正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧①。南陽郡なんようぐん何氏かし何真かしん舞陽君ぶようくん何進かしん何苗かびょう何皇后かこうごう何皇后かこうごうの妹・何晏かあん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南陽郡何氏系図

南陽郡何氏系図

南陽郡なんようぐん何氏かし系図


この記事では南陽郡なんようぐん何氏かしの人物、

についてまとめています。

何氏・何苗の兄弟の順番について

何皇后かこうごう何氏かし何貴人かきじん何太后かたいこう)と何苗かびょうの兄弟の順番については諸説ありますが、この記事では魏書ぎしょ董卓伝とうたくでんが注に引く英雄記えいゆうきの記述を採用します。

魏書ぎしょ董卓伝とうたくでん・注・『英雄記えいゆうき

何苗かびょう何太后かたいこう何氏かし)の同母であり、先夫・朱氏しゅしの子であった。

後漢書ごかんじょ五行一ごぎょういち屋自壊おくじかい

皇后こうごう何氏かし)の同父兄(異母兄)の何進かしん大将軍だいしょうぐんとなり、同母何苗かびょう車騎将軍しゃきしょうぐんとなり、兄弟共に権勢を誇り、共に兵をひきいて都に駐留した。

後漢書ごかんじょ五行二ごぎょうに草妖そうよう

皇后こうごう何氏かし)の兄の何進かしんや異父朱苗しゅびょうが共に将軍しょうぐんとなり、兵をひきい、後に朱苗しゅびょう済陽侯せいようこうに封ぜられた。


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か①(南陽郡何氏)

第1世代(何真・舞陽君)

何真かしん

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの人。妻は舞陽君ぶようくんいみなこう・姓は不詳)。子に何進かしん何皇后かこうごう何氏かし何貴人かきじん何太后かたいこう)、娘(張譲ちょうじょうの養子の妻)。義子に何苗かびょう朱苗しゅびょう

屠殺人とさつにん(家畜などを食肉・皮革などにするために殺す人)であった。何真かしんの死後、娘の何氏かし黄門こうもん宦官かんがんの位)の手引きで掖庭えきていに入る。

光和こうわ3年(180年)に何貴人かきじん何氏かし)が皇后こうごうに立てられると、車騎将軍しゃきしょうぐん武陽宣徳侯ぶようせんとくこうを追号され、妻のこう何皇后かこうごうの母)は舞陽君ぶようくんと称された。


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舞陽君ぶようくんこう

生年不詳〜中平ちゅうへい6年(189年)没。いみなこう(姓は不詳)。夫は何真かしん。子に朱苗しゅびょう何苗かびょう)、何皇后かこうごう何氏かし何貴人かきじん何太后かたいこう)、娘(張譲ちょうじょうの養子の妻)。義子に何進かしん

初め朱氏しゅしいみなは不詳)にとついで朱苗しゅびょう何苗かびょう)を生み、何真かしんと再婚して何氏かし何貴人かきじん何皇后かこうごう何太后かたいこう)と娘(張譲ちょうじょうの養子の妻)を生んだ*1何進かしん何真かしんの連れ子である。

夫の何真かしんの死後、娘の何氏かし黄門こうもん宦官かんがんの位)の手引きで掖庭えきていに入り、光和こうわ3年(180年)に皇后こうごうに立てられると、舞陽君ぶようくんと称された。


中平ちゅうへい6年(189年)に何皇后かこうごうが生んだ劉辯りゅうべん劉弁りゅうべん)が即位(少帝しょうてい)すると、大将軍だいしょうぐんとなっていた何進かしんは諸悪の根源である宦官かんがん誅滅ちゅうめつを計画するが、宦官かんがんから賄賂わいろを受けていた何太后かたいこう舞陽君ぶようくん何苗かびょうらはこれに反対した。

何進かしん何太后かたいこうを軍事力でおどして承知させようと、董卓とうたくらを洛陽らくよう雒陽らくよう)に呼び寄せるが、その到着を前に宦官かんがん張譲ちょうじょうはかりごとによって殺害されてしまう。

その後、何進かしん配下の呉匡ごきょうらによって宦官かんがん誅滅ちゅうめつされたが、朝廷の実権は洛陽らくよう雒陽らくよう)に入った董卓とうたくにぎることとなり、董卓とうたく少帝しょうてい劉辯りゅうべん劉弁りゅうべん)]を廃して献帝けんてい劉協りゅうきょう)を擁立ようりつ舞陽君ぶようくん董卓とうたくに殺害され、そのしかばねえん枳殻からたち垣根かきねの中にてられ放置された。


舞陽君ぶようくんの死について、後漢書ごかんじょ何皇后紀かこうごうきには「呉匡ごきょうらによる宦官かんがん誅滅ちゅうめつの際に、乱兵により殺害された」とある。

脚注

*1何皇后かこうごう何氏かし何貴人かきじん何太后かたいこう)を姉、何苗かびょうを弟とする説もある。「何氏・何苗の兄弟の順番について」参照。


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第2世代(何進・何苗・何皇后・何皇后の妹)

何進かしん遂高すいこう

何進(かしん)

