暴君化した董卓(とうたく)の誅殺(ちゅうさつ)を画策したことで知られる王允(おういん)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

王允(おういん)

出身地 / 生没年

字(あざな)

子師(しし)。

出身地

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・祁県(きけん)。

生没年

  • 永和(えいわ)2年(137年)〜初平(しょへい)3年(192年)。
  • 『後漢書(ごかんじょ)』に列伝があります。

幷州(并州)・太原郡・祁県

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・祁県(きけん)

家族・親族

祖先

王允(おういん)の家系は、代々州郡に仕官して高官を務めていました。

兄

王宏(おうこう)

字(あざな)は長文(ちょうぶん)。

弘農太守(こうのうたいしゅ)の時、宦官(かんがん)から爵位を買った者を殺害しました。

王允(おういん)によって右扶風(ゆうふふう)(司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)の太守(たいしゅ))に任命されましたが、王允(おういん)が降伏すると李傕(りかく)らに召し出され、仲が悪かった司隷校尉(しれいこうい)の胡种(こちゅう)に殺害されました。

子

  • 王蓋(おうがい):李傕(りかく)らに殺害された時は侍中(じちゅう)でした。
  • 王景(おうけい):李傕(りかく)らに殺害されました。
  • 王定(おうてい):李傕(りかく)らに殺害されました。

孫

王黒(おうこく)

父は不明。献帝(けんてい)によって安楽亭侯(あんらくていこう)に封ぜられ、食邑(しょくゆう)3百戸を与えられました。

兄の子

  • 王晨(おうしん)
  • 王淩(おうりょう)(字(あざな):彦雲(げんうん))『魏書(ぎしょ)』に列伝があります。
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人物評

同郡出身の郭林宗(かくりんそう)(郭泰(かくたい))に、


「王允(おういん)は1日千里を駆ける名馬、王佐の才(王の補佐を務めるに足(た)る才能)がある」


と高く評価され、親しい交友関係を持ちました。


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桓帝・霊帝期

19歳で郡吏となる

小黄門(しょうこうもん)・趙津(ちょうしん)を討つ

永寿(えいじゅ)元年(155年)、王允(おういん)は19歳で太原郡(たいげんぐん)の郡吏(ぐんり)となります。

その頃、小黄門(しょうこうもん)(宦官(かんがん))の趙津(ちょうしん)が財を貪(むさぼ)り好き放題をしていたので、太原郡(たいげんぐん)・晋陽県(しんようけん) 全体の大きな悩みの種となっていました。

この時王允(おういん)は、太原太守(たいげんたいしゅ)・劉瓆(りゅうしつ)に従い趙津(ちょうしん)を捕らえて処刑します。


このことを恨(うら)みに思った趙津(ちょうしん)の兄弟が宦官(かんがん)の伝手を頼って訴え出ると、激怒した桓帝(かんてい)は劉瓆(りゅうしつ)を召し出して獄に下し、延熹(えんき)9年(166年)9月(もしくは11月)、劉瓆(りゅうしつ)は棄市(きし)[打首獄門(劉瓆(りゅうしつ)は宗室であったため自殺させたという説もあります)]に処されました。*1


王允(おういん)は、劉瓆(りゅうしつ)の遺体を故郷の平原郡(へいげんぐん)に返すと平原郡(へいげんぐん)で3年間喪(も)に服し、太原郡(たいげんぐん)の家に帰りました。

出典

*1 劉瓆 – 漢三国志事典(未完成)- アットウィキ

路佛(ろふつ)の採用に反対する

王允(おういん)が郡吏(ぐんり)に復帰した時のこと。

太原太守(たいげんたいしゅ)・王球(おうきゅう)は、まだ若く良い行いが1つもない路佛(ろふつ)という者を役人に取り立てようとしていたので、王允(おういん)はこれに面と向かって強く反対しました。

すると王球(おうきゅう)は激怒して、王允(おういん)を逮捕して処刑しようとします。

幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))刺史(しし)・鄧盛(とうせい)はそれを聞くと、急いで使者を送って王允(おういん)を別駕従事(べつがじゅうじ)に招きました。

