暴君化した董卓の誅殺を画策したことで知られる王允とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
スポンサーリンク
目次
出自
出身地 / 生没年
字
子師。
出身地
幷州(并州)・太原郡・祁県。
生没年
- 永和2年(137年)〜初平3年(192年)。
- 『後漢書』に列伝があります。
幷州(并州)・太原郡・祁県
家族・親族
祖先
王允の家系は、代々州郡に仕官して高官を務めていました。
兄
王宏(おうこう)
字は長文。
弘農太守の時、宦官から爵位を買った者を殺害しました。
王允によって右扶風(司隷・右扶風の太守)に任命されましたが、王允が降伏すると李傕らに召し出され、仲が悪かった司隷校尉の胡种に殺害されました。
子
- 王蓋:李傕らに殺害された時は侍中でした。
- 王景:李傕らに殺害されました。
- 王定:李傕らに殺害されました。
孫
王黒(おうこく)
父は不明。献帝によって安楽亭侯に封ぜられ、食邑3百戸を与えられました。
兄の子
- 王晨
- 王淩(字:彦雲)『魏書』に列伝があります。
関連記事
【三国志人物伝】お②太原王氏(王宏・王允・王晨・王淩・王蓋・王景・王定・王広・王飛梟・王金虎・王明山・王黒)
人物評
同郡出身の郭林宗(郭泰)に、
「王允は1日千里を駆ける名馬、王佐の才(王の補佐を務めるに足る才能)がある」
と高く評価され、親しい交友関係を持ちました。
スポンサーリンク
桓帝・霊帝期
19歳で郡吏となる
小黄門・趙津を討つ
永寿元年(155年)、王允は19歳で太原郡の郡吏となります。
その頃、小黄門(宦官)の趙津が財を貪り好き放題をしていたので、太原郡・晋陽県 全体の大きな悩みの種となっていました。
この時王允は、太原太守・劉瓆に従い趙津を捕らえて処刑します。
このことを恨みに思った趙津の兄弟が宦官の伝手を頼って訴え出ると、激怒した桓帝は劉瓆を召し出して獄に下し、延熹9年(166年)9月(もしくは11月)、劉瓆は棄市[打首獄門(劉瓆は宗室であったため自殺させたという説もあります)]に処されました。*1
王允は、劉瓆の遺体を故郷の平原郡に返すと平原郡で3年間喪に服し、太原郡の家に帰りました。
出典
路佛の採用に反対する
王允が郡吏に復帰した時のこと。
太原太守・王球は、まだ若く良い行いが1つもない路佛という者を役人に取り立てようとしていたので、王允はこれに面と向かって強く反対しました。
すると王球は激怒して、王允を逮捕して処刑しようとします。
幷州(并州)刺史・鄧盛はそれを聞くと、急いで使者を送って王允を別駕従事に招きました。
これにより路佛の採用は見送られ、王允は周囲に名を知られるようになります。
侍御史となる
王允は若い頃から人としての正しい道を固く守り、功績を立てる志を持っていたので、日頃から経典を読み、朝夕には騎射の鍛錬を怠りませんでした。
その甲斐あって、三公はそろって彼を辟召*2し、司徒の高第として侍御史となります。
脚注
*2 大将軍や三公九卿、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。この制度によって、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができた。
黄巾の乱
黄巾賊の別働隊を討つ
中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、王允は格別の引き立てを受けて豫州(予州)刺史に任命され、荀爽・孔融らを辟召*2して従事(刺史の属官)とします。
そして王允は、まず「党錮の禁」を解除するように上奏し、黄巾賊の別働隊の将を討伐して、これを大破しました。
この時、左中郎将・皇甫嵩、右中郎将・朱儁らと共に受け入れた降伏者の数は、数十万人に達したと言われています。
豫州(予州)
関連記事
中常侍・張譲を敵に回す
降伏した黄巾賊の持ち物に、内通の証拠となる「中常侍・張譲の賓客からの手紙」を見つけた王允は、その悪事を詳細に暴いて霊帝に報告しました。
怒った霊帝は張譲を問い質しましたが、張譲が叩頭*3して謝罪したので、処罰することなく許してしまいます。
そして、これに怒りと怨みを抱いた張譲は、王允の罪をでっち上げて誹謗中傷したため、この翌年、王允はついに逮捕されて獄に下されてしまいました。
脚注
*3 跪き、両手と頭を地面につけておじぎすること。
2度目の逮捕
その後大赦があり、王允は許されて豫州(予州)刺史に復帰しますが、復帰して10日の内に、また別の罪を着せられてしまいます。
