建安2年(197年)秋9月に起こった袁術の豫州(予州)・陳国侵攻と、それに対する曹操の東征、その後の人事や孔融の進言についてまとめています。
スポンサーリンク
目次
袁術の豫州(予州)・陳国侵攻
陳王・劉寵
陳王・劉寵は武芸に優れ、弩を射ることを得意とし、十発十中、全て同じところに当てる程の腕前がありました。
中平年間(184年〜189年)、黄巾の乱が起こると、郡県の長はみな城を棄てて逃亡しましたが、劉寵は強弩・数千張を有して軍を進め、自ら都亭の守りを固めます。
陳国の人々は劉寵の武勇を聞き知っていたので、あえて離反する者もなく、陳国だけは賊徒から守り通すことができました。
当時、王侯たちは収入がなくなり、しばしば略奪を受けていたため、2日に1度しか食事ができず、荒野で野垂れ死にする者もいましたが、陳国だけは富強で、隣郡の人々が多く帰順したため、十数万人以上の民衆が集まっていました。
初平元年(190年)、反董卓連合が決起すると、劉寵は軍を率いて陽夏県に駐屯し、自ら輔漢大将軍を称しました。
陳相・駱俊
揚州・会稽郡出身の陳相(陳国の太守)・駱俊は、すべての人々を慈しみ育ててその安全を守り、天災も起こることなく、年ごとに豊かな稔りがありました。
袁術が皇帝を僭称して袁紹との間に争いが起こると、天下は鼎が沸き立つように騒がしくなり、賊徒たちが各地で蜂起しました。
陳国はそうした騒乱の地と境を接し、奸悪の一味が四方八方にいましたが、駱俊は軍事力の増強につとめて郡境をしっかり守ったので、賊徒たちも侵犯してこようとはしませんでした。
袁術の陳国侵攻
建安2年(197年)、飢饉のため、長江から淮水にかけての地域の民が互いに食らい合う有り様となりました。
秋9月、袁術の軍勢が食糧の欠乏に苦しんだので、陳相・駱俊の所に食糧を分けて欲しいと申し込んできましたが、駱俊は袁術を憎んでいたので、まったく相手にしませんでした。
これに腹を立てた袁術は、秘かに刺客を送って駱俊と陳王・劉寵を暗殺させ、豫州(予州)・陳国に侵攻しました。
袁術の陳国侵攻関連地図
スポンサーリンク
曹操の東征
袁術の沛国侵攻
陳国に侵攻した袁術は、さらに豫州(予州)・沛国・蘄県*1を攻撃・包囲します。
袁術は、何夔がその郡の出身*2であることから、彼を脅迫して蘄県を説得させようとしましたが、この時何夔は、袁術の謀臣・李業に向かって、
「昔(春秋時代)、柳下恵は国を討つ計画を聞いて憂色を示して、『国を討つことは仁者に相談しないものだと私は聞いておりますのに、この言葉(国を討つ計画)がどうして私のところに届いたのでしょう』と申したとか」
と言い、揚州・廬江郡の灊山に逃れ隠れました。
袁術は、何夔があくまでも自分のために働かないと知ったので、蘄県を説得させることを諦めました。
脚注
*1 『魏書』何夔伝、『資治通鑑』共に、原文は「蘄陽」とされていますが、『資治通鑑』胡三省注に、「『蘄陽』は『蘄県』が正しく、沛国に属す」とあります。
*2 蘄県は沛国にありますが、袁術が説得させようとした何夔は、陳国・陽夏県の出身です。
袁術の逃走
袁術が豫州(予州)に侵攻すると、司空・曹操は袁術討伐の軍を起こします。
曹操が自ら兵を率いて東征して来たことを聞いた袁術は、配下の将、
- 橋蕤
- 李豊
- 梁綱
- 楽就
らを豫州(予州)・陳国・苦県に残して自分は軍を棄て、淮水を南に渡って逃走しました。
袁術の沛国侵攻関連地図
赤線:淮水
曹操は苦県に到着すると橋蕤らを撃破してすべて斬り、許県に還りました。これを機に、袁術は衰退していくことになります。
新たな人材
何夔
袁術について問われる
曹操が豫州(予州)・陳国・陽夏県出身の何夔を辟召いて司空の掾属(属官)としました。
またその頃、袁術軍が混乱していると言う者があったので、曹操が「君は本当だと思うかね?」と尋ねると、何夔は次のように答えます。
「天が援助する者は『順(天道に従うこと)』であり、人が援助する者は『信(誠実)』であります。
袁術は『順』と『信』がないのに天と人の援助を期待しております。これでは天下に志を得ることはできますまい。
大体、道義に外れた君主には、親戚も背くものです。まして左右に仕えている者においては言うまでもありません。夔がみるに、その混乱は必定です」
すると曹操は、
「国を治めながら賢者を逃せば滅亡する。君は袁術の用いるところとはならなかった。混乱も当然のことではあるまいか」
と言いました。
毒薬を持ち歩く
曹操は厳しい性格だったので、掾属(属官)は職務で過失を犯すと、しばしば杖で叩かれることがありました。
そこで何夔は、常に毒薬を持ち歩き、死んでも恥辱を受けまいと決意していたので、最後まで罰を加えられることはありませんでした。
孫盛は、何夔が毒薬を持ち歩いたことについて、次のように言っています。
「何夔は時の制約を知りながら、その恩寵に甘んじ、薬を所持して主君を牽制し、それによって小さな恥辱を避けた。
詩に『唯此れ褊き心』と言う。何夔はそれに当てはまるのだ」
