公孫瓚こうそんさんを群雄の1人に押し上げるきっかけとなった幽州の反乱「張純ちょうじゅんの乱」と、これが原因となって生じた公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐの確執について見てみましょう。

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「張純の乱」勃発の経緯

張純の乱とは

張純ちょうじゅんの乱とは、187年に張純ちょうじゅん張挙ちょうきょ、北方異民族・烏桓うがん烏丸うがん)の大人たいじん(首長)・丘力居きゅうりききょらを中心として起こされた反乱のことです。

反乱軍は10万にふくれ上がり、幽州ゆうしゅうをはじめ、冀州きしゅう青州せいしゅうにまで影響を及ぼしました。

反乱の経緯

185年3月、涼州りょうしゅうで起こった羌族きょうぞくの反乱がきっかけとなって、辺章へんしょう韓遂かんすいらが三輔さんぽ地方(右扶風ゆうふふう左馮翊さひょうよく京兆尹けいちょういんの3郡)に侵攻します。

これに対し朝廷は皇甫嵩こうほすう董卓とうたくを討伐に向かわせました。

ですが、数ヶ月経っても戦果をあげることができなかったため、皇甫嵩こうほすう左車騎将軍さしゃきしょうぐんの職を解かれてしまったのです。


その後、皇甫嵩こうほすうに代わって車騎将軍しゃきしょうぐんに任命されたのが張温ちょうおんです。

幽州ゆうしゅう漁陽郡ぎょようぐんの人張純ちょうじゅんは、この討伐軍への従軍を志願していましたが、張温ちょうおん孫堅そんけん陶謙とうけん公孫瓚こうそんさんらを抜擢して討伐軍を編成しました。


張温ちょうおんは討伐軍に幽州ゆうしゅう烏桓うがん兵(烏桓突騎うがんとっき)を加える意向を示しました。この烏桓うがん兵を率いることを志願したのが張純ちょうじゅん公孫瓚こうそんさんでした。

この結果、張温ちょうおん張純ちょうじゅんではなく公孫瓚こうそんさん烏桓うがん兵を率いさせることに決定しました。


187年、自分の願いが聞き入れなかったことを恨みに思った張純ちょうじゅんは、同郷の張挙ちょうきょ烏桓うがん大人たいじん丘力居きゅうりききょらを語らって反乱を起こします。

張挙ちょうきょは天子、張純ちょうじゅん弥天将軍みてんしょうぐん安定王あんていおうを自称し、護烏桓校尉ごうがんこうい公綦稠こうきちゅう右北平太守ゆうほくへいたいしゅ劉政りゅうせい遼東太守りょうとうたいしゅ楊終ようしゅうらを殺害、右北平郡ゆうほくへいぐん遼西郡りょうせいぐんなど幽州ゆうしゅう諸郡を占領して官民を連れ去ってしまいました。

さらに朝廷に不満を抱いていた人々を取り込んで10万にふくれ上がった反乱軍は、幽州ゆうしゅうだけにとどまらず、冀州きしゅう河間国かかんこく勃海郡ぼっかいぐん青州せいしゅう平原国へいげんこくにまで侵攻します。


張純の乱の侵攻範囲

張純ちょうじゅんの乱の侵攻範囲

張純はなぜ反乱を起こしたのか?

ですが、たかだか涼州りょうしゅうの反乱の鎮圧に同行できなかっただけで、反乱を起こす原因になるのでしょうか。推測を交えて考えてみます。


張純ちょうじゅん公孫瓚こうそんさんは、同じポジションを奪い合うライバル同士であったと考えられます。そして、朝廷の実力者である張温ちょうおんは、張純ちょうじゅんではなく公孫瓚こうそんさんを選びました。

ここで公孫瓚こうそんさんが手柄を立てようものなら、張純ちょうじゅん公孫瓚こうそんさんに大きく差をつけられてしまうことになり、公孫瓚こうそんさんよりも格下になってしまいます。

張純ちょうじゅんにとって、ライバルであった公孫瓚こうそんさんの命令に従うことなど耐えられません。


またこの年の6月、洛陽らくようで「2つの頭を持った子供」が生まれていました。

後漢書ごかんじょ劉虞伝りゅうぐでんには、張純ちょうじゅんがこれを「天下に2人の天子が現れるきざしである」と解釈し、黄巾の乱に続いて涼州りょうしゅうでも反乱が起こっている今、「反乱を実行すれば必ず成功する」という確信を持って反乱に至ったことが記されています。

