正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㊳、「王」から始まる人物の一覧㊲[王黎・王霊・王烈・王郎・王朗(魏の将)・王和平]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㊳(王㊲)
王(おう)
王黎
生没年不詳。冀州・常山国・高邑県の人。魏の黄門侍郎。
魏の正始年間(240年〜249年)、黄門侍郎の官が続けざまに欠員となった。
吏部尚書*2の何晏は、賈充・裴秀・朱整を起用し、さらに彼が高く評価していた王弼の起用について審議したが、何晏と人事担当の官吏として勢力争いを演じていた丁謐が、曹爽に王黎を推薦し、曹爽は王黎を起用した。
当時、曹爽が朝政を一手に握り、その一党が互いに引き立て合って起用され出世していたが、王弼は道理をわきまえた人間として、名声を売るような態度を取らなかったので無視された。
ほどなくして王黎が病気にかかって亡くなると、曹爽は王黎の代わりに王沈を起用し、王弼は結局、黄門侍郎の官に就くことができなかった。
何晏は彼のために残念がったが、王弼は尚書郎の官に就いてから日が浅い上に、元々事務が得意ではなかったので、まったく意に介さなかった。
脚注
*2文官の任免・評定・異動などの人事を担当する官職。
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王霊
生没年不詳。涼州・武都郡の人。
建安17年(212年)に馬超が涼州・漢陽郡・冀県を攻撃すると、涼州刺史・韋康は正月から8月まで抵抗したが、官吏が傷つき死ぬのを憐れみ、参軍事の楊阜や従事の趙昂が止めるのもきかずに降伏。馬超は入城すると、張魯の部将・楊昂に韋康と太守を殺させたので、州民は悲しみ悼み、憤りを感じない者はいなかった。
その後、楊阜は馬超に復讐する機会を窺い、歴城に駐屯していた外兄*3の姜叙と計画を練った。計画が決まると、
外部の郷人である、
- 姜隠
- 趙昂
- 尹奉
- 姚瓊
- 孔信
涼州・武都郡の人、
- 李俊
- 王霊
らと謀議を凝らし、馬超討伐の約束を取り決めた。
そして建安17年(212年)9月、楊阜と姜叙は鹵城で兵を挙げ、馬超を南方の張魯の下に逃走させた。
脚注
*3父の姉妹の子、または母の兄弟の子。
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王烈・彦方
永和6年(141年)〜建安23年(218年)没。青州・平原国の人。
出自
優れた見識と道徳を備え、道義を守って横道に逸れなかった。豫州(予州)・潁川郡の陳太丘(陳寔)を師と仰ぎ、その2人の子を友としていた。
当時、豫州(予州)・潁川郡の荀慈明(荀爽)、賈偉節(賈彪)、李元礼(李膺)、韓元長(韓融)はみな陳君[陳太丘(陳寔)]の元で学んだが、王烈の器量・学業が人並み以上であるのを見てその行為に感服し、みな彼と親しく付き合った。このことから、王烈の英名は四海の内に聞こえわたるようになった。
学問を終えて(道成徳立)郷里に帰ると父が亡くなり、3年間、涙のうちに喪に服した。
郷里での逸話
貯えを分け与える
ある年、飢饉により道に餓死者が放置される有り様となった。そこで王烈は自分の生活のための貯えを分け与えて、村里の人々の生命を救ってやった。これにより、王烈の宗族(一族)はその「孝」を称えられ、村人はその仁愛に心を寄せた。
学校を建てる
王烈は典籍によって心を娛しませ、人に教えることを(自らの)務めとし、学校を建てて教育を尊重した。彼が人を導く場合、その人の性格・気質に頼らず、道義をもって教え諭し、善に従い悪を遠ざけるようにさせた。
その利益にあずかる者に自覚はなかったが、教化は大いに行き渡り、みな優れた人物となった。特に、門人が出入りする時の立ち居振る舞いは見事で、市井(盛り場)にいる時でも歩き方が違っており、人々はみな(王烈の門人を)見分けることができた。州閭(村里)はその気風に染まって、みな競って善を行った。
牛泥棒
当時、国内で牛を盗んだ者がいて、持ち主がその男を捕まえると、盗人は「我はふとした出来心で我を忘れました。今後は過ちを改めようと思います。あなたがお許しくださったからには、どうかこのことを王烈の耳に入れないでください」と言った。
