曹操に降伏した関羽が劉備の消息を知って曹操の下を去り、劉備がいる鄴県を目指した「関羽の千里行(五関斬六将)」。この時、先を急いでいるはずの関羽が、なぜか遠回りをしていた理由についてまとめています。
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目次
関羽の千里行とは
はじめに
この記事は竹内真彦氏の考察を基にしています。記事にすることをお許しいただいた竹内真彦氏に改めて御礼申し上げます。また、出典はこの記事の最後にまとめて掲載します。
関羽の千里行
ここで言う「関羽の千里行」とは、『三国志演義』の、
- 第27回「美髯公 千里 単騎を走らせ、漢寿侯 五関に六将を斬る」
の回で、「やむなく曹操に降伏した関羽が、離れ離れとなった劉備の下に向かう途中、5つの関所で6人の守将を斬った」エピソードの事を言います。
ちなみに「一時期関羽が曹操に降伏し、後に劉備の下に帰った」ことは正史『三国志』に記されていますが、「5つの関所で6人の守将を斬った」部分は『三国志演義』の創作になります。
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背景
建安5年(200年)、曹操に大敗した劉備は袁紹の下に逃亡し、後方の徐州・下邳国・下邳県の守備を任されていた関羽は、
- 曹操に降るのではなく漢王朝に降ること
- 劉備の妻子を丁重に扱うこと
- 劉備の消息がつかめたら劉備のもとへ帰ること
の3つの約束をして曹操に降伏します。
曹操はなんとか関羽を自分の配下に加えたいと数々の贈り物をおくって気を惹こうとしますが、関羽にはいっこうになびく様子はありません。
その後、関羽が曹操の下で顔良・文醜を斬ってその恩を返し、劉備が敵である袁紹の下にいることを知ると、曹操は義理堅い関羽が「別れの挨拶」をしに来るのを避けて門を閉ざしました。
仕方なく関羽は、貰った贈り物に封をして曹操の下を去り、許昌(許都)の北門を出て劉備がいる冀州・魏郡・鄴県を目指して出発します。
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5関に6将を斬る
曹操との別れ
「関羽を引き留めることができない」と悟った曹操は、張遼・許褚・徐晃・于禁・李典ら数十騎と見送りに出て関羽を追いました。
そして、「橋」の上で関羽に追いついた曹操が、餞別に錦の袍を贈ると、関羽は馬を下りずに長刀の切っ先に引っかけてそれを受け取り、礼を言って立ち去りました。
5つの関所で6人の守将を斬る
その後関羽は、劉備がいる冀州・魏郡・鄴県を目指しますが、あまりに急いでいたために通行手形を持っていませんでした。
そのため関羽は行く先々の関所で行く手を阻まれることになり、
- 東嶺関で孔秀
- 洛陽で韓福と孟坦
- 沂水関(成皋県)で卞喜
- 滎陽県で王植
- 黄河の渡し場で秦琪
の5つの関所で合計6人の守将を斬って強行突破しました。
そして、黄河を渡ったところで孫乾と出会った関羽は、彼から「劉備が豫州(予州)・汝南郡に向かった」ことを聞くと、そこからまた汝南郡に向かい、劉備、張飛、趙雲らと再会します。
湧き起こる疑問
さて、この時関羽が鄴県を目指して進んだ経路を図にすると、下図のようになります。
「五関斬六将」関羽の進行経路
※東嶺関の位置は不明。東嶺関を「洛陽の東の嶺の関所」と考えると、山地にある司隷・河南尹・緱氏県か豫州(予州)・潁川郡・陽城県の辺りだと思われます。
上図を見て分かるように、なぜか関羽は遠く西の洛陽に向かい、黄河に沿って東進して(現在の滑県の辺りで)黄河を渡っています。
ではなぜ、一刻も早く劉備の元にたどり着きたい関羽が、許昌(許都)から真っ直ぐ北上して鄴県に至る、最短経路を選ばなかったのでしょうか。
以下、しばらく「岩波文庫『完訳三国志』の注」と「私の答えのない考察」が続きます。すぐに「竹内真彦氏の考察」を読みたい場合はこちらをタップ(クリック)してください。
岩波文庫『完訳三国志』の注
これを岩波文庫『完訳三国志』の注では、
「許昌(許都)から鄴県へ行くには、現在の京漢線の鉄道に沿って北へ進めば良いのであって、わざわざ西方の洛陽を通る理由はない。
特に急ぎの旅である以上、まわり道をするはずはないのであるが、これは原作者の地理的知識の不完全なことを示すもののようである。
第15回の孫策が江東を平定する件などでは、このような地理的の誤りがないところから考えると、原作者(羅貫中)は、おそらく南方人、すなわち江南地方で一生の主な部分を送った人であったろうと思われる。
だから北方の地理の知識が不十分であったのであろう。この事は同じ作者の手に成ったとされる『水滸伝』でも同様である」
と、その理由を「原作者の地理的知識の不完全なこと」としています。
確かに『三国志演義』には地理や官職名に誤りが多い気もしますが「原作者の地理的知識の不完全なこと」と簡単に片付けてしまって良いのでしょうか。そこで、「他に関羽が遠回りをした理由があるのではないか」と考えてみました。
行きづまった考察
1.険しい道を避けた?
