「蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし 歳は甲子にありて 天下大吉ならん」
黄巾賊が掲げた有名なこのスローガンと五行説について考えてみます。
スポンサーリンク
目次
黄巾賊が掲げたスローガンの疑問
太平道(黄巾賊)のスローガン
後漢末期の霊帝の時代、中国全土に急激に広まった新興宗教の太平道。
教祖・張角は、信者達を6,000人〜10,000人ずつに分けて「方」と名付け、36の方を編成して、その軍事力を背景に後漢王朝に反旗を翻しました。
この時に叫ばれたのが、
蒼天已死
蒼天すでに死す
黃天當立
黄天まさに立つべし
歲在甲子
歳は甲子にありて
天下大吉
天下大吉ならん
というスローガンです。
そしてこのスローガンは、一般に次のように意訳されています。
漢王朝はすでに死んでいる 我ら太平道が今こそ立ち上がるべきだ 今年は甲子の年であるから 天下は平安に治まるだろう
この黄巾賊が掲げたスローガンは、古代中国の自然哲学思想である五行思想(五行説)に基づいていると言われています。
初めてそのことを知ったときは「なるほど!」と納得していたのですが、それから色々と調べているうちに「なんかおかしいぞ!?」と思えてきたのです。
黄巾賊が掲げたスローガンは、本当に五行思想に基づいているのでしょうか?この疑問について考えてみたいと思います。
注目ポイント
今回は、黄巾賊が掲げたスローガンの意味を理解するために、次の3つの点について考えてみたいと思います。
- 歳甲子とは
- 黄天の理由
- 蒼天の疑問
スポンサーリンク
歳甲子とは
十干十二支
歳甲子、つまり甲子の年とは、十干十二支の1番最初にくる年で、十干十二支は暦の他にも時間や方位に用いられていました。
甲子には、「きのえね」「こうし」「かっし」と多くの読み方がありますが、三国志関連の書物では「こうし」と読むのが一般的です。
十干十二支は、春秋戦国時代につくられた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもっています。
十干
十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなります。
現在の日本でも「甲は乙に対して…」と、契約書などの人称代名詞として使われています。
十二支
十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなります。
言わずと知れた干支のことで、干支はもともと十干十二支を指す言葉でしたが、現在の日本では十干はすたれて、十二支のことを干支と呼ぶようになりました。
十干十二支
十干十二支は、
甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未
甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳
甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯
甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑
甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥
と進み、60年で一巡します。
60歳を還暦として祝うのは、この十干十二支が一巡したことを意味しています。
豆知識
- 672年、天智天皇の太子・大友皇子と皇弟・大海人皇子が争った壬申の乱
- 1868年、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った戊辰戦争
- 1911年、清朝を打倒して2,000年来の専制政体を倒し、アジアで最初の共和国を建設した辛亥革命
などは、起こった年の干支(十干十二支)から名称をとっています。
また、高校球児の夢である甲子園球場の名称も、完成した1924年の干支が甲子であったことに由来していると言われています。
辛酉革命と甲子革令
古代中国には、天子(皇帝)とは天命を受けて天下を治める者のことであり、天子が徳を失ったとき、新たな徳を持った者に天命が下り、新たな王朝が誕生するという易姓革命という考え方がありました。
『易経』には、辛酉の年に天命が革まる革命(辛酉革命)が起こり、甲子の年に天命が下される革令(甲子革令)が起こると記されています。これを讖緯説と言います。
甲子の年は「天命が革まり、新たな徳を備えた者に天命が下される年」であると考えられていたのです。
つまり甲子の年は、支配者にとっては自分の地位が脅かされる可能性が高い不吉な年なのです。
この考え方は日本へも伝わり、964年から(1567年を除いて)幕末まで、甲子の年に改元することによって、その厄災を避けるのが慣例となっていました。
太平道が黄巾の乱を起こした184年は甲子の年にあたるため、漢王朝を打倒するにはとても縁起が良く、甲子の年であることを強調することによって「自分たちこそが天命を受けた正統な次の支配者である」と主張していたのです。
スポンサーリンク
太平道はなぜ黄色を身につけたのか
五行思想(五行説)
古代中国には、春秋戦国時代の鄒衍によって唱えられた「万物は木・火・土・金・水の5つの元素からできており、この5つの元素は互いに影響を与え合い、変化しながら循環する」という自然哲学の思想がありました。これを五行思想(五行説)と言います。
古代中国の王朝にも5つの元素を持つ「徳」が当てられており、王朝でさえもこの法則に従って変遷すると考えられていました。
五行の関係
木・火・土・金・水の5つの元素には、それぞれ色が割り当てられており、相剋(相勝)と相生の関係があります。
五行に割り当てられた色
木 | 火 | 土 | 金 | 水 |
---|---|---|---|---|
青 (緑) |
紅 (赤) |
黄 | 白 | 玄 (黒) |
相剋(相勝) 相手を打ち滅ぼす「陰」の関係
木・火・土・金・水の5つの元素には、木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つという相剋の関係があります。
相剋(相勝)の関係
相生 相手を生み出す「陽」の関係
また、木・火・土・金・水の5つの元素には、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生むという相生の関係があります。
相生の関係
黄色い頭巾を身につけていることから、太平道は「土徳」を主張していることが分かります。
相剋の関係から見ると、土は水に勝つことから後漢は水徳で、水徳だから青→蒼天なのかと思ってしまいますが、なんと水徳は黒なので、蒼天とは合わない気がします。
また、相生の関係から見ると、土は火から生まれることから、後漢は火徳だと推測できますが、火徳の赤も蒼天とは合わない気がします。
後漢の「徳」はナニ?
