ことわざ「呉下の阿蒙(あもう)にあらず」と「士別れて三日、即ち更に刮目(かつもく)して相(あい)待(たい)すべし」の由来となった魯粛(ろしゅく)と呂蒙(りょもう)のやりとりと、ことわざの意味についてまとめています。

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呉下の阿蒙にあらず

呂蒙が学問に目覚める

ある時、孫権(そんけん)が呂蒙(りょもう)と蔣欽(しょうきん)(蒋欽(しょうきん))に対して、


「あなた方は今、共に重要な地位にあって万事を処理する立場にいるのだから、学問をして自(みずか)らの知識を広めることも必要であろう」


と言ったところ、呂蒙(りょもう)は、


「軍中にあって常に多忙に苦しんでおりますので、恐れながら書物を読むような暇(ひま)がないのです」


と答えました。すると孫権(そんけん)は、


「私は何もあなたに『経典(けいてん)を研究して博士(はくし)となれ』と言っているのではない。ただ広く往事(おうじ)(過ぎ去った事柄)を見て欲しいと思っているだけなのだ。

あなたは職務が多忙だと言うが、私と比べてどれほどのことがあろうか。

あなた方2人は聡明で理解力も優れているのだから、学べば必ず得るところがあるに違いない」


と言いました。

孫権の言葉・全文
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「私は何もあなたに『経典(けいてん)を研究して博士(はくし)となれ』と言っているのではない。ただ広く往事(おうじ)(過ぎ去った事柄)を見て欲しいと思っているだけなのだ。

あなたは職務が多忙だと言うが、私と比べてどれほどのことがあろうか。

私は若い頃に『詩経(しきょう)』『書経(しょきょう)』『礼記(らいき)』『左伝(さでん)』『国語(こくご)』を次々と学び、ただ『易経(えききょう)』だけは読めていない。

国政を執(と)るようになってからも、三史(さんし)(『史記(しき)』『漢書(かんじょ)』『東観漢記(とうかんかんき)』)や諸家の兵書に目を通して、自分では大いに有益だったと思っている。

あなた方2人は聡明で理解力も優れているのだから、学べば必ず得るところがあるに違いない。

急ぎ『孫子(そんし)』『六韜(りくとう)』『左伝(さでん)』『国語(こくご)』、それに三史(さんし)(『史記(しき)』『漢書(かんじょ)』『東観漢記(とうかんかんき)』)を読まれるが良い。

孔子(こうし)は『終日食事も摂(と)らず、夜通し寝ることもなく思いを巡(めぐ)らせても、それは無益である。学問をすることに及ぶものはない』と言われた。

光武帝(こうぶてい)は、軍務の間にあっても書物を手から離されることがなかった。

孟徳(もうとく)(曹操(そうそう))も、老いて益々学問を好むようになったと申している。あなた方だけがどうして学問に励(はげ)むことをされないのか」


この言葉を聞いた呂蒙(りょもう)は、初めて学問に身を入れるようになり、熱心に怠(なま)けることなく努(つと)めたので、彼が読んだ書物の量は、元からの儒者(じゅしゃ)でも太(た)刀(ち)打(う)ちできないほどになりました。

魯粛と呂蒙

建安(けんあん)15年(210年)、周瑜(しゅうゆ)の後任にあたることになった魯粛(ろしゅく)が任地の荊州(けいしゅう)・漢昌郡(かんしょうぐん)の陸口(りくこう)に向かう途上、呂蒙(りょもう)の軍営に通りかかりました。

魯粛(ろしゅく)はこの時もまだ、呂蒙(りょもう)のことを軽く見ていましたが、ある者が、


「呂将軍(りょしょうぐん)(呂蒙(りょもう))の功名は日に日に高くなっております。以前のようなお気持ちで彼を遇(ぐう)されてはいけません。こちらからご訪問なさってください」


と言うので、魯粛(ろしゅく)は挨拶(あいさつ)のために呂蒙(りょもう)の元を訪(おとず)れることにします。


酒の席が酣(たけなわ)となった時、呂蒙(りょもう)が魯粛(ろしゅく)に尋(たず)ねました。


「あなたは重要な任務を授(さず)けられ、関羽(かんう)と境を接することとなられました。どのようなご計略によって、不慮の事態に備えられるおつもりでしょうか」


魯粛(ろしゅく)がこれに深く考えもせずに、


「その時々に応じて、適宜(てきぎ)対処するつもりだ」


と答えると、呂蒙(りょもう)は、


「ただ今、東の孫氏(そんし)(孫権(そんけん))と西の劉氏(りゅうし)(劉備(りゅうび))は1つの家となってはおりますが、関羽(かんう)は熊や虎のごとき勇将でございますから、前もって彼に対処する計略を立てておかずにいて良いものでしょうか」


と言い、魯粛(ろしゅく)に「5つの策略」を献言しました。

それを聞いた魯粛(ろしゅく)は座を越えて呂蒙(りょもう)の側(そば)まで寄(よ)り、彼の背中をトントンと叩(たた)きながら、


「私は大弟(あなた)が武勇一辺倒だとばかり思っていたのだが、今では学識も優(すぐ)れて博(ひろ)く、呉(ご)の町(呉下(ごか))にいた頃の阿蒙(あもう)(蒙(もう)くん)とは見違えてしまった」


