建安2年(197年)冬11月に行った曹操の2度目の南陽征伐と、献帝の東遷に従った者たちの末路、荊州に身を寄せた杜襲・趙儼・繁欽についてまとめています。
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曹操の南征
荊州・南陽郡の情勢
南陽郡の張繡
建安元年(196年)、荊州・南陽郡・穰城(穣県)を攻撃していた張済が流れ矢に当たって戦死すると、その軍勢を引き継いだ張繡は、荊州牧・劉表と手を結んで宛県に駐屯しました。
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張繡の降伏と謀叛
建安2年(197年)春正月、曹操が南征して荊州・南陽郡の淯水に陣を置くと、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏しました。
ですが、曹操が張済の妻(張繡の叔母)を側妾にしたことで、これを怨みに思った張繡は謀叛を起こし、宛県にいた曹操を急襲します。
不意を突かれた曹操は、長子・曹昂、弟の子・曹安民、校尉・典韋を失い、曹操自身も矢傷を受け、命からがら宛県を脱出しました。
その後、南陽郡・舞陰県に入った曹操は追って来た張繡の騎兵を撃退し、豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還しました。その後、張繡は再び劉表と手を結びます。
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南陽郡と章陵郡の離反
曹操が南陽郡()・舞陰県()から豫州()(予州())・潁川郡()・許県()に帰還すると、南陽郡()と章陵郡()の諸県が再び背()いて張繡()に味方しました。
そこで曹操()南陽郡()・は、曹洪()南陽郡()・を派遣して張繡()に味方した諸県を攻撃させます。
ですが曹洪()南陽郡()・は、それらの城を陥落させることができず、引き返して葉県()に駐屯しましたが、しばしば張繡()と劉表()の侵略を受けていました。
曹操の南征
建安()2年(197年)冬11月、曹操()南陽郡()・は再度自()ら南征を開始して宛県()に至ると、淯水()に臨()んで、この年の春に張繡()の反乱によって命を落とした将兵を祀()りました。
この時、すすり泣き、涙を流している曹操()南陽郡()・の姿を見た人々は、みな感動しました。
その後曹操()南陽郡()・は、湖陽邑()を拠点とする劉表()の将・鄧済()を攻撃して攻め落とし、生け捕りにされた鄧済()は曹操()南陽郡()・に降伏します。
また、曹操()南陽郡()・は続いて舞陰県()を攻撃し、これを陥落させました。
曹操()の南征関連地図
赤字:淯水()
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献帝の東遷に従った者たちの末路
韓暹と楊奉
袁術()を頼る
建安()元年(196年)7月、張楊()・楊奉()・韓暹()らが天子()(献帝())を擁()して洛陽()(雒陽())に入りました。
ですがその後、韓暹()が功績を誇って横暴になったため、これを煩()わしく思った董承()が秘かに曹操()を召し寄せます。
董承()の要請を受け、兵を率()いて洛陽()(雒陽())に入った曹操()が韓暹()や張楊()の罪を上奏すると、誅殺()されることを恐れた韓暹()は楊奉()の元に逃れました。
この時献帝()は、
「韓暹()・張楊()には、洛陽()(雒陽())まで自分を護衛した功績があった」
とし、詔()を発して彼らの罪の一切を不問としましたが、この年の10月、曹操()は楊奉()らが駐屯する梁県()を攻め落とし、敗れた楊奉()は袁術()を頼りました。
袁術()を裏切り呂布()に味方する
呂布()が「自分の娘と袁術()の息子の婚約」を破棄すると、激怒した袁術()は大将()の張勲()・橋蕤()らを派遣し、韓暹()・楊奉()らと連合して呂布()を攻めました。
ですがこの時、陳珪()の計略により呂布()から誘いを受けた韓暹()と楊奉()は、呂布()に味方して袁術()軍を撃ち破りました。
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韓暹()と楊奉()の最期
その後、韓暹()と楊奉()は徐州()・揚州()の界隈()で略奪を行って軍勢を維持していましたが、食糧の欠乏に苦しんだ韓暹()と楊奉()は、呂布()の下()を去り荊州()に身を寄せようと考えました。
ですが、呂布()がこれを認めなかったため、楊奉()は「劉備()が呂布()との間に遺恨()がある」ことを知って秘かに劉備()と連絡を取り、「共に呂布()を撃とう」と誘いかけます。
そして、劉備()の同意を得た楊奉()が軍を率()いて豫州()(予州())・沛国()・沛県()(小沛())に来ると、劉備()は城に招()き入れて歓迎の宴会を開きますが、その席上で楊奉()を捕らえて斬ってしまいました。劉備()は同意した振りをしていたのです。
楊奉()を失って孤立した韓暹()は、十余騎と共に幷州()(并州())に帰ろうとしますが、その途中、杼秋令()[豫州()(予州())・沛国()・杼秋県()の県令()]の張宣()に殺害されました。
『蜀書()』先主伝()(劉備()の列伝)には、
「下邳()の守将である曹豹()は寝返って、秘かに呂布()を迎え入れた。呂布()は先主()(劉備())の妻子を捕虜にし、先主()(劉備())は軍を海西()に転進させた。
楊奉()・韓暹()が徐州()・揚州()の辺りを荒らしたので、先主()(劉備())は彼らを迎え撃って、ことごとく斬り殺した」
とありますが、この時まだ楊奉()と韓暹()は献帝()に従っており、『蜀書()』先主伝()の誤りです。上記は『資治通鑑()』に従っています。
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胡才と李楽
曹操()が洛陽()(雒陽())に入ると、胡才()と李楽()は司隷()・河東郡()に駐留していましたが、胡才()は仇敵()に殺され、李楽()は病死しました。
郭汜
この年、郭汜()は配下の将・伍習()に襲撃され、司隷()・右扶風()・郿県()で殺害されました。
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杜襲・趙儼・繁欽
この頃、豫州()(予州())・潁川郡()出身の杜襲()、趙儼()、繁欽()が動乱を避けて荊州()に身を寄せ、財産や会計を1つにまとめて一緒に暮らしていました。
荊州牧()・劉表()は、3人を賓客()の礼をもって待遇します。
杜襲(としゅう)
その中でも繁欽()は、たびたび劉表()に目をかけられていましたが、杜襲()は彼に言い聞かせるように言いました。
「儂()が君と一緒に来た理由は、ただ奥深い藪()に龍のようにじっと とぐろ を巻き、時節を待って鳳凰()のごとく飛翔したいからだ。
一体君は、劉牧()(劉表())を『動乱を治める君主に間違いなし』と決め込んで、長者として身を委()ねることを考えているのかね?