ある者がこれを王烈に告げると、王烈は盗人に布1反を与えた。
ある者が「この男は盗みを行った後、君が聞き知ることを畏れていました。それなのに、なぜ布を与えたのですか」と問うと、王烈は「昔(春秋時代)、秦の穆公は、彼の駿馬を盗んで食べてしまった者に酒を賜った。その結果、盗人は(その恩に報いて)自分の死を顧みずに穆公の、危難を救った。今、この盗人は自分の過失を反省し、吾がこれを聞き知りはしないかと懼れている。悪事は恥だと知っているからだ。悪事が恥であることを知っているならば、善良な心が芽生えるであろう。だから布を与えて善を行うことを勧めたのだ」と言った。
それから1年が経った頃、老人が重い荷物を担いで歩いていると、ある人が代わりに数10里の道のりを担いでくれた。家に着くと荷物を下ろし、姓名を尋ねても答えずに去った。
その後しばらくして、老人は出掛けた際に道で剣をなくしたが、道を歩いていてその剣を見つけた人がいた。その人はそのままにして行こうと思ったが、その結果、後から来た人に取られ、その剣が持ち主の手に永久に戻らなくなることを心配した。また、拾っておいて賞金つきで持ち主を探そうかとも思ったが、人違いをすることが心配になり、結局それを見張っていた。
夕暮れになって、剣の持ち主が帰って来て彼に出会ったが、その人は以前、代わりに荷物を担いでくれた人であった。老人が彼の袖をつかんで「子は以前、私に代わって荷物を担いでくれましたが、姓名をお聞かせくださいませんでした。今、子はまたも吾の剣を道で見張っていてくれました。未だに子のような人格者を知りません。どうか吾に姓名をお聞かせください。吾が王烈に報告しますから」と言うと、その者は名を告げて去った。
老人がこのことを王烈に報告すると、王烈は「世の中には人格者がいるものだ。吾はまだその人にお目にかかったことがない」と言い、人を遣ってその人のことを探らせると、それは昔、牛を盗んだ男であった。
王烈は感激して「韶楽(舜の音楽)には 9つの変奏があり、虞賓[舜の賓客(堯の子・丹朱)]はそれを聴いて和やかな心を持ったとか。人がよく感応する場合は、なんとそこまでになるのだっ!」と言い、国人(青州・平原国の役人)に人を遣って彼の閭(村里)を顕彰させて、彼を評価してやった。
当時の人々は、曲直(不正と正当)を争うことがあって、王烈に判断を聞こうということになった場合、ある時は道まで出て帰り、ある時は(王烈の)廬を望み見て引き返した。みな正しい方に譲り合い、王烈にそのことを知られないようにした。
当時の国主(国相)はみな自ら馬車に乗って王烈の私館に行き、政令について諮問した。
王烈は孝廉に推挙され、三公の府からそれぞれ辟召されたが、みな就任しなかった。
幽州・遼東郡に避難する
董卓が乱を起こすと、公孫度の威令が海外にまで行き渡っていると聞いて、青州・北海郡出身の邴原と管寧、青州・楽安国出身の国淵らと共に幽州・遼東郡に赴いた。
王烈は当時、邴原・管寧以上の名声があったが、士人の身分から民衆の身分に編入され、自ら農具を手にして粗末な衣服と食事にもかかわらず、自己の楽しみを変えなかった。*1
東方地域の人々は、彼を主君のごとく奉戴した。衰退・疲弊した時世とは言え、真実を見極める者は少なく、党派を組んだ連中は互いに讒謗し合っていた。自ら世を避けて東国に滞在する者も、人に危害を加えられる者が多かったが、王烈はそこに何年も住みながら、1度も災難に見舞われることはなかった。
王烈は、強者が弱者に勝手な真似をすることなく、多数が少数を痛めつけることなく、商賈(商人)が市場で二重価格をつけないように、幽州・遼東郡を導いた。
建安15年(210年)、献帝は初めて徵事2人を置き、邴原と王烈が選ばれて任命された。*2
曹操は何度も王烈を徵召したが、幽州・遼東郡では彼に代わって言い訳をして行かせなかった。
建安23年(218年)、病気により78歳で亡くなった。
脚注
*1王烈の記事全体は主に『魏書』管寧伝が注に引く『先賢行状』を基にしているが、『魏書』管寧伝本文では「公孫度の長史を辞し、商賈(商人)となって身を穢した」とある。
*2『魏書』邴原伝が注に引く『献帝起居注』より。最期まで仕官しなかったとする『先賢行状』の内容と食い違っている。
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王郎(王昌)
