孫堅そんけん死後の孫策そんさくの動向と、徐州じょしゅうの攻略を目指す袁術えんじゅつ揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようが戦うことになった経緯についてまとめています。

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孫策の生い立ち

周瑜との出会い

10歳にして評判を得る

光和こうわ7年(184年)3月、朱儁しゅしゅんの上表によって佐軍さぐん左軍司馬さぐんしば)に任命され、出仕(「黄巾の乱」討伐に参加)することになると、孫堅そんけんは家族を揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに住まわせます。

この時、孫堅そんけんの長子・孫策そんさくは10歳。すでに名のある人物たちとまじわりを結び、彼の評判は広く知れ渡っていました。

舒県じょけん周瑜しゅうゆ

揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん舒県じょけんに、孫策そんさく同年おないどし周瑜しゅうゆという英邁闊達えいまいかったつ(才知にすぐれ度量が広く大らかなこと)の気風を持つ者がいました。

初平しょへい元年(190年)、孫堅そんけん董卓とうたく討伐の兵をげた頃、孫策そんさくの評判を聞きつけた周瑜しゅうゆ孫策そんさくの元をおとずれると、2人はすぐにお互いを認め合い、金属をも断ち切るほどの友情を結びます。

そこで、周瑜しゅうゆ孫策そんさくに「舒県じょけんに家を移す」ように勧め、孫策そんさくはこれに従って、母親を連れて舒県じょけんに移り住みました。


周瑜しゅうゆは道の南側の大きな屋敷を孫策そんさくゆずり、座敷に通って孫策そんさくの母親に拝謁はいえつし、必要な物はお互いに融通し合って生活をしました。

孫堅の死

士大夫したいふを従える

揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん舒県じょけんに移り住んだ孫策そんさく士大夫したいふたちを糾合きゅうごうし、長江ちょうこうから淮水わいすい流域にかけての人々は、みな彼に心を寄せるようになりました。

孫堅そんけんの死

初平しょへい2年(191年)*1袁術えんじゅつに従って荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを攻めていた孫堅そんけんが戦死します。

孫策そんさく孫堅そんけんの遺体をほうじて揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに埋葬すると、葬儀を終えた孫策そんさく長江ちょうこうを渡って徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん江都県こうとけんに居を定めます。


また孫策そんさくは、孫堅そんけんの爵位(烏程侯うていこう)を継ぐ立場にいましたが、爵位を弟の孫匡そんきょうゆずりました。

脚注

*1 孫堅(そんけん)の没年には諸説あります。

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孫策が袁術に仕える

孫策が揚州に入る

広陵郡こうりょうぐん張紘ちょうこう

江都県こうとけんに移った孫策そんさくは、しばしば母のに服していた広陵郡こうりょうぐん張紘ちょうこうの元をたずね、


「今、かん王朝の命運は衰退し、天下は乱れ争って、英雄俊傑えいゆうしゅんけつたちがそれぞれ軍勢を集めて自己の利益を求めており、この危機を救って混乱をしずめられる者がおりません。

亡父(孫堅そんけん)は袁氏えんし袁術えんじゅつ)と共に董卓とうたくを打ち破りましたが、功業がらぬうちに、突然黄祖こうそに殺害されてしまいました。

私(孫策そんさく)は物事を知らない青二才ではありますが、いささかこころざすところもございます。

袁揚州えんようしゅう袁術えんじゅつ)から亡父(孫堅そんけん)の残兵をい受け、丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の舅氏おじ呉景ごけい)の元に身を寄せつつ、離散した兵士たちをまとめ、東はかい呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐんの一帯)の地に足場を定め、あだを報じ恥をすすいで朝廷の外の守りに当たりたいと願っております。

あなたのご意見はいかがでしょうか」


たずねました。


「元々私には何の才略もない上に、今は母のに服しておりますので、何のお力添ちからぞえもできません」


こう答える張紘ちょうこうに、孫策そんさくは重ねて言います。


「あなた(張紘ちょうこう)のご高名は広く聞こえ、遠近の者はみな心を寄せております。

今、私(孫策そんさく)がいかなる道を取るべきかは、あなた(張紘ちょうこう)のご意見1つにかかっているのです。

あなた(張紘ちょうこう)はなぜ、周到なご意見を告げ知らせ、常々つねづねあなた(張紘ちょうこう)をあおぎ見ております我らの期待にうてはくださらぬのでしょうか?

