180年【漢:光和3年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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180年の主な人員配置
後宮
| 天子・皇后 | 人物 |
|---|---|
| 天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
| 皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
| 皇后 | 何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
| 官職 | 人物 |
|---|---|
| 司徒 | 楊賜 |
| 司空 | 張済 |
| 太尉 | 劉寬 |
| 諫議大夫 | 劉猛 |
| 五官中郎将 | 董重 |
| 議郎 | 曹操 |
地方官
| 官職 | 人物 |
|---|---|
| 玄菟太守 | 公孫琙 |
| 丹陽太守 | 陳夤 |
| 益州太守 | 李顒 |
| 鬱林太守 | 谷永 |
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180年の主な出来事
| 月 | 出来事 |
|---|---|
| 1月 |
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| 2月 |
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| 3月 |
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| 4月 |
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| 6月 |
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| 秋 |
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| 8月 |
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| 冬閏月 |
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| 12月 |
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| 不明 |
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180年の三国志群雄勢力図


光和3年(180年)の三国志群雄勢力図
180年の情勢
180年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
江夏蛮の反乱
4月、江夏蛮が廬江郡の賊・黄穣と共に反乱を起こします。
その人数は10万人を超え、4つの県を占領しました。この反乱の平定には、陸康が廬江太守に着任するまであと数年を要します。
古学に明るい者を推挙させる
6月、霊帝は公卿に命じて古学に精通している者を推挙させました。この時、宋皇后の廃位に連座して職を解かれていた曹操も、議郎に任命されました。
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何貴人が皇后に立てられる
12月、皇子・劉辯を生んでいた何貴人が皇后に立てられました。
何貴人が皇后に立てられたことによって、潁川太守を務めていた何貴人の兄・何進は、洛陽に戻されて侍中に任命されました。
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何氏(霊思何皇后)。卑賤の身から皇太后にまで昇りつめた霊帝の皇后
蒼梧郡と桂陽郡の反乱
12月、交阯刺史部・蒼梧郡と荊州・桂陽郡で反乱が起こります。
討伐に当たった零陵太守・楊琁は、馬車数十乗に石灰を入れた袋を積み、袋の口を馬の尻尾に結んで突入させました。馬車が敵陣に到達すると、馬の動きによって袋の口が開いて石灰がまき散らされるという作戦です。
これによって賊兵は目が開けられなくなり、それに続く火攻めと弓弩による攻撃で、賊軍は壊滅状態となって敗走し、蒼梧郡と桂陽郡の反乱は鎮圧されました。
楊琁が告発される
この反乱討伐の様子が詳しく残されていることには理由があります。
荊州刺史・趙凱が「楊琁は他人の戦功を自分の者にしている」と告発したのです。これにより、楊琁は洛陽に送られ、獄につながれてしまいました。
釈明の機会を得られない楊琁は、なんとか冤罪を晴らそうと、獄中で衣服に自らの血で戦いの詳細を書き記し、面会に来た親族に託します。
そして、楊琁の親族の訴えを受けた霊帝は無実を認め、楊琁を釈放して改めて議郎に任命し、逆に趙凱を罪に問いました。
趙凱と楊琁の間に一体何があったのでしょうか?
蒼梧郡と桂陽郡の反乱の討伐に零陵太守の楊琁が当たっていることに、何か関係がありそうな気がします。
昨年に起こった板楯蛮の反乱は、依然として続いています。
毎年恒例のような鮮卑の侵入に加えて、巴郡、廬江郡、桂陽郡、蒼梧郡と、地方での反乱が目立ち、反乱が長引くようになってきました。