これに司徒の楊賜は、王允が平素から高潔であったことから これ以上の屈辱にあわせたくないと思い、王允に使者を立ててこう伝えました。
「君は張譲によって1ヶ月の間に2度も罪人として召された。今後どのような仕打ちが待っているのか計り知れない。この上は、深遠なる計(自害)を行ってくれ」
また、従事(王允の部下)の中で潔いことを良しとする者たちも、共に涙を流しながら、王允に毒薬を捧げて自害することを勧めます。
すると王允は、
「私は臣下として君主から罪を言い渡されたのだ。死刑に服して天下に謝罪するべきである。どうして毒薬を飲んで自ら死を選ぶことなどできようかっ!」
と言って毒薬の入った杯を投げ捨て、自ら囚人を護送する檻車に乗り込みました。
王允が豫州(予州)刺史に復帰して、再度罪に問われるまでの期間について、『後漢書』には「旬日閒(10日の間に)」とありますが、『後漢紀』には「後百余日」とあります。
罪を許される
王允が廷尉に到着すると、周りの者はみな王允に自害を促し、朝廷の臣下たちの中にため息を漏らさない者はいませんでした。
その後、
- 大将軍の何進
- 太尉の袁隗
- 司徒の楊賜
らが連名で減刑を求めたため、王允はなんとか死罪だけは免れることができましたが、この年の冬にあった大赦でも王允だけは許されることはありませんでした。
その後も三公たちは王允の取りなしを続け、翌年になってようやく釈放されました。
何進らの上奏文(全文)
この一件について、
黄巾の乱以後霊帝の在位中に、冬に大赦が行われたのは中平元年(184年)のみですが、最初に逮捕されたのが張譲に誹謗中傷された翌年とあることから、中平元年(184年)ではありません。
また、そもそも袁隗は太尉になったことはなく、楊賜が司徒であったのは、熹平5年(176年)〜熹平6年(177年)と光和3年(180年)〜光和4年(181年)であったので、いずれかに誤りがあり、時期を特定することができません。
名前を変えて亡命する
当時の宦官たちは目が合っただけでも殺されるほど横暴を極めていました。
そのため王允は姓名を改めて、司隷・河内郡 と兗州・陳留郡 の間を転々とし、張譲の追っ手を避けました。
スポンサーリンク
献帝期
何進に辟召される
中平6年(189年)4月、霊帝が崩御すると、王允は直ちに京師[洛陽(雒陽)]に駆けつけて喪に服します。
ちょうどこの時、少帝を即位させた大将軍・何進は宦官を誅滅したいと考えていたため、王允を辟召*2して一緒に計画を練り、従事中郎に任命した後で、河南尹に転任させました。
司徒に任命される
中平6年(189年)9月、董卓によって少帝が廃されて献帝が即位すると、王允は太僕を拝命し、再度転任して尚書令を兼ねるようになります。
そして初平元年(190年)2月、王允は尚書令を兼ねたまま、楊彪に代わって司徒に任命されました。
つまり王允は、董卓によって司徒に任命されたことになります。
経書を守る
董卓が洛陽(雒陽)を破壊して長安に遷都を強行した時のこと。
王允は蘭台(書物を所蔵した所)と石室に所蔵された図讖(未来の吉凶を予言した書物)や緯書(吉凶禍福や未来の予言が書かれた書物)の中から重要なものを集めて遷都に従いました。
そして長安に到着すると、王允はそれらの書をすべて分類して項目別に分け、また、漢朝の旧例の中で施行するべきものをまとめて上奏しました。
この遷都の強行にあたって経書が失われずに残ったのは、まさに王允の尽力の賜であると言えます。
朝政を取り仕切る
長安に遷都してからも、董卓はまだ洛陽(雒陽)郊外の畢圭苑に駐屯していたので、朝廷の政務は、大小の区別なくすべて王允に委ねられていました。
また、王允は国のため、節を曲げて董卓をよく補佐したので、董卓も王允を信頼して疑いを持ちませんでした。
この時、王允が董卓に従ったことによって、危うい乱世の中にあって王室を守り抜くことができたのだと言えます。
そのため、君主も臣下も内外の者もみな王允を頼りとしていました。
董卓を誅殺する
董卓暗殺計画の失敗
董卓によってもたらされる禍や害毒が深く、すでに帝位簒奪の兆しがあることを見て取った王允は、
- 司隷校尉の黄琬
- 尚書の鄭泰
らと秘かに董卓誅殺の陰謀を巡らせます。
それはまず、護羌校尉の楊瓚を行左将軍、執金吾の士孫瑞を南陽太守とするように上表します。
そして楊瓚と士孫瑞の2名は、袁術討伐を名目に兵を率いて武関道から出陣し、その後2手に別れて董卓を討伐して、天子を洛陽(雒陽)に帰還させる計画でした。
ですが董卓は、楊瓚と士孫瑞の出陣に疑念を抱いてこれを許さなかったので、この計画は失敗に終わってしまいます。
