建安5年(200年)2月、許県攻撃を決意した袁紹が州郡に送りつけた曹操を弾劾する檄文(為袁紹檄豫州)の全文和訳です。
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目次
凡例
出典
以下は『魏書』袁紹伝が注に引く『魏氏春秋』に載録されている「袁紹が州郡に出した檄文」に拠ります。
また、この檄文は『文選』巻四十四にも載せられていますが、文にはかなり異同があり、『文選』巻四十四では、
為袁紹檄豫州[袁紹のために豫州(予州)を檄す文]
と題名されています。
参考文献
- ちくま学芸文庫『正史三国志1』(『魏書Ⅰ』袁紹伝)
- 昭明文選/卷44(為袁紹檄豫州)
補足
以下、内容に応じて「見出し」を設けていますが、原文に「見出し」はありません。
また、「見出し」を挿入するのみで、文章の順番の入れ替えなどは行っていません。
時代背景
建安5年(200年)春正月、曹操は自ら出陣し、徐州で独立した劉備を討伐しました。
そして2月、曹操に敗れた劉備を受け入れ、ついに許県攻撃について討議を始めた袁紹は、持久戦を主張した田豊を投獄すると、陳琳に「曹操を弾劾する檄文」を書かせ、州郡に送りつけました。
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為袁紹檄豫州(袁紹のために豫州を檄す文)
臣下の模範
そもそも「明君は危険を予測して変化の理に通じ、忠臣は難局を考慮して臨機の措置を講ずる」と聞いている。
昔、強大な秦に幼少の天子(二世皇帝)が立った時、趙高が権力を掌握し、朝廷の命令を独断で取り仕切り、刑罰・恩賞を思いのままに行い、挙げ句の果てには望夷宮における弑逆事件を起こし、その汚辱は現在まで語り伝えられている。
(前漢の)呂后(の末年)に至ると、(呂后の甥の)呂禄・呂産が政権を1人占めし、政治万般を専断して禁中(宮中)で決定を下すなど、下位のものがつけ上がって上位のものが無視されたため、天下の人々は(恐怖に)心を凍らせた。
この時にあたり、絳侯(周勃)と朱虚侯(劉章)が兵を起こして怒りを震わせ、逆賊を誅殺して太宗(文帝)を迎立した。このため、よく徳化の隆盛を導き、光明は明るく輝いたのである。これは、大臣が臨機の措置を下した場合の模範である。
曹操の出自をけなす
司空・曹操の祖父・曹騰は元中常侍であったが、(宦官の)左悺・徐璜と共に災いを引き起こし、貪婪(たいそう欲深いこと)な行いは思いのまま、徳化を損ない民衆を痛めつけた。
父の曹嵩は乞食であったが、(曹騰に)引き取られて養われ、賄賂によって官位を買い取り、金や宝玉を運んで権力者に財貨を贈り、三公の位を盗み取って天下の政治を破滅させた。
曹操は宦官と姦吏の醜悪な後継ぎで、もとより秀れた仁徳など持たず、頭の回転が速く狡猾な暴力好きのヤクザであり、混乱を好み災禍を喜ぶ男である。
袁紹が曹操にかけた恩
反董卓連合
幕府(袁紹)は、かつて勇士を率いて凶悪な逆賊(宦官)を掃討した。続いて董卓が職権を無視し、国家に乱暴を働く事態(献帝を長安に遷したこと)に遭遇した。その時に当たって(自分は)剣を引っ提げ軍鼓を激しく打ち鳴らし、中国東部(勃海)に対し(董卓討伐の)命令を発した。
その時、英雄を収攬する(取りまとめる)ため、欠点を大目に見て能力を活用しようとした結果、曹操を計略に参画させた。彼(曹操)が鷹や犬の(ように人に指示されて格闘する)能力を持ち、爪や牙(のように戦士として)の任務に当たれると考えたからである。
ところが(曹操は)愚かで軽はずみ、思慮は浅く、軽率に前進し、平気で退却する有り様で、(部下を)殺傷し、(勢力を)挫かれ、何度も軍勢を失った。