張挙ちょうきょが反乱に際して天子を自称したことには、このような背景がありました。



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「張純の乱」の討伐

公孫瓚の快進撃

この「張純ちょうじゅんの乱」に対し朝廷は、涼州りょうしゅうに向かう公孫瓚こうそんさんに討伐を命じます。公孫瓚こうそんさんは緒戦で張純ちょうじゅんらを撃破して騎都尉きといに昇進しました。

公孫瓚こうそんさんはさらに追撃して遼東属国りょうとうぞっこく石門せきもんで大勝し、反乱軍に連れ去られていた官民を取り返すことに成功します。

管子城の包囲戦

ですが、敵を深追いし過ぎた公孫瓚こうそんさんは、逆に遼西郡りょうせいぐん管子城かんしじょう丘力居きゅうりききょらに包囲されてしまいました。

城にもること200日あまり。食料が尽き果てると軍馬を食べ、それもなくなると、たてを煮て食べるような有様です。

事ここに至り、公孫瓚こうそんさんは兵を分散させて各々退却させましたが、途中半数以上の兵が命を落としてしまいました。その後、食料が尽きたため反乱軍も柳城りゅうじょうに撤退します。

公孫瓚の台頭

苦戦の末に反乱軍を退けた公孫瓚こうそんさんは、朝廷から降虜校尉こうりょこういを拝命、都亭侯とていこうに封ぜられ、遼東りょうとう属国長史ぞっこくちょうしを兼務することになります。

公孫瓚こうそんさんは弓の巧みな者を集めて白馬に騎乗させて白馬義従はくばぎじゅうと称し、引き続き烏桓うがんをはじめとする北方異民族ににらみを利かせていましたが、反乱の鎮圧には至りませんでした。



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「張純の乱」の鎮圧

州牧の設置

翌188年、霊帝れいていは多発する反乱に対応するため、軍権も含めた州全般の統治権が与えられた州牧しゅうぼくを設置します。

そして、劉焉りゅうえん益州牧えきしゅうぼく黄琬こうえん豫州牧よしゅうぼく、そして、劉虞りゅうぐ幽州牧ゆうしゅうぼくに着任しました。

公孫瓚と劉虞の確執

徹底抗戦による反乱の鎮圧を目指す公孫瓚こうそんさんに対し、烏桓うがんでも人望を集めていた劉虞りゅうぐは、丘力居きゅうりききょらを懐柔かいじゅうして反乱を治める方針を取ります。

そして、劉虞りゅうぐ張純ちょうじゅんの首と引き替えに帰順を勧める使者を送ると、丘力居きゅうりききょはこれを受け入れました。


ですが、劉虞りゅうぐの方針が成功してしまうと、今まで苦労してきた公孫瓚こうそんさんにとっては手柄を横取りされることになり、面白くありません。公孫瓚こうそんさんは交渉を妨害するため、丘力居きゅうりききょの返答の使者を捕らえて殺してしまいます。

その後、公孫瓚こうそんさんの妨害をきり抜けた使者が恭順きょうじゅんの意志を伝えたため、劉虞りゅうぐ右北平郡ゆうほくへいぐん公孫瓚こうそんさんの歩騎1万のみを残し、軍を引き上げました。

これによって張純ちょうじゅんは妻子を捨て、鮮卑族せんぴぞくを頼って逃亡しますが、翌年3月、食客の王政おうせいによって殺され、「張純ちょうじゅんの乱」は平定されました。

なお、張純ちょうじゅんと共に反乱に参加し、天子を僭称せんしょうした張挙ちょうきょの消息については、史料に記載がありません。


その後も公孫瓚こうそんさんは、劉虞りゅうぐ鮮卑族せんぴぞくに与えた恩賞を略奪するなど、異民族を懐柔かいじゅうする劉虞りゅうぐの方針に反発する態度を取り続けます。

そのため、「張純ちょうじゅんの乱」の平定をきっかけに生じた公孫瓚こうそんさん劉虞りゅうぐの確執はさらに深まっていきました。