正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(74)交阯こうし桓氏かんし桓治かんち桓鄰かんりん桓発かんはつ)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

交阯桓氏系図

交阯桓氏系図

交阯こうし桓氏かんし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
原文:鄰兄治子又合宗兵擊徽。桓発かんはつ桓治かんちの子とも読めるが、ここでは桓鄰かんりんの子とした。


この記事では交阯こうし桓氏かんしの人物、

についてまとめています。


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か(74)交阯桓氏

第1世代(桓治・桓鄰)

桓治かんち

生没年不詳。交州こうしゅう交阯郡こうしぐんの人。弟は桓鄰かんりん

黄武こうぶ5年(226年)、孫権そんけん交阯こうし交州こうしゅう)が遠くへだたった土地にあることから、合浦郡がっぽぐん以北を分離し、広州こうしゅうを設置して呂岱りょたい広州刺史こうしゅうししとし、交阯郡こうしぐん以南を交州こうしゅうとして戴良たいりょう交州刺史こうしゅうししとし、また、亡くなった交阯太守こうしたいしゅ士燮ししょうの後任として陳時ちんじを派遣した。

呂岱りょたい南海郡なんかいぐんまで来てそこにとどまり、戴良たいりょう陳時ちんじはさらに進んで合浦郡がっぽぐんまでやって来たが、士燮ししょうの息子・士徽しきみずか交阯太守こうしたいしゅと称し、宗兵そうへい(配下の部族兵)たちを動かして戴良たいりょうの着任を阻止しようとしたため、戴良たいりょう合浦郡がっぽぐんとどまった。

この時、亡くなった士燮ししょうが取り立てた役人である交州こうしゅう交阯郡こうしぐん出身の桓鄰かんりんは、叩頭こうとうして「戴良たいりょうを(交州刺史こうしゅうししとして)迎え入れるように」と士徽しきいさめたが、士徽しきは怒り、桓鄰かんりんむち打って殺害した。

これに桓鄰かんりんの兄・桓治かんちと(桓鄰かんりんの)子・桓発かんはつは、宗兵そうへい(配下の部族兵)を糾合きゅうごうして士徽しきを攻め、士徽しきは城門をざして城を守った。桓治かんちらは数ヶ月にわたってこれを攻めたてたがくだすことができず、和睦わぼくしておのおの兵を引きげた。


一方、「士徽しき誅殺ちゅうさつ」のみことのりを下された呂岱りょたいは、広州こうしゅうから兵をひきいて夜を日にいで急行し、途中、合浦郡がっぽぐん戴良たいりょうと合流して軍を進めた。

士壱しいつ士壹しいつ)の子である中郎将ちゅうろうしょう士匡しきょうは、以前から呂岱りょたいと親交があったことから、呂岱りょたい士匡しきょう師友従事しゆうじゅうじ(師友の礼をもってぐうする従事じゅうじ)に任命すると、前もって交阯こうし交州こうしゅう)の役所に公文書を送って「士徽しきの反乱に加わることの不利益(わざわい)と降伏することの利益(福)」を教えさとし、また士徽しき士匡しきょうを派遣して「郡守ぐんしゅの地位は失うが、他に罰を受ける心配はない」ことを保証して、罪に服するように説得させた。

その後ほどなくして呂岱りょたいが到着すると、士徽しきの兄の士祗しし、弟の士幹しかん士頌ししょうら6人が肉袒にくたん*2して迎えに出た。呂岱りょたいは彼らにねぎらいの言葉をかけて服を直させた。

次の日の朝早く、呂岱りょたい幔幕まんまくって士徽しき兄弟を順番にその中に入らせた。その後、賓客ひんかくたちもみな席に着くと、呂岱りょたいは立ち上がってせつを手に詔書しょうしょを読み上げ、士徽しきの罪を列挙した。すると、その言葉に応じて左右の者が士徽しきらを後ろ手にしばり上げ、外に連れ出してみな即刻処刑し、その首を武昌ぶしょうに送った。