これにより路佛(ろふつ)の採用は見送られ、王允(おういん)は周囲に名を知られるようになります。

侍御史となる

王允(おういん)は若い頃から人としての正しい道を固く守り、功績を立てる志(こころざし)を持っていたので、日頃から経典を読み、朝夕には騎射の鍛錬を怠(おこた)りませんでした。

その甲斐あって、三公(さんこう)はそろって彼を辟召(へきしょう)*2し、司徒(しと)の高第として侍御史(じぎょし)となります。

脚注

*2 大将軍や三公九卿、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。この制度によって、彼らの判断で優秀な人材を自分の部下に取り立てることができた。

黄巾の乱

黄巾賊の別働隊を討つ

中平(ちゅうへい)元年(184年)、黄巾の乱が起こると、王允(おういん)は格別の引き立てを受けて豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))刺史(しし)に任命され、荀爽(じゅんそう)・孔融(こうゆう)らを辟召(へきしょう)*2して従事(じゅうじ)(刺史(しし)の属官)とします。

そして王允(おういん)は、まず「党錮(とうこ)の禁」を解除するように上奏し、黄巾賊の別働隊の将を討伐して、これを大破しました。

この時、左中郎将(さちゅうろうしょう)・皇甫嵩(こうほすう)、右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)・朱儁(しゅしゅん)らと共に受け入れた降伏者の数は、数十万人に達したと言われています。


豫州(よしゅう)の場所

豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))

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中常侍(ちゅうじょうじ)・張譲(ちょうじょう)を敵に回す

降伏した黄巾賊の持ち物に、内通の証拠となる「中常侍(ちゅうじょうじ)・張譲(ちょうじょう)の賓客(ひんきゃく)からの手紙」を見つけた王允(おういん)は、その悪事を詳細に暴(あば)いて霊帝(れいてい)に報告しました。

怒った霊帝(れいてい)は張譲(ちょうじょう)を問い質(ただ)しましたが、張譲(ちょうじょう)が叩頭(こうとう)*3して謝罪したので、処罰することなく許してしまいます。


そして、これに怒(いか)りと怨(うら)みを抱(いだ)いた張譲(ちょうじょう)は、王允(おういん)の罪をでっち上げて誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)したため、この翌年、王允(おういん)はついに逮捕されて獄に下されてしまいました。

脚注

*3 跪(ひざまづ)き、両手と頭を地面につけておじぎすること。

2度目の逮捕

その後大赦(たいしゃ)があり、王允(おういん)は許されて豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))刺史(しし)に復帰しますが、復帰して10日の内に、また別の罪を着せられてしまいます。

これに司徒(しと)の楊賜(ようし)は、王允(おういん)が平素から高潔であったことから これ以上の屈辱にあわせたくないと思い、王允(おういん)に使者を立ててこう伝えました。


「君は張譲(ちょうじょう)によって1ヶ月の間に2度も罪人として召(め)された。今後どのような仕打ちが待っているのか計り知れない。この上は、深遠なる計(自害)を行ってくれ」


また、従事(じゅうじ)(王允(おういん)の部下)の中で潔(いさぎよ)いことを良しとする者たちも、共に涙を流しながら、王允(おういん)に毒薬を捧(ささ)げて自害することを勧めます。

すると王允(おういん)は、


「私は臣下として君主から罪を言い渡されたのだ。死刑に服して天下に謝罪するべきである。どうして毒薬を飲んで自(みずか)ら死を選ぶことなどできようかっ!」


と言って毒薬の入った杯(さかずき)を投げ捨て、自(みずか)ら囚人を護送する檻車(かんしゃ)に乗り込みました。


王允(おういん)が豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))刺史(しし)に復帰して、再度罪に問われるまでの期間について、『後漢書(ごかんじょ)』には「旬日閒(10日の間に)」とありますが、『後漢紀(ごかんき)』には「後百余日」とあります。

罪を許される

王允(おういん)が廷尉(ていい)に到着すると、周りの者はみな王允(おういん)に自害を促(うなが)し、朝廷の臣下たちの中にため息を漏(も)らさない者はいませんでした。

