正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧②。廬江郡何氏[何楨(何禎)・何龕・何勗・何惲・何叡・何充・何準・何放・何惔・何澄・何法倪(穆章何皇后)・何元度・何叔度・何籍、何融・何松]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
廬江郡何氏系図
廬江郡何氏系図
※何準は兄弟の5番目。何準の兄の兄弟の順は不明。
この記事では廬江郡何氏の人物、
についてまとめています。
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か②(廬江郡何氏)
第1世代(何楨)
何楨・元幹(何禎)*1
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。子に何龕、何勗、何惲。
文才と政治的能力を有し、容貌は大変立派であった。
幽州刺史、廷尉を歴任し、晋の時代に入って尚書・光禄大夫となった。
豫州(予州)・沛国・譙県の人で胡康*2という者がおり、15歳の時から都に送られ、神童と称されて秘書に預けられ、広く典籍を読ませた。
ある時、明帝(曹叡)に「胡康の才能はどうだ?」と尋ねられた秘書丞の何楨は、「胡康は才能はありますが、性質が真っ直ぐではありません。失敗するに違いありません」と答え、後に胡康は、果たして過失によって咎めを受けた。
魏の正始年間(240年〜249年)に弘農太守であった何楨は、
- 驃騎将軍・趙儼
- 尚書・黄休、郭彝
- 散騎常侍・荀顗、鍾毓
- 太僕・庾嶷。
らと、当時弘農郡の宜陽県に移り住んでいた隠者・胡昭を代わる代わる推薦し、魏の嘉平6年(254年)には、司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「永寧衛尉臣何楨」の名前がある。
西晋の泰始2年(266年)正月、西晋の文帝(司馬昭)の弔問に訪れた呉の大鴻臚・張儼と、魏の尚書僕射・羊祜、尚書・何楨はそれぞれ厚い友情を結んだ。
脚注
*1『魏書』斉王紀、『魏書』管寧伝 付 胡昭伝 が注に引く『文士伝』では何楨、『晋書』何充伝 、『魏書』劉劭伝 が注に引く『廬江何氏家伝』では何禎。
*2裴松之は「魏朝において賎しい身分から出世した者の中に胡康の名を聞かない。孟康ではないかと疑われる」と言っている。
第2世代(何龕・何勗・何惲)
何龕
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何楨。
後将軍となった。
何楨の子は多数高官に昇り、以後代々隆盛を誇った。
何勗
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何楨。
車騎将軍となった。
何楨の子は多数高官に昇り、以後代々隆盛を誇った。
何惲
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何楨。
豫州刺史となった。
何楨の子は多数高官に昇り、以後代々隆盛を誇った。
第3世代(何叡)
何叡(何睿)
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何惲。子に何充、何準。
安豊太守となった。
第4世代(何充・何準)
何充・次道
西晋の元康2年(292年)〜東晋の永和2年(346)没。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何叡。弟に何準。妻は庾文君の妹。
優れた品格と風采があり、人柄が良く、学問に秀で能書家であった。
大将軍・王敦に辟召かれて掾(属官)となり、主簿に転任した。その後、当時廬江太守であった王敦の兄・王含の汚職を指摘したために、東海王の文学に左遷されたが、王敦が敗れると、累遷して中書侍郎となる。
何充の母は王導の妻の姉であり、また何充の妻は明穆皇后*3の妹であったことから、早くから顕官(地位の高い官職)を歴任し、東晋の太寧3年(325年)に成帝が即位すると、給事黄門侍郎に任命された。
その後「蘇峻の反乱」の鎮圧で大きな功績を挙げたことにより都郷侯・散騎常侍に任命され、地方に出て東陽太守、建威将軍・会稽内史、丹陽尹をつとめ、吏部尚書・冠軍将軍・会稽王の王師となる。王導の死後は、護軍将軍・中書監となり、尚書令・左将軍を経て中書監・散騎常侍となった。
王導の死後に権力を握った外戚・庾冰兄弟は、成帝が病に伏せると「国難の時に幼君は相応しくない」として、幼い皇子ではなく成帝の同母弟である琅邪王・司馬岳を擁立する。
何充はこれを強く諫めたが、結局康帝(司馬岳)が即位。康帝が「朕が鴻業(大きな事業)を嗣ぐことができたのは、庾冰と何充のお陰である」と声をかけると、何充は「陛下の龍飛は庾冰 1人の力です」と言い、これを聞いた康帝は恥じ入った。
建元年間の初め(343年)、何充は庾冰の一族を避け、地方に出て驃騎将軍・都督徐州揚州之晋陵諸軍事・冠軍将軍・仮節・徐州刺史として京口に駐屯した。
北伐を主張する庾翼の代わりに庾冰が江州に駐屯すると、何充は再び朝廷に入って都督揚豫徐州之琅邪諸軍事・仮節・揚州刺史となり、将軍位はこれまで通りとされた。
建元2年(344年)、康帝の病が重篤となると、庾翼はまた会稽王・司馬昱を擁立しようとするが、何充は康帝の実子である、わずか2歳の司馬聃を皇太子に立てることを上申し、康帝に認められたので、庾冰・庾翼は彼に恨みを持った。