生没年 ?〜189年
出身地 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい

屠殺業を営む身分の低い家柄であったが、異母妹が掖庭えきてい(後宮)に入ったために出世し、黄巾こうきんの乱が勃発すると大将軍だいしょうぐんとなった。

霊帝れいていが崩御すると、異母妹・何皇后かこうごうの子・劉辯りゅうべん少帝しょうてい)を即位させた。

王美人おうびじんの子・劉協りゅうきょうの即位をしていた宦官かんがんの一掃をくわだて、反対する何皇后かこうごうに圧力をかけるため董卓とうたくらを洛陽らくよう雒陽らくよう)に呼び寄せるが、その到着を前に宦官かんがん張譲ちょうじょうはかりごとによって殺害された。

何苗かびょう朱苗しゅびょう

生年不詳〜中平ちゅうへい6年(189年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの人。父は朱氏しゅしいみなは不詳)。異父妹に何皇后かこうごう何氏かし何貴人かきじん何太后かたいこう)、張譲ちょうじょうの養子の妻。異父兄に何進かしん

中平ちゅうへい4年(187年)、司隷しれい河南尹かなんいん滎陽県けいようけんぞく・数千人が群れをなして決起し、郡県を攻撃して中牟県ちゅうぼうけん県令けんれいを殺害すると、当時河南尹かなんいんであった何苗かびょうに討伐のみことのりが下された。

何苗かびょうぞく軍を破り平定して帰還すると、成皋県せいこうけんまで出迎えられて車騎将軍しゃきしょうぐん済陽侯せいようこうに封ぜられる。


中平ちゅうへい6年(189年)、霊帝れいていが崩御し、異父妹の何皇后かこうごうが生んだ劉辯りゅうべん劉弁りゅうべん)が即位(少帝しょうてい)すると、異父兄の大将軍だいしょうぐん何進かしんは諸悪の根源である宦官かんがん誅滅ちゅうめつを計画するが、宦官かんがんから賄賂わいろを受けていた何太后かたいこう舞陽君ぶようくん何苗かびょうらはこれに反対した。

その後、何進かしんの計画を知った宦官かんがん張譲ちょうじょう謀略ぼうりゃくをもって何進かしんを殺害すると、何進かしんの部将であった呉匡ごきょう張璋ちょうしょうは、袁紹えんしょう袁術えんじゅつらと共に宮殿に攻め込んで宦官かんがん誅滅ちゅうめつ。この時、呉匡ごきょうらは日頃から何進かしんと対立していた何苗かびょう宦官かんがんと共謀したのではないかと疑い、

大将軍だいしょうぐん何進かしん)を殺した者は車騎将軍しゃきしょうぐん何苗かびょう)っであるっ!士卒たちよ、将軍しょうぐん何進かしん)のためにかたきを討つことはできるかっ!」

と号令し、董卓とうたくの弟・奉車都尉ほうしゃとい董旻とうびんと共に何苗かびょうを攻めて殺害し、その死体を苑中えんちゅう遺棄いきした。


その後、洛陽らくよう雒陽らくよう)に入り朝廷の実権をにぎった董卓とうたく少帝しょうてい劉辯りゅうべん劉弁りゅうべん)]を廃して献帝けんてい劉協りゅうきょう)を擁立ようりつ何苗かびょうひつぎあばき、そのしかばねは引きずり出されて手足をバラバラに切り離され、道端にてられた。


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何皇后かこうごう何氏かし何貴人かきじん何太后かたいこう

何皇后(かこうごう)” width=

生没年 ?〜189年
出身地 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけん
所属勢力 霊帝れいてい少帝しょうてい

後漢ごかん第12代皇帝・霊帝れいてい皇后こうごう

屠殺業とさつぎょうを営む身分の低い家柄であったが、黄門こうもん宦官かんがんの位)の手引きで掖庭えきてい(後宮)に入り、霊帝れいてい寵愛ちょうあいを受けて少帝しょうていべんを生んだ。

非常に嫉妬深く、献帝けんていきょうを生んだ王美人おうびじんを毒殺。さらに政敵である董太后とうたいごうを追放したが、そのことによって董卓とうたくの怒りを買い、幽閉後に殺害されてしまった。


何皇后かこうごうの妹

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの人。夫は張譲ちょうじょうの養子。義兄に何進かしん。兄に何苗かびょう。姉に何氏かし何貴人かきじん何皇后かこうごう何太后かたいこう)。

宦官かんがん張譲ちょうじょうの養子にとついだ。

中平ちゅうへい6年(189年)に姉・何皇后かこうごうの子・劉辯りゅうべん劉弁りゅうべん)が即位(少帝しょうてい)すると、義兄の大将軍だいしょうぐん何進かしんは諸悪の根源である宦官かんがん誅滅ちゅうめつを計画し、董卓とうたくらを洛陽らくよう雒陽らくよう)に呼び寄せ、司隷校尉しれいこうい袁紹えんしょうに専断して攻撃する権限を与えて圧力をかけさせた。