君がもしこれ以上劉表()の下()で能力を示し続けるなら、儂()はもう仲間とは思わない。儂()はまず君と絶交する」
これに繁欽()は悲痛な様子で、
「謹()んでご命令通りにいたしましょう」
と答えます。
杜襲()はこうして南方の長沙郡()に赴()きました。
そして建安()元年(196年)、曹操()が天子()(献帝())を迎えて豫州()(予州())・潁川郡()・許県()に都を置くと、杜襲()は郷里に逃げ帰ったので、曹操()は彼を西鄂長()(荊州()・南陽郡()・西鄂県()の県長())に取り立てました。
上記はちくま学芸文庫『正史()三国志()』の翻訳に従っています。
繁欽()の返答の原文は「請敬受命」です。
「受命」の「命」を「命令」と解釈すると上記のようになりますが、「天命」と解釈すると、「敬()んで天命を受けることを請()う」つまり、「絶交されることが天命ならば、それに従いましょう」となります。
ここは「天命」と解釈して、「杜襲()は繁欽()と絶交して長沙郡()に向かった」と考える方が自然なように思えます。
趙儼(ちょうげん)
曹操()が天子()(献帝())を迎えて豫州()(予州())・潁川郡()・許県()に都を遷()した時、趙儼()は繁欽()に向かって言いました。
「曹鎮東()(鎮東将軍()・曹操())は時運に応じて一代で名を挙()げられたからには、よく中華を正し救われるにちがいない。儂()は誰に帰服すれば良いか分かったぞ」
建安(2年(197年)、趙儼()が27歳の時、老人と年少者を助けながら曹操()の下()に赴()いて、朗陵長()[豫州()(予州())汝南郡()・朗陵県()の県長()]に取り立てられました。
趙儼()と李通()
荊州()・江夏郡()・平春県()出身の李通()は、建安(の初め、軍勢を挙()げて豫州()(予州())・潁川郡()・許県()にいる曹操()の下に赴()き、後に陽安都尉()*1(太守()代行)に任命されました。
李通()の妻の伯父()が法律を犯した時、朗陵長()の趙儼()が彼を逮捕して死刑の判決を下します。
当時、生殺の権限は牧守()(牧()と太守())が握()っていたので、李通()の妻子は号泣しながら生殺の権限を持つ李通()に彼の命乞()いをしました。
ですが李通()は、
「現在、私は曹公()(曹操())と力を合わせているのだ。道義から言って私情のために公事()を曲げてはならない」
と言って、判決を変えさせようとしませんでした。
趙儼()は李通()の「私情に流されず法を厳守する姿勢」に感心し、彼と親交を結びました。
脚注
*1曹操()は汝南郡()の陽安県()と朗陵県()の2県を分割して陽安郡()を置き、李通()を陽安都尉()に任命しました。
繁欽(ばんきん)
『魏書()』王粲伝()が注に引く『典略()』に、
「繁欽()は字()を休伯()という。文才と機転の利()く弁舌によって、若くして汝南郡()・潁川郡()の地方で名声を得た。(中略)丞相主簿()となり、建安(23年(218年)に亡くなった」
とあり、荊州()で生活を共にした杜襲()、趙儼()、繁欽()の3人は、結局みな曹操()に仕えたことになります。
張繡()に敗北した曹操()南陽郡()・が豫州()(予州())・潁川郡()・許県()に帰還すると、南陽郡()と章陵郡()の諸県は曹操()南陽郡()・に背()いて張繡()に味方しました。
曹操()南陽郡()・は曹洪()南陽郡()・にこれらの攻撃を命じましたが攻め落とすことができず、建安()2年(197年)冬11月、曹操()南陽郡()・は再び自()ら南征の軍を起こして、湖陽邑()と舞陰県()を攻め落とします。
またこの頃、献帝()の東遷()に従った韓暹()、楊奉()、胡才()、李楽()、郭汜()らが相次いで命を落とし、戦乱を避けて荊州()に身を寄せていた者たちが、劉表()の下()を離れて曹操()に仕えました。