後漢の「徳」を知るために、後漢までの中国の歴代王朝の「徳」を確認してみましょう。
中国王朝の「徳」の推移
王朝 | 徳 |
---|---|
黄帝(三皇五帝) | 土徳 |
夏 | 木徳 |
商(殷) | 金徳 |
周 | 火徳 |
春秋戦国 | ー |
秦 | 水徳 |
漢(前漢) | 土徳 |
これは周王朝の後の春秋戦国時代に、鄒衍らが周王朝とその後に続く統一王朝の正統性を説明するために、五行思想(五行説)と王朝交代を組み合わせて生まれた思想です。
伝説上の最古の王朝とされている黄帝が、黄河がもたらす黄土から文明を築いて王朝を開いたことから、はじまりは土徳とされました。
これを見ると、
土 → 木 → 金 → 火 → 水 → 土
と、相剋の関係で徳が続いていることが分かります。
ですが、これでは漢の徳が、太平道(黄巾賊)が主張した「土徳」とかぶってしまいますよね。
後漢の「徳」の変遷
水徳を称する
漢は建国当初「短命に終わった秦は民に徳を施していない」として正統性を認めず、周の火徳に勝った水徳を称しました。
土徳に改める
第7代皇帝・武帝の頃に「秦も正統な王朝である」という考え方が広がったため、秦を水徳、漢を土徳と改めます。(上表の通り)
火徳に改められる
この後、漢は外戚の王莽に簒奪され、王莽によって新が建国されます。
そして、漢を簒奪した王莽は自らを正当化するために「新は徳を失った漢から天下を譲られたのであって、奪ったのではない」と主張しました。
そのため、これまでの相剋説に代わって相生説が唱えられるようになります。
これによって各王朝の徳は、次のように改められました。
相生説による中国王朝の「徳」の推移
王朝 | 徳 |
---|---|
黄帝(三皇五帝) | 土徳 |
夏 | 金徳 |
商(殷) | 水徳 |
周 | 木徳 |
春秋戦国 | ー |
秦 | ー |
漢(前漢) | 火徳 |
新 | 土徳 |
なぜかまた秦に徳が与えられていませんが、これによって漢は火徳となり、漢を受け継ぐ新は土徳を称しました。
その後、光武帝によって漢(後漢)が再興されると、前漢の徳をそのまま受け継いだので、黄巾の乱の当時、後漢は火徳とされていました。
太平道の信者たちは、後漢王朝を打倒して新しい王朝を打ち立てるため、火徳を持つ漢王朝を打倒する自分たちを正当化させるために、五行相生説によって土徳をあらわす色である黄色をイメージカラーにしたのだと言われています。
豆知識
日本に伝わった五行思想
中国の春秋戦国時代に生まれた五行思想は、仏教や暦法などとともに5世紀から6世紀に日本に伝わり、陰陽道に発展しました。
建国より皇統の万世一系によって現代まで続く日本では王朝の交代が起こっていないため、天皇に対して五行思想が語られることはありません。あえて言うならば、日本は天皇の徳によって治められているのです。
ですが、武家政権においては「平氏と源氏が交互に国を治める」という源平交代思想がありました。この思想に従って、織田信長は平氏を名乗り、徳川家康は源氏を名乗ったと言われています。
武家政権 | 姓 |
---|---|
平氏政権、平清盛の一族 | 平氏 |
鎌倉幕府、源頼朝の一族 | 源氏 |
鎌倉幕府、執権北条氏得宗家 | 平氏 |
室町幕府、足利氏 | 源氏 |
織田政権、織田信長 | 平氏 |
三日天下、明智光秀 | 源氏 |
豊臣政権、豊臣秀吉 | 平氏 |
江戸幕府、徳川氏 | 源氏 |
魏・呉・蜀が用いた元号
黄巾の乱以降、後漢の支配体制が弱まって地方豪族が乱立し、やがて魏・呉・蜀の3つの国に3人の皇帝が並び立つことになります。
建国の際にそれぞれの国が最初に定めた元号は以下の通りです。
- 魏 黄初
- 呉 黄武
- 蜀 章武