その後、

  • 大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)
  • 太尉(たいい)の袁隗(えんかい)
  • 司徒(しと)の楊賜(ようし)

らが連名で減刑を求めたため、王允(おういん)はなんとか死罪だけは免(まぬか)れることができましたが、この年の冬にあった大赦(たいしゃ)でも王允(おういん)だけは許されることはありませんでした。

その後も三公(さんこう)たちは王允(おういん)の取りなしを続け、翌年になってようやく釈放されました。

何進らの上奏文(全文)
タップ(クリック)すると開きます。

そもそも内省(自分の考えや行動などを深くかえりみること)して人を責(せ)めなければ、忠臣は誠意を尽くし、賢者に寛大で能力のある者を憐(あわ)れめば、義士は節義を強くするものです。

このため文帝(ぶんてい)は、馮唐(ふうとう)の(魏尚(ぎしょう)を許して欲しいという)言葉を受け入れ、晋(しん)の悼公(とうこう)は魏絳(ぎこう)の罪を許しました。

王允(おういん)は特に抜擢(ばってき)されて黄巾討伐の命を受け、逆賊を誅滅(ちゅうめつ)し、帰順したものを慰撫(いぶ)し、1年もしないうちに州境は清らかとなりました。

まさにこれからその勲功(くんこう)を並べ挙(あ)げ、封爵恩賞を与えることをお願いしようとしておりましたのに、事件を処理することが不当であるとのことにより、死罪に当たるとされました。

犯した責任は軽いのに受ける罰は重く、それは人々の望みに違(たが)うものです。

臣らはその位が宰相(さいしょう)に列する者でございますれば、あえて黙ってはおられません。誠に思いますに、王允(おういん)には三公(さんこう)の裁(さば)きを受けさせ、それによって忠義と貞節の心を明らかにすべきであります。


この一件について、

黄巾の乱以後霊帝(れいてい)の在位中に、冬に大赦(たいしゃ)が行われたのは中平(ちゅうへい)元年(184年)のみですが、最初に逮捕されたのが張譲(ちょうじょう)に誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)された翌年とあることから、中平(ちゅうへい)元年(184年)ではありません。

また、そもそも袁隗(えんかい)は太尉(たいい)になったことはなく、楊賜(ようし)が司徒(しと)であったのは、熹平(きへい)5年(176年)〜熹平(きへい)6年(177年)と光和(こうわ)3年(180年)〜光和(こうわ)4年(181年)であったので、いずれかに誤(あやま)りがあり、時期を特定することができません。

名前を変えて亡命する

当時の宦官(かんがん)たちは目が合っただけでも殺されるほど横暴を極めていました。

そのため王允(おういん)は姓名を改めて、司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん) と兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん) の間を転々とし、張譲(ちょうじょう)の追っ手を避けました。


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献帝期

何進に辟召される

中平(ちゅうへい)6年(189年)4月、霊帝(れいてい)が崩御すると、王允(おういん)は直(ただ)ちに京師(けいし)[洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))]に駆けつけて喪(も)に服します。

ちょうどこの時、少帝(しょうてい)を即位させた大将軍(だいしょうぐん)・何進(かしん)は宦官(かんがん)を誅滅(ちゅうめつ)したいと考えていたため、王允(おういん)を辟召(へきしょう)*2して一緒に計画を練(ね)り、従事中郎(じゅうじちゅうろう)に任命した後で、河南尹(かなんいん)に転任させました。

司徒に任命される

中平(ちゅうへい)6年(189年)9月、董卓(とうたく)によって少帝(しょうてい)が廃されて献帝(けんてい)が即位すると、王允(おういん)は太僕(たいぼく)を拝命し、再度転任して尚書令(しょうしょれい)を兼ねるようになります。

そして初平(しょへい)元年(190年)2月、王允(おういん)は尚書令(しょうしょれい)を兼ねたまま、楊彪(ようひょう)に代わって司徒(しと)に任命されました。

つまり王允(おういん)は、董卓(とうたく)によって司徒(しと)に任命されたことになります。

経書を守る

董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を破壊して長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を強行した時のこと。

