ことわざ「呉下の阿蒙にあらず」と「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」の由来となった魯粛と呂蒙のやりとりと、ことわざの意味についてまとめています。
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呉下の阿蒙にあらず
呂蒙が学問に目覚める
ある時、孫権が呂蒙と蔣欽(蒋欽)に対して、
「あなた方は今、共に重要な地位にあって万事を処理する立場にいるのだから、学問をして自らの知識を広めることも必要であろう」
と言ったところ、呂蒙は、
「軍中にあって常に多忙に苦しんでおりますので、恐れながら書物を読むような暇がないのです」
と答えました。すると孫権は、
「私は何もあなたに『経典を研究して博士となれ』と言っているのではない。ただ広く往事(過ぎ去った事柄)を見て欲しいと思っているだけなのだ。
あなたは職務が多忙だと言うが、私と比べてどれほどのことがあろうか。
あなた方2人は聡明で理解力も優れているのだから、学べば必ず得るところがあるに違いない」
と言いました。
孫権の言葉・全文
この言葉を聞いた呂蒙は、初めて学問に身を入れるようになり、熱心に怠けることなく努めたので、彼が読んだ書物の量は、元からの儒者でも太刀打ちできないほどになりました。
魯粛と呂蒙
建安15年(210年)、周瑜の後任にあたることになった魯粛が任地の荊州・漢昌郡の陸口に向かう途上、呂蒙の軍営に通りかかりました。
魯粛はこの時もまだ、呂蒙のことを軽く見ていましたが、ある者が、
「呂将軍(呂蒙)の功名は日に日に高くなっております。以前のようなお気持ちで彼を遇されてはいけません。こちらからご訪問なさってください」
と言うので、魯粛は挨拶のために呂蒙の元を訪れることにします。
酒の席が酣となった時、呂蒙が魯粛に尋ねました。
「あなたは重要な任務を授けられ、関羽と境を接することとなられました。どのようなご計略によって、不慮の事態に備えられるおつもりでしょうか」
魯粛がこれに深く考えもせずに、
「その時々に応じて、適宜対処するつもりだ」
と答えると、呂蒙は、
「ただ今、東の孫氏(孫権)と西の劉氏(劉備)は1つの家となってはおりますが、関羽は熊や虎のごとき勇将でございますから、前もって彼に対処する計略を立てておかずにいて良いものでしょうか」
と言い、魯粛に「5つの策略」を献言しました。
それを聞いた魯粛は座を越えて呂蒙の側まで寄り、彼の背中をトントンと叩きながら、
「私は大弟が武勇一辺倒だとばかり思っていたのだが、今では学識も優れて博く、呉の町(呉下)にいた頃の阿蒙(蒙くん)とは見違えてしまった」
と言いました。すると呂蒙は、
「士たるもの、3日会わずにおれば、(その間にどんな成長をするやも知れず、)まったく新しい目で彼を迎えねばならぬのです。
大兄がここで論ぜられましたところは、どうしてすべて穰侯の主張に沿うようなものばかりなのでしょうか。
兄は今、公瑾(周瑜の字)どのの後を継がれるわけですが、立派に後を継ぐのはなかなか困難である上に、関羽と境を接することになられるのです。
関羽は、成人してから学問を好むようになったにも拘わらず『左伝』を暗誦できるほどで、豪放磊落*1、雄々しい気概を持っておりますが、傲慢な性格で人を威圧する傾向がある人物です。
今、その関羽と相対されることになられたのですから、様々な方略を立てておいて、これに対処されなければなりません」
と言い、人を遠ざけて魯粛のために立てた3つの方策を述べ、魯粛は慎んでそれを聞くと、内密にして他人には知らせませんでした。
その後魯粛は呂蒙の母親に目通りをし、友となることを約束して呂蒙と別れました。
脚注
*1度量が大きく快活で、些細なことに拘らないこと。
豆知識
『呉書』呂蒙伝が注に引く『江表伝』にはこの後に、
孫権は常々賛嘆して、
「『大人になってからでも積極的に自己の向上を目指す』という点では、呂蒙と蔣欽(蒋欽)に及ぶ者はなかろう。富裕になり貴顕の地位にありながらも、思い高ぶることなく学問に心を注ぎ、経典や注釈書を心から好み、財貨を軽んじて義を尚ぶことができ、その行いは人々の模範となって、2人揃って国を代表するような人物であるというのは、真に素晴らしいことではないか」
と語った。
と続きます。
このことから、孫権の言葉を受け、呂蒙だけでなく蔣欽(蒋欽)も奮起して学問に励んでいたことが分かります。
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ことわざとしての意味
呉下の阿蒙にあらず
【呉下の阿蒙にあらず(非復呉下阿蒙)】
呉下とは「呉の町」のこと。阿蒙の「阿」は親しみを込めた接頭語。「蒙くん」の意。
意味
1.呉下の阿蒙(旧阿蒙)
ただ単に「呉下の阿蒙」または「旧阿蒙」と言うと、「呉の町にいた頃の、学問を知らない武勇一辺倒の蒙くん」という意味であることから、
- 昔から少しも進歩のない人
- 無学な人
のたとえとして、人を嘲る時や、自分を卑下して言う場合に使います。
2.呉下の阿蒙にあらず
「呉下の阿蒙にあらず」と言うと、「呉の町にいた頃の、学問を知らない武勇一辺倒の蒙くんではない」という意味であることから、久し振りに会った人物が成長していた場合に、賛嘆の気持ちを込めて使います。
また、「(自分は)呉下の阿蒙にあらずっ!」と、相手を見返して使うこともできますが、由来の魯粛の言葉の意味を考えると、相手を見返して言う場合は、次の「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」の方が相応しいと思われます。
士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし
【士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし(士別三日,即更刮目相待)】
士とは「独立した成年男子」、刮目とは「目をこすって注意して見ること」の意。
意味
「努力をしている者は、3日もすれば大きく成長しているので、次に会うときには注意して見なければならない」という意味。
日本では「男子三日会わざれば刮目して見よ」という形に変化して使われることが多い言葉です。
また「短い期間でも人は成長できるのだから、努力を怠るな」という教訓として捉えることもできるでしょう。