幕府(袁紹)はその度に精鋭の兵を分かち与えて取り繕い、補充してやり、上表して東郡太守兼兗州刺史に任命し、(羊のような男なので)虎の皮を着せ、1軍を与え、威光と権力が備わるようにしてやり、(度々の敗戦にも更迭されずついに勝利を得た)秦軍(の大将・孟明のごとき)1勝の報恩を得たいと願ったのである。
辺譲殺害と兗州の反乱
しかるに曹操は、そのままその基盤を利用してのさばり、思いのままに苛酷な行いをして、民衆から搾取剥奪し、賢人を傷つけ善人を迫害した。
元の九江太守・辺譲は人並み外れた英才であり、天下に名を知られた人物であったが、(曹操に対して)歯に衣着せず厳しい態度で意見し、その論旨におもねったところがなかったため、その身は晒し首の憂き目に遭い、妻子は絶滅の災厄を被った。
これ以降、多くの士人は憤り悲しみ、民の怨みはますます深くなり、1人の男が腕を振り上げ(て呼びかけ)れば、1州こぞって呼応した。
そのため曹操自身は徐方(徐州)で(陶謙に)敗れ、領土は呂布に奪われて、東部の辺境地帯を彷徨い、身の置き所さえなくなってしまった。
呂布・陳宮らが兗州で反乱を起こしたのは興平元年(194年)。一方、『後漢書』文苑列伝・辺譲伝には、
「建安年間(196年〜220年)、郷里(兗州・陳留郡・浚儀県)の人で曹操に辺譲を陥れようとする者がおり、曹操は郡に告げて彼を殺害させた」
とあり、曹操が辺譲を殺害したことに違いはありませんが、年代が合いません。
袁紹が援軍を派遣する
幕府(袁紹)はただ、幹を太くし枝を弱くするという建前(幹は天子、枝は諸侯の例え)と、また謀反人(呂布)の味方にはならないことのために、軍旗を掲げ鎧を身に着けて(途中)筵を巻くごとく平定しつつ征伐に赴き、金鼓を鳴り響かせて呂布の軍勢を撃破した。
彼(曹操)を滅亡の苦しみから救済し、元の州伯(兗州刺史)の位に復帰させたのである。これこそ、幕府(袁紹)が兗州の民衆に対して無慈悲であり、曹操にとっては大恩のある点である。
曹操の悪行
朝廷を専横する
後に、天子の御車が東方[洛陽(雒陽)]に戻り、大勢の悪人(楊奉・韓暹ら)が政治を混乱させた。
当時、(公孫瓚が侵入し)冀州にはちょうど北方の辺境に緊急事態が発生し、冀州を離れる余裕はなく、そのために従事中郎の徐勛を遣って曹操に出動を命じ、宗廟を修復し、幼い天子を護衛させた。
ところがたちまち気を大きくして勝手な行動に出、朝廷を脅迫して遷都させ、漢朝の官吏を侮辱し、法律を破り秩序を乱し、座ったままで三公を呼びつけるなど、朝政を独断で取り仕切り、封爵・恩賞は(勲功や規定によらず)心の赴くままに任せ、刑罰は(法律によらず)口から出任せ、寵愛する者は五宗(祖父の祖父から孫の孫に至る親族)まで栄転させ、憎悪する者はその三族(父・母・妻の一族)まで皆殺しにした。
群れをなして語り合っている者は、(政治を批判した廉で)公然たる処罰を受け、腹の中に意見をおさめている者は、内密のうちに殺されるので、道を行く者は目配せし(て気持ちを通じ合わせ)、百官は口を固く閉ざし、尚書はただ朝議と(諸侯との)会見の記録を取り、公卿はただ定員と官品を充足しているに過ぎない。
楊彪を更迭する
だから、太尉の楊彪は(司空、司徒、太尉と)三公を歴任し、国家の重責を担い、人臣の位を窮めた人物であったが、(曹操は)些細な怨みによって無実の罪を着せ、笞打ちと棒叩きを合わせて行い、5つの刑罰(入墨・鼻切り・足切り・宮刑・死刑)をすべて課すなど、感情に任せて悪行を欲しいままにし、法律を顧みなかった。
趙彦を殺害する
また議郎の趙彦は真心を込めて素直に諫言し、その意見には採用すべきものがあったため、天子も耳を傾けられ、態度を改め下賜品を下された。
曹操は時世を惑わして権力を奪い、(天子への)発言の道を閉ざそうとして、(趙彦を)勝手に捕縛して即刻殺害し、上聞に達し許可が下りるのを待つという手続きを踏まなかった。
孝王の墓を暴く
また、梁の孝王は先帝(前漢の景帝)の同母弟で、その陵(墓)は尊ばれて高名であり、(陵に植えられている)松・柏・桑・梓などの樹木すら、敬虔に扱われてしかるべきであった。