もし私のささやかなこころざしげられ、あだに報ずることができたとすれば、それは何よりもあなた(張紘ちょうこう)のお力によるものであり、私(孫策そんさく)の心からの願いです」


この時孫策そんさくは目に涙をあふれさせていましたが、彼の顔色は変わっていないことから、張紘ちょうこう孫策そんさくの言葉に誠意と盛んな心意気を感じ、感動してこう答えました。


「昔、しゅう王朝の命運が傾いた時、せい桓公かんこうしん文公ぶんこうしゅう王朝の建て直しをはかって王室が安定すると、諸侯たちも元通り貢納こうのうしてそのつとめにはげむようになりました。

今、あなた(孫策そんさく)はご先父(孫堅そんけん)の功業を継がれ、武勇の名声がございます。

もし丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)に身を寄せ、かい呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐんの一帯)の地で兵をつのられれば、荊州けいしゅう揚州ようしゅうを1つにまとめられ、仇敵きゅうてきあだを報ずることができるでしょう。

長江ちょうこう流域に根拠地を置いて武威と恩徳を盛んにし、けがらわしい連中を根こそぎにしてかんの王室を立て直されれば、そのご功績は桓公かんこう文公ぶんこうに匹敵します。どうして朝廷の外の守りに当たられるだけにとどまりましょうか。

今、世は乱れて多難な時期にあります。功業のられたあかつきには、こころざしを同じくする者たちと江南こうなんに渡って麾下きかに参じたく思います」


これを聞いた孫策そんさくは、


「あなた(張紘ちょうこう)と意見が一致し、末永く変わらぬまじわりを結んだからには、ただちに出発いたします。老母と幼い弟をあなたにお預けできれば、私に後顧こうこうれいはありません」


と言い、母や弟たちを張紘ちょうこうたくし、まっすぐ揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに行き、袁術えんじゅつたずねました。

袁術えんじゅつとの謁見えっけん

袁術えんじゅつ謁見えっけんした孫策そんさくは、涙を流して言いました。


「亡父(孫堅そんけん)が昔、長沙ちょうさ荊州けいしゅう長沙郡ちょうさぐん)より中原ちゅうげんに兵を進めて董卓とうたくの討伐に向かいました時、明使君あなたさま袁術えんじゅつ)とは南陽なんよう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん)でお目にかかり、盟約とよしみを結ばせていただきましたが、不幸にして不運に見舞われ、勲業いさおしは完成せぬままとなりました。

私(孫策そんさく)は、明使君あなたさま袁術えんじゅつ)が先父(孫堅そんけん)にお与えくださった恩顧おんこに感じ入り、ご配下に身を寄せたく思っております。どうか明使君あなたさま袁術えんじゅつ)には、私(孫策そんさく)の誠心まごころをご推察くださいますように…」


袁術えんじゅつは、これをはなはだ奇特なことだと思いましたが、すぐに父親(孫堅そんけん)の兵士を孫策そんさくに返してやろうとはせず、


「私(袁術えんじゅつ)はかねてから、あなた(孫策そんさく)の舅御おじご呉景ごけい)を丹楊太守たんようたいしゅに、従兄の伯陽はくよう孫賁そんふんあざな)どのをその都尉といに任じてある。

の地[揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)]は精兵を出す土地柄だ。舅御おじご呉景ごけい)の元で兵をつのられるが良い」


と言って孫策そんさくを返しました。

そこで孫策そんさくは、呂範りょはん孫河そんかと共に揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の呉景ごけいを頼りました。

初平しょへい4年(193年)のことです。


孫策関連地図

孫策そんさく関連地図


揚州ようしゅうに入った袁術えんじゅつは、孫策そんさくの母の弟で騎都尉きとい呉景ごけい丹楊太守たんようたいしゅに、孫策そんさくの従兄・孫賁そんふん丹楊都尉たんようといに勝手に任命して、丹楊太守たんようたいしゅ周昕しゅうきんを討伐させていました。


