正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(63)長沙郡桓氏(桓超・桓勝・桓階・桓纂・桓彝・桓祐・桓嘉・桓翊・桓陵)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
長沙郡桓氏系図
長沙郡桓氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
桓纂と桓彝の兄弟の順は不明。
桓翊と桓陵の年齢の順は不明。
この記事では長沙郡桓氏の人物、
についてまとめています。
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か(63)長沙郡桓氏
第1世代(桓超)
第2世代(桓勝)
第3世代(桓階)
桓階・伯緒
生没年不詳。荊州・長沙郡・臨湘県の人。父は桓勝。子に桓嘉。弟に桓纂、桓彝。(桓纂と桓彝の兄弟の順は不明)。
孫堅への義
初め、郡に仕官して功曹となった。その後長沙太守・孫堅に孝廉に推挙されて尚書郎となったが、父・桓勝の喪に服すために郷里に還った。
初平2年(191年)、劉表を攻撃した孫堅が戦死した。すると桓階は、危険を冒して劉表の元に赴いて孫堅の遺体を請い求め、劉表は桓階の義の心に感服して彼の希望通りにした。
曹操につくことを勧める
後に曹操と袁紹が官渡において対峙すると、劉表は州を挙げて袁紹に呼応したが、この時桓階は、長沙太守・張羡に「袁紹に呼応した劉表に同調してはいけません」と進言した。
桓階の進言・全文
張羡が「それならば、どちらに向かえば良いのか?」と問うと桓階は、
「曹公(曹操)は弱いとは言え、道義に従って起ち上がり、朝廷の危機を救い、王命を奉じて罪ある者を討伐しております。服従しない理由がありましょうか?今もし4つの郡と3つの江を保持して曹公(曹操)の到来を待ち、内応するのがよろしいでしょうっ!」
と言った。張羡はこれに同意して、長沙郡と零陵郡、桂陽郡、武陵郡の3郡を挙げて劉表に抵抗し、曹操の元に使者を派遣した。
曹操はこれを大いに喜んだが、袁紹との戦闘が続いていたため南進できなかった。その間に劉表の攻撃を受けた張羡は病死し、城は陥落して桓階は身を隠した。
曹操に仕える
曹操の荊州平定
それからしばらくして、劉表は桓階を辟召いて従事祭酒としたが、劉表が妻の妹の蔡氏を娶せようとすると、桓階は「すでに結婚している」と言って断り、それを機会に病気を理由にして退官した。
曹操は荊州を平定すると、桓階が「張羡のために曹操につくことを謀った」と聞いて高く評価し、彼を辟召いて丞相掾主簿とし、趙郡太守に昇進させた。
曹操の信任を得る
魏国が建国されると、桓階は虎賁中郎将・侍中となった。当時、曹操の太子はまだ決定されておらず、臨菑侯の曹植が寵愛を受けていたが、桓階は度々「曹丕の徳が優れ、年長でもあることから、太子とするのが当然である」と上申し、また公の席上で忠告したり内密に諫言したりして、前後に渡って懇切丁寧に申し上げた。その結果、曹操は桓階が正義を貫くのに熱心であることを知り、益々深く彼を尊重するようになった。
また、毛玠と徐奕は剛直なために仲間が少なく、西曹掾の丁儀は度々彼らの欠点をあげつらったが、桓階が弁護したお陰で安全を保つことができた。このように桓階には、人の美点を後推しして伸ばしてやり、欠点を匡し補ってやることが多かった。その後尚書に昇進し、官吏の選挙を担当した。
樊城の戦い
建安24年(219年)、樊城の曹仁が関羽に包囲されると、曹操は徐晃を救援に派遣したが、包囲は解けなかった。そこで曹操は自ら南征しようと考え、群臣に意見を求めた。
群臣はみな「王(曹操)が亟行(早く行くこと)されなければ、今にも敗れてしまうでしょう」と言ったが、桓階だけはこれに同調せず、次のように曹操に尋ねた。
桓階「大王(曹操)には、曹仁らが事態に対処できるとお考えですか?できないとお考えですか?」
曹操「できる」
桓階「大王(曹操)は、2人(樊城の曹仁と襄陽の田常)にはもう力は残っていないと恐れておられるのですか?」
曹操「そうではない」
桓階「ではどうしてどうしてご自身で行かれるのでしょうか?」
曹操「儂は敵の軍勢が多く、徐晃らでは難しいのではないかと恐れておるのだ」
桓階「今、曹仁らは幾重もの包囲の中におりながら、死を賭して二心を抱かないのは、実際、大王(曹操)が遠方から威圧されておられるからです。そもそもほとんど助かる見込みのない状況にあれば、必ず死を覚悟して戦う気持ちを持ち、心中に死を覚悟して戦う気持ちを持てば、外部から強力な救援があるものです。大王(曹操)は六軍(天子の軍)の余力をお示しになりながら、どうして敗戦を心配されて、ご自身で行こうとなされるのですか」
曹操は桓階の言葉を「もっともだ」と考え、そこで摩陂に軍を駐屯させると、やがて賊(関羽)は撤退した。
文帝(曹丕)期
文帝(曹丕)が帝位につくと、桓階は尚書令に昇進して高郷亭侯に封ぜられ、侍中の官を加えられた。
桓階の病気が重くなると、文帝(曹丕)は自ら見舞い、
「儂は幼少の子を託し、天下の運命を卿に預けるつもりなのだ。頑張ってくれよっ!」
と声を掛け、安楽郷侯に転封して封邑6百戸を賜与し、後に桓階が危篤となると、使者を派遣して病床において太常に任命した。
桓階が亡くなると、文帝(曹丕)は彼のために涙を流し、貞侯と諡した。
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桓彝
生没年不詳。荊州・長沙郡・臨湘県の人。兄は桓階。兄弟に桓纂。呉の尚書。
呉の太平3年(258年)、呉の第2代皇帝・孫亮は、大将軍・孫綝(孫綝)の専横が目に余るとして、太常の全尚や将軍の劉丞と共に孫綝(孫綝)誅殺の謀を巡らせたが、孫亮の妃が孫綝(孫綝)の従姉の娘であったことから、この謀を孫綝(孫綝)に告げた。
9月、孫綝(孫綝)は兵を差し向けて全尚を捕らえ、弟の孫恩を遣って蒼龍門の外で劉丞を攻め殺すと、大臣たちを宮門に集めて孫亮を退位させることを宣言した。
その後孫綝(孫綝)は、中書郎の李崇を派遣して孫亮から璽綬を奪うと、孫亮の罪状を遠近に告げた。
尚書であった桓彝がその文書に署名することを拒否すると、孫綝(孫綝)は腹を立てて桓彝を殺害した。
備考
- 『魏書』桓階伝に桓彝の記述なし。
- 『呉書』孫綝伝が注に引く『漢晋春秋』に「桓彝は魏の尚書令・桓階の弟である」とある。
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第4世代(桓祐・桓嘉)
桓祐
生没年不詳。荊州・長沙郡・臨湘県の人。父は桓階。
父の桓階の病気が重くなると、桓階の3人の子は関内侯の爵位を賜った。
この時、桓祐が嗣子(後継ぎ)でありながら、侯に封ぜられずに病没していたので、関内侯の爵位を追贈された。
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桓嘉
生没年不詳。荊州・長沙郡・臨湘県の人。父は桓階。兄弟に桓祐。
父・桓階の後を継ぎ、升遷亭公主を娶った。
たまたま嘉平年間(249年〜254年)に楽安太守として東関で呉と戦ったが、軍が敗北して戦死し、壮侯と諡された。
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第5世代(桓陵・桓陵)
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