184年【漢:光和7年・中平元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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184年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
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天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 | 人物 |
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司徒 | 袁隗 |
司空 | 張済 → 張温 |
太尉 | 楊賜 → 鄧盛 |
大司農 | 張温(〜4月) |
太僕 | 鄧盛(〜4月) |
諫議大夫 | 劉猛 |
侍御史 | 桓典 |
侍中 | 向栩、張鈞(〜4月) |
議郎 | 曹操 |
大将軍 | 何進 |
左車騎将軍 | 皇甫嵩(10月〜) |
北中郎将 | 盧植 |
左中郎将 | 皇甫嵩(〜10月) |
右中郎将 | 朱儁 |
東中郎将 | 董卓 |
五官中郎将 | 董重 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
河南尹 | 徐灌(〜7月) |
幽州刺史 | 郭勳(〜4月) |
交阯刺史 | 賈琮 |
広陽太守 | 劉衛(〜4月) |
玄菟太守 | 公孫琙 |
南陽太守 | 褚貢 → 秦頡 |
汝南太守 | 趙謙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
巴郡太守 | 曹謙 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
合浦太守 | 来達(〜6月) |
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184年の主な出来事
月 | 出来事 |
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春 |
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2月 |
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3月 |
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4月 |
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5月 |
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6月 |
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7月 |
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8月 |
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9月 |
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10月 |
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11月 |
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12月 |
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不明 |
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184年の三国志群雄勢力図
中平元年(184年)の三国志群雄勢力図
184年の情勢
184年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
黄巾の乱の蜂起
建寧年間(168~171年)に冀州・鉅鹿郡の張角によって組織された太平道は着々とその信者を増やしていました。
そして、張角は密かに中常侍の封諝、徐奉らの内応を取り付け、3月5日を決起の日と定めて、漢への反乱の計画を進めていました。
春、弟子の唐周の密告によって反乱計画が露見すると、朝廷は洛陽に潜伏していた馬元義と、張角を信奉する官吏・民衆合わせて1,000人余りを探し出して処刑します。
2月、張角は洛陽の内外から蜂起する計画を諦め、自らは天公将軍、弟の張宝、張梁はそれぞれ地公将軍、人公将軍を称して、各地で信徒を蜂起させました。
信徒たちは皆、黄色い頭巾を身につけていたことから、この反乱を黄巾の乱と言います。
黄巾賊に攻撃を受けた郡県の太守・県令の中には、戦わずに逃げる者や賊に応じる者も出て、安平王・劉続と甘陵王・劉忠などは、黄巾賊に呼応した者たちに捕縛されてしまうような有り様でした。
この記事では、この年に起こった朝廷の出来事を中心にお話しします。黄巾の乱討伐の経緯についてはこちらをご覧ください。
党錮の禁の解除
黄巾賊の蜂起を受けて霊帝が意見を求めると、北地太守・皇甫嵩と中常侍・呂強がこれに答えました。
皇甫嵩
党人の禁錮を解き、霊帝が貯め込んでいる私銭と西園の良馬を軍に供出するべきです。
呂強
党錮の禁によって禁錮に服しているものは、皆朝廷を恨んでいます。もし今党人を許さなければ、彼らは張角と共謀し、反乱の鎮圧は難しくなるでしょう。その時に後悔しても取り返しがつきません。
まず、各地の貪官汚吏を粛清し、党人を赦し、能力に応じて刺史や二千石(太守)に任命すれば、必ずや賊を平定することができるでしょう」
3月、霊帝は天下に大赦して党錮の禁を解き、皇甫嵩の進言に従って私銭と西園の良馬を軍に供出しました。
討伐軍の編成
黄巾賊の蜂起を受け、朝廷は討伐軍を編成します。
- 大将軍・何進:洛陽周辺の守備
- 北中郎将・盧植:河北方面
- 左中郎将・皇甫嵩:潁川方面
- 右中郎将・朱儁:潁川方面
宦官たちの危機
当時、中常侍の趙忠、張讓、夏惲、郭勝、段珪、宋典らは皆封侯され、霊帝の寵愛を受けており、特に張讓と趙忠に対しては、張讓を父、趙忠を母と言うほど絶大な信頼を寄せていました。
当然、黄巾の乱という大規模な反乱の責任を問われる立場にいることになります。この危機に際し、彼らはどのように対処したのでしょうか?
