187年【漢:中平4年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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187年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 |
人物 |
天子(皇帝) |
劉宏(霊帝) |
皇太后 |
董太后(孝仁董皇后) |
皇后 |
何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 |
人物 |
司徒 |
崔烈 → 許相 |
司空 |
許相 → 丁宮 |
太尉 |
張温 → 崔烈 → 曹嵩 |
大司農 |
曹嵩(〜11月) |
光禄勲 |
丁宮(〜5月) |
侍御史 |
桓典 |
議郎 |
曹操 |
尚書 |
盧植 |
大将軍 |
何進 |
車騎将軍 |
何苗(3月〜) |
右車騎将軍 |
朱儁 |
東中郎将 |
董卓 |
五官中郎将 |
董重 |
護烏桓校尉 |
公綦稠(〜6月) |
地方官
官職 |
人物 |
河南尹 |
何苗 |
交阯刺史 |
賈琮 |
荊州刺史 |
王敏 |
涼州刺史 |
耿鄙(〜4月) |
右北平太守 |
劉政(〜6月) |
遼東太守 |
陽終(〜6月) |
玄菟太守 |
公孫琙 |
汝南太守 |
趙謙 |
長沙太守 |
孫堅 |
丹陽太守 |
陳夤 |
廬江太守 |
陸康 |
巴郡太守 |
曹謙 |
益州太守 |
李顒 |
漢陽太守 |
傅燮(〜4月) |
鬱林太守 |
谷永 |
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187年の主な出来事
月 |
出来事 |
1月 |
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2月 |
- 滎陽県の賊が中牟県令を殺害する。
- 南宮内殿の罘罳(門の周りに置く格子状の塀)が自壊した。
- 韓遂が北宮伯玉、李文侯、辺章を殺害する。
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3月 |
- 河南尹の何苗が滎陽県の反乱を鎮圧し、車騎将軍に任命される。
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4月 |
- 涼州刺史・耿鄙が韓遂に敗れる。
- 韓遂が冀県を攻め、漢陽太守・傅燮が戦死する。
- 馬騰と王国が三輔地方に侵攻する。
- 太尉の張温が罷免され、司徒の崔烈が太尉に任命される。
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5月
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- 司空の許相が司徒に任命される。
- 光禄勲の丁宮が司空に任命される。
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6月
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- 洛陽の民が両頭共身の男の子を生んだ。
- 張純が張挙、烏桓族の大人・丘力居と共に幽州で反乱を起こす。
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9月 |
- 天下に令を下し、罪が確定していない囚人に絹を納めることで購わせる。
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10月 |
- 長沙郡で区星が将軍を自称して反乱を起こす。
- 零陵・桂陽で周朝・郭石が反乱を起こす。
- 孫堅が長沙太守に任命され、反乱を鎮圧する。
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11月 |
- 太尉の崔烈が罷免され、大司農の曹嵩が太尉に任命される。
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12月 |
- 南匈奴の休屠各胡が反乱を起こす。
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不明 |
- 霊帝が関内侯と仮の金印紫綬を売り、500万銭を得る。
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187年の三国志群雄勢力図
中平4年(187年)の三国志群雄勢力図
187年の情勢
187年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
滎陽県で賊が蜂起する
2月、司隷・河南尹・滎陽県で賊が蜂起し、中牟県令が殺害されます。