王允(おういん)は蘭台(らんだい)(書物を所蔵した所)と石室(せきしつ)に所蔵された図讖(としん)(未来の吉凶を予言した書物)や緯書(いしょ)(吉凶禍福(きっきょうかふく)や未来の予言が書かれた書物)の中から重要なものを集めて遷都(せんと)に従いました。

そして長安(ちょうあん)に到着すると、王允(おういん)はそれらの書をすべて分類して項目別に分け、また、漢朝(かんちょう)の旧例の中で施行するべきものをまとめて上奏しました。

この遷都(せんと)の強行にあたって経書(けいしょ)が失われずに残ったのは、まさに王允(おういん)の尽力の賜(たまもの)であると言えます。

朝政を取り仕切る

長安(ちょうあん)に遷都(せんと)してからも、董卓(とうたく)はまだ洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))郊外の畢圭苑(ひつけいえん)に駐屯していたので、朝廷の政務は、大小の区別なくすべて王允(おういん)に委(ゆだ)ねられていました。

また、王允(おういん)は国のため、節を曲げて董卓(とうたく)をよく補佐したので、董卓(とうたく)も王允(おういん)を信頼して疑いを持ちませんでした。

この時、王允(おういん)が董卓(とうたく)に従ったことによって、危うい乱世の中にあって王室を守り抜くことができたのだと言えます。

そのため、君主も臣下も内外の者もみな王允(おういん)を頼りとしていました。

董卓を誅殺する

董卓暗殺計画の失敗

董卓(とうたく)によってもたらされる禍(わざわい)や害毒が深く、すでに帝位簒奪(さんだつ)の兆(きざ)しがあることを見て取った王允(おういん)は、

  • 司隷校尉(しれいこうい)の黄琬(こうえん)
  • 尚書(しょうしょ)の鄭泰(ていたい)

らと秘かに董卓(とうたく)誅殺(ちゅうさつ)の陰謀を巡(めぐ)らせます。


それはまず、護羌校尉(ごきょうこうい)の楊瓚(ようさん)を行左将軍(こうさしょうぐん)、執金吾(しつきんご)の士孫瑞(しそんずい)を南陽太守(なんようたいしゅ)とするように上表します。

そして楊瓚(ようさん)と士孫瑞(しそんずい)の2名は、袁術(えんじゅつ)討伐を名目に兵を率(ひき)いて武関道(ぶかんどう)から出陣し、その後2手に別れて董卓(とうたく)を討伐して、天子(てんし)を洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に帰還させる計画でした。


ですが董卓(とうたく)は、楊瓚(ようさん)と士孫瑞(しそんずい)の出陣に疑念を抱(いだ)いてこれを許さなかったので、この計画は失敗に終わってしまいます。

そこで王允(おういん)は、士孫瑞(しそんずい)を宮中に入れて尚書僕射(しょうしょぼくや)とし、楊瓚(ようさん)を尚書(しょうしょ)として手元に置きました。

董卓により加増される

初平(しょへい)2年(191年)、長安(ちょうあん)に引き揚(あ)げて来た董卓(とうたく)は遷都(せんと)の功績により、王允(おういん)を温侯(おんこう)に封じ、食邑(しょくゆう)5千戸を与えようとしますが、王允(おういん)は固く辞退してこれを受けませんでした。

すると士孫瑞(しそんずい)は王允(おういん)を説得して言いました。


「そもそも謙虚な姿勢に固執し、信義を守るべきなのは、時と場合によります。

公(こう)(王允(おういん))は董太師(とうたいし)と階位を並べ、封爵を共にするというのに、1人高潔な節義を尊重するのは、どうして『老子(ろうし)』の言う 光を和(やわ)らげ世俗と交わる道 でありましょうや」


王允(おういん)はこの言葉を聞き入れ、食邑(しょくゆう)2千戸だけを拝受しました。

董卓を誅殺する

初平(しょへい)3年(192年)春、60日余りも雨が続いたので、王允(おういん)は晴天を請(こ)うことを口実に、士孫瑞(しそんずい)と楊瓚(ようさん)と共に台に登って再度董卓(とうたく)誅殺(ちゅうさつ)の陰謀を巡(めぐ)らせます。

