時、揚州・丹楊郡(丹陽郡)の宣城県以東は、孫策によって平定されていましたが、涇県以西の6県は未だ服従していませんでした。
そこで太史慈は、涇県まで出てそこに屯府(軍事的な行政機構)を立てたところ、多くの山越(揚州の山岳地帯に住む異民族)たちが帰属してきました。
青:孫策
赤:太史慈・祖郎
※丹楊郡(丹陽郡)には、建安2年(197年)夏にも陳瑀が袁術と同様の工作を行っています。
丹楊郡(丹陽郡)には、袁術が従弟の袁胤を丹陽太守として送り込んでいましたが、建安2年(197年)春、袁術が天子(皇帝)を僭称すると、孫策は徐琨に袁胤を討伐させ、徐琨を丹陽太守に任命します。
そして、孫策と袁術が敵対したことにより、袁術によって徐州の広陵太守に任命されていた呉景が戻ってくると、呉景がかつて丹楊郡(丹陽郡)にあって、思いやりのある統治を行って人望を得ていたことから、徐琨に代えて呉景が丹陽太守となりました。
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祖郎と太史慈を討つ
祖郎の帰順
袁術の工作を知った孫策は、自ら兵を率いて陵陽県で涇県の大帥(山賊の頭目)・祖郎を討ち、捕虜にした祖郎に言いました。
「私は昔、お前に襲われて全滅に近い損害を受けたが、今、私は軍を立て直してお前を捕らえた。私は過去の遺恨を忘れ、能力がある者を用いたいと思っている。これは何もお前に対してだけではないが、お前が恐れることはない」
この言葉を聞いた祖郎は地面に頭を打ち付けて謝罪したので、孫策はすぐに祖郎の械(刑具)を外してやり、彼を門下賊曹に任命しました。
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太史慈の帰順
続いて孫策は、自ら勇里(涇県に属す)に太史慈を攻め、彼を捕虜にします。
太史慈が引き出されて来ると、孫策はすぐさま彼の縄目を解かせ、その手を取って、
「神亭の時のこと*3を覚えておられるだろうか。もしあなたがあの時私を捕らえていたら、どう処分されただろう?」
と尋ねます。これに太史慈が、
「想像もつきません」
と答えると、孫策は大いに笑って言いました。
「では、私は今から、あなたが私にしたであろう処遇をするとしよう。
聞けばあなたはかつて、郡の太守のために州の上奏文を奪い取られ、また文挙(孔融の字)どのの元に行かれては、玄徳(劉備の字)どのへの使者に立ちたいと願い出られたとのこと。
これらはみな輝かしい『義』の行動であって、天下にかくれなき智士であられるのだが、ただこれまでに身を寄せられた相手が、十分にあなたに相応しい人物ではなかった。
自分を殺そうとして射かけた矢が帯鉤めに当たり、斬りかけた剣が袪を切り裂いた人物に対しても、古人はその者を任用するのに躊躇することがなかった*4。
ましてや私はあなたの知己(お互いを理解し合った親友)なのだ。十分な処遇を受けられないのではないかとのご心配は無用である」
また孫策は、教(配下への布告)を出して「太史慈を優遇せよ」と命じ、
「龍が天翔けようとする時、まず尺木(龍の霊力が宿るとされるキノコ状の角)を借りるものなのである」
(自分が飛躍するためには、まず太史慈のような配下が必要なのだ)
と言って、その場で太史慈を門下督の役目につけます。
祖郎と太史慈が孫策の軍を先導しているのを見た丹楊郡(丹陽郡)の人々は、みな孫策に心服しました。
また、孫策は呉に戻ると、太史慈に兵士を預けて折衝中郎将に任命します。
脚注
*3神亭において孫策と太史慈が一騎打ちを行ったこと。(下に関連記事があります)
*4斉の桓公と公子糾が国君の地位を争った時、公子糾に仕えていた管仲は桓公に矢を射かけ、その矢は帯鉤めに当たって桓公はあやうく死を免れた。公子糾が死に、桓公が斉君となると、桓公は管仲を罰せず、かえって宰相に用いて国を治め、五覇の1人となった。
また晋の献公の指図で公子の重耳を伐った寺人(宦官)の披は、逃げる重耳を追って斬りつけたが、その袪を斬っただけであった。やがて国に戻った重耳が晋王となると、旧悪を忘れて披を用い、これも五覇の1人となった。
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孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