これを恐れた何太后かたいこうは、中常侍ちゅうじょうじ小黄門しょうこうもん(共に宦官かんがんの専任)たちを罷免ひめんし、何進かしんに謝罪させて邸宅に帰らせた。

謝罪を受けた何進かしんは計画の実行を躊躇ちゅうちょするようになり、その間にその情報が宦官かんがんたちに漏洩ろうえい宦官かんがん張譲ちょうじょうは養子の妻である何太后かたいこうの妹に向かって、頭を床にこすりつけて頭を下げて「もう1度禁中きんちゅうに宿直して、今しばらく何太后かたいこうに仕える」ことを哀願あいがんした。

何太后かたいこうの妹は、これを母の舞陽君ぶようくんづたえに何太后かたいこうに告げたので、何太后かたいこうもろもろ宦官かんがんたちにみことのりを下して、再度禁中きんちゅうに宿直させた。

これが元で、後に何進かしん張譲ちょうじょうらによって殺害されることになる。


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第4世代(何晏)

何晏かあん平叔へいしゅく

生年不詳〜正始せいし10年(249年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん宛県えんけんの人。祖父は何進かしん。母の尹氏いんし曹操そうそう夫人ふじん側妾そくしょう)となった。

曹操そうそう司空しくうだった時[建安けんあん元年(196年)〜建安けんあん13年(208年)]、曹操そうそう何晏かあんの母・尹氏いんし夫人ふじん側妾そくしょう)とし、同時に何晏かあんも引き取って養育した。

当時、秦宜禄しんぎろくの息子・阿蘇あそ秦朗しんろうの幼名)も母について曹操そうそうの家におり、彼らは共に我が子のように可愛がられた。

阿蘇あそ秦朗しんろうの幼名)はつつしみ深く慎重な性格だったが、何晏かあんは秀才として評判を立てられる一方、ねや遠慮をしない性格で太子たいし同様の身繕みづくろいをしていたので、曹丕そうひは特に何晏かあんを嫌い、いつも彼の姓とあざなを呼ばずに「養子」と呼んでいた。


何晏かあん金郷公主きんきょうこうしゅ*2めとりながらどうらくものだったので、文帝ぶんてい曹丕そうひ)の黄初こうしょ年間(220年〜226年)には任用されなかったが、明帝めいてい曹叡そうえい)の即位後、なんとか閑職かんしょくに任命されるようになった。

正始せいし年間(240年〜249年)の初期になって、曹爽そうそう迎合げいごうしたことと才能もあったことから、曹爽そうそう何晏かあん散騎侍郎さんきじろうに起用し、侍中尚書じちゅうしょうしょに昇進させた。

何晏かあん金郷公主きんきょうこうしゅ*2めとっている上、彼の母が宮中にいたこともあって、列侯れっこうの爵位を受けることができた。何晏かあんは自己愛の強い性格で、どんな時でも白粉おしろいを手から離さず、歩く時にも自分の影を振り返りながめるほどだった。

何晏かあん尚書しょうしょになり、官吏の任用をつかさどるようになると、彼と昔から交際していた者たちの多くが抜擢ばってきされた。


正始せいし10年(249年)、クーデター(高平陵こうへいりょうの変)によって曹爽そうそうと彼におもねる者たちを捕らえた司馬懿しばいは、何晏かあん曹爽そうそうの裁判を行わせた。そこで何晏かあんは仲間を厳しくさばき、それによって自分だけ罪を許してもらいたいと願っていた。

司馬懿しばいは「罪人は全部で8家だ」と言い、何晏かあんていとうら7人の姓を書き出すと、司馬懿しばいは「まだだ」と言った。

何晏かあんは追いめられて「私のことをおっしゃっているのでしょうか」と言うと、司馬懿しばいは「その通りだ」と答え、何晏かあんを逮捕した。


これより以前、何晏かあんの妻の金郷公主きんきょうこうしゅ*2は母の沛王太妃はいおうたいひに「何晏かあんの悪行は日に日にひどくなります。どうやって身をたもつのでしょうか」と言ったが、母は笑いながら「お前はあん何晏かあん)のことを嫉妬しっとしてるんじゃないの?」と言った。

それから間もなくして何晏かあんが処刑されると、司馬懿しばい何晏かあんの5、6歳の男の子を捕らえようとしたが、何晏かあんの母(尹氏いんし)はその子を宮殿の中に隠し、使者に向かって自分のほほを叩きながら「子供の命を助けて欲しい」と懇願こんがんした。

使者から報告を受けた司馬懿しばいは、何晏かあんの妻が先を見通した発言をしていたと聞いていたので、心中いつも感心していた。その上、沛王太妃はいおうたいひの顔を立てるためもあって、特赦とくしゃを与えてその子を殺さなかった。


何晏かあんには論語集解ろんごしっかい編纂へんさんのほか、道徳論どうとくろん無名論むめいろん無為論むいろん詩賦しふなど数十編の著述があり、その思想は老子ろうしを尊び、王弼おうひつと並んで玄学げんがくの創始者となった。

脚注

*2曹操そうそう杜夫人とふじん沛王太妃はいおうたいひ・元秦宜禄しんぎろくの妻)の間に生まれた娘。


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【三国志人物伝】総索引