すると士孫瑞(しそんずい)は言いました。


「昨年末以来、太陽は照らず、長雨が降り続き、月は執法(しっぽう)の域を犯し、彗星が頻繁に出現し、昼は暗く夜は明るく霧と気が交互に侵(おか)しあっております。

これは時期が迫(せま)っている兆(きざ)しであり、内部より発する者が勝利を収めましょう。機を失してはなりません。公(こう)(王允(おういん))、これをお考えあれ」


王允(おういん)はこの言葉を正しいと考え、そこで密(ひそ)かに董卓(とうたく)の将・呂布(りょふ)を内応させ、祝賀のために参内したところを狙って董卓(とうたく)を刺殺しました。

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人心を失う

董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)された後、朝政は王允(おういん)と呂布(りょふ)が取り仕切るようになります。

この時呂布(りょふ)は、元董卓(とうたく)の配下たちを許し、公卿(こうけい)や将校に 董卓(とうたく)が貯め込んだ財宝 を分け与えるべきだと提案します。

王允(おういん)も本音では元董卓(とうたく)の配下たちを許したいと思っていましたが、建前を気にするあまり許すことができず、この意見を聞き入れませんでした。

王允(おういん)はまた、董卓(とうたく)の死に対して表情を曇らせた蔡邕(さいよう)を断罪し、獄死させています。


このように、正しいことに こだわる ばかりで他の者の意見を聞かなくなったため、朝臣たちの心は王允(おういん)から離れていきました。

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長安の陥落と王允の死

王允(おういん)が元董卓(とうたく)の配下たちを許そうとしなかったため、民衆の間では「涼州(りょうしゅう)人(じん)*4は皆殺しになるぞ」と噂されるようになっていました。

追い詰(つ)められた元董卓(とうたく)配下の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは、同じように不安に怯(おび)えている元董卓(とうたく)配下の将を糾合(きゅうごう)し、長安(ちょうあん)を包囲します。


守りきれなくなった呂布(りょふ)は、一緒に落ちのびるように誘いますが、王允(おういん)は、


「国家を安定させることこそが私の願い。もしそれが叶(かな)わぬのなら、この身を奉じて死ぬだけだ。

幼いご主君(献帝(けんてい))は、私だけを頼りにされている。危難を前にして逃げるなど できようはずがない。

どうか関東(かんとう)の諸侯(反董卓(とうたく)連合)によろしく伝え、国家のことを忘れぬように言ってくれっ!」


と言って長安(ちょうあん)に残り、李傕(りかく)・郭汜(かくし)らに処刑されました。享年(きょうねん)56歳でした。

この時、あえて王允(おういん)の亡骸(なきがら)を回収しようとする者はいませんでしたが、ただ1人、故吏(こり)の趙戬(ちょうせん)だけが官を棄(す)てて葬儀を行いました。

豆知識

董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)された後、李傕(りかく)らは司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯していましたが、彼らはみな恐れおののき、急ぎ兵を手元に置いて自分たちの身の安全を図(はか)っていました。

李傕(りかく)らが反逆すると、王允(おういん)は涼州(りょうしゅう)の名門出身の胡文才(こぶんさい)と楊整脩(ようせいしゅう)を呼びつけて、


「関東(かんとう)の鼠(ねずみ)(李傕(りかく)ら)は何をするつもりなのか。君たち、行って呼んでこい」


と、ぞんざいに言いました。

胡文才(こぶんさい)と楊整脩(ようせいしゅう)はかねてから王允(おういん)とうまくいっていなかったので、2人は出発すると李傕(りかく)らに味方して長安(ちょうあん)の包囲に参加したのでした。

脚注

*4董卓(とうたく)の将校(しょうこう)や董卓(とうたく)に仕えて官位のある者の多くは涼州(りょうしゅう)の出身者でした。

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王允(おういん)の性格は剛毅(ごうき)(意志が強固なこと)で常に悪を憎んでいたため、目の前の悪を見逃すことができず、そのために度々その身を危険に晒(さら)しました。