魏の黄初、呉の黄武には、後漢を正統に受け継ぐ国として、土徳をあらわす「黄」の字が用いられていることが分かります。
また、蜀では曹操の死去にともなって改元された元号である「延康」を認めず、章武と改元しています。あえて徳を意味する字を当てなかったのは、後漢王朝が継続していることを示すためだと思われます。
現代まで続く?五行思想
後漢が滅びた後も五行相生説は受け継がれ、元の金徳、明の火徳、清の水徳は相剋説になりますが、清の後、また相生説に戻って続いているという説があります。
水徳の清の後、中華民国の国旗の青が木徳を、中華人民共和国の国旗の赤が火徳をあらわしているという説です。
なお、中華民国の国旗の左上に描かれている青天白日の紋章は、中華民国の国章であり、中国国民党の党旗とされています。
中華民国の「青天白日満地紅旗」
中華人民共和国の「五星紅旗」
中華民国の木徳、中華人民共和国の火徳は、政府が発表しているわけではありませんし、赤旗は多くの社会主義・共産主義の国で採用されていることから、ただの偶然かもしれません。
ですがもし、中国が民主化されたときに黄色い国旗がつくられたとしたら、それは五行思想によるものだと言えるかもしれません。
4,000年とも言われる中国の歴史の中で、大多数の漢民族が少数の異民族によって支配されていた例は少なくありません。
異民族による王朝は、漢民族の五行思想を取り入れることによって、大多数の漢民族に自分たちの王朝の正統性を認めさせていたと考えることもできるでしょう。
関連記事
蒼天已死の謎
漢王朝の徳は、水徳 → 土徳 → 火徳 と変遷していますが、黄巾の乱の当時は「火徳」であることが分かりました。
太平道が、当時主流であった五行相生説に基づいて、火徳を受け継ぐ土徳を主張したということは間違いないようです。
では、後漢の「火徳」に合わない「蒼天」が、なぜ「漢王朝」を意味しているのでしょうか?
蒼天の意味
蒼天の意味を調べてみると、次のような意味があることが分かります。
- 青い空
- 春
- 天上、天界、天国
- 天の意志、天命
このように「蒼天」という言葉には、単に「青い空」という意味の他に、「春」や「天上界」「天命」の意味があるのです。
蒼天を「後漢王朝」と解釈した場合
「黃天」が太平道の信者を意味することは間違いありませんので、対となる「蒼天」を敵である後漢王朝の比喩と捉えることができます。
ですが「青」の色を持つ木徳と「赤」の色を持つ火徳の後漢王朝を結びつけることには無理があります。
蒼天を「春」と解釈した場合
「蒼天」を春と解釈した場合、春には「勢いの盛んな時期」という意味もありますので、(漢王朝の)勢いの盛んな時期は終わったと解釈することができます。
蒼天を「天命」と解釈した場合
また「蒼天」を天命と解釈した場合、(漢王朝の)天命は尽きたと解釈することができます。
「蒼天」を「勢いの盛んな時期」と解釈すると、自分たちの私欲のために力が弱まった後漢王朝を倒すことになってしまいます。弱まった国を支えるのが人の道であり、これではただの反乱になってしまいます。
「蒼天」を「天命」と解釈することで、天命が尽きた漢王朝に代わって国を治めるのだと、自分たちを正当化することができるのです。
黄巾賊が掲げたスローガンの意味
蒼天已死、黃天當立と対になっていることから、つい蒼(青)と黄色に注目してしまいますが、蒼天已死と歲在甲子を対に考えたほうが、つじつまが合うような気がします。
黄巾賊が掲げたスローガンは、
悪政が続き、相次ぐ天災や異民族の侵入を許す後漢の天命は尽きている。
ふと気が付くと、今年は甲子革令の年ではないか。
今この時に信者を増やし、力を増している太平道こそが、次の天命を託された存在なのだ。
信者たちよ立ち上がれ!