ところが、曹操は文武の官吏を引き連れ、自ら陵の発掘に立ち会い、棺を破壊して遺体を暴き、金や宝玉を略奪し、その結果天子は涙を流され士民は心を痛めたのだった。
(曹操は)また発丘中郎将(墓暴きの官)と模金校尉(金探しの官)を任命し、通過したあらゆる場所で(塚墓を)破壊し、剥き出しにされない遺体はなかった。
その身は三公の官にありながら、凶悪犯の所業を働き、国家を滅ぼし民衆を虐げ、害毒は人間にも亡者にも及んだのである。
苛酷な政治
加えてその微細な点まで規制する政治は苛酷を極め、法律と布令による禁止条項を併せ設け、矰繳(狩猟用具の1種)を小道一杯に仕掛け、落とし穴で通れなく(するように法網を張り巡ら)し、(民衆は)手を挙げれば網目に引っかかり、足を動かせば落とし穴に落ち込んだ。
その結果、兗州と豫州(予州)の民衆は鬱々として楽しまず、首都(許県)には怨嗟の声が満ち満ちた。
古今の書物を歴観(一つ一つ辿って調べてみること)する時、その記載する貪婪残酷無道の臣下の内でも、曹操ほど甚だしい者はいない。
幕府(袁紹)は外部の悪人を征討することに追われ、未だに(曹操に)教戒する暇がなく、特別な配慮によってこれを大目に見て、なんとか彼が自らの過失を取り繕うことを期待していた。
しかるに曹操は山犬や狼のごとき野蛮な心を持ち、秘かに忌まわしい謀略を抱き、かくして(国の)棟と梁(に当たる重臣)を打ち砕いて漢の王室を孤立・弱体化させ、中正の士をことごとく除き去り、もっぱら力に任せた凶悪な行為をしていた。
宣戦布告
公孫瓚討伐と曹操
過ぐる年、[自分(袁紹)は]北征し、公孫瓚を討伐したが、(公孫瓚は)凶暴非道、1年に渡って抵抗した。
曹操は公孫瓚がなかなか敗北しないことから、内密で文書をやりとりし、我が軍を援助することにかこつけて急襲しようとはかった。そのため、軍隊を率いて黄河に至り、船を連ねて北方に渡ったのである。
ちょうど、彼の使者の身分が暴露され、公孫瓚もまた晒し首にされて滅亡した。このために、鋒は挫け、その計画は未遂に終わったのである。
宣戦布告
(曹操は)敖倉(司隷・河南尹・滎陽県の西北にある食料の貯蔵庫があった場所)を占領し、黄河を隔てて固めとし、カマキリが斧を振り上げて大軍の進行を阻(むように我が軍の行く手を阻)もうとした。
幕府(袁紹)は漢朝の御稜威(天子の威光)を奉じ、天下四方に使者を出し、一百万の長戟の士、一千隊の胡人の騎兵、中黄・夏育・烏獲のごとき勇士を奮い立たせ、良き弓、強き弩の力を発揮し、幷州刺史・高幹は太行山を越え、青州刺史・袁譚は済水・漯水を渡り、(本隊の冀州の)大軍は黄河に船を浮かべて先頭に立って敵に当たり、荊州刺史・劉表は宛県・葉県に下って後詰めとなって雷鳴を轟かせ、猛虎の歩むがごとき勢いで、全員敵地に結集した。
あたかも燃え上がる火を掲げて風に飛ぶ蓬を焼き、大海を覆して飛火に浴びせかけるようなものである。どうして消滅させられないことがあろうか。
現在、漢王朝は衰退し、(国を治める)綱は弛み、紀は絶ち切れている。
曹操は精鋭兵7百をもって宮殿の周りを固め、表向きは護衛と称してはいるものの、実際は拘禁に他ならない。その簒奪の災いが、かかる状態の中で起こることを懸念するものである。
今こそ忠臣が肝・脳を泥まみれにし、(生命を擲って)戦う時であり、烈士が功名を立てる機会である。努め励まないで良いものか。
袁氏が敗れると、陳琳は曹操に帰伏しました。
この時曹操は、
「卿(君)は昔、本初(袁紹の字)の為に檄文を書いたが、ただ儂の罪状だけをあげつらっておけば良かったものを、どうしてそれを遡って父や祖父まで引き合いに出したのだ。悪を憎んでもその人の身だけに止めるべきだ」
と言ってみせましたが、陳琳の謝罪を受けた曹操は、その才能を愛して陳琳を咎めませんでした。