董卓(とうたく)の支配下においてはみな王允(おういん)を頼りとしましたが、董卓(とうたく)を誅殺(ちゅうさつ)した後はその性格が逆に禍(わざわい)し、正義と厳格さに こだわる ばかりで柔軟な対応をすることができず、ついには人心も離れて身を滅ぼすことになりました。


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王允関連年表

西暦 出来事
137年

■ 永和(えいわ)2年

  • 王允(おういん)、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)・祁県(きけん)で生まれる。
155年

■ 永寿(えいじゅ)元年【19歳】

  • 太原郡(たいげんぐん)の郡吏(ぐんり)となる。
不明
  • 趙津(ちょうしん)を捕らえて処刑する。
166年

■ 延熹(えんき)9年【30歳】

  • 太原太守(たいげんたいしゅ)・劉瓆(りゅうしつ)が刑死(または自殺)する。
  • 劉瓆(りゅうしつ)の故郷・平原郡(へいげんぐん)で3年間喪(も)に服す。
169年
以降

■ 建寧(けんねい)2年【33歳〜】

  • 太原郡(たいげんぐん)の郡吏(ぐんり)に復帰する。
  • 太原太守(たいげんたいしゅ)・王球(おうきゅう)に諫言(かんげん)する。
  • 幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))刺史(しし)・鄧盛(とうせい)に招かれ別駕従事(べつがじゅうじ)となる。
  • 名声を上げる。
  • 侍御史(じぎょし)となる。
184年

■ 中平(ちゅうへい)元年【48歳】

  • 黄巾の乱が起こる。
  • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))刺史(しし)に任命される。
  • 「党錮(とうこ)の禁」の解除を上奏する。
  • 黄巾賊の別働隊を討伐して大破する。
不明
  • 中常侍(ちゅうじょうじ)・張譲(ちょうじょう)を弾劾(だんがい)する。
  • 張譲(ちょうじょう)に罪を着せられ獄に下される。
  • 大赦(たいしゃ)により豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))刺史(しし)に復帰する。
  • 張譲(ちょうじょう)に罪を着せられる。
  • 何進かしん・袁隗(えんかい)・楊賜(ようし)の嘆願(たんがん)により死罪を免(まぬか)れる。
  • 姓名を改めて亡命する。
189年

■ 中平(ちゅうへい)6年【53歳】

  • 霊帝(れいてい)が崩御する。
  • 洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に駆けつけて喪(も)に服す。
  • 大将軍(だいしょうぐん)・何進(かしん)に辟召(へきしょう)*2され、従事中郎(じゅうじちゅうろう)となる。
  • 河南尹(かなんいん)に転任する。
  • 何進(かしん)が殺害される。
  • 董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入り権力を握る。
  • 太僕(たいぼく)に任命され、尚書令(しょうしょれい)を兼ねる。
190年

■ 初平(しょへい)元年【54歳】

  • 司徒(しと)に任命される。
  • 董卓(とうたく)が長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を強行する。
  • 重要な書物を集めて遷都(せんと)に従う。
  • 朝政を取り仕切る。
  • 董卓(とうたく)の誅殺(ちゅうさつ)を計画するが、未遂に終わる。
191年

■ 初平(しょへい)2年【55歳】

  • 食邑(しょくゆう)2千戸を与えられる。
192年

■ 初平(しょへい)3年【56歳】

  • 董卓(とうたく)誅殺(ちゅうさつ)の計画を練(ね)る。
  • 呂布(りょふ)を味方につける。
  • 董卓(とうたく)を誅殺(ちゅうさつ)する。
  • 呂布(りょふ)と共に朝政を取り仕切る。
  • 元董卓(とうたく)の配下たちを許さず、人望を失う。
  • 蔡邕(さいよう)を断罪し、獄死させる。
  • 李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが長安(ちょうあん)を包囲する。
  • 呂布(りょふ)が逃走する。
  • 李傕(りかく)・郭汜(かくし)らに降伏する。
  • 李傕(りかく)らが王允(おういん)派の王宏(おうこう)・宋翼(そうよく)を長安(ちょうあん)に召し出す。
  • 王宏(おうこう)・宋翼(そうよく)らと共に殺害される。
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