革命は必ず成功し、天下は平安に治まるだろう。
と、このように解釈するほうが自然な気がします。
これで「火徳の後漢王朝がなんで蒼天なの?」という疑問は解消されたのではないでしょうか。
太平道は、後漢王朝の打倒を考えた段階で、漢の火徳を受け継ぐ土徳を意識して、黄色を自分たちのイメージカラーにしました。これは、五行思想に基づいています。
ですがこのスローガン自体は、五行思想というよりも、甲子革令(讖緯説)に基づいていると考えるほうが正しいのではないでしょうか。
太平道の評価
三国志の中の太平道
正史『三国志』を編纂した陳寿は、蜀漢と西晋に仕えた官僚です。
当然、農民反乱を肯定することはありませんので、太平道・黄巾の乱に対して否定的に記録しています。
『三国志演義』の原点は、寺院で仏教講話を行う前に、民衆の興味を引くために語られた「三国時代の英雄たちの物語」だと言われています。
ここでも農民反乱を肯定することはなく、英雄たちのデビュー戦の相手である黄巾賊は、悪の存在として語られています。
ですが、民衆の共感を得て多くの信者を獲得した太平道は、本当に悪の組織だったのでしょうか?
太平道の教え
太平道は、170年頃に張角が創始した『太平清領書』を教典とする道教の一派です。
その教えを『太平清領書』を受け継いでいると言われる『太平経』から推測すると、
- 善行を行えば福が訪れ、悪行を行えば災いが訪れる
- 自分の考えや行動などを深くかえりみて反省すること
- 養生術、性生活における技法や仙術
- 自然を崇拝し、五行思想に従う
などが教えの中心であったことがうかがえます。
張角は病人に自分の罪を悔い改めさせ、まじないを施した水を飲ませ、呪術によって治療行為を行いました。
また、この治療行為を受けても効果があらわれない者は信仰心が足りないとされました。
張角と張宝、張梁の2人の弟がそれぞれ「大医」と称していたことから、太平道は医療行為に大きな比重が置かれていたと考えられます。
自分の行いを反省して善行を積むことを勧め、健康に気を配った生活を心掛ける。この教えは、決して悪いものではありません。
民衆の共感を得て多くの信者を獲得することができたのは、その教えが民衆を救う道しるべを示していたからではないでしょうか。
反乱の決起
当時の朝廷は宦官による汚職が蔓延し、民衆の生活は苦しくなるばかり。
相次ぐ天災は後漢の天子に徳がなくなったことを予感させ、やがて甲子革令の年が訪れます。
五行思想を信奉する太平道にとって、後漢王朝を打倒して太平道による民衆のための国をつくる絶好の機会が訪れたのです。
『三国志演義』では、張角の私利私欲によって起こされたように描かれている黄巾の乱ですが、民衆の不満をまとめ上げ、腐敗した後漢王朝の打倒に立ち上がったと考えることもできます。
太平道の誤算
太平道の誤算は、教祖である張角が決起後すぐに亡くなってしまったことです。
統率力を失った太平道の信者は暴徒化し、制圧した土地から略奪を行うようになりました。
本来であれば解放軍として民衆に迎えられるはずの太平道は、味方につけるべき民衆を敵に回してしまったのです。
そして、鎮圧後に残った残党の多くは、野盗となって民衆を苦しめる存在になりました。
後漢の地方軍の多くは民衆から徴兵された農民兵です。
制圧した民衆に善政を敷くことができれば、民衆は官軍ではなく太平道に集まり、官軍を打ち破って目的を達成できたかもしれません。
中国共産党の評価
現在の中国共産党は、自身の政権を「民衆の義挙によって誕生した、中国史上初の政権である」と位置づけています。
そのため、太平道が行った「民衆の王朝への反乱」は、階級闘争の源流であり、肯定されるべき義挙であると評価しています。
そのため中国の教科書では、「黄巾賊」は「黄巾党」と、「黄巾の乱」は「黄巾起義(黄巾の義挙)」と記載されているそうです。