これに士徽しきの大将であった甘醴かんれい桓治かんちらは、吏民を引き連れて呂岱りょたいに攻撃をかけたが、呂岱りょたいの反撃を受けて大いに撃ち破られた。

脚注

*1上衣を肩脱ぎにして肉体の一部をあらわにすること。謝罪・降伏の意を表わす。


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桓鄰かんりん

生年不詳〜黄武こうぶ5年(226年)没。交州こうしゅう交阯郡こうしぐんの人。子に桓発かんはつ*2。兄は桓治かんち

黄武こうぶ5年(226年)、孫権そんけん交阯こうし交州こうしゅう)が遠くへだたった土地にあることから、合浦郡がっぽぐん以北を分離し、広州こうしゅうを設置して呂岱りょたい広州刺史こうしゅうししとし、交阯郡こうしぐん以南を交州こうしゅうとして戴良たいりょう交州刺史こうしゅうししとし、また、亡くなった交阯太守こうしたいしゅ士燮ししょうの後任として陳時ちんじを派遣した。

呂岱りょたい南海郡なんかいぐんまで来てそこにとどまり、戴良たいりょう陳時ちんじはさらに進んで合浦郡がっぽぐんまでやって来たが、士燮ししょうの息子・士徽しきみずか交阯太守こうしたいしゅと称し、宗兵そうへい(配下の部族兵)たちを動かして戴良たいりょうの着任を阻止しようとしたため、戴良たいりょう合浦郡がっぽぐんとどまった。

この時、亡くなった士燮ししょうが取り立てた役人である交州こうしゅう交阯郡こうしぐん出身の桓鄰かんりんは、叩頭こうとうして「戴良たいりょうを(交州刺史こうしゅうししとして)迎え入れるように」と士徽しきいさめたが、これに怒った士徽しきむち打たれて殺害された。

脚注

*2原文:鄰兄治子又合宗兵擊徽。桓治かんちの子とも読めるが、ここでは桓鄰かんりんの子とした。


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第2世代(桓発)

桓発かんはつ

生没年不詳。交州こうしゅう交阯郡こうしぐんの人。父は桓鄰かんりん*2

黄武こうぶ5年(226年)、孫権そんけん交阯こうし交州こうしゅう)が遠くへだたった土地にあることから、合浦郡がっぽぐん以北を分離し、広州こうしゅうを設置して呂岱りょたい広州刺史こうしゅうししとし、交阯郡こうしぐん以南を交州こうしゅうとして戴良たいりょう交州刺史こうしゅうししとし、また、亡くなった交阯太守こうしたいしゅ士燮ししょうの後任として陳時ちんじを派遣した。

呂岱りょたい南海郡なんかいぐんまで来てそこにとどまり、戴良たいりょう陳時ちんじはさらに進んで合浦郡がっぽぐんまでやって来たが、士燮ししょうの息子・士徽しきみずか交阯太守こうしたいしゅと称し、宗兵そうへい(配下の部族兵)たちを動かして戴良たいりょうの着任を阻止しようとしたため、戴良たいりょう合浦郡がっぽぐんとどまった。

この時、亡くなった士燮ししょうが取り立てた役人である交州こうしゅう交阯郡こうしぐん出身の桓鄰かんりんは、叩頭こうとうして「戴良たいりょうを(交州刺史こうしゅうししとして)迎え入れるように」と士徽しきいさめたが、士徽しきは怒り、桓鄰かんりんむち打って殺害した。

これに桓鄰かんりんの兄・桓治かんちと(桓鄰かんりんの)子・桓発かんはつは、宗兵そうへい(配下の部族兵)を糾合きゅうごうして士徽しきを攻め、士徽しきは城門をざして城を守った。桓治かんちらは数ヶ月にわたってこれを攻めたてたがくだすことができず、和睦わぼくしておのおの兵を引きげた。その後の桓発かんはつの動向は不明。

脚注

*2原文:鄰兄治子又合宗兵擊徽。桓治かんちの子とも読めるが、ここでは桓鄰かんりんの子とした。


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