関羽は劉備の2人の妻を連れています。そのため、山道などの険しい道を避けたのではないかと考えました。
ですが、許昌(許都)から鄴県へ向かう道はほぼ平地で、当然道もあったでしょう。一方、洛陽に向かう道は山地となっており、むしろ洛陽に向かう道の方が険しくなっています。
鄴県への道と洛陽への道
画像引用元:むじん書院 – 漢籍完訳プロジェクトIMAGINE
http://www.project-imagine.org/mujins/img/map_shirei.png
※ 引用元サイト様が常時SSL化(https化)されていないため直接リンクを張っておりません。ご了承ください。
2.戦場を避けた?
次に、この時はまだ曹操と袁紹の戦いが続いていましたので、関羽は戦場を避けて遠回りをしたのではないかと考えました。
ですが、滎陽県から関羽が黄河を渡った渡し場まではまさに激戦地であり、戦場を避けるのであれば、洛陽から北に進んで小平津か孟津から黄河を渡り、袁紹が支配する幷州(并州)に抜ける方が安全です。
やはり岩波文庫『完訳三国志』の注が言うように「原作者の地理的知識が不完全だったこと」が理由だったのだろうか…。そう思い始めていたところに出会ったのが「竹内真彦氏の考察」です。
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関羽が遠回りしていた理由
竹内真彦氏の考察
「竹内真彦氏の考察」は、
『三国志演義』のベースとなった『三国志平話』には「献帝の東遷」のエピソードがないため、関羽は許昌(許都)ではなく長安から鄴県を目指していた。
『三国志演義』が成立する過程で、史実に合わせて「献帝の東遷」のエピソードが追加され、関羽の出発地が許昌(許都)に変更されたが、関羽が辿った道筋はそのまま残ってしまった。
というものです。
『三国志平話』と『三国志演義』
「後漢末期から三国時代にかけての英雄の物語」は、時代が下るに従って講談や雑劇の題材として庶民に親しまれ、元代に『三国志平話』としてまとめられました。
そして明代になって、この『三国志平話』の物語をベースに歴史的事実を補完し、より歴史小説として完成度の高い作品として完成されたものが、『三国志演義』です。
献帝の東遷とは
中平6年(189年)に洛陽で即位した献帝は、董卓によって長安に遷都を強行され、董卓の死後権力を握った李傕・郭汜らが仲違いを始めると、長安を脱出して洛陽を目指しました。これが「献帝の東遷」です。
その後、李傕・郭汜らに追われる献帝を保護した曹操が、自分の本拠地である許県に献帝を迎え、許都(許県)に遷都が行われました。建安元年(196年)のことです。
関羽が曹操の下を去り鄴県を目指したのは建安5年(200年)のことですので、「献帝の東遷」のエピソードを追加した『三国志演義』の関羽の出発地は許昌(許都)になります。
消された覇陵橋
さて、関羽の出発地を長安と仮定した理由としてもう1つ、覇陵橋の存在があります。
まず、『三国志演義』には古い順に、
- 周曰校本
- 李卓吾本
- 毛宗崗本
の異なる版本*1があり、周曰校本と李卓吾本の内容はほぼ同じ、毛宗崗本は李卓吾本を元に(派手に)改訂が加えられています。ちなみに、現在出版されている『三国志演義』の翻訳本は毛宗崗本を翻訳したものになります。
ここで注目すべき点は、毛宗崗本ではただ「橋」とされていた「曹操との別れの場」が、より古い周曰校本・李卓吾本では「覇陵橋」と、橋の名が明記されていることです。
覇陵橋について調べてみると、王充『論衡』や『史記』などに「覇陵橋が長安の東にあること」が記されており、関羽が長安を出発地としていたことの論拠となります。
毛宗崗本でただ「橋」とされたのは、おそらく「許昌(許都)を出発した関羽が、長安の東にあるはずの覇陵橋を通るのはおかしい」と気づき、ただ「橋」とすることでぼやかしたものと思われます。
長安を出発地、曹操との別れの場を覇陵橋と仮定することで、関羽が辿った道に違和感がなくなりました。
長安から鄴県への経路
- 長安
- 覇陵橋
- 洛陽
- 沂水関(成皋県)
- 滎陽県
- 黄河の渡し場
- 鄴県
- 許昌(許都)
脚注
*1『三国志演義』の版本はこの他にも存在する。
豆知識
現在、河南省許昌市魏都区許継大道に「灞陵公園」という観光地があります。