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孫策が豫章郡を安撫する
劉繇の死と華歆
この頃、孫策の攻撃を受けて揚州・豫章郡(予章郡)に拠点を移していた劉繇が亡くなりました。
するとその配下にあった者たちはみな、豫章太守の華歆を主君に戴きたいと願い出ますが、華歆自身は「時世を利用して勝手に任命を引き受けることは、人臣として義に反することだ」と考えていました。
人々は華歆を囲んで何ヶ月も説得しましたが、結局華歆は彼らに謝意だけを伝えて帰らせたので、劉繇配下の兵士や民衆たち1万余人は身の依り所を失ってしまいました。
太史慈の忠義
太史慈に豫章郡を安撫させる
劉繇が死んだことを知った孫策は、太史慈を呼んで「豫章郡(予章郡)の様子を探り、(孫策に)味方する者を糾合してくる」ように頼み、そのために必要な兵は「望み通りの人数をつけよう」と言いました。
孫策の太史慈への言葉全文
すると太史慈は、
「私めは死刑を免れぬ大罪を犯しておりますのに、将軍(孫策)さまは斉の桓公や晋の文公ほどの度量でもって、望外の処遇をお与え下さいました。
古人も、その死を許されたことへのご恩に報いるために 生命を投げ出し忠節を尽くして、その生涯をかけて変わることがなかったのでございます。
ただ今はみなが兵を休めております時にあたり、多くの兵を動かすべきではありません。数十人を率いて行けば、往って還って来るのに不足はありません」
と答えました。
側近たちの懸念
この時孫策の側近たちは揃って、
「太史慈はきっと北(故郷の青州)に走って戻っては来ないでしょう」
と言いました。ですが孫策は、
「子義(太史慈の字)どのは、私を棄てて他に誰と力を合わせられると言うのか」
と言い、昌門(呉県の西の城門)まで太史慈を見送りに出ると、その腕を取って別れを告げ、
「いつ頃戻って来られるだろうか?」
と尋ねました。太史慈は、
「60日以上はかかりません」
と答え、数十人を連れて豫章郡(予章郡)に出発しました。
太史慈の帰還
孫策が太史慈を派遣した当初は、
- 太史慈は華子魚(華歆)と同郷であるから、あちらに留まって参謀となるであろう。
- 太史慈はそのまま西に行って黄祖に身を寄せ、その上で北方に還って行くかもしれない。
など、「太史慈はまだ十分に信用できない」という意見が飛び交い、多くの者が「太史慈を派遣したのは失策であった」と言っていました。
ですが孫策は、
「諸君らの言うところはみな間違っている。私にはよく分かっているのだ。
太史子義(太史慈)は、確かに勇気と大胆さを備えておられるが、権謀術数をこととするようなお人ではない。
その心中には物事に対する見通しがあり、行おうとするところは常に道義に外れず、人とした約束はあくまでも尊重されて、一度相手を知己として心を許したならば、死をかけてもそれを守り通される。諸君らの言うような心配は無用だ」
と言って太史慈を待ち続けます。
果たして太史慈は約束の期日通りに帰還し、太史慈を疑っていた者たちは、誤りを認めました。
豫章郡(予章郡)の様子
帰還した太史慈は、次のように豫章郡(予章郡)の様子を報告します。
- 華歆に野心はなく、ただ情況を見守っているだけである。
- 廬陵県で僮芝が勝手に太守を名乗っている。
- 鄱陽県では民衆たちが宗部(宗教的自治組織)を作り、華歆の支配を拒んでいる。
- 身近な海昬国・上繚*1一帯でさえも、民衆が砦に立て籠もって労働徴用を拒んでいる。
太史慈の報告全文
この報告を聞いた孫策は掌を打って大いに笑い、豫章郡(予章郡)を兼併(併合)する方針を定めました。
豫章郡(予章郡)の情況
脚注
*1建昌県から海昬国にかけて僚水が流れる地域。
建安3年(198年)、朝廷工作を済ませた孫策は、まだ完全に掌握できておらず、反乱の火種がくすぶる丹楊郡(丹陽郡)の平定に乗り出します。
そして、丹楊郡(丹陽郡)の祖郎と太史慈を帰順させた孫策は、太史慈に豫章郡(予章郡)の様子を探るように命じますが、孫策配下の多くは帰順したばかりの太史慈を信頼していませんでした。
そんな中、太史慈は約束の期日までに帰還し、太史慈が持ち帰った情報を元に、孫策は豫章郡(予章郡)を併合する野心を抱きました。