建安2年(197年)夏、朝廷(曹操)が呂布・陳瑀・孫策らに降した袁術討伐の詔勅に端を発した、陳瑀と孫策の戦いについてまとめています。
スポンサーリンク
袁術討伐の詔勅
孫策が会稽太守に任命される
建安2年(197年)夏、朝廷(曹操)は議郎の王誧を遣わして孫策に詔書を伝えさせ、孫策を騎都尉に任じ、烏亭侯の爵位を嗣がせ、会稽太守を兼任させました。
孫策への詔書全文
タップ(クリック)すると開きます。
董卓が逆乱(謀叛)をなし、国に災いを与え民を害なった時、今は亡き将軍・孫策は『董卓を伐ち平らげん』と志し、その志は遂げられなかったとはいえ、彼の誉れは世に知れ渡った。
そして汝孫策もまた正しき道に従い、世の中の福利(幸福と利益)をはかって一筋に努力している。
ここに孫策を騎都尉に任じ、烏亭侯の爵位を嗣ぎ、会稽太守を兼任させる。
豆知識
初平2年(191年)*1、袁術の命により荊州の劉表を攻めていた孫堅が戦死すると、孫策は孫堅の遺体を奉じて揚州・呉郡・曲阿県に埋葬し、その後長江を渡って徐州・広陵郡・江都県に居を定めました。
この時孫策は、自分が嗣ぐはずであった爵位(烏程侯)を弟の孫匡に譲りました。
また、王朗を降伏させた孫策は自ら会稽太守を称しましたが、この詔書によって孫策は、朝廷から烏程侯を嗣ぐことを認められ、正式に会稽太守に任命されました。
関連記事
袁術の誤算。孫策に命じた陸康攻撃と揚州刺史・劉繇との衝突
袁術討伐の詔勅
また朝廷(曹操)は加えて、
「領徐州牧・呂布、行呉郡太守・陳瑀と力を合わせ心を1つにし、時を同じくして袁術の討伐に向かうように」
との詔勅を孫策に降します。
孫策への詔勅全文
タップ(クリック)すると開きます。
元の左将軍・袁術は、朝恩を蔑ろにし、欲しいままに悪逆をなし、虚偽をでっち上げ、兵乱に乗じ、万民を謀って帝号を僭称せんと企てた。はじめそうしたことについて聞いた時には、真実ではあるまいと考えた。
しかし思いがけなくも、使持節・平東将軍・領徐州牧・温侯の呂布より『袁術が民衆を惑わしけしからぬことを成している』とする上言があって、袁術が腹黒い生まれつきで無道振りを発揮し、勝手に王宮を建てて公卿を任命し、天地の祭りを行い民衆や万物を害し、ひどい災禍を流していることを知った。
呂布は幾度も上言し、『孫策が心を我が王朝に傾け、軍を巡らせて袁術を討伐し、国家のために忠節の働きを示したいと願っておるゆえ、特別の恩顧を加えられるように』と言ってきている。
恩賞を約束して功績の挙がらんことを待つのは、忠勤を励む者にそれを授けんとしてだ。さればここに篤い賜り物を降し、父親の爵邑を嗣がしめ、加えて大郡の太守に任ずる。
栄耀が一時にその身に加えられた。今こそお前孫策が、力を尽くし命を投げ出すべき時なのだ。
速やかに呂布及び行呉郡太守・安東将軍の陳瑀と力を合わせ心を1つにし、時を同じくして袁術の討伐に向かうように。
この時孫策は、「自分は今まで兵馬を指揮して来たが、騎都尉のままで郡の太守を兼ねるのでは官が軽すぎる」と、将軍号を得たいと思いました。
そこで孫策は、人を介して王誧にそれとなく希望を伝えさせると、王誧はすぐさま自分の権限で、孫策を仮の明漢将軍に任命しました。
『呉書』孫策伝が注に引く『呉録』に、この詔書に対する孫策の感謝の上表文が記録されています。
孫策の上表文全文
タップ(クリック)すると開きます。
臣は取り立てて才能もないまま、1人辺陲(辺境)の地の守りに当たってまいりました。