穆帝(司馬聃)が即位すると、庾冰・庾翼は相継いで亡くなった。庾翼は今際の際に、息子の庾爰之を自分の後任とすることを望んだが、何充は庾氏一族に代えて桓温を後任とした。これが譙国桓氏が台頭する切っ掛けとなった。
何充は宰相として改革する能力はないものの、優れた才能と度量があり、朝廷に臨んでは色を正して社稷を守ることを自分の責務とし、人事においては功臣を取り立て、権限を私物化して親戚や旧友を優遇することはなかった。
釈典(仏教の経典)を好んで仏教寺院を崇拝し、数百人の僧侶に巨億の銭を惜しげもなく与える一方で、親友が困窮していても施しをすることはなく、世間から批判された。
永和2年(346)、55歳で亡くなり、司空の位を追贈され、文穆と諡された。男子はなく、弟・何準の子、何放が嗣いだ。何放にもまた男子がなく、兄の孫・何松が嗣いだ。
何松は驃騎諮議参軍の位に至った。
脚注
*3東晋の第2代皇帝・明帝(司馬紹)の皇后。庾文君。庾亮、庾冰の妹。庾翼の姉。
何準・幼道
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何叡。兄に何充。子に何放、何惔、何澄。娘に何法倪[穆章皇后。穆帝(司馬聃)の皇后]。何準は兄弟の5番目。
上品(高尚)で欲が少なく、若くして名を知られたが、何度も州府に辟召かれても受けず、驃騎将軍となった兄・何充に出仕を勧められても応じなかった。
天子を補佐する宰相の重職にあった兄・何充の権勢が一時期傾いたことがあったが、それでも何準は政治に関与せず、衡門(隠者の住居)に引きこもり、ただ仏経を誦して塔廟を造営・修繕していました。
その後、徴召かれて散騎郎に任命されても出仕せず、47歳で亡くなった。
升平元年(357年)に金紫光禄大夫を追贈され、晋興県侯に封ぜられたが、子の何惔は父の素行が高潔であったことから、上表して辞退し受けなかった。
第5世代(何放・何惔・何澄・何法倪)
何放
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何準。弟に何惔、何澄。伯父に何充。
伯父・何充の後を嗣いだ。
長子でありながら伯父・何充の後を嗣いでいるので、庶子だと思われる。
何惔
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何準。子に何元度、何叔度。兄に何放。弟に何澄。伯父に何充。
南康太守となったが、早くに亡くなった。
何澄・季玄
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何準。子に何籍、何融。兄に何放、何惔。伯父に何充。
初め秘書郎の官にあげられ丞に転任し、清廉で器量と人望があったことから、秘書監・太常・中護軍に遷った。
孝武帝(司馬曜)に深く愛され、冠軍将軍・呉国内史となった。太元年間(376年〜396年)の末、琅邪王(司馬徳文)が師傅を選んだ時、徴召かれて尚書・琅邪王師となる。
安帝(司馬徳宗)が即位すると尚書左僕射に遷り、典選・王師はこれまで通りとされた。この時何澄は脚に疾病を抱えていたためにこれを固辞したが、特別に「朝廷に出仕せず、家で職務にあたること」を許され、また本州大中正となった。
桓玄が執政するに及び、病を理由に引退し、家で亡くなった。安帝(司馬徳宗)が復帰すると、金紫光禄大夫を追贈された。
何法倪(穆章何皇后)
東晋の咸康5年(339年)〜東晋の元興3年(404年)没。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何準。兄弟に何放、何惔、何澄。
名家の出であることから選ばれ、升平元年(357年)8月に穆帝(司馬聃)の皇后に立てられた。
皇后には子がなく、哀帝(司馬丕)が即位すると、穆皇后と称して永安宮に居住した。
元興2年(403年)、帝位を簒奪した桓玄は、穆皇后を琅邪王(司馬徳文)の司徒府に移したが、その道中、太廟を通過した穆皇后は輿を停めて慟哭し、道ゆく人はみなこれを哀れんだ。
これを聞いて怒った桓玄により、皇后を降格させて零陵県君とされ、安帝(司馬徳宗)と共に西の巴陵に至る。
元興3年(404年)、劉裕が挙兵して桓玄を討伐すると、桓玄の腹心・殷仲文が穆皇后を奉じて京都(建康)に還った。穆皇后は遠くから還って来たので、陵廟に参拝したいと願ったが、役人は「未だ兵難が平定されていない」として許さなかった。
在位はおよそ48年、元興3年(404年)に66歳で亡くなり、穆帝(司馬聃)の永平陵に合葬され、章皇后と諡された。
第6世代(何元度・何惔・何澄)
何元度
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何惔。弟に何叔度。
西陽太守となった。
何叔度
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何惔。兄に何元度。
太常卿・尚書となった。
何籍
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何澄。弟に何融。
早くに亡くなった。
何融
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。父は何澄。兄に何籍。
元熙年間(419年〜420年)に大司農となった。
何松
生没年不詳。揚州・廬江郡・潜県(灊県)の人。
従叔父・何放の後を嗣いだ。
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【三国志人物伝】総索引
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