182年【漢:光和5年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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182年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
司徒 | 陳耽 → 袁隗 |
司空 | 張済 |
太尉 | 許彧 → 楊賜 |
太常 | 袁隗 → 楊賜(〜10月) |
諫議大夫 | 劉猛 |
侍御史 | 桓典 |
議郎 | 曹操 |
五官中郎将 | 董重 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
巴郡太守 | 曹謙 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
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182年の主な出来事
月 | 出来事 |
---|---|
1月 |
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2月 |
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3月 |
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4月 |
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5月 |
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7月 |
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8月 |
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10月 |
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12月 |
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182年の三国志群雄勢力図
光和5年(182年)の三国志群雄勢力図
182年の情勢
182年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
問題のある地方官を検挙させる
1月、霊帝が公卿に命じて、刺史と二千石(太守)の中から問題のある者を検挙させます。
ですが、太尉・許彧と司空・張済は宦官から賄賂を受けて結託していたため、宦官の子弟や縁者が不正を行っていても罪を問わず、逆に辺境の小さな郡で正しく治めている地方官26人の名前が挙がったのです。これを受け、対象とされた郡の官吏が26人の冤罪を訴えました。
司徒の陳耽は次のように上奏します。
「公卿たちは自分たちの支持者を擁護し、彼らの不正を隠すために26人の地方官を検挙したのです。これでは梟を野放しにして鳳凰を捕らえるようなものです」
また、霊帝が相次ぐ災害に対して広く意見を求めると、当時議郎であった曹操もこの件について非難する上奏をします。
これらの意見を聞き、霊帝は許彧、張済を諫め、弾劾された26人を議郎に任命しました。
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板楯蛮が降る
179年に蜂起した板楯蛮の反乱は、未だ鎮圧には至っていませんでした。そこで、霊帝は大規模な討伐軍を派遣しようとします。
霊帝に意見を求められた益州計吏・程包はこう答えました。
「板楯蛮は秦の時代に功績を立て、租税を免除されていました。また、彼らは勇猛で、益州太守・李顒は、板楯蛮の力を借りて益州郡の反乱を平定しています。今、板楯蛮が反乱を起こしたのは彼らが悪いのではなく、苛酷な賦役を課して困窮させ、反乱に追い詰めた者が悪いのです。
有能な太守を選任すれば、板楯蛮は自然に帰順するでしょう。大軍を発する必要などありません」
霊帝が程包の意見に従って、新たに曹謙を巴郡太守に任命し、板楯蛮の罪を許すという詔を発すると、板楯蛮は曹謙に投降しました。
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桓典が侍御史に任命される
12月、桓典が司徒・袁隗に推挙され、侍御史に任命されました。侍御史は主に上奏文の監察と弾劾を司る官職です。
桓典は清廉潔白な人物として知られており、宦官たちは桓典を大いに畏れました。
また、桓典はいつも蘆毛の馬に乗っていたため、洛陽の人々は「蘆毛の馬の侍御史様に近づくな」と噂し合いました。
この年、179年から続いていた板楯蛮の反乱が、帰順という形で終息しました。