建安2年(197年)春、曹操に降伏した張繡が謀叛を起こした「宛城の乱(宛城の戦い)」についてまとめています。
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目次
曹操の南陽郡侵攻
張繡が曹操に降る
建安2年(197年)春正月、曹操が南征して淯水に陣を置きました。
この時荊州・南陽郡・宛県に駐屯していた張繡は劉表と手を結んでいましたが、軍勢を引き連れて曹操に降伏し、曹操は宛県に入りました。
淯水と宛県
赤線:淯水
張済の未亡人
宛県に入った曹操は、未亡人の張済の妻(張繡の叔母)を側妾にします。
『三国志演義』では「絶世の美女・鄒氏」という名前で登場する張済の妻ですが、『魏書』張繡伝には「張済の妻」とあるだけで、その名前は伝わっていません。
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張繡の謀叛
反乱の動機
張繡の怨み
張繡は「曹操が自分の叔母を側妾にしたこと」を怨みに思っていました。
そのことを伝え聞いた曹操は、秘かに張繡殺害の計画を立てますが、計画が事前に洩れたため、張繡は曹操に反旗を翻すことを決意します。
猛将・胡車児
また『魏書』張繡伝が注に引く『傅子』には次のような記述があります。
張繡の側近に胡車児という者がおり、張繡軍第一の武勇の持ち主だったので、曹操は彼の勇猛さを愛して手ずから黄金を与えました。
張繡はその話を聞いて、「曹操が側近の者を使って自分を殺害しようとしているのではないか」と疑い、その結果謀叛を起こしたのでした。
『傅子』では「曹操が張済の妻を側妾にしたこと」については触れられていません。
『資治通鑑』では、
曹操が張済の妻を側妾にしたことを怨みに思っていた張繡が、「曹操が胡車児に黄金を与えたこと」を、「曹操が彼に自分を殺害させようとしているのではないか」と疑い恐れ、投降したことを後悔して曹操軍を襲撃した。
としています。
賈詡の計略
反乱を決意した張繡は、賈詡の計略を採用して、
「軍隊を移動させて大道に向かいたいので、曹操の陣営の中を通過させて欲しい」
と願い出ました。そして張繡はまた、
「車が少ないのに輜重(軍需物資)が重いので、どうか兵士たちが鎧をつけることをお許し下さい」
と付け加えます。
曹操は張繡を信用してこれらをすべて許可しました。
典韋の死
張繡は兵士たちを完全武装させて陣営の中に入ると、曹操軍を急襲します。
この時(曹操軍の)校尉・典韋は、左右に従う者もみな死傷し、自身もその身体に数十の創を受けてもなお力戦していました。
張繡の兵が典韋を捕縛しようと進み出ましたが、典韋は両脇に敵兵を抱え込み、彼らを互いに打ちつけて撃殺します。
そして典韋は、目を瞋らせて大いに敵兵を罵ると、そのまま絶命してしまいました。
曹操の敗北
乱戦の中で曹操の乗馬「絶影」は流れ矢に当たって頰と脚を負傷し、同時に曹操自身も右臂に矢を受けてしまいます。
ですがこの時、馬に乗ることができなくなった曹操の長子・曹昂が曹操に馬をゆずったので、曹操はなんとか逃げのびることができました。
この敗戦により、曹昂、弟の子・曹安民、校尉・典韋が命を落としました。
舞陰県に撤退する
曹操は散り散りになった兵を収めて荊州・南陽郡・舞陰邑に引き返します。
張繡は騎兵を率いて追撃しますが、曹操はこれを返り討ちにし、敗れた張繡は荊州・南陽郡・穣県に還って再び劉表と手を結びました。
舞陰邑と穣県
曹操の反省
舞陰邑に入った曹操は、
「儂は張繡らを降伏させながら、人質を取ることを怠ったためにこのような結果を招いてしまった。儂は敗戦の原因を理解したのだ。
諸卿よ、見ているが良い。儂はもう、二度と再び敗れることはないっ!」
と諸将に向かって宣言し、豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還しました。
豆知識
古いしきたりでは、三公が軍を統率している場合、参内して謁見する時に、必ず近衛兵が戟を交錯させて頸をはさんで進ませました。
曹操が張繡を討伐しようとし、参内して天子(献帝)に謁見した時、この制度が復活されましたが、曹操はこの敗北の後、(討伐の前に)二度と参内することはありませんでした。
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平虜校尉・于禁
于禁の撤退戦
この時軍は大混乱していたので、曹操軍の将校たちはそれぞれ間道を通って曹操を探しました。
ですが、兗州・泰山郡出身の平虜校尉・于禁だけは、部下数百人を指揮して戦いつつ引き揚げ、死傷者はあっても離散する者はいませんでした。
そして、敵の追撃が次第に緩くなると、于禁はおもむろに隊列を整え、太鼓を鳴らしながら帰還しました。
于禁と青州兵
この道中、于禁はまだ曹操のいるところに行き着かないうちに、傷を受けて裸で十余人の兵士に出遭いました。
于禁がその理由を尋ねると「青州兵に略奪を受けました」とのこと。
これより以前、黄巾の賊が降伏し、青州兵と呼ばれていました。曹操が彼らを寛大に扱っていたため、それにつけこんで平気で略奪を行ったのです。
これを聞いた于禁は、
「青州兵は同じ曹公(曹操)の部下でありながら、また悪事を働くのかっ!」
と大いに腹を立て、部下に命じて彼らを討伐し、その罪を責め立てます。青州兵は慌てふためいて曹操の元に逃げ込んで訴えました。
于禁は到着すると、まず陣営を設け、すぐ曹操に謁見しようとしませんでした。
そこで、ある人が于禁に言いました。
「青州兵はすでに君を訴えているのですぞっ!すぐに公(曹操)の元に行ってこのことをはっきりさせるべきです」
ですが于禁は、
「今は背後に賊軍(張繡)がいる。間もなく追撃が来るだろう。まずこれに備えなければ、どうやって敵を迎え撃つのだ。
それに公(曹操)は聡明であられる。でたらめの訴えなど相手にされないはずだ」
と言い、時間をかけてしっかりと塹壕を掘り、陣営を構え終わると、やっと曹操に謁見して事の顛末を説明しました。
すると曹操は大いに喜んで、
「淯水における苦難は、儂にとってそれこそ危急の状態だった。
将軍(于禁)は混乱にありながらよく乱れず、暴虐を討ち砦を固めた。動かざる節義を具えている。古代の名将でも卿にかなう者はおるまい」
と言い、そこで于禁の前後に渡る戦功を取り上げ、益寿亭侯に封じました。
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建安2年(197年)春正月、曹操が南征して淯水に陣を置くと、劉表と手を結んでいた張繡は曹操に降伏しました。
ですが、曹操が未亡人の張済の妻(張繡の叔母)を側妾にしたことを怨みに思った張繡は、曹操の陣営を急襲。曹操軍は敗北し、曹操の長子・弟の子・曹安民、校尉・典韋が命を落としました。
張繡は騎兵を率いて追撃しますが、曹操はこれを返り討ちにし、敗れた張繡は荊州・南陽郡・穣県に還って再び劉表と手を結びます。