出典:灞陵公園 – ANA
渡邉義浩『関羽 神になった「三国志」の英雄』/ 筑摩選書 88〜90頁に、
また、曹操が都を置いた許県は、現在の河南省許昌市にあたるが、魏の「古都」として「町おこし」を目指している。許昌市の観光の目玉は、関羽が曹操に別れを告げたとする灞陵橋である。
『三国志演義』(毛宗崗本)には、2人が別れた橋の名は記されない。そもそも許昌における 同橋の本来の名は、八里橋という。本来の灞陵橋は長安にあり、長安の灞水*2に架かった橋で、皇帝陵の近くにあるためこの名がある。
許昌の橋に灞陵橋という名がついたのは、『三国志平話』において関羽と曹操の別れの場面が、長安と設定されていたためである。
嘉靖本『三国志演義』は関羽の出発した地を長安から許昌(許都)に改めた。しかし、別離の場として、覇陵橋という名は残されたままであった。毛宗崗本は、誤りに気づいたのか、名を削除している。
したがって、許昌の八里橋は、初期の三国物語の影響を受けて覇陵橋と改名されたことになる。『三国志演義』が様々な話を組み合わせ、何度も変化を遂げていくうちに、橋の名が追いてきぼりにされたのである。
とあるように、現在の河南省許昌市にある灞陵橋は、元は八里橋と言い、後年になって「町おこし」のために、『三国志演義』にあやかって改名されたものとなります。
脚注
*2[『三国志通俗演義』(周曰校丙本)巻之3第13段「関雲長千里独行」釈義]では、「覇陵橋は陜西西安府の城東、覇水のほとりにある。漢代、見送りの人々はここまで来て、柳を折って送別の贈り物とした」と、氵なしの「覇」の字が使われている。
なぜ地名を残したのか
「竹内真彦氏の考察」では、関羽の出発地を許昌(許都)に改めた時に「なぜ長安 ー 鄴県ルートの地名を残したのか」について深く追求されていませんでした。これについて、蛇足ながら私の思いつきを述べたいと思います。
現在、漫画・アニメ作品の実写映画化が多数なされていますが、原作ファンの間で「改悪」の声が叫ばれている作品も少なくありません。
関羽や張飛、呂布の得物(武器)が当時まだなかったことを知っていても、やはり関羽には青龍偃月刀、張飛には蛇矛、呂布には方天画戟を持っていて欲しいものです。
自分の思い入れのあるシーンが改変されることを良く思わないのは、当時の人々も同じでしょう。
おそらく『三国志演義』が成立した当時、すでに「美髯公 千里 単騎を走らせ、漢寿侯 五関に六将を斬る」エピソードは『三国志平話』の名場面の1つであり、
- 東嶺関の孔秀
- 洛陽の韓福と孟坦
- 沂水関(成皋県)の卞喜
- 滎陽県の王植
- 黄河の渡し場の秦琪
という地名と守将の組み合わせが、人々に広く浸透していたことが想像できます。
そこで、当時曹操が許昌(許都)にいたことは史実に沿わせるが、「5関に6将を斬る」エピソードは「関羽が遠回りをしている」という違和感よりも「人々が馴れ親しんだ地名を残す」ことを選んだ。その後毛宗崗が「いくら何でも長安の東にある覇陵橋はマズいでしょ」と名前をぼかし、ちょっと洛陽に寄り道するくらいは許容範囲としたのではないでしょうか。
長年疑問に思っていた「関羽が遠回りしていた理由」が、『三国志平話』や『三国志演義』の異なる版本を比較することで、目から鱗の納得の解釈を得ることができました。
この記事は、下記出典にあげた動画の要点だけを簡単にまとめたものになります。興味がある方は、是非竹内真彦氏の動画をご試聴されることをお勧めします。
出典
- 2021年9月5日 三国志学会第16回大会口頭発表
竹内真彦「覇陵橋は何処だ:『五関斬六将』再考」 - 竹内真彦の三国志ラビリンス
【割と突発】歴史と物語(01:59:34)
「竹内真彦の三国志ラビリンス」について
「竹内真彦の三国志ラビリンス」は「シラス」という放送プラットフォーム内にある竹内真彦氏のチャンネルです。
出典にあげた動画では、今回の内容をより詳しく解説されているほか、参考資料をダウンロードすることもできます。
「シラス」は登録無料、チャンネル購読は月額2,200円(税込)ですが、動画単品を330円(税込)*3で購入することもできます。
脚注
*3動画により価格は異なります。
竹内真彦氏
プロフィール
著書
- 『最強の男 三国志を知るために』/ 春風社