181年【漢:光和4年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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181年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
司徒 | 楊賜 → 陳耽 |
司空 | 張済 |
太尉 | 劉寬 → 許彧 |
太常 | 劉寬 → 陳耽(〜10月) |
諫議大夫 | 劉猛、朱儁 |
五官中郎将 | 董重 |
議郎 | 曹操 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
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181年の主な出来事
月 | 出来事 |
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1月 |
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4月 |
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6月 |
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9月 |
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閏月 |
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10月 |
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不明 |
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181年の三国志群雄勢力図
光和4年(181年)の三国志群雄勢力図
181年の情勢
181年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
騄驥厩丞の設置
当時、豪族たちが馬を独占して利益を得ていたため、1頭の値段が200万銭にもなっていました。
1月、朝廷は郡国から馬を徴発して管理をする騄驥厩丞を設置して、馬の価格の安定化を図りました。
交阯郡の反乱
178年に合浦郡と交址郡で起こった烏滸蛮の反乱は、未だ鎮圧に至ってはいませんでした。
4月、交阯郡の賊・梁龍が、南海太守・孔芝と共に蜂起して郡県の攻撃を開始します。
徐州・東海郡・蘭陵県の県令に就いていた朱儁は、中央に推挙されて交阯刺史に任命されると、5,000の兵を2つに分けて交阯郡に進軍を開始しました。
州境に到着した朱儁は、兵に漢の威光を叫ばせて敵兵の士気をくじくと、1ヶ月も経たないうちに梁龍を斬り、数万の賊を降して反乱を鎮圧しました。
この功績によって朱儁は都亭侯に封じられ、諫議大夫に任じられます。
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『後漢書』孝霊帝紀では、181年に「交阯刺史に任命される」となっていますが、『後漢書』朱雋伝(朱儁伝)では、178年のこととされています。
これについて、交阯研究者の後藤均平氏は『後漢書』朱雋伝の光和元年(178年)の記載は光和4年(181年)の誤りであろうと指摘されています。
反乱の討伐に当たる前、朱儁は徐州・東海郡・蘭陵県の県令にすぎませんでした。
鮮卑の大人・壇石槐が亡くなる
10月、鮮卑が幽州と幷州に侵攻し、鮮卑の大人・壇石槐が亡くなり、子の和連が跡を継ぎました。
その後、時期は特定できませんが、和連は北地郡を攻撃している最中に討ち死にしてしまい、和連の子・騫曼がまだ幼かったため、和連の兄の子・魁頭が跡を継ぎます。
ですが、成長した騫曼が魁頭と対立したため、魁頭の弟・歩度根が跡を継ぐ頃には、人心は離れ、鮮卑の国力は衰えていくことになります。
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霊帝の道楽
商人のマネをする
この年、霊帝は采女を店頭に立たせて後宮に商店街をつくりました。
霊帝自身も商人の恰好をして、宦官や妃嬪を引き連れて練り歩いて宴を楽しみましたが、肝心の商店のほうは、采女たちが互いに商品を奪い合うようなあり様でした。
西園での悪ふざけ
霊帝は西園で犬を飼い、進賢冠(主に儒者が身につける冠)を被せ、首に印綬をかけました。
また、霊帝が4頭のロバに引かせた車を自ら操って西園を走り回ると、洛陽で真似する者が続出したため、馬と等価になるほどロバの値段が高騰しました。
珍宝を集める
霊帝は私財を蓄えることを好み、各地の珍宝を集めさせたので、霊帝に献上する珍宝を手に入れるための費用を、民衆から搾取する者が増えました。
中常侍の呂強はこれらの行いを諫めましたが、霊帝は聞き入れませんでした。
何皇后が王美人を毒殺する
霊帝の妃嬪の1人である王美人が皇子・劉協を生んだため、これに嫉妬した何皇后が王美人を毒殺してしまいます。
このことはすぐに発覚し、激怒した霊帝は何皇后を廃位しようとしますが、中常侍たちが必死に嘆願したため思いとどまりました。
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何氏(霊思何皇后)。卑賤の身から皇太后にまで昇りつめた霊帝の皇后
この年、宦官の最高位である大長秋の曹節が亡くなりました。
以降、中常侍・趙忠が大長秋に就任し、いよいよ十常侍と呼ばれた宦官たちの時代に入って行くことになります。