と言いました。すると呂蒙(りょもう)は、


「士(し)たるもの、3日会わずにおれば、(その間にどんな成長をするやも知れず、)まったく新しい目で彼を迎えねばならぬのです。

大兄(あなた)がここで論ぜられましたところは、どうしてすべて穰侯(じょうこう)の主張に沿(そ)うようなものばかりなのでしょうか。

兄(あなた)は今、公瑾(こうきん)(周瑜(しゅうゆ)の字(あざな))どのの後を継がれるわけですが、立派に後を継ぐのはなかなか困難である上に、関羽(かんう)と境を接することになられるのです。

関羽(かんう)は、成人してから学問を好むようになったにも拘(かか)わらず『左伝(さでん)』を暗誦(あんしょう)できるほどで、豪放磊落(ごうほうらいらく)*1、雄(お)々(お)しい気概(きがい)を持っておりますが、傲慢(ごうまん)な性格で人を威圧する傾向がある人物です。

今、その関羽(かんう)と相(あい)対(たい)されることになられたのですから、様々な方略を立てておいて、これに対処されなければなりません」


と言い、人を遠ざけて魯粛(ろしゅく)のために立てた3つの方策を述(の)べ、魯粛(ろしゅく)は慎(つつし)んでそれを聞くと、内密にして他人には知らせませんでした。


その後魯粛(ろしゅく)は呂蒙(りょもう)の母親に目通りをし、友となることを約束して呂蒙(りょもう)と別れました。

脚注

*1度量が大きく快活(かいかつ)で、些細(ささい)なことに拘(こだわ)らないこと。

豆知識

『呉書(ごしょ)』呂蒙伝(りょもうでん)が注に引く『江表伝(こうひょうでん)』にはこの後に、


孫権(そんけん)は常々賛嘆(さんたん)して、

「『大人になってからでも積極的に自(じ)己(こ)の向上を目指す』という点では、呂蒙(りょもう)と蔣欽(しょうきん)(蒋欽(しょうきん))に及ぶ者はなかろう。富裕になり貴顕(きけん)の地位にありながらも、思い高ぶることなく学問に心を注(そそ)ぎ、経典(けいてん)や注釈書を心から好み、財貨を軽(かろ)んじて義を尚(たっと)ぶことができ、その行いは人々の模範となって、2人揃(そろ)って国を代表するような人物であるというのは、真(まこと)に素晴らしいことではないか」

と語った。


と続きます。

このことから、孫権(そんけん)の言葉を受け、呂蒙(りょもう)だけでなく蔣欽(しょうきん)(蒋欽(しょうきん))も奮(ふん)起(き)して学問に励(はげ)んでいたことが分かります。


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ことわざとしての意味

呉下の阿蒙にあらず

【呉下(ごか)の阿蒙(あもう)にあらず(非復呉下阿蒙)】

呉下(ごか)とは「呉(ご)の町」のこと。阿蒙(あもう)の「阿(あ)」は親しみを込めた接頭語。「蒙(もう)くん」の意。

意味

1.呉下の阿蒙(旧阿蒙)

ただ単に「呉下(ごか)の阿蒙(あもう)」または「旧(きゅう)阿蒙(あもう)」と言うと、「呉(ご)の町にいた頃の、学問を知らない武勇一辺倒の蒙(もう)くん」という意味であることから、

  • 昔から少しも進歩のない人
  • 無学な人

のたとえとして、人を嘲(あざけ)る時や、自分を卑下(ひげ)して言う場合に使います。

2.呉下の阿蒙にあらず

「呉下(ごか)の阿蒙(あもう)にあらず」と言うと、「呉(ご)の町にいた頃の、学問を知らない武勇一辺倒の蒙(もう)くんではない」という意味であることから、久し振りに会った人物が成長していた場合に、賛嘆(さんたん)の気持ちを込めて使います。

また、「(自分は)呉下(ごか)の阿蒙(あもう)にあらずっ!」と、相手を見返して使うこともできますが、由来の魯粛(ろしゅく)の言葉の意味を考えると、相手を見返して言う場合は、次の「士(し)別(わか)れて三日(みっか)、即(すなわ)ち更(さら)に刮目(かつもく)して相(あい)待(たい)すべし」の方が相応(ふさわ)しいと思われます。

士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし

【士(し)別(わか)れて三日(みっか)、即(すなわ)ち更(さら)に刮目(かつもく)して相(あい)待(たい)すべし(士別三日,即更刮目相待)】

士(し)とは「独立した成年男子」、刮目(かつもく)とは「目をこすって注意して見ること」の意。

意味

「努力をしている者は、3日もすれば大きく成長しているので、次に会うときには注意して見なければならない」という意味。

日本では「男子(だんし)三日(みっか)会(あ)わざれば刮目(かつもく)して見(み)よ」という形に変化して使われることが多い言葉です。

また「短い期間でも人は成長できるのだから、努力を怠(おこた)るな」という教訓として捉(とら)えることもできるでしょう。