また、その後孫策そんさくは、徐州牧じょしゅうぼく陶謙とうけん孫策そんさくみ嫌っていたことから、母親を徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん張紘ちょうこうの元から移して揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに住まわせます。

丹楊郡の賊・祖郎に敗れる

その後孫策そんさくは数百人の部下を集めましたが、揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)・涇県けいけん大帥たいすい(山賊の頭目)・祖郎そろうの襲撃を受け、全滅に近い損害を受けてしまいます。

祖郎そろうに敗れた孫策そんさくが再度袁術えんじゅつの元をおとずれると、袁術えんじゅつは元孫堅そんけんの兵士1千余人を孫策そんさくに返しました。

揚州での孫策の評価

懐義校尉かいぎこういに任命される

当時、太傅たいふ馬日磾ばびつてい太僕たいぼく趙岐ちょうき関東かんとうの地を慰撫いぶしていました。

太傅たいふ馬日磾ばびつてい揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんおとずれた時、孫策そんさくは丁重な礼をもって召し寄せられ、上表して懐義校尉かいぎこういに任命されます。


また袁術えんじゅつ常々つねづね


「もし私に孫郎そんろう孫策そんさく)ほどの息子がおれば、思い残すことなく死ねるのだが…」


嘆息たんそくして言っており、袁術えんじゅつ麾下きか喬蕤きょうずい張勲ちょうくんらも心から孫策そんさくを尊敬していました。

罪をおかした兵を斬る

ある時、孫策そんさくの騎兵の中に罪をおかして袁術えんじゅつの軍営内のうまやに隠れた者がいました。

これに孫策そんさくは、すぐに指示を出して部下を袁術えんじゅつの軍営に向かわせてその者を斬り、その後で袁術えんじゅつたずねて、勝手に軍営に入ったことを謝罪しました。

すると袁術えんじゅつは、


「兵士たちは、ともすれば命令に違反するものであり、我々はみなこれを憎むべきだ。どうしてお前があやまる必要があるのだ」


と言い、孫策そんさくとがめることはありませんでした。

このことがあってから、孫策そんさくは軍をげて益々畏敬いけいの念をいだかれるようになります。


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揚州勢力の袁術への反発

廬江太守・陸康との対立

袁術えんじゅつが約束をたがえる

袁術えんじゅつは以前、孫策そんさく九江太守きゅうこうたいしゅに任命することを約束していましたが、その約束をたがえて丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の陳紀ちんき九江太守きゅうこうたいしゅに任命しました。

孫策そんさく陸康りくこうを攻める

袁術えんじゅつ徐州じょしゅうを攻めようとした時、廬江太守ろこうたいしゅ陸康りくこうに「米3万石を供出するように」と要求しましたが、陸康りくこうがこの要求にこたえなかったため、袁術えんじゅつは激怒します。


以前、孫堅そんけん長沙ちょうさの賊・区星おうせいを討伐した頃[中平ちゅうへい4年(187年)]のこと。

孫堅そんけん揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)・宜春県ぎしゅんけん県長けんちょうであった陸康りくこうおいを救ったことがありました。

この縁から孫策そんさくは、舒県じょけんに住んでいた時に陸康りくこうの元をおとずれたことがありましたが、陸康りくこう孫策そんさくと会おうとせず、主簿しゅぼに応対をさせたので、孫策そんさくはこれをうらみに思っていました。


そこで袁術えんじゅつは、孫策そんさく陸康りくこうの攻撃を命じると共に、


「以前、陳紀ちんき九江太守きゅうこうたいしゅに任命したが、君(孫策そんさく)との約束を守らなかったこといている。もし陸康りくこうを取りしずめることができたなら、今度こそ廬江ろこうは君のものだ」


と、孫策そんさく廬江太守ろこうたいしゅに任命することを約束します。


そこで孫策そんさく陸康りくこうを攻め、城(舒県じょけん)を幾重にも包囲しましたが、休暇で城外にいた廬江郡ろこうぐんの軍吏や兵士たちがこっそり包囲を抜けて城に戻り、陸康りくこうは城を固く守りました。


