177年【漢:熹平6年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
スポンサーリンク
177年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 宋皇后 |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
司徒 | 楊賜 |
司空 | 陳球 → 陳耽 |
太尉 | 劉寬 → 孟戫 |
太常 | 孟戫 → 陳耽(〜12月) |
執金吾 | 宋酆 |
諫議大夫 | 劉猛 |
五官中郎将 | 董重 |
使匈奴中郎将 | 張奐 |
破羌将軍 | 段熲 |
護烏桓校尉 | 夏育 |
破鮮卑中郎将 | 田晏 |
匈奴中郎将 | 臧旻 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
楊州刺史 | 臧旻 |
玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
スポンサーリンク
177年の主な出来事
月 | 出来事 |
---|---|
1月 |
|
2月 |
|
4月 |
|
7月 |
|
8月 |
|
10月 |
|
11月 |
|
12月 |
|
スポンサーリンク
177年の群雄勢力図
熹平6年(177年)の三国志群雄勢力図
177年の情勢
177年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
霊帝の施政
城門が壊れる
2月、南宮の平城門と武庫の東にある垣根が自壊しました。
『後漢書』孝霊帝紀の注には、『易伝』(『易経』の注釈)を引いて「小人が在位すると城門が自壊する」と書かれています。
陽球(ようきゅう)を許す
4月、霊帝は三公に命じ、地方官の中で政治が苛烈で欲深い者を検挙させて罷免します。
この時、平原国の相・陽球が「政治が厳しすぎる」と糾弾されましたが、かつて九江太守を勤めていた頃、民衆の反乱を鎮圧した功績があったことから、霊帝は陽球を許して議郎に取り立てました。
宣陵孝子(せんりょうこうし)
4月、数十人の民が宣陵(桓帝陵)に集まって「宣陵孝子」と称したため、霊帝は彼らを太子舍人(皇太子の属官)に任命しました。
鴻都門下に諸生を集める
7月、諸生の中から文章や賦に明るい者を鴻都門下に集めると、その人数は数十人になりました。
また、侍中祭酒・楽松、賈護らが推薦した人物は、些細なことばかりを話して霊帝の歓心を買い、昇進していきました。
また、この頃から霊帝は国家の祭祀(儀式)を怠けるようになります。
蔡邕の諫言
ある時、霊帝が群臣たちに施政について意見を求めると、蔡邕は次のように上書しました。
季節の節目には巡礼を行うべきであり、皇廟の祭祀や辟雍で行う儀式は、天子の大切な仕事です。祖先を敬わず、些細な理由で国家の祭祀を取りやめたりするから、天災や奇怪なできごとが起こるのです。
また、古来から推挙される資格があるのは孝廉・賢良・文学に優れた人物のみです。書画や賦に優れているからと言って、国政に関与させてはいけません。
先日、宣陵孝子と名乗る輩が太子舍人にななりましたが、先帝の親族でもない者に陵墓を守らせるから盗掘が起こるのです。そのような者たちを太子舍人にしてはいけません。
霊帝は蔡邕の意見を聞き入れ、祭祀を再開し、宣陵孝子たちを太子舍人から外して県丞や県尉に任命しましたが、鴻都門下に集めた人材は任用し続けました。
これには霊帝の特別な思惑があるように思えます。
関連記事
夏育、田晏、臧旻が鮮卑に大敗する
4月、鮮卑が東・西・北の3方面から漢の領内に侵攻しました。これを受け、護烏桓校尉の夏育が鮮卑の討伐を上奏しました。
そして、蔡邕をはじめ多くの大臣が反対する中、霊帝はついに鮮卑討伐を決意します。
8月、
- 護烏桓校尉・夏育を幽州・代郡・高柳県から
- 破鮮卑中郎将の田晏を幷州(并州)・雲中郡から
- 匈奴中郎将・臧旻を幷州(并州)・鴈門郡から
それぞれ1万騎を率いて二千余里に渡る遠征を開始しました。
夏育、田晏、臧旻の進軍経路
これを受け、鮮卑族の大人・檀石槐は三部族の大人に主力を率いて迎撃させると、夏育、田晏、臧旻の3将は大敗し、陣に辿り着いた時には数十騎となっていました。
3人の将軍は敗戦の罪により捕らえられ、金銭を払って庶民に落とされてしまいました。
遼西太守・趙苞の忠義
遼西太守に任命された趙苞は、着任すると母と妻子を任地の遼西郡に呼び寄せました。ですが、一行が郡境まで来たその時、遼西郡に侵攻してきた1万余りの鮮卑が襲いかかり、趙苞の母と妻子が捕らえられてしまいます。
趙苞が2万の兵を率いて対峙すると、鮮卑は趙苞の母を前面に出して趙苞に見せつけました。
趙苞は感情を押し殺して母に言います。
「これからやっと孝行を尽くそうと思っていたところ、母上を災いに巻き込んでしまいました。ですが、臣下として母のために主君への忠義を捨てることはできません。」
これに母は毅然として答えます。
「これも運命です。私情に捕らわれず忠義を尽くしなさい!」
趙苞は母の言葉を聞くと即座に号令をかけ、鮮卑の兵をことごとく打ち破りましたが、趙苞の母も妻子も殺されてしまいました。
霊帝はこの功績に鄃侯に封じて報いましたが、趙苞は母の葬儀を終えると、
「俸禄を受ける身で鮮卑を討たなければ忠義にあらず、母上を殺して忠義をまっとうすれば孝行にあらず。これでは天下に面目が立たぬっ!」
と言って血を吐いて亡くなりました。
この年は、霊帝が積極的に施策を打ち出しています。蔡邕の諫言によってその多くは改めることになりましたが、鴻都門下に集めた人材だけは任用し続けました。
また、鮮卑を打ち破った趙苞の従弟には中常侍の趙忠がおり、趙苞は一族から悪名高い宦官を輩出したことを深く恥じ、趙忠と付き合おうとしませんでした。