3月、大将軍・何進の弟で河南尹の何苗がこの反乱を討伐して、車騎将軍に任命されました。
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涼州の情勢
韓遂が仲間を殺す
2月、韓遂が北宮伯玉、李文侯、辺章を殺害して彼らの兵を手に入れます。
4月、韓遂と王国が10万余りの軍で隴西郡に侵攻すると、隴西太守・李相如は戦わずに降伏してしまいました。
涼州刺史・耿鄙は新たに兵を募集すると、漢陽太守・傅燮が止めるのを無視して韓遂・王国()の討伐に向かいます。この時募集された兵の中に、後()に群雄の1人となる馬騰()がいました。
耿鄙()軍の進軍経路
傅燮の忠義
その後、韓遂()と王国()がと王国()が・王国()と対峙した耿鄙()は配下の州別駕()の内応によって敗死。韓遂()と王国()がと王国()がと王国()はそのまま漢陽太守()・傅燮()が守る冀県()に軍を進めました。
傅燮()は少ない兵で固く守りますが、兵糧もつき果てて落城間近となります。
冀県()を囲む賊の中にも傅燮()の恩徳を慕()う者は多く、彼らは城外で叩頭()して、傅燮()を故郷の北地郡()に帰すように願い出ました。
「国は乱れて朝廷に居場所なく、漢陽()を守ろうにも兵が足りません。ここは羌族()や胡族()の勧めに従って故郷に帰りましょう」
と言う息子・傅幹()の言葉を遮()って傅燮()は言います。
「私は長年朝廷の禄()を食んできた。今更節()を曲げることはできない。私はここで死ぬが、お前には才智がある。主簿()の楊会()はお前を助けてくれるはずだ。生き延()びて努力せよ」
この時息子の傅幹()は13歳。のちに馬騰()、曹操()に仕え、扶風太守()にまで昇りました。
傅燮()からの返答がなかったので、王国()は元酒泉太守()の黄衍()を使者に立てました。
「天下はすでに漢にはありません。我々の将帥になっていただけないでしょうか?」
傅燮()は剣を抜き、
「お前は朝廷に仕える身でありながら、賊のために説得に来たのか!」
と一喝すると、傅燮()は最後の戦いを挑んで見事な最期を遂()げました。
馬騰()と王国()が三輔()地方に侵攻
4月、涼州刺史()・耿鄙()の死後、耿鄙()の下で軍司馬()を務めていた馬騰()は反乱軍に身を投じ、王国()を大将に推戴()して、韓遂()と王国()がと王国()がと共に三輔()地方に侵攻を開始しました。
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張純()の乱
6月、張純()が張挙()を誘い、烏桓族()の大人()・丘力居()と共に反乱を起こして、護烏桓校尉()・公綦稠()、右北平太守()・劉政()、遼東太守()・陽終()らを殺害。
張挙()は天子、張純()は弥天将軍()・安定王()を自称して、漢の天子の退位と公卿()が張挙()を迎えに来ることを要求し、青州()・徐州()・幽州()、冀州()の4州に侵攻しました。
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長沙()で区星()が反乱
10月、長沙郡()で区星()が将軍()を自称し、零陵()・桂陽()では周朝()・郭石()が反乱を起こします。
これに議郎()の孫堅()が長沙太守()に任命され、1ヶ月も経たないうちに反乱を鎮圧しました。
またこの時孫堅()は、賊に攻撃を受けた揚州()・予章郡()・宜春県()の県長()を独断で救援しています。
区星()の反乱を鎮圧した功績により、孫堅()は烏程侯()に封じられました。
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廬江郡の反乱について
180年に起こった江夏蛮()と黄穣()による廬江郡()の反乱は、廬江太守()に任命された陸康()が鎮圧しますが、それがいつのことなのかははっきり記されていません。
『呉書()』孫堅伝()の注が引く『呉録()』に「宜春県()の県長()は廬江太守()・陸康()の甥()」とあることから、この時すでに陸康()は廬江太守()になっていたものと思われます。
当サイトでは、この年187年に廬江郡()の反乱が鎮圧されたものとして扱います。
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この年、涼州()では韓遂()と王国()がと王国()がによって北宮伯玉()、李文侯()、辺章()らが殺害され、韓遂()と馬騰()に推戴()された王国()が再度三輔()地方に侵攻します。
また、幽州()では張純()、張挙()、丘力居()らが、長沙郡()では区星()が反乱を起こすなど、黄巾の乱以降、毎年のように新たな反乱が起こっています。
そんな中、霊帝()は相変わらず自身の蓄財に勤()しんでいました。
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