陛下には、立派なご恩沢を広く敷きひろげられ、ちっぽけな忠節もお見逃しなく、臣めに父の爵位を嗣がせ、兼ねて立派な郡の統治をお命じくださいました。賜りました栄誉とご恩寵とは、臣などのよく任えるところでございません。
興平2年12月20日のこと、呉郡の曲阿県において、袁術が奉った上表により、臣は殄寇将軍を兼任することになったと知らされましたが、今この詔書を降され、それが勝手な任命であったことを知りました。
(殄寇将軍の称号は)すぐさま棄てたのでありますが、それでも(1度は偽の称号を用いてしまったことに対し)心は震えおののいております。
臣は年17にして怙むべき父親を失いました。父の事業を受け継ぐことができるだけの才能もなく、そのことで子は父の遺志を守らねばならないという戒めを辱めるのではないかと畏れるばかりで、霍去病が年18で功を立て、光武帝配下の諸将たちが20歳そこそこで王朝復興の功臣となったことなどには、及びもつかぬことでございます。
臣が初めて兵を領いました時は、まだ年は20歳に及ばず、意気地なしで武事に通じてもおりませんでしたが、この微命を擲たんとの決心だけは持っておりました。
思いを巡らせますと、袁術めは心に正道を蔑ろにし、その悪事は重く積み重なっております。
臣は、陛下のご威霊をお仮りし、正義の旗の下に悪人を懲罰し、必ずや勝利の知らせをお伝えして、この度のご授任にお報えする所存でございます。
豆知識
呂布・孫策と共に袁術討伐の詔勅を降された行呉郡太守・安東将軍の陳瑀は、陳球の子で陳珪の従弟にあたる人物です。
初平3年(192年)、揚州刺史・陳温(陳禕)が病死すると、袁術に任命されて揚州刺史となりました。
ですがその翌年、曹操に敗れた袁術が揚州に敗走してくると、陳瑀は袁術が揚州に入ることを拒否し、袁術に敗れて徐州・下邳国に逃亡していました。
おそらく陳瑀も、このタイミングで行呉郡太守・安東将軍に任命されたものと思われます。
関連記事
【匡亭の戦い】袁術が曹操に大敗し、寿春に拠点を移す
スポンサーリンク
陳瑀の裏切り
陳瑀の裏切り
孫策は詔を奉じて軍を整えると、呂布・陳瑀と共同作戦を行おうと、軍を進めて揚州・呉郡・銭唐県まで来ました。
この時陳瑀は徐州・広陵郡・海西県に軍を置いていましたが、都尉の万演らを遣わして秘密裏に長江を渡り、孫策に敵対する揚州・丹楊郡(丹陽郡)・丹楊県(丹陽県)の、
- 宣城県
- 涇県
- 陵陽県
- 黟県(黝県)
- 歙県
- 荊州・零陵郡・始安国?
など、情勢不安定な諸県の大帥・祖郎や焦已、
- 揚州・呉郡・烏程県の厳白虎(厳虎)
らに官位を約束する印章、30余個をばらまいて内応を約束させ、孫策が軍を動かした隙を狙って、孫策の支配下にある諸県を奪い取らせようと企てました。
陳瑀と孫策の戦い関連地図
この時、陳珪の子・陳登は、曹操によって広陵太守に任命されていました。
陳瑀は袁術に敗れて徐州・下邳国に逃亡した後、従甥の陳登を頼って海西県にいたものと思われます。
陳瑀が冀州に逃亡する
この企みに気づいた孫策は、宛陵県の県令・呂範と徐逸を派遣して海西県の陳瑀を攻め、大いに撃ち破って、その軍吏や士卒、彼らの妻子など4千人を捕虜にします。
敗れた陳瑀は、単騎冀州に逃亡して袁紹の元に身を寄せ、袁紹は彼を幽州・涿郡・故安県の都尉に任命しました。
建安2年(197年)夏、朝廷(曹操)は呂布・陳瑀・孫策らに詔勅を降し、袁術討伐を命じます。
ですがその中の1人・陳瑀は詔勅に従わず、これを機に孫策の支配下にある諸県を奪い取ろうとしたため、袁術討伐は立ち消えとなってしまいました。