そこで王允は、士孫瑞を宮中に入れて尚書僕射とし、楊瓚を尚書として手元に置きました。
董卓により加増される
初平2年(191年)、長安に引き揚げて来た董卓は遷都の功績により、王允を温侯に封じ、食邑5千戸を与えようとしますが、王允は固く辞退してこれを受けませんでした。
すると士孫瑞は王允を説得して言いました。
「そもそも謙虚な姿勢に固執し、信義を守るべきなのは、時と場合によります。
公(王允)は董太師と階位を並べ、封爵を共にするというのに、1人高潔な節義を尊重するのは、どうして『老子』の言う 光を和らげ世俗と交わる道 でありましょうや」
王允はこの言葉を聞き入れ、食邑2千戸だけを拝受しました。
董卓を誅殺する
初平3年(192年)春、60日余りも雨が続いたので、王允は晴天を請うことを口実に、士孫瑞と楊瓚と共に台に登って再度董卓誅殺の陰謀を巡らせます。
すると士孫瑞は言いました。
「昨年末以来、太陽は照らず、長雨が降り続き、月は執法の域を犯し、彗星が頻繁に出現し、昼は暗く夜は明るく霧と気が交互に侵しあっております。
これは時期が迫っている兆しであり、内部より発する者が勝利を収めましょう。機を失してはなりません。公(王允)、これをお考えあれ」
王允はこの言葉を正しいと考え、そこで密かに董卓の将・呂布を内応させ、祝賀のために参内したところを狙って董卓を刺殺しました。
関連記事
貂蝉のモデルは董卓の侍女だった!?正史『三国志』での董卓の最期
人心を失う
董卓が誅殺された後、朝政は王允と呂布が取り仕切るようになります。
この時呂布は、元董卓の配下たちを許し、公卿や将校に 董卓が貯め込んだ財宝 を分け与えるべきだと提案します。
王允も本音では元董卓の配下たちを許したいと思っていましたが、建前を気にするあまり許すことができず、この意見を聞き入れませんでした。
王允はまた、董卓の死に対して表情を曇らせた蔡邕を断罪し、獄死させています。
このように、正しいことに こだわる ばかりで他の者の意見を聞かなくなったため、朝臣たちの心は王允から離れていきました。
関連記事
長安の陥落と王允の死
王允が元董卓の配下たちを許そうとしなかったため、民衆の間では「涼州人*4は皆殺しになるぞ」と噂されるようになっていました。
追い詰められた元董卓配下の李傕・郭汜らは、同じように不安に怯えている元董卓配下の将を糾合し、長安を包囲します。
守りきれなくなった呂布は、一緒に落ちのびるように誘いますが、王允は、
「国家を安定させることこそが私の願い。もしそれが叶わぬのなら、この身を奉じて死ぬだけだ。
幼いご主君(献帝)は、私だけを頼りにされている。危難を前にして逃げるなど できようはずがない。
どうか関東の諸侯(反董卓連合)によろしく伝え、国家のことを忘れぬように言ってくれっ!」
と言って長安に残り、李傕・郭汜らに処刑されました。享年56歳でした。
この時、あえて王允の亡骸を回収しようとする者はいませんでしたが、ただ1人、故吏の趙戬だけが官を棄てて葬儀を行いました。
豆知識
董卓が誅殺された後、李傕らは司隷・弘農郡・陝県に駐屯していましたが、彼らはみな恐れおののき、急ぎ兵を手元に置いて自分たちの身の安全を図っていました。
李傕らが反逆すると、王允は涼州の名門出身の胡文才と楊整脩を呼びつけて、
「関東の鼠(李傕ら)は何をするつもりなのか。君たち、行って呼んでこい」
と、ぞんざいに言いました。
胡文才と楊整脩はかねてから王允とうまくいっていなかったので、2人は出発すると李傕らに味方して長安の包囲に参加したのでした。
脚注
*4董卓の将校や董卓に仕えて官位のある者の多くは涼州の出身者でした。
関連記事
王允の性格は剛毅(意志が強固なこと)で常に悪を憎んでいたため、目の前の悪を見逃すことができず、そのために度々その身を危険に晒しました。
董卓の支配下においてはみな王允を頼りとしましたが、董卓を誅殺した後はその性格が逆に禍し、正義と厳格さに こだわる ばかりで柔軟な対応をすることができず、ついには人心も離れて身を滅ぼすことになりました。
スポンサーリンク
王允関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
137年 |
■ 永和2年
|
155年 |
■ 永寿元年【19歳】
|
不明 |
|
166年 |
■ 延熹9年【30歳】
|
169年 以降 |
■ 建寧2年【33歳〜】
|
184年 |
■ 中平元年【48歳】
|
不明 |
|
189年 |
■ 中平6年【53歳】
|
190年 |
■ 初平元年【54歳】
|
191年 |
■ 初平2年【55歳】
|
192年 |
■ 初平3年【56歳】
|