孫策そんさくの2年に渡る包囲により舒県じょけんは陥落します。

陸康りくこうはその1ヶ月後にやまいにかかって70歳で亡くなり、陸康りくこうの一族・百人余りは離散してえにさらされ、その半数近くが亡くなりました。

また、朝廷は陸康りくこうが節義を守ったことをあわれみ、息子の陸儁りくしゅん郎中ろうちゅうに任命します。


ですがその後袁術えんじゅつは、またもや孫策そんさくとの約束を破って故吏こり (子飼いの部下)の劉勲りゅうくん廬江太守ろこうたいしゅに任命したので、孫策そんさくは益々袁術えんじゅつに失望しました。

揚州刺史・劉繇との衝突

これより以前、兗州刺史えんしゅうしし劉岱りゅうたい(故人)の弟・劉繇りゅうよう詔書しょうしょが下されて、揚州刺史ようしゅうししに任命されていました。

ですが、揚州刺史ようしゅうししの任地である揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんには袁術えんじゅつが居座っていたので、劉繇りゅうよう寿春県じゅしゅんけんに入ることができません。

そこで呉景ごけい孫賁そんふんが、揚州ようしゅうに入った劉繇りゅうようを迎え入れ、劉繇りゅうよう揚州ようしゅう呉郡ごぐん曲阿県きょくあけんに治所を置きました。


孫策そんさく廬江郡ろこうぐんを包囲したことを知った劉繇りゅうようは、袁術えんじゅつかん王朝に対して反逆の意思があるとみて、袁術えんじゅつによって任命された呉景ごけい孫賁そんふんを強制的に追い出します。

そして、呉景ごけい孫賁そんふん退しりぞいた揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん歴陽県れきようけんの東方の横江津おうこうしん樊能はんのう于麋うびを、当利口とうりこう張英ちょうえいを駐屯させて、袁術えんじゅつの勢力拡大を阻止しようとしました。


横江津と当利口

横江津おうこうしん当利口とうりこう


すると袁術えんじゅつは、故吏こり 恵衢けいくを勝手に揚州刺史ようしゅうししに、呉景ごけい督軍中郎将とくぐんちゅうろうしょうに任命して、孫賁そんふんと共に兵をひきいて張英ちょうえいらを攻撃させますが、これを撃ち破ることができず、両軍は長江ちょうこうはさんで対峙したまま膠着こうちゃく状態となりました。


荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを攻めていた孫堅そんけんが戦死すると、長子の孫策そんさく徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん江都県こうとけんに移り住んでいました。

そして興平こうへい元年(194年)、孫策そんさく呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐんの一帯に地盤を得たいと揚州ようしゅうに戻り、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんから揚州ようしゅう九江郡きゅうこうぐん寿春県じゅしゅんけんに拠点を移した袁術えんじゅつに臣従します。


一方、徐州じょしゅう侵攻に際し兵糧の供出をこばんだ廬江太守ろこうたいしゅ陸康りくこうに激怒した袁術えんじゅつが、孫策そんさく廬江郡ろこうぐんを攻めさせると、これをかん王朝に対する反逆とみなした揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようは、袁術えんじゅつが任命した丹楊太守たんようたいしゅ呉景ごけい丹楊都尉たんようとい孫賁そんふん丹楊郡たんようぐんから追い出しました。

呉景ごけい孫賁そんふんは、袁術えんじゅつ丹楊郡たんようぐんの奪還を命じられますが、劉繇りゅうようが派遣した樊能はんのう于麋うび張英ちょうえいらを撃ち破ることはできませんでした。


袁術えんじゅつの攻略目標は徐州じょしゅうでしたが、陸康りくこうを攻撃させたことで、袁術えんじゅつ劉繇りゅうようまでをも敵に回すことになりました。そしてこの呉景ごけい孫賁そんふん揚州刺史ようしゅうしし劉繇りゅうようとの戦いは、後に孫策そんさく袁術えんじゅつの下を離れるための良い口実となります。