贅沢を隠す
ある時、霊帝が永安宮の候台(物見櫓)に登りたいと言い出します。
中常侍たちは霊帝の寵愛を良いことに、天子の宮殿に匹敵するような豪邸を建てていました。もし霊帝が候台に登れば、彼らの贅沢な生活に気づかれてしまいます。
中大人の尚但は慌てて言いました。
「天子は高い所に登ってはいけません。民が離散すると言います」
霊帝はこの言葉に従って候台に登らなかったので、中常侍たちの豪邸に気づくことはありませんでした。
尚但は『春秋潛潭巴』の「天子が高い建物を建てると(民衆の負担が増えて)離反する」という言葉を曲解して、霊帝が候台に登るのを阻止したのです。
縁者を解任する
中常侍の封諝、徐奉らが張角に内通していたことが明らかになると、霊帝は中常侍たちを問い詰めます。
「お前たちはこれまで党人を弾劾し、禁錮や処刑を勧めてきた。今、その党人たちは国のために尽力しているのに、まさかお前たちが張角と通じていたとはっ!誅殺されるべきは、お前たちの方ではないのか!?」
霊帝の問いに、宦官たちは頭を地面に打ち付けて謝罪します。
「それらはすべて王甫と侯覧がしたことですっ!」
これ以降、中常侍たちは各地で官職に就いている親族や子弟たちを解任して、越権行為を控えるようになりました。
反対派の粛清
中常侍・呂強の誅殺
中常侍の趙忠、夏惲らは「呂強兄弟は貪欲で、党人に与して政治を批判し、皇帝の廃立を考えています」と、同じ中常侍の呂強を讒言します。
これを聞いた、霊帝は中黄門に兵を与えて呂強を呼びつけました。
呂強はこれを知ると、「大丈夫が国に忠誠を尽くしているのに、獄吏を差し向けるのか!」と憤慨し、自ら命を絶ってしまいました。
趙忠と夏惲は、「呂強はまだ何も問われていないのに自害しました。企みがあったことの証拠です」と言い、呂強の親族は逮捕され、財産は没収されました。
侍中・向栩の誅殺
宦官たちを厳しく非難した侍中・向栩は、中常侍・張讓に讒言され、「向栩は張角に内応している」として、黄門北寺獄に送られ処刑されました。
郎中・張鈞の誅殺
郎中の張鈞は上奏します。
「張角の反乱を民衆が支持しているのは、州郡に派遣された十常侍の父兄や子弟、縁者たちが暴利を貪って民衆を苦しめていたからです。十常侍の首を晒し、天下に謝罪すれば、おのずと反乱は治まるでしょう」
霊帝が中常侍たちに張鈞の上奏文を見せると、十常侍たちは冠を脱いで裸足になり、額を地面に打ちつけながら「私たちを洛陽の監獄に入れてください。また、私たちの財産は軍費に充ててください」と懇願します。
これを見た霊帝はみごとに騙され、「狂っているのは張鈞だっ!十常侍たちは皆善人ではないかっ!」と怒りをあらわにし、「張鈞は太平道を学んでいた」として、獄に下して処刑してしまいました。
太尉・楊賜の罷免
霊帝が太尉の楊賜に黄巾の乱について尋ねると、楊賜は媚びることなく率直に答えました。これに腹を立てた霊帝は、黄巾の乱勃発の責任を問うて楊賜を罷免してしまいます。
ですが、霊帝が過去の上奏文を見返してみると、楊賜と劉陶は、以前から張角に警戒するように警告しているではありませんか。
霊帝は楊賜を臨晋侯に、劉陶を中陵郷侯に封じて、彼らの功績に報いました。
傅燮の上奏
朱儁は黄巾賊相手に勝利を重ね、朱儁の下で護軍司馬を務めている傅燮が上奏します。
「官軍は潁川から連勝を重ねており、もはや賊の心配をする必要はありません。ですが、禍は外ではなく内にあります。二度とこのような反乱が起こらないように宦官どもを誅殺し、善人を登用しなければいけません」
後に傅燮は黄巾の乱討伐の功績により、侯に封じられることになりますが、この時先の上奏を知っていた中常侍・趙忠は、傅燮を讒言して罪に陥れようとします。
霊帝は趙忠の讒言を退け、傅燮を罪に問うことはしませんでしたが、同時に、侯に封じることも取りやめました。
合浦郡の反乱
交阯刺史部は珍しい財宝を産出するため、歴代の刺史たちは不正を行って私腹を肥やしていました。
6月、地元交阯刺史部の官吏・民衆は朝廷から派遣された刺史・太守に対して反乱を起こし、交趾刺史と合浦太守・来達を捕え、指導者は自ら柱天将軍を名乗ります。
そして、新たに交趾刺史に任命された賈琮は、まず反乱の原因を調査し、反乱の原因が重税による民衆の困窮にあることをつきとめます。
賈琮は清廉な人物を選んで太守や県令に任命し、反乱の指導者を処刑することを条件に逃亡した民衆を呼び戻し、賦役を免除することを約束したため、ほどなくして反乱は終息しました。
益州で賊が蜂起
巴郡で五斗米道・張脩が反乱
7月、漢中を拠点とする五斗米道の張脩が巴郡で反乱を起こし、郡県を攻め落とします。
綿竹県で黄巾・馬相が蜂起
綿竹県で黄巾を称する馬相と趙祗らが蜂起します。
関連記事
安平王・劉続の処刑
冀州・安平国では、安平王の劉続が黄巾賊に呼応した者たちに捕らえられ、多額の身代金を払って釈放されていました。
そして、劉続が安平王に復されようとした時、議郎の李燮が上奏します。
「劉続は国を守れず、朝廷を辱めました。国を廃するべきです」
ですが、朝廷は李燮の助言を聞かず、逆に皇族を誹謗中傷したとして、李燮を罷免して左校に送ってしまいました。
9月、劉続が大逆不動の罪によって処刑されると、李燮は議郎に復帰しました。
左校とは、宗廟や正殿、陵園などの土木工事を司る将作大匠の下に置かれた、強制労働をさせる機関のことです。
北地郡で先零羌が反乱
11月、涼州・北地郡の先零羌(羌族の1部族)と湟中義従胡*1の北宮伯玉と李文侯が、枹罕県・河関県の盗賊・宋建、王国と共に反乱を起こし、護羌校尉の伶徴を殺してしまいした。
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黄巾の乱の影に隠れて目立たない涼州の反乱「辺章・韓遂の乱」とは
豫州刺史・王允が投獄される
黄巾賊を打ち破った豫州刺史・王允は、黄巾賊から押収した物資の中に中常侍・張讓の賓客が黄巾賊に送った密書を発見しました。
王允はこれを証拠に、「張讓が黄巾賊に内通している」と朝廷に上奏します。
王允の上奏文を見た霊帝は張讓を問いつめますが、張讓が額を地面に打ちつけて陳謝したため、霊帝はそれ以上追求しませんでした。
これを恨みに思った張讓は、王允の罪を探して獄に下します。そして、一度は大赦によって豫州刺史に復帰した王允ですが、またすぐに罪を着せられて捕らえられてしまいました。
これに楊賜は、王允ほどの人物が2度も囚人の辱めを受けるのが忍びなく思い、人を送ってこう伝えました。
「あなたは張讓の企みによって、一月に2度も囚人の辱めを受けました。この上は、身の処し方をよくお考えください」
つまりこれは、「張讓によって処刑される不名誉を被るより、自害して名誉を保ってください」ということです。
王允の部下たちもまた、涙を流して毒の入った杯を指し出します。
王允は、「臣下として主君から罪を得たならば、処刑されて天下に謝罪するべきである。決して自害などするべきではない!」と言って杯を投げ捨て、自ら檻車に乗り込みました。
その後、何進が楊賜、袁隗と共に助命を訴えたので、王允は死罪を免れることができました。
この年、ついに中国大陸を揺るがす大規模な農民反乱である「黄巾の乱」が勃発します。
つい黄巾賊の討伐にばかり目を奪われてしまいがちですが、朝廷では、宦官たちと清流派官僚たちの戦いが繰り広げられていました。
皇甫嵩、朱儁らの活躍により反乱は約10ヶ月で鎮圧されましたが、漢王朝の支配力の低下が露見することとなり、以降反乱が続発するようになります。