許褚
豫州(予州)・沛国・譙県出身の許褚は、若者と一族数千家を集め、一緒に城壁を固めて賊の侵略を防いでいました。また、その容貌は雄々しく毅然とし、武勇・力量は人並み外れていたので、淮南・汝南・陳国・梁国の辺りでは、みな許褚を畏れ憚りました。
曹操が淮南・汝南を攻め陥とすと、許褚は軍勢を連れて曹操に帰順します。
曹操は、許褚を一目見てその勇壮さに感心し、
「こいつは儂の樊噲[高祖(劉邦)の侍衛]じゃ」
と言って即日都尉に任命し、宿直警護の役につけ、許褚に従っていた侠客たちをすべて虎士(近衛兵)としました。
スポンサーリンク
孔融の進言
楊彪をかばう
元太尉・楊彪の妻は袁氏の女性(袁術の姉妹)で、楊彪と袁術は姻戚関係にありました。
楊彪の子・楊脩(楊修)は、袁術の甥に当たります。
曹操はこれを嫌い、「楊彪が天子(皇帝)の廃立を図ろうとしている」と誣告(わざと事実を偽って告げること)すると、逮捕して獄に下すように上奏し、大逆の罪として弾劾しました。
そのことを聞いた将作大匠(『魏書』満寵伝では少府)の孔融は、朝服に着替える時間も惜しんで曹操に会いに行き、次のように言いました。
「楊公(楊彪)が4世(楊震・楊秉・楊賜・楊彪)に渡って清徳なことは、天下のよく知るところです。
『周書』にも『父子兄弟の間で互いに罪が及ぶことはない』とあり、ましてや袁氏を理由に楊公(楊彪)を罪に問うなど もってのほか でございます」
曹操はこれに、
「これは天子(献帝)の意志である」
と答えましたが、孔融は重ねて言いました。
「もし成王が邵公を殺したなら、周公は知らない振りをできますでしょうか(いいえ、できません)」
つまり孔融は、
「もし天子(献帝)が楊彪を罪に問うたなら、曹操は知らない振りをできますでしょうか(いいえ、できません)」
と言ったのです。
ですが曹操は結局、許令[豫州(予州)・潁川郡・許県の県令]の満寵に命じて楊彪を逮捕させて県の牢獄に預けさせました。
この時、孔融と尚書令の荀彧は満寵に、
「ただ罪状についての説明を聞くに止めるべきで、痛めつけることのないように」
と頼みましたが、満寵はこれには答えず、法に則って訊問を行いました。
そして数日後、満寵が曹操に面会を求めて報告します。
「楊彪を訊問いたしましたが、今までと変わった弁明はありませんでした。死刑に処すべき者は執行の前にその罪を明らかにするのが当然であります。
この人(楊彪)は四海の内に名声がありますから、もし罪が明確でないならば、必ずや大いに人望を失うことになりましょう。心中、明公(曹操)のために残念に存じます」
満寵の報告を受けた曹操は、その日のうちに楊彪を赦して釈放しました。
最初、孔融と荀彧は楊彪が痛めつけられていると聞いて腹を立てていましたが、この結果に納得して改めて満寵に感謝しました。
豆知識
楊彪は漢室が衰退して政治の実権が曹氏にあるのを見て、脚攣(脚の病気)と称して十数年間朝廷を離れていたので、これ以降、禍を受けることはありませんでした。
『魏書』満寵伝の中で裴松之は、
「楊公(楊彪)は徳を重ねた家柄の出であり、彼自身は名臣である。たとえ過失があったとしても、なお庇ってやらなければならない。まして行き過ぎた刑罰を乱用して、笞打ちにするのが良いことであろうか。
もし裁判によって取り調べるのが当然であるならば、荀彧・孔融の2賢者がどうしてむやみに依頼することがあろう。
満寵はこのことのために有能とされたが、酷吏の心配りに過ぎず、後に善行があったとしても、以前の残虐な行いを帳消しにはできない」
と言っています。
馬日磾の亡骸(なきがら)
馬日磾の亡骸が京師(許県)に戻って来ると、朝廷では議論が行われ、「馬日磾の亡骸を特別な礼をもって葬る」という意見が優勢となっていました。
この時孔融はただ1人、
「馬日磾は太傅という上公の尊い地位にあり、髦節(水牛の尾をつけた杖)を持って使者となったのに、姦臣(袁術)に媚びへつらい、その掣肘(干渉)を受けることになりました。
王室の大臣たる物、どうして脅迫されたからといって、これを言い訳にして良いものでしょうか。
陛下は旧臣である馬日磾を哀れんで、その罪を追って問うに忍びないと思われますが、何卒、礼をお加えになりませぬように」
と主張し、朝廷はこれに従いました。
孔融の進言全文
また、元兗州刺史・金尚の亡骸も京師(許県)に戻って来ましたが、金尚の亡骸に対し、献帝は詔を下して百官に弔祭させ、彼の子の金瑋を郎中に任命しました。
関連記事
建安2年(197年)秋9月、飢饉のため困窮した袁術は、陳相・駱俊に食糧の援助を求めますが、袁術を憎んでいた駱俊はこれを拒否しました。
これに腹を立てた袁術は、秘かに刺客を送って駱俊と陳王・劉寵を暗殺させ、豫州(予州)・陳国に侵攻します。
袁術が豫州(予州)に侵入すると、司空・曹操は自ら兵を率いて袁術討伐の軍を起こし、袁術の将・橋蕤らを撃破してすべて斬り、許県に還りました。これを機に、袁術は衰退していくことになります。