生年不詳〜漢の更始2年(24年)。冀州・趙国・邯鄲県の人。
王昌は一名を郎と言い、元は易者(占卜を生業とする者)で、天文や暦に明るく、河北に「天子の気」があると考えていたので、当時「趙・魏の界隈で多くの豪傑たちと交わり、任侠として名が通っていた趙の繆王の子・劉林」と親しくつき合っていた。
王莽が帝位を簒奪した当初、長安に前漢の第11代皇帝・成帝の子・劉子輿を自称する者がいたが、王莽に殺害された。すると王郎は「我こそが真の劉子輿である」と詐称し、彼を信じた劉林、趙国の大豪族・李育、張参らは王郎を天子に立てようと画策する。
ちょうどこの時、「赤眉*4が黄河を渡って北侵して来る」との噂があったので、劉林は「劉子輿(王郎)をリーダーに立てて赤眉*4を防ぐこと」を宣言し、多くの民衆がこれを信じた。
更始元年(23年)12月、劉林らは車騎数百を率いて邯鄲城に入ると、そこを王宮として遂に王郎を天子に即位させ、
- 劉林は丞相
- 李育は大司馬
- 張参は大将軍
となり、将帥を派遣して幽州と冀州を帰順させた。さらに王郎は、州郡に檄文を発っして「民衆の漢を慕う気持ち」を煽ったので、趙国以北と遼東郡以西はみな王郎に従った。
翌年の更始2年(24年)、王郎の勢力下である薊県で王郎の檄文を手に入れた劉秀(光武帝)は南の信都郡に逃走し、王郎に従わない県の兵を徴発して王郎方の趙国・柏人県を攻撃した。
劉秀は柏人県を落とすことができず、また王郎方の太守・王饒が守る東北の鉅鹿県を包囲したが、数十日間、連日攻撃しても落とすことができなかった。
そこで劉秀配下の耿純が、
「王饒の守りは固く士衆は疲弊しており、精鋭の大軍には及びません。もし、邯鄲県に侵攻して王郎を誅殺すれば、王饒は戦わずして降伏するでしょう」
と進言すると、これを「良し」とした劉秀は、鉅鹿県に将軍・鄧満を残して邯鄲県に進軍し、郭北門に到着した。
王郎は数度城を出て戦ったが、戦況は不利となり、諫議大夫の杜威に節を持たせて劉秀に降伏を請うた。
すると劉秀は、
「もし成帝の生まれ変わりだとしても、天下を得ることはできまい。まして劉子輿の名を騙る偽者なら、なおさらであるっ!」
と言い、また降伏と同時に「王郎を万戸侯に封じること」を求める杜威に対し、
「五体満足でいられるだけでありがたいと思え」
と言った。すると杜威は、
「邯鄲県は小城だが守りは固く、君臣一丸となって包囲に耐えるでしょう」
と言い、交渉は決裂した。
その後劉秀は20日に亘って城を強襲し、一方で王郎の少傅・李立に離間の計を仕掛けた。すると李立は、城門を開いて漢(劉秀)の兵を招き入れたので、ついに邯鄲県は陥落。王郎は夜陰に紛れて逃亡したが、これを追撃した劉秀配下の王覇に斬られた。
王覇は王郎の璽綬を手に入れて、王郷侯に封ぜられた。
脚注
*4農民反乱軍。みな眉を赤く染めていた。
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王朗(魏の将)
生没年不詳。魏の将軍。
曹操が兗州牧となった初平3年(192年)頃のこと。当時都伯(隊長)であった楽進が王朗に所属した。
王朗は彼を評価し、「于禁の才能は大将軍を任せられる」と推薦した。
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王和平
生没年不詳。青州・北海国の人。
光和年間(178年〜183年)、王和平は道術を好み「自分は仙人になるのだ」と称した。
青州・済南国出身の孫邕が若い時から彼に仕え、師と共に京師にやって来た。たまたま王和平が病気で死んでしまうと、孫邕はそのまま東陶の地に遺骸を葬り、書物が百余巻、薬が数袋あったのも、みな一緒に棺に収めて埋めた。
後に弟子の夏栄が「王和平は尸解*5した」のだと述べた。
孫邕は、今に至るまで貴重な書物と仙薬を自分のものにしなかったことを悔やんでいる。
脚注
*5仙人になるに際し、竹杖などを身替わりにして、外見的には死んだと見せかけて仙去すること。
白日昇天などの方法で仙人になるよりも劣るとされる。『抱朴子』論仙篇に言う。「上士は形を挙げて虚に昇る。これを天仙と謂う。中士は名山に遊ぶ。これを地仙と謂う。下士は先に死し、後に蛻す(屍体を残して去る)